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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
3
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◇
エラの示した方向へとひた走る。赤黒い瘴気の先に、アデライーデはリーゼロッテの緑を感じた。
「ちょっと! わたしの可愛いリーゼロッテに何してくれてるのよ!!」
渾身の力を手のひらに溜め、前方へと打ち放つ。一筋の青い光とともに、周囲の瘴気が吹き飛ばされる。束の間に晴れた霧の合間から、壁際に追いつめられるリーゼロッテの姿が見えた。
白い影が、その額へと穢れた指先を突き付けている。爪に灯る禍々しい紅を前に、リーゼロッテは恐怖に打ち震えていた。
「わたしのリーゼロッテに汚い手で触るんじゃないわよ!」
俊足で駆け寄り、力を込めた拳を繰り出した。白い影は揺らめきながら、その攻撃をすり抜けていった。逃がすまいと、続けざまに力を放つ。スカートがめくれることも厭わずに、アデライーデは見惚れるほどの美しい軌道で、蹴りをひとつ披露した。
「ちっ、逃げられたわね」
影が掻き消えた瞬間に、周囲の瘴気が流れを変える。
「きゃあっ」
「リーゼロッテ!」
渦巻くように瘴気がリーゼロッテを取り巻いた。アデライーデは無理やりその瘴気をかき分けて、リーゼロッテの手を強く握りしめた。
「怪我はない?」
「はい……アデライーデ様」
涙目で震えながらもリーゼロッテは強く頷いた。背後に人の気配を感じて、後ろ手にリーゼロッテを庇い、アデライーデは振り向いた。
「これはまた大人数ね」
虚ろな目をした劇団員が、老若男女問わず廊下にずらりと並んでいた。ふたりを囲い込むように、ゆらりゆらりと距離を縮めてくる。
「リーゼロッテ……すぐそこに執務室の扉があるわ。そこまで走ることはできそう?」
先を見やり、リーゼロッテは小さく頷いた。合図と共に一心不乱に駆け出した。憑かれた者たちの合間を縫って、脇目もふらずに扉を目指す。
援護するように、アデライーデがその後を続く。迫りくる攻撃を躱し、自身も執務室へと飛び込んだ。素早く扉を閉めて鍵をかける。すぐさま扉が多くの人間によって連打され始めた。軋むように扉が震え、こじ開けられるのも時間の問題だ。
「リーゼロッテ、こっちよ」
手を引いて部屋の奥へと誘った。いつもマテアスが座る執務机の後ろの本棚が、不自然にその場所を変えている。
「ここから屋上に出られるわ」
本棚の裏側を見やると、そこには昇り階段が続いていた。中は暗く、どこまで続いているかは見渡せない。
「上にジークヴァルトがいるはずだから」
「ヴァルト様が?」
「ええ。あなたはヴァルトの元へ行った方がいい。ここはわたしが食い止めるから」
「……わかりました」
自分がそばにいると、周囲の者まで巻き込んでしまう。リーゼロッテは頷いて、薄暗い階段へと足を踏み出した。
「中は真っ暗だけど、まっすぐ昇れば屋上にたどり着くから」
吸い込まれるように暗闇へと消えていくリーゼロッテを、アデライーデはその言葉で見送った。
「さあ、まとめてかかってらっしゃい」
両の拳をぼきりと鳴らす。壊されるように開け放たれた扉に向かって、アデライーデは不遜な笑みを向けた。
◇
「ちぃっ、フーゲンベルクの小娘め、いらぬ邪魔をしおって」
忌々し気に舌打ちをすると、ミヒャエルは一転うすく嗤った。
「まあ、いい。今回の目的は青き盾、貴様だけだ」
前回は力を拡散させ過ぎた。だが、女神の力を最大限濃縮し、今まさにヤツを追い込んでいる。他の力ある者と分断できれば、なぶり殺しもたやすいことだ。龍の盾の命を皮切りに、紅の女神に龍の血脈の魂を捧げ尽くそう。
「イジドーラ王妃――あと少し……あと少しで貴女はわたしのものだ」
果てなく広がる妄執が、枯れることなくこの奥を刺す。のどをくつくつと震わせて、ミヒャエルは愉快そうにひとり嗤った。
◇
吹きすさぶ強風の中、ジークヴァルトは苦戦を強いられていた。何も隔てるものがない屋上は、身を隠す場所さえ見当たらない。
幾人目かの男を、力を込めた拳で吹き飛ばす。ある程度の怪我を負わせても、操り人形のように何度でも立ち上がってくる。そこかしこで転がっているのは、手加減を加えられずに倒れた者たちだ。早く手当てをしないと、命にかかわる者もいるかもしれなかった。
丸腰の男がふたりと、短剣を手にした女がひとり。肩で息をしながら、残りの人数を確かめる。
早いところ片を付けて、瀕死の者の手当てをする必要がある。急を要する事態を前に、ジークヴァルトは努めて冷静に相手の動向を見守った。
男がひとりつかみかかってくる。城壁ぎりぎりまで押しやられて、ジークヴァルトの背が打ち付けられる。それを力技で跳ねのけて、男の腕をねじり上げた。
そのまま組み伏せ、腕を限界まであらぬ方向へと移動させる。男の絶叫と共に異形が咆哮をあげ、ジークヴァルトは容赦なくそれを青の力で祓っていった。別の男の気配を感じて、すぐさまその場を飛びのいた。
「ジークヴァルト様っ!」
悲鳴のようなリーゼロッテの声が響いて、ジークヴァルトに一瞬の隙が生まれた。つかみかかってきた男ともつれあいながら、ジークヴァルトは床の上を転がっていく。なんとか男を振り払い、リーゼロッテをこの腕の中へと収めた。
「どうしてここに来た」
「アデライーデ様に言われてわたくし……」
足手まといになることを悟ったのか、リーゼロッテは青ざめた顔を向けてくる。彼女の長い髪が、強い風に攫われるように舞い上がった。
「いい、お前はここを離れるな」
石畳の床に手をつくと、リーゼロッテを中心に青の円が描かれた。
「絶対にそこを動くなよ!」
迫りくる男に体当たりをして、リーゼロッテから遠ざけていく。もみ合いながら急所を狙おうとしたとき、女がリーゼロッテへと短剣を突き立てるのが目に入った。
「ダーミッシュ嬢!」
咄嗟に男を吹き飛ばし、女へ向けて力を放つ。一度は吹き飛ばされた異形の者が、さらに大きな塊となって女の体に纏わりついた。
女との間に体を滑り込ませ、リーゼロッテを背にかばう。先ほどの男が再び殴りかかってきて、狭い場所での混戦が始まった。
◇
強い風が吹く頭上には、晴れ渡った青空が広がっている。
ジークヴァルトの円から出られず、リーゼロッテはただその戦いを見守った。相手に大怪我を与えないよう、苦戦している様が見て取れる。
(ヴァルト様はまわりを巻き込まないために、ここにひとりで来たんだわ)
言われるがままに来てしまったが、自分はまた負担にしかなっていない。今はここを動かないようにするしかできない。リーゼロッテはなすすべなく、ジークヴァルトの動きをただ目で追った。
ふいに女がこちらに向けて短剣を振りかざしてくる。突然のことにリーゼロッテは自身の顔を庇うしかなかった。
「ダーミッシュ嬢!」
ジークヴァルトが立ちはだかり、その女の手首を取った。短剣を取り落とした女は、そのままジークヴァルトにつかみかかってくる。さらに男が拳を振るわせながらなだれ込む。すぐそこで繰り広げられる乱闘を、リーゼロッテは震えながら見守るしかなかった。
(こんな時、力がふるえたら……!)
母マルグリットが導いた自身の力を思い出す。湧き上がるように溢れ出た力は、今も確かにここにあるはずだ。
手のひらを重ね合わせるが、指が震えるばかりで力など微塵も集められない。焦れば焦るほど、この手から力は零れ落ちていった。
目の前でジークヴァルトが、つかみかかってきた女ともつれあう。その後ろで男が短剣を拾い上げ、陽光がその刃に反射した。
「ジークヴァルト様!」
大きく振りかぶられた短剣が、ジークヴァルトの背中に突き下ろされる。リーゼロッテは悲鳴を上げて、青の円から飛び出した。
最後の涙を闇雲に振りまいた。途端に、男から異形の影が浮きあがり、咆哮を上げて空へと消える。男は意識を失ったまま、その場に崩れるように倒れていった。
「ヴァルト様っ」
「ああ……助かった」
飛び込むように駆け込むと、その腕に抱き留められた。涙ながらに見上げると、そのままぎゅっと抱きしめられる。耳に胸の鼓動を聞いて、ジークヴァルトの無事に安堵する。確かめるようにリーゼロッテは、大きな背中に手をまわした。
ザンっと音がして、ジークヴァルトの腕に力が入った。呼吸が妨げられるほどにきつく抱きしめられて、リーゼロッテは背中のシャツを強く握った。
次の瞬間、ジークヴァルトが片膝をついた。その体を支えようとするも、リーゼロッテも一緒に床へと崩れ落ちていく。
ジークヴァルトの肩口に、短剣が突き刺さっている。銀色の刃がめり込むその下から、赤い液がみるみるうちに広がった。
受け入れられないその恐怖に、悲鳴すら出てこない。愕然と固まるリーゼロッテを庇いながら、ジークヴァルトは剣を突き立てた女に向かって渾身の力を放った。
女が倒れたことを確認すると、ジークヴァルトは自ら短剣を引き抜いた。途端に血が噴き出してくる。リーゼロッテの目の前で、赤い血はとめどなく流れ続けた。
「毒が塗ってあったようだ。少しくらい流れた方がいい」
短剣を投げ捨て、呻くようにジークヴァルトは小声で言った。
「ジーク……ヴァルトさま……」
「ああ……問題ない」
安心させるようにリーゼロッテの髪を力なく梳くと、ジークヴァルトは肩口の傷を押さえた。指の間から血が滴り落ちる。尋常ではないその量に、リーゼロッテは知らず首を小さく振った。
蒼白な顔でジークヴァルトは目を閉じた。どくどくと流れ出る血液に、意識が朦朧としている様子だった。
「ヴァルト様、ヴァルト様……」
泣きじゃくりながら、リーゼロッテは自身の手で傷口を塞いだ。生温かい血が、指の間を流れていく。
(どうして止まらないの……!)
涙を溢れさせながら、震える指でスカートをたくし上げた。止血の包帯のために、布を手で引き裂こうと試みる。だがドレスの生地はびくともしない。リーゼロッテはそのままスカートを傷口へと押しあてた。
淡い水色のドレスは、みるみるうちにジークヴァルトの血を吸い上げていく。赤く染まっていくスカートに、リーゼロッテは叫びだしそうになった。
(落ち着いて! 落ち着くのよ、リーゼロッテ……!)
言い聞かせるように心で叫ぶ。ジークヴァルトの血の気のない唇に、一刻の猶予もないことが見て取れる。
リーゼロッテは咄嗟のようにジークヴァルトの背後に回った。体でその背を支えながら、傷のある側の鎖骨の付け根に、親指の腹をぐっと押し入れる。
「ヴァルト様、お首を少し曲げさせていただきます」
耳元で言うと、その瞼が応えるように僅かに動いた。手を添えて、傷の方へと頭を傾ける。あれほど溢れ出ていた血が、嘘のように途端に止まった。
「今、血の流れを止めております。腕がしびれるように感じますが、血が滞っている証拠です」
ジークヴァルトは小さく頷いた。これは日本での記憶にあった、止血点を圧迫して血を止める方法だ。
(抑えるのはどれくらいが限界だったかしら……)
あまり圧迫時間が長すぎると血行が遮断され、その先の腕が壊死してしまう。一定の時間が経ったら、一度圧迫を緩める必要があった。だが、その知識が曖昧で、どうするのが正解なのかが分からない。
リーゼロッテは恐る恐る、抑える指の力を緩めた。途端に肩口から滝のように血が流れだす。
(駄目っ!)
リーゼロッテは再び指に力を入れた。指の腹が白くなるまで抑え込み、力の限界が近づいてきて、指がぶるぶると震えてくる。
ジークヴァルトは完全に気を失ってしまったようだ。風に髪が舞い上げられ、流れる涙をぬぐうこともできない。脱力した体は重く、支えるのがつらくなってくる。
泣きじゃくりながら、これ以上どうすればいいのか、リーゼロッテはもうわからなくなってしまった。
「旦那様……!」
リーゼロッテが通ってきた階段を、マテアスがかけ上がってきた。屋上の惨状には目もくれず、一目散にこちらへ駆け寄ってくる。
「マテアス……ジークヴァルト様が……」
しゃくりあげる中、うまく言葉が発せられない。血まみれのふたりを見やって、すぐさまマテアスはジークヴァルトの目の前に片膝をついた。
「すぐ処置をいたします。もう少しだけ頑張っていただけますか?」
言いながらマテアスは、懐から手早く様々な物を出しては下に並べていく。万年筆や替えの眼鏡、何かのメモ書き、黒い小箱と、関係ない物の後に、ようやく白い包帯が現れる。それを手早くジークヴァルトの肩口にクロスするように巻き付けていった。
マテアスの合図と共に、リーゼロッテは抑える手を緩めた。じわりと包帯が赤く染まったが、先ほどに比べると、些細と思える量だった。
「よく頑張られましたね。あとはわたしたちにお任せください。ヨハン様、旦那様を運ぶのを手伝ってください」
ジークヴァルトが担がれるように運ばれていく。それを目で追っていると、青い顔をしたアデライーデが駆け寄ってきた。血まみれのドレスを見て、アデライーデは小さく悲鳴を上げる。
「リーゼロッテ、あなたも怪我をしたの!?」
「いいえ、こちらはすべてジークヴァルト様の……」
緊張の糸が切れて、虫食いのように視界が黒く塗りつぶされていく。自分を呼ぶ声が遠くに聞こえて、リーゼロッテはその意識を手放した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。大怪我負ったジークヴァルト様は、意識不明の重体が続いて。寝ずの看病を続けるわたしは、その存在の大きさを知ることになって……?
次回3章第11話「龍の盾」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
エラの示した方向へとひた走る。赤黒い瘴気の先に、アデライーデはリーゼロッテの緑を感じた。
「ちょっと! わたしの可愛いリーゼロッテに何してくれてるのよ!!」
渾身の力を手のひらに溜め、前方へと打ち放つ。一筋の青い光とともに、周囲の瘴気が吹き飛ばされる。束の間に晴れた霧の合間から、壁際に追いつめられるリーゼロッテの姿が見えた。
白い影が、その額へと穢れた指先を突き付けている。爪に灯る禍々しい紅を前に、リーゼロッテは恐怖に打ち震えていた。
「わたしのリーゼロッテに汚い手で触るんじゃないわよ!」
俊足で駆け寄り、力を込めた拳を繰り出した。白い影は揺らめきながら、その攻撃をすり抜けていった。逃がすまいと、続けざまに力を放つ。スカートがめくれることも厭わずに、アデライーデは見惚れるほどの美しい軌道で、蹴りをひとつ披露した。
「ちっ、逃げられたわね」
影が掻き消えた瞬間に、周囲の瘴気が流れを変える。
「きゃあっ」
「リーゼロッテ!」
渦巻くように瘴気がリーゼロッテを取り巻いた。アデライーデは無理やりその瘴気をかき分けて、リーゼロッテの手を強く握りしめた。
「怪我はない?」
「はい……アデライーデ様」
涙目で震えながらもリーゼロッテは強く頷いた。背後に人の気配を感じて、後ろ手にリーゼロッテを庇い、アデライーデは振り向いた。
「これはまた大人数ね」
虚ろな目をした劇団員が、老若男女問わず廊下にずらりと並んでいた。ふたりを囲い込むように、ゆらりゆらりと距離を縮めてくる。
「リーゼロッテ……すぐそこに執務室の扉があるわ。そこまで走ることはできそう?」
先を見やり、リーゼロッテは小さく頷いた。合図と共に一心不乱に駆け出した。憑かれた者たちの合間を縫って、脇目もふらずに扉を目指す。
援護するように、アデライーデがその後を続く。迫りくる攻撃を躱し、自身も執務室へと飛び込んだ。素早く扉を閉めて鍵をかける。すぐさま扉が多くの人間によって連打され始めた。軋むように扉が震え、こじ開けられるのも時間の問題だ。
「リーゼロッテ、こっちよ」
手を引いて部屋の奥へと誘った。いつもマテアスが座る執務机の後ろの本棚が、不自然にその場所を変えている。
「ここから屋上に出られるわ」
本棚の裏側を見やると、そこには昇り階段が続いていた。中は暗く、どこまで続いているかは見渡せない。
「上にジークヴァルトがいるはずだから」
「ヴァルト様が?」
「ええ。あなたはヴァルトの元へ行った方がいい。ここはわたしが食い止めるから」
「……わかりました」
自分がそばにいると、周囲の者まで巻き込んでしまう。リーゼロッテは頷いて、薄暗い階段へと足を踏み出した。
「中は真っ暗だけど、まっすぐ昇れば屋上にたどり着くから」
吸い込まれるように暗闇へと消えていくリーゼロッテを、アデライーデはその言葉で見送った。
「さあ、まとめてかかってらっしゃい」
両の拳をぼきりと鳴らす。壊されるように開け放たれた扉に向かって、アデライーデは不遜な笑みを向けた。
◇
「ちぃっ、フーゲンベルクの小娘め、いらぬ邪魔をしおって」
忌々し気に舌打ちをすると、ミヒャエルは一転うすく嗤った。
「まあ、いい。今回の目的は青き盾、貴様だけだ」
前回は力を拡散させ過ぎた。だが、女神の力を最大限濃縮し、今まさにヤツを追い込んでいる。他の力ある者と分断できれば、なぶり殺しもたやすいことだ。龍の盾の命を皮切りに、紅の女神に龍の血脈の魂を捧げ尽くそう。
「イジドーラ王妃――あと少し……あと少しで貴女はわたしのものだ」
果てなく広がる妄執が、枯れることなくこの奥を刺す。のどをくつくつと震わせて、ミヒャエルは愉快そうにひとり嗤った。
◇
吹きすさぶ強風の中、ジークヴァルトは苦戦を強いられていた。何も隔てるものがない屋上は、身を隠す場所さえ見当たらない。
幾人目かの男を、力を込めた拳で吹き飛ばす。ある程度の怪我を負わせても、操り人形のように何度でも立ち上がってくる。そこかしこで転がっているのは、手加減を加えられずに倒れた者たちだ。早く手当てをしないと、命にかかわる者もいるかもしれなかった。
丸腰の男がふたりと、短剣を手にした女がひとり。肩で息をしながら、残りの人数を確かめる。
早いところ片を付けて、瀕死の者の手当てをする必要がある。急を要する事態を前に、ジークヴァルトは努めて冷静に相手の動向を見守った。
男がひとりつかみかかってくる。城壁ぎりぎりまで押しやられて、ジークヴァルトの背が打ち付けられる。それを力技で跳ねのけて、男の腕をねじり上げた。
そのまま組み伏せ、腕を限界まであらぬ方向へと移動させる。男の絶叫と共に異形が咆哮をあげ、ジークヴァルトは容赦なくそれを青の力で祓っていった。別の男の気配を感じて、すぐさまその場を飛びのいた。
「ジークヴァルト様っ!」
悲鳴のようなリーゼロッテの声が響いて、ジークヴァルトに一瞬の隙が生まれた。つかみかかってきた男ともつれあいながら、ジークヴァルトは床の上を転がっていく。なんとか男を振り払い、リーゼロッテをこの腕の中へと収めた。
「どうしてここに来た」
「アデライーデ様に言われてわたくし……」
足手まといになることを悟ったのか、リーゼロッテは青ざめた顔を向けてくる。彼女の長い髪が、強い風に攫われるように舞い上がった。
「いい、お前はここを離れるな」
石畳の床に手をつくと、リーゼロッテを中心に青の円が描かれた。
「絶対にそこを動くなよ!」
迫りくる男に体当たりをして、リーゼロッテから遠ざけていく。もみ合いながら急所を狙おうとしたとき、女がリーゼロッテへと短剣を突き立てるのが目に入った。
「ダーミッシュ嬢!」
咄嗟に男を吹き飛ばし、女へ向けて力を放つ。一度は吹き飛ばされた異形の者が、さらに大きな塊となって女の体に纏わりついた。
女との間に体を滑り込ませ、リーゼロッテを背にかばう。先ほどの男が再び殴りかかってきて、狭い場所での混戦が始まった。
◇
強い風が吹く頭上には、晴れ渡った青空が広がっている。
ジークヴァルトの円から出られず、リーゼロッテはただその戦いを見守った。相手に大怪我を与えないよう、苦戦している様が見て取れる。
(ヴァルト様はまわりを巻き込まないために、ここにひとりで来たんだわ)
言われるがままに来てしまったが、自分はまた負担にしかなっていない。今はここを動かないようにするしかできない。リーゼロッテはなすすべなく、ジークヴァルトの動きをただ目で追った。
ふいに女がこちらに向けて短剣を振りかざしてくる。突然のことにリーゼロッテは自身の顔を庇うしかなかった。
「ダーミッシュ嬢!」
ジークヴァルトが立ちはだかり、その女の手首を取った。短剣を取り落とした女は、そのままジークヴァルトにつかみかかってくる。さらに男が拳を振るわせながらなだれ込む。すぐそこで繰り広げられる乱闘を、リーゼロッテは震えながら見守るしかなかった。
(こんな時、力がふるえたら……!)
母マルグリットが導いた自身の力を思い出す。湧き上がるように溢れ出た力は、今も確かにここにあるはずだ。
手のひらを重ね合わせるが、指が震えるばかりで力など微塵も集められない。焦れば焦るほど、この手から力は零れ落ちていった。
目の前でジークヴァルトが、つかみかかってきた女ともつれあう。その後ろで男が短剣を拾い上げ、陽光がその刃に反射した。
「ジークヴァルト様!」
大きく振りかぶられた短剣が、ジークヴァルトの背中に突き下ろされる。リーゼロッテは悲鳴を上げて、青の円から飛び出した。
最後の涙を闇雲に振りまいた。途端に、男から異形の影が浮きあがり、咆哮を上げて空へと消える。男は意識を失ったまま、その場に崩れるように倒れていった。
「ヴァルト様っ」
「ああ……助かった」
飛び込むように駆け込むと、その腕に抱き留められた。涙ながらに見上げると、そのままぎゅっと抱きしめられる。耳に胸の鼓動を聞いて、ジークヴァルトの無事に安堵する。確かめるようにリーゼロッテは、大きな背中に手をまわした。
ザンっと音がして、ジークヴァルトの腕に力が入った。呼吸が妨げられるほどにきつく抱きしめられて、リーゼロッテは背中のシャツを強く握った。
次の瞬間、ジークヴァルトが片膝をついた。その体を支えようとするも、リーゼロッテも一緒に床へと崩れ落ちていく。
ジークヴァルトの肩口に、短剣が突き刺さっている。銀色の刃がめり込むその下から、赤い液がみるみるうちに広がった。
受け入れられないその恐怖に、悲鳴すら出てこない。愕然と固まるリーゼロッテを庇いながら、ジークヴァルトは剣を突き立てた女に向かって渾身の力を放った。
女が倒れたことを確認すると、ジークヴァルトは自ら短剣を引き抜いた。途端に血が噴き出してくる。リーゼロッテの目の前で、赤い血はとめどなく流れ続けた。
「毒が塗ってあったようだ。少しくらい流れた方がいい」
短剣を投げ捨て、呻くようにジークヴァルトは小声で言った。
「ジーク……ヴァルトさま……」
「ああ……問題ない」
安心させるようにリーゼロッテの髪を力なく梳くと、ジークヴァルトは肩口の傷を押さえた。指の間から血が滴り落ちる。尋常ではないその量に、リーゼロッテは知らず首を小さく振った。
蒼白な顔でジークヴァルトは目を閉じた。どくどくと流れ出る血液に、意識が朦朧としている様子だった。
「ヴァルト様、ヴァルト様……」
泣きじゃくりながら、リーゼロッテは自身の手で傷口を塞いだ。生温かい血が、指の間を流れていく。
(どうして止まらないの……!)
涙を溢れさせながら、震える指でスカートをたくし上げた。止血の包帯のために、布を手で引き裂こうと試みる。だがドレスの生地はびくともしない。リーゼロッテはそのままスカートを傷口へと押しあてた。
淡い水色のドレスは、みるみるうちにジークヴァルトの血を吸い上げていく。赤く染まっていくスカートに、リーゼロッテは叫びだしそうになった。
(落ち着いて! 落ち着くのよ、リーゼロッテ……!)
言い聞かせるように心で叫ぶ。ジークヴァルトの血の気のない唇に、一刻の猶予もないことが見て取れる。
リーゼロッテは咄嗟のようにジークヴァルトの背後に回った。体でその背を支えながら、傷のある側の鎖骨の付け根に、親指の腹をぐっと押し入れる。
「ヴァルト様、お首を少し曲げさせていただきます」
耳元で言うと、その瞼が応えるように僅かに動いた。手を添えて、傷の方へと頭を傾ける。あれほど溢れ出ていた血が、嘘のように途端に止まった。
「今、血の流れを止めております。腕がしびれるように感じますが、血が滞っている証拠です」
ジークヴァルトは小さく頷いた。これは日本での記憶にあった、止血点を圧迫して血を止める方法だ。
(抑えるのはどれくらいが限界だったかしら……)
あまり圧迫時間が長すぎると血行が遮断され、その先の腕が壊死してしまう。一定の時間が経ったら、一度圧迫を緩める必要があった。だが、その知識が曖昧で、どうするのが正解なのかが分からない。
リーゼロッテは恐る恐る、抑える指の力を緩めた。途端に肩口から滝のように血が流れだす。
(駄目っ!)
リーゼロッテは再び指に力を入れた。指の腹が白くなるまで抑え込み、力の限界が近づいてきて、指がぶるぶると震えてくる。
ジークヴァルトは完全に気を失ってしまったようだ。風に髪が舞い上げられ、流れる涙をぬぐうこともできない。脱力した体は重く、支えるのがつらくなってくる。
泣きじゃくりながら、これ以上どうすればいいのか、リーゼロッテはもうわからなくなってしまった。
「旦那様……!」
リーゼロッテが通ってきた階段を、マテアスがかけ上がってきた。屋上の惨状には目もくれず、一目散にこちらへ駆け寄ってくる。
「マテアス……ジークヴァルト様が……」
しゃくりあげる中、うまく言葉が発せられない。血まみれのふたりを見やって、すぐさまマテアスはジークヴァルトの目の前に片膝をついた。
「すぐ処置をいたします。もう少しだけ頑張っていただけますか?」
言いながらマテアスは、懐から手早く様々な物を出しては下に並べていく。万年筆や替えの眼鏡、何かのメモ書き、黒い小箱と、関係ない物の後に、ようやく白い包帯が現れる。それを手早くジークヴァルトの肩口にクロスするように巻き付けていった。
マテアスの合図と共に、リーゼロッテは抑える手を緩めた。じわりと包帯が赤く染まったが、先ほどに比べると、些細と思える量だった。
「よく頑張られましたね。あとはわたしたちにお任せください。ヨハン様、旦那様を運ぶのを手伝ってください」
ジークヴァルトが担がれるように運ばれていく。それを目で追っていると、青い顔をしたアデライーデが駆け寄ってきた。血まみれのドレスを見て、アデライーデは小さく悲鳴を上げる。
「リーゼロッテ、あなたも怪我をしたの!?」
「いいえ、こちらはすべてジークヴァルト様の……」
緊張の糸が切れて、虫食いのように視界が黒く塗りつぶされていく。自分を呼ぶ声が遠くに聞こえて、リーゼロッテはその意識を手放した。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。大怪我負ったジークヴァルト様は、意識不明の重体が続いて。寝ずの看病を続けるわたしは、その存在の大きさを知ることになって……?
次回3章第11話「龍の盾」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
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生まれ育った屋敷で冷遇され続けた挙げ句、最低な成金ジジイと結婚させられそうになったヒロインが、我が子を守るために全てを捨てて新しい人生を切り拓いていこうと奮闘する物語です。
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