上 下
419 / 523
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙

しおりを挟む
     ◇
 外に出ると、まだ日も昇らない暗闇だった。昨日に引き続き、強い風が吹いている。春になったとはいえ、この時間はまだ肌寒い。その冷えた空気を吸いながら、ジークヴァルトはいつもの場所へとひとり向かった。

 空の境目が白みかける頃、マテアスが大ぶりの剣を抱えてやってきた。普段よりも早く待っていたあるじに、マテアスが訝し気な顔をする。

「今日はお早いですね。もしかして寝てないんですか?」
「しばらく横にはなった」
「……まぁ、いいでしょう。後で仮眠の時間を作ります。ひと汗流したら、今朝は早めに切り上げましょう。で、今日はいかがなさいますか?」

 剣を差し出すと、ジークヴァルトはそれを黙って受け取った。

「マテアスの好きでいい」
 剣をさやから抜いたジークヴァルトの言葉に、マテアスは体の前ですっと両手を構えた。
「では、こちらは素手で参ります」

 一瞬の静寂の後、ふたり同時に動き出す。容赦なく繰り出される切っ先に、マテアスは飛びのくように距離を取った。ジークヴァルトが次の構えを取る前に、その懐へと飛び込んでいく。
 手元を狙ったマテアスの手刀を、寸でのところでひじで受ける。はじき返すように剣を一閃すると、再びマテアスは遠く距離を取った。

 この早朝の手合わせは、ジークヴァルトが幼少の頃から、日課のように続けられている。マテアスは騎士ではないので、長剣をふるうことはない。だが、時には細剣を持ち、時には短刀で、そして今日のように体術を用いて、ジークヴァルトの相手をずっと務めてきた。

 賊に襲われるとき、相手が礼儀正しい騎士の作法で向かってくるなどあり得ない。ありとあらゆることを想定して、この鍛錬は続けられている。

 互いのくせを知り尽くしているため、勝敗は大概、時間切れで幕を閉じる。幾度目かの攻撃がお互い不発に終わった時、マテアスはその体から緊張を解いた。

「今日はこのくらいにしておきましょう。湯で汗を流したら、一時間だけでも眠ってください。あなたに倒れられたら、わたしもいい迷惑ですから」

 再び長剣を抱えると、マテアスは屋敷に戻っていった。その背を見送りながら、いつの間にか明けた空を見上げる。低く、厚い雲が強風に流されていく。雲間に映る朝焼けが、その動きとともに形を変えた。

 自身の欲情を吹き飛ばすかのように、風に立ち、ジークヴァルトはしばらくの間、その様子をじっと見つめていた。

     ◇
「ご報告申し上げます」

 王の前で片膝をつき、カイは頭を垂れた。人払いがされた謁見えっけん室は、カイとディートリヒ王、そしてハインリヒ王子の三人だけだ。

「昨年見つかった新たな託宣のあざを持つ少女が、この度確認できました。彼女はウルリヒ様の血を引くものと思われます」
「その者とは?」
「少女の名はルチア。ウルリヒ様とアニータ・スタン伯爵令嬢の間に生まれたお子のようです」
「新たな託宣はふたつあったはず。そのうちのどちらなんだ?」

 ハインリヒの問いに、カイは一度言葉を詰まらせた。

「……彼女の受けた託宣名はリシル。異形の者に命奪われし定めの者にございます」
 努めて冷静に口にする。龍の託宣が違えられたことはない。ルチアはいずれ、異形の者にあやめられる運命だ。

「して、その者は今どうしている?」
「彼女は今、ラウエンシュタイン公爵代理の庇護のもと、ダーミッシュ領で暮らしております」
「公爵代理……? リーゼロッテ嬢の父親か?」

 ハインリヒは意外そうな顔をした。

「アニータ嬢が既知の仲である公爵代理に助けを求めたようです。そのアニータ嬢は、一か月ほど前に逝去しています。王、託宣を受けた少女の処遇はいかがなさいましょう」

 カイがディートリヒ王を見上げる。その金色の瞳は、いつでも遠くを見つめているかのようだ。

「ラウエンシュタインに任せておけばよい」
「ですが……!」

 ルチアは王族の血を引く者だ。受けた託宣の内容を考えても、王家で保護するのが筋だろう。

「よい。すべては龍の思し召しだ」

 そう言ってディートリヒは玉座から静かに立ち上がった。青いマントを翻して去っていく。

「カイ・デルプフェルト。そなたはそばでその者を見守るがいい」

 去り際にそう残して、王は扉の向こうに消えた。残されたハインリヒ王子と目を合せる。カイがかいつまんでルチアの経緯を話すと、ハインリヒは神妙な顔つきとなった。

「カイ……何かあったら力になる。遠慮なく言ってくれ」
「お心づかい、感謝いたします」

 ハインリヒに向かって、カイは力ない笑顔を向けた。

     ◇
(今日はどれを読もうかしら……)

 アンネマリーは星読みの間の書斎で、本を吟味していた。正式に王太子妃になった後、隠されたこの本棚の存在を、イジドーラ王妃に告げられた。目の前に並ぶのは、歴代の王太子妃たちが書き残した記録の数々だ。
 いわば日記というやつだが、書いた人間によって内容は様々だった。王太子妃としての心構えを後世に残す者から、ただ日々の出来事を淡々と綴る者、中には、食卓のメニューを並べるだけのそんな強者つわものもいた。

 王太子妃としてやっていくにあたって、参考になる物とそうでない物の落差がありすぎる。そんなラインナップに、アンネマリーは思わず力が抜けてしまった。過去の王太子妃たちが、肩ひじを張らなくても大丈夫だと教えてくれているようで、アンネマリーは少しだけ気が楽になった。

 そうはいっても、アンネマリーはあまりにも急にこの立場となってしまった。本来なら幼少期から行われるであろう、王妃になるための教育は、もはや実地訓練と化している。
 何しろ今まで上だった身分の者が、一斉に自分にかしずいて来るのだ。いきなり王族に籍を置いた身で、人を従えるのはことのほか気を使う。

 指を滑らせて背表紙を追う。綺麗な日記は手に取らず、すり切れたものを優先的に開いていった。
 参考になる日記は、過去の王太子妃たちにも何度も読まれてきたようだ。年月を経てまくられ続けた日記などは、もうページがちぎれそうなくらいだった。

(あ、これはまだ見てないわね)

 奥の方に押し込まれていたぼろぼろの日記を探し当てる。紙が破れないようにと、アンネマリーはそっとそれを開いた。
 ぺらぺらと少しめくって、アンネマリーは慌てたようにその日記を閉じた。顔を赤くして、しばし固まったまま動けなくなる。

(見間違いではないわよね……)
 心を落ち着けてから、再びそうっと日記を開く。中でもだんとつと言えるほどすり切れたその日記には、細かい文字でびっしりとねやの作法が記されていた。

 いかにして愛する王太子を癒すのか。そんなことが中心に書かれている。刺激的な体位、マンネリになった時の打開策、殿方の体に関する知識のアレコレ。時には図解入りで、夜の営みに関することが、表現豊かに綴られていた。

 しかもいろいろな者が、後から書き加えた痕跡も残っている。王太子妃たちの叡智が詰まった、究極の愛の教本となっていた。

 立ったまま、食い入るようにそれに目を通していたアンネマリーは、途中ではっと我に返った。ハインリヒとは毎晩のように体をつなげている。癒すどころかハインリヒに翻弄されて、アンネマリーはいつもされるがままだ。
 体が火照ってくるのを感じて、慌ててその日記を本棚の奥に押し込んだ。

 気を取り直して、もっと日々の公務に役立ちそうなものを探す。いちばん端の真新しそうな日記を見て、アンネマリーは驚きの声を上げた。
「これ、アランシーヌ語で書かれているわ」

 アランシーヌは鎖国を貫くこの国が、唯一国交を持つ隣国だ。手に取って中を確かめると、そこには綺麗なアランシーヌの文字で日記が綴られていた。
 それを手に、一度居間へと戻る。ソファに座り、アンネマリーはゆっくりと目を通していった。

(この日記は、セレスティーヌ前王妃……ハインリヒ様のお母様が書いたものだわ)

 セレスティーヌは隣国の王女だったと聞く。その縁もあって第二王女のテレーズは、アランシーヌの王族へと嫁ぐこととなった。セレスティーヌは病弱で、ハインリヒが幼い時に亡くなっている。故人の記憶を盗み見ているようで、アンネマリーは後ろめたい気持ちになった。

《九月九日、晴れ、この国に来てからもう一か月。まだ秋も間もないのに、この寒さはどういうことなのかしら。真冬が来たら、わたくしはきっと氷漬けね》

 ふいに背後からハインリヒの声が聞こえた。流暢りゅうちょうなアランシーヌ語で、ちょうどアンネマリーが開いているページの日記を読み上げていく。

「ハインリヒ様!?」
「一応声はかけたけど、驚かせてしまったね」

 ソファの背をまたいで、アンネマリーの後ろに無理やりに座ってきた。時々こんなふうにハインリヒは、すごく子供っぽいことをする。それは自分にだけ見せる姿だと思うと、アンネマリーはくすぐったい気分になった。

 少し前にずれたアンネマリーを抱え込んで、そのうなじに口づけを落とす。
「ん……ハインリヒ様、そこは駄目です」
 龍のあざがある場所に触れられると、否応なしに体が熱を持ってしまう。

「仕方ないよ、アンネマリーが可愛いのが悪い」
 そう言って、再びうなじに口づける。肩をすくませて逃げようとする体を、ハインリヒはぎゅっと背後から抱きしめた。

「それにアンネマリー、また様がついてるよ」
「あ……」

 気を抜くとすぐ昔に戻ってしまう。これも急な立場の変化についていけてないあかしだ。

「大丈夫。アンネマリーはちゃんとやれているから」
 今度はその耳にキスを落とす。そのままアンネマリーの肩に、ハインリヒは自分の顔を乗せた。

「ハインリヒはアランシーヌ語が話せたのですね」
「ああ、でも聞くのはそこそこできても、話すのは苦手だな」
「ですが、先ほどは完璧でしたわ」
「そうかい? テレーズ姉上に比べたらまだまだってところだろうな。姉上は子供の頃からアランシーヌ語がペラペラだったから」
「え? テレーズ様が?」

 アンネマリーは首をかしげた。テレーズの元にいた時、隣国の言葉をうまく話せない彼女のために、アンネマリーはいつも通訳のようなことをしていた。時には隣国の貴族に、テレーズに伝えられないような暴言を吐かれて、人知れず涙した日もあった。

「ああ、分からないふりはきっとわざとだよ。言葉を理解できないとなると、侮って相手はぼろを出しやすくなるからね」
「そんな……」

 あんな口汚い言葉を、テレーズはにこやかな顔で聞いていたのだろうか。そのしたたかさに、アンネマリーは驚きを隠せない。

「アンネマリーは隣国の言葉にけているからね。わたしもうまく話せないことにしておいた方が、隣国との交渉がうまくいくかもしれないな」

 そう言いながら、ハインリヒは腕に乗せたアンネマリーの胸をゆさゆさと揺らした。腹に巻き付けた腕に乗せ、先ほどからその重みを楽しんでいるようだ。

 ハインリヒはこの大きな胸がいたくお気に入りだ。ずっとコンプレックスに思っていたのに、今では大きくてよかったと思っているから、自分も相当現金だ。くすりと笑って、ハインリヒを振り返った。

「ん? どうしたんだい?」
「いえ、ハインリヒが楽しそうだなと思って」

 再びくすりと笑うと、ハインリヒは途端に真顔になった。
「それは違うよ、アンネマリー」
 あまりにも真剣な声音に、怒らせてしまったのかとアンネマリーは不安に駆られた。

「楽しそうなんじゃない。楽しいんだ」

 王太子顔できりりと言われ、アンネマリーはぽかんと口を開けた。

「ふ……ふふふ、それは本当に何よりですわ」
 くすくす笑っているうちに、ハインリヒが耳をんでくる。日記を手にしていたアンネマリーは、読み進めることを諦めて、閉じたそれをテーブルへと置いた。

「もういいの?」
「ハインリヒより大事なことなんて、この世にはひとつもありませんわ」

 振り向いて、唇を奪う。意表を突かれたハインリヒは、すぐさまアンネマリーに口づけを返した。つばむようなキスは、やがて深いものとなり――

 お互いの熱を分けるように、静かに夜は更けていった。

    ◇
 三度ゆっくりと呼吸をして、ミヒャエルは深い瞑想から目を開けた。
「ラウエンシュタインの小娘は公爵家へと戻ったか……」

 新年を祝う夜会以来、くれないの女神は姿を現さない。何度乞うても、その声を聞くことは叶わなかった。

(いや、まだ見捨てられたというわけではない)

 言い聞かせるように、ミヒャエルは左の拳を握り締めた。あの夜、ラウエンシュタインの忌まわしき力の反撃にあって、負傷した右手はいまだ動かぬままだ。

 緑の小娘を今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい。だが、フーゲンベルクの厚い盾に守られて、その居場所を探るのが精一杯だった。
(指輪さえ砕けなければ……)
 あの指輪と共に、女神から賜った力も失われてしまった。おかげで、フーゲンベルクの青にすら、太刀打ちできない事態に陥っている。

 今の状態で、ラウエンシュタインの力に敵うことはないだろう。だが――

「盾を崩すだけなら、やりようはある」

 ひとりほくそ笑み、再び目をつぶる。
(いつか、すべてを取り返す)

 その日を願ってミヒャエルは、女神の声をただひたすらに待ちつづけた。





【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離がつかめないまま、ぎくしゃくするわたしたち。そんな中、レルナー家を飛び出したツェツィーリア様が、公爵家にやって来て。そして再び、ミヒャエル司祭枢機卿の魔の手が迫る……!
 次回、3章第9話「妄執の棘 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

年下の彼氏には同い年の女性の方がお似合いなので、別れ話をしようと思います!

ほったげな
恋愛
私には年下の彼氏がいる。その彼氏が同い年くらいの女性と街を歩いていた。同じくらいの年の女性の方が彼には似合う。だから、私は彼に別れ話をしようと思う。

探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?

雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。 最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。 ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。 もう限界です。 探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。

【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。

たろ
恋愛
幼馴染のロード。 学校を卒業してロードは村から街へ。 街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。 ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。 なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。 ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。 それも女避けのための(仮)の恋人に。 そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。 ダリアは、静かに身を引く決意をして……… ★ 短編から長編に変更させていただきます。 すみません。いつものように話が長くなってしまいました。

王太子殿下の想い人が騎士団長だと知った私は、張り切って王太子殿下と婚約することにしました!

奏音 美都
恋愛
 ソリティア男爵令嬢である私、イリアは舞踏会場を離れてバルコニーで涼んでいると、そこに王太子殿下の逢引き現場を目撃してしまいました。  そのお相手は……ロワール騎士団長様でした。  あぁ、なんてことでしょう……  こんな、こんなのって……尊すぎますわ!!

片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜

橘しづき
恋愛
 姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。    私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。    だが当日、姉は結婚式に来なかった。  パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。 「私が……蒼一さんと結婚します」    姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。

処理中です...