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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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◇
外に出ると、まだ日も昇らない暗闇だった。昨日に引き続き、強い風が吹いている。春になったとはいえ、この時間はまだ肌寒い。その冷えた空気を吸いながら、ジークヴァルトはいつもの場所へとひとり向かった。
空の境目が白みかける頃、マテアスが大ぶりの剣を抱えてやってきた。普段よりも早く待っていた主に、マテアスが訝し気な顔をする。
「今日はお早いですね。もしかして寝てないんですか?」
「しばらく横にはなった」
「……まぁ、いいでしょう。後で仮眠の時間を作ります。ひと汗流したら、今朝は早めに切り上げましょう。で、今日はいかがなさいますか?」
剣を差し出すと、ジークヴァルトはそれを黙って受け取った。
「マテアスの好きでいい」
剣を鞘から抜いたジークヴァルトの言葉に、マテアスは体の前ですっと両手を構えた。
「では、こちらは素手で参ります」
一瞬の静寂の後、ふたり同時に動き出す。容赦なく繰り出される切っ先に、マテアスは飛びのくように距離を取った。ジークヴァルトが次の構えを取る前に、その懐へと飛び込んでいく。
手元を狙ったマテアスの手刀を、寸でのところで肘で受ける。はじき返すように剣を一閃すると、再びマテアスは遠く距離を取った。
この早朝の手合わせは、ジークヴァルトが幼少の頃から、日課のように続けられている。マテアスは騎士ではないので、長剣をふるうことはない。だが、時には細剣を持ち、時には短刀で、そして今日のように体術を用いて、ジークヴァルトの相手をずっと務めてきた。
賊に襲われるとき、相手が礼儀正しい騎士の作法で向かってくるなどあり得ない。ありとあらゆることを想定して、この鍛錬は続けられている。
互いの癖を知り尽くしているため、勝敗は大概、時間切れで幕を閉じる。幾度目かの攻撃がお互い不発に終わった時、マテアスはその体から緊張を解いた。
「今日はこのくらいにしておきましょう。湯で汗を流したら、一時間だけでも眠ってください。あなたに倒れられたら、わたしもいい迷惑ですから」
再び長剣を抱えると、マテアスは屋敷に戻っていった。その背を見送りながら、いつの間にか明けた空を見上げる。低く、厚い雲が強風に流されていく。雲間に映る朝焼けが、その動きとともに形を変えた。
自身の欲情を吹き飛ばすかのように、風に立ち、ジークヴァルトはしばらくの間、その様子をじっと見つめていた。
◇
「ご報告申し上げます」
王の前で片膝をつき、カイは頭を垂れた。人払いがされた謁見室は、カイとディートリヒ王、そしてハインリヒ王子の三人だけだ。
「昨年見つかった新たな託宣のあざを持つ少女が、この度確認できました。彼女はウルリヒ様の血を引くものと思われます」
「その者とは?」
「少女の名はルチア。ウルリヒ様とアニータ・スタン伯爵令嬢の間に生まれたお子のようです」
「新たな託宣はふたつあったはず。そのうちのどちらなんだ?」
ハインリヒの問いに、カイは一度言葉を詰まらせた。
「……彼女の受けた託宣名はリシル。異形の者に命奪われし定めの者にございます」
努めて冷静に口にする。龍の託宣が違えられたことはない。ルチアはいずれ、異形の者に殺められる運命だ。
「して、その者は今どうしている?」
「彼女は今、ラウエンシュタイン公爵代理の庇護の下、ダーミッシュ領で暮らしております」
「公爵代理……? リーゼロッテ嬢の父親か?」
ハインリヒは意外そうな顔をした。
「アニータ嬢が既知の仲である公爵代理に助けを求めたようです。そのアニータ嬢は、一か月ほど前に逝去しています。王、託宣を受けた少女の処遇はいかがなさいましょう」
カイがディートリヒ王を見上げる。その金色の瞳は、いつでも遠くを見つめているかのようだ。
「ラウエンシュタインに任せておけばよい」
「ですが……!」
ルチアは王族の血を引く者だ。受けた託宣の内容を考えても、王家で保護するのが筋だろう。
「よい。すべては龍の思し召しだ」
そう言ってディートリヒは玉座から静かに立ち上がった。青いマントを翻して去っていく。
「カイ・デルプフェルト。そなたはそばでその者を見守るがいい」
去り際にそう残して、王は扉の向こうに消えた。残されたハインリヒ王子と目を合せる。カイがかいつまんでルチアの経緯を話すと、ハインリヒは神妙な顔つきとなった。
「カイ……何かあったら力になる。遠慮なく言ってくれ」
「お心づかい、感謝いたします」
ハインリヒに向かって、カイは力ない笑顔を向けた。
◇
(今日はどれを読もうかしら……)
アンネマリーは星読みの間の書斎で、本を吟味していた。正式に王太子妃になった後、隠されたこの本棚の存在を、イジドーラ王妃に告げられた。目の前に並ぶのは、歴代の王太子妃たちが書き残した記録の数々だ。
いわば日記というやつだが、書いた人間によって内容は様々だった。王太子妃としての心構えを後世に残す者から、ただ日々の出来事を淡々と綴る者、中には、食卓のメニューを並べるだけのそんな強者もいた。
王太子妃としてやっていくにあたって、参考になる物とそうでない物の落差がありすぎる。そんなラインナップに、アンネマリーは思わず力が抜けてしまった。過去の王太子妃たちが、肩ひじを張らなくても大丈夫だと教えてくれているようで、アンネマリーは少しだけ気が楽になった。
そうはいっても、アンネマリーはあまりにも急にこの立場となってしまった。本来なら幼少期から行われるであろう、王妃になるための教育は、もはや実地訓練と化している。
何しろ今まで上だった身分の者が、一斉に自分にかしずいて来るのだ。いきなり王族に籍を置いた身で、人を従えるのはことのほか気を使う。
指を滑らせて背表紙を追う。綺麗な日記は手に取らず、すり切れたものを優先的に開いていった。
参考になる日記は、過去の王太子妃たちにも何度も読まれてきたようだ。年月を経て捲られ続けた日記などは、もうページがちぎれそうなくらいだった。
(あ、これはまだ見てないわね)
奥の方に押し込まれていたぼろぼろの日記を探し当てる。紙が破れないようにと、アンネマリーはそっとそれを開いた。
ぺらぺらと少しめくって、アンネマリーは慌てたようにその日記を閉じた。顔を赤くして、しばし固まったまま動けなくなる。
(見間違いではないわよね……)
心を落ち着けてから、再びそうっと日記を開く。中でもだんとつと言えるほどすり切れたその日記には、細かい文字でびっしりと閨の作法が記されていた。
いかにして愛する王太子を癒すのか。そんなことが中心に書かれている。刺激的な体位、マンネリになった時の打開策、殿方の体に関する知識のアレコレ。時には図解入りで、夜の営みに関することが、表現豊かに綴られていた。
しかもいろいろな者が、後から書き加えた痕跡も残っている。王太子妃たちの叡智が詰まった、究極の愛の教本となっていた。
立ったまま、食い入るようにそれに目を通していたアンネマリーは、途中ではっと我に返った。ハインリヒとは毎晩のように体をつなげている。癒すどころかハインリヒに翻弄されて、アンネマリーはいつもされるがままだ。
体が火照ってくるのを感じて、慌ててその日記を本棚の奥に押し込んだ。
気を取り直して、もっと日々の公務に役立ちそうなものを探す。いちばん端の真新しそうな日記を見て、アンネマリーは驚きの声を上げた。
「これ、アランシーヌ語で書かれているわ」
アランシーヌは鎖国を貫くこの国が、唯一国交を持つ隣国だ。手に取って中を確かめると、そこには綺麗なアランシーヌの文字で日記が綴られていた。
それを手に、一度居間へと戻る。ソファに座り、アンネマリーはゆっくりと目を通していった。
(この日記は、セレスティーヌ前王妃……ハインリヒ様のお母様が書いたものだわ)
セレスティーヌは隣国の王女だったと聞く。その縁もあって第二王女のテレーズは、アランシーヌの王族へと嫁ぐこととなった。セレスティーヌは病弱で、ハインリヒが幼い時に亡くなっている。故人の記憶を盗み見ているようで、アンネマリーは後ろめたい気持ちになった。
《九月九日、晴れ、この国に来てからもう一か月。まだ秋も間もないのに、この寒さはどういうことなのかしら。真冬が来たら、わたくしはきっと氷漬けね》
ふいに背後からハインリヒの声が聞こえた。流暢なアランシーヌ語で、ちょうどアンネマリーが開いているページの日記を読み上げていく。
「ハインリヒ様!?」
「一応声はかけたけど、驚かせてしまったね」
ソファの背をまたいで、アンネマリーの後ろに無理やりに座ってきた。時々こんなふうにハインリヒは、すごく子供っぽいことをする。それは自分にだけ見せる姿だと思うと、アンネマリーはくすぐったい気分になった。
少し前にずれたアンネマリーを抱え込んで、そのうなじに口づけを落とす。
「ん……ハインリヒ様、そこは駄目です」
龍のあざがある場所に触れられると、否応なしに体が熱を持ってしまう。
「仕方ないよ、アンネマリーが可愛いのが悪い」
そう言って、再びうなじに口づける。肩をすくませて逃げようとする体を、ハインリヒはぎゅっと背後から抱きしめた。
「それにアンネマリー、また様がついてるよ」
「あ……」
気を抜くとすぐ昔に戻ってしまう。これも急な立場の変化についていけてない証だ。
「大丈夫。アンネマリーはちゃんとやれているから」
今度はその耳にキスを落とす。そのままアンネマリーの肩に、ハインリヒは自分の顔を乗せた。
「ハインリヒはアランシーヌ語が話せたのですね」
「ああ、でも聞くのはそこそこできても、話すのは苦手だな」
「ですが、先ほどは完璧でしたわ」
「そうかい? テレーズ姉上に比べたらまだまだってところだろうな。姉上は子供の頃からアランシーヌ語がペラペラだったから」
「え? テレーズ様が?」
アンネマリーは首をかしげた。テレーズの元にいた時、隣国の言葉をうまく話せない彼女のために、アンネマリーはいつも通訳のようなことをしていた。時には隣国の貴族に、テレーズに伝えられないような暴言を吐かれて、人知れず涙した日もあった。
「ああ、分からないふりはきっとわざとだよ。言葉を理解できないとなると、侮って相手はぼろを出しやすくなるからね」
「そんな……」
あんな口汚い言葉を、テレーズはにこやかな顔で聞いていたのだろうか。そのしたたかさに、アンネマリーは驚きを隠せない。
「アンネマリーは隣国の言葉に長けているからね。わたしもうまく話せないことにしておいた方が、隣国との交渉がうまくいくかもしれないな」
そう言いながら、ハインリヒは腕に乗せたアンネマリーの胸をゆさゆさと揺らした。腹に巻き付けた腕に乗せ、先ほどからその重みを楽しんでいるようだ。
ハインリヒはこの大きな胸がいたくお気に入りだ。ずっとコンプレックスに思っていたのに、今では大きくてよかったと思っているから、自分も相当現金だ。くすりと笑って、ハインリヒを振り返った。
「ん? どうしたんだい?」
「いえ、ハインリヒが楽しそうだなと思って」
再びくすりと笑うと、ハインリヒは途端に真顔になった。
「それは違うよ、アンネマリー」
あまりにも真剣な声音に、怒らせてしまったのかとアンネマリーは不安に駆られた。
「楽しそうなんじゃない。楽しいんだ」
王太子顔できりりと言われ、アンネマリーはぽかんと口を開けた。
「ふ……ふふふ、それは本当に何よりですわ」
くすくす笑っているうちに、ハインリヒが耳を食んでくる。日記を手にしていたアンネマリーは、読み進めることを諦めて、閉じたそれをテーブルへと置いた。
「もういいの?」
「ハインリヒより大事なことなんて、この世にはひとつもありませんわ」
振り向いて、唇を奪う。意表を突かれたハインリヒは、すぐさまアンネマリーに口づけを返した。つばむようなキスは、やがて深いものとなり――
お互いの熱を分けるように、静かに夜は更けていった。
◇
三度ゆっくりと呼吸をして、ミヒャエルは深い瞑想から目を開けた。
「ラウエンシュタインの小娘は公爵家へと戻ったか……」
新年を祝う夜会以来、紅の女神は姿を現さない。何度乞うても、その声を聞くことは叶わなかった。
(いや、まだ見捨てられたというわけではない)
言い聞かせるように、ミヒャエルは左の拳を握り締めた。あの夜、ラウエンシュタインの忌まわしき力の反撃にあって、負傷した右手はいまだ動かぬままだ。
緑の小娘を今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい。だが、フーゲンベルクの厚い盾に守られて、その居場所を探るのが精一杯だった。
(指輪さえ砕けなければ……)
あの指輪と共に、女神から賜った力も失われてしまった。おかげで、フーゲンベルクの青にすら、太刀打ちできない事態に陥っている。
今の状態で、ラウエンシュタインの力に敵うことはないだろう。だが――
「盾を崩すだけなら、やりようはある」
ひとりほくそ笑み、再び目をつぶる。
(いつか、すべてを取り返す)
その日を願ってミヒャエルは、女神の声をただひたすらに待ちつづけた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離がつかめないまま、ぎくしゃくするわたしたち。そんな中、レルナー家を飛び出したツェツィーリア様が、公爵家にやって来て。そして再び、ミヒャエル司祭枢機卿の魔の手が迫る……!
次回、3章第9話「妄執の棘 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
外に出ると、まだ日も昇らない暗闇だった。昨日に引き続き、強い風が吹いている。春になったとはいえ、この時間はまだ肌寒い。その冷えた空気を吸いながら、ジークヴァルトはいつもの場所へとひとり向かった。
空の境目が白みかける頃、マテアスが大ぶりの剣を抱えてやってきた。普段よりも早く待っていた主に、マテアスが訝し気な顔をする。
「今日はお早いですね。もしかして寝てないんですか?」
「しばらく横にはなった」
「……まぁ、いいでしょう。後で仮眠の時間を作ります。ひと汗流したら、今朝は早めに切り上げましょう。で、今日はいかがなさいますか?」
剣を差し出すと、ジークヴァルトはそれを黙って受け取った。
「マテアスの好きでいい」
剣を鞘から抜いたジークヴァルトの言葉に、マテアスは体の前ですっと両手を構えた。
「では、こちらは素手で参ります」
一瞬の静寂の後、ふたり同時に動き出す。容赦なく繰り出される切っ先に、マテアスは飛びのくように距離を取った。ジークヴァルトが次の構えを取る前に、その懐へと飛び込んでいく。
手元を狙ったマテアスの手刀を、寸でのところで肘で受ける。はじき返すように剣を一閃すると、再びマテアスは遠く距離を取った。
この早朝の手合わせは、ジークヴァルトが幼少の頃から、日課のように続けられている。マテアスは騎士ではないので、長剣をふるうことはない。だが、時には細剣を持ち、時には短刀で、そして今日のように体術を用いて、ジークヴァルトの相手をずっと務めてきた。
賊に襲われるとき、相手が礼儀正しい騎士の作法で向かってくるなどあり得ない。ありとあらゆることを想定して、この鍛錬は続けられている。
互いの癖を知り尽くしているため、勝敗は大概、時間切れで幕を閉じる。幾度目かの攻撃がお互い不発に終わった時、マテアスはその体から緊張を解いた。
「今日はこのくらいにしておきましょう。湯で汗を流したら、一時間だけでも眠ってください。あなたに倒れられたら、わたしもいい迷惑ですから」
再び長剣を抱えると、マテアスは屋敷に戻っていった。その背を見送りながら、いつの間にか明けた空を見上げる。低く、厚い雲が強風に流されていく。雲間に映る朝焼けが、その動きとともに形を変えた。
自身の欲情を吹き飛ばすかのように、風に立ち、ジークヴァルトはしばらくの間、その様子をじっと見つめていた。
◇
「ご報告申し上げます」
王の前で片膝をつき、カイは頭を垂れた。人払いがされた謁見室は、カイとディートリヒ王、そしてハインリヒ王子の三人だけだ。
「昨年見つかった新たな託宣のあざを持つ少女が、この度確認できました。彼女はウルリヒ様の血を引くものと思われます」
「その者とは?」
「少女の名はルチア。ウルリヒ様とアニータ・スタン伯爵令嬢の間に生まれたお子のようです」
「新たな託宣はふたつあったはず。そのうちのどちらなんだ?」
ハインリヒの問いに、カイは一度言葉を詰まらせた。
「……彼女の受けた託宣名はリシル。異形の者に命奪われし定めの者にございます」
努めて冷静に口にする。龍の託宣が違えられたことはない。ルチアはいずれ、異形の者に殺められる運命だ。
「して、その者は今どうしている?」
「彼女は今、ラウエンシュタイン公爵代理の庇護の下、ダーミッシュ領で暮らしております」
「公爵代理……? リーゼロッテ嬢の父親か?」
ハインリヒは意外そうな顔をした。
「アニータ嬢が既知の仲である公爵代理に助けを求めたようです。そのアニータ嬢は、一か月ほど前に逝去しています。王、託宣を受けた少女の処遇はいかがなさいましょう」
カイがディートリヒ王を見上げる。その金色の瞳は、いつでも遠くを見つめているかのようだ。
「ラウエンシュタインに任せておけばよい」
「ですが……!」
ルチアは王族の血を引く者だ。受けた託宣の内容を考えても、王家で保護するのが筋だろう。
「よい。すべては龍の思し召しだ」
そう言ってディートリヒは玉座から静かに立ち上がった。青いマントを翻して去っていく。
「カイ・デルプフェルト。そなたはそばでその者を見守るがいい」
去り際にそう残して、王は扉の向こうに消えた。残されたハインリヒ王子と目を合せる。カイがかいつまんでルチアの経緯を話すと、ハインリヒは神妙な顔つきとなった。
「カイ……何かあったら力になる。遠慮なく言ってくれ」
「お心づかい、感謝いたします」
ハインリヒに向かって、カイは力ない笑顔を向けた。
◇
(今日はどれを読もうかしら……)
アンネマリーは星読みの間の書斎で、本を吟味していた。正式に王太子妃になった後、隠されたこの本棚の存在を、イジドーラ王妃に告げられた。目の前に並ぶのは、歴代の王太子妃たちが書き残した記録の数々だ。
いわば日記というやつだが、書いた人間によって内容は様々だった。王太子妃としての心構えを後世に残す者から、ただ日々の出来事を淡々と綴る者、中には、食卓のメニューを並べるだけのそんな強者もいた。
王太子妃としてやっていくにあたって、参考になる物とそうでない物の落差がありすぎる。そんなラインナップに、アンネマリーは思わず力が抜けてしまった。過去の王太子妃たちが、肩ひじを張らなくても大丈夫だと教えてくれているようで、アンネマリーは少しだけ気が楽になった。
そうはいっても、アンネマリーはあまりにも急にこの立場となってしまった。本来なら幼少期から行われるであろう、王妃になるための教育は、もはや実地訓練と化している。
何しろ今まで上だった身分の者が、一斉に自分にかしずいて来るのだ。いきなり王族に籍を置いた身で、人を従えるのはことのほか気を使う。
指を滑らせて背表紙を追う。綺麗な日記は手に取らず、すり切れたものを優先的に開いていった。
参考になる日記は、過去の王太子妃たちにも何度も読まれてきたようだ。年月を経て捲られ続けた日記などは、もうページがちぎれそうなくらいだった。
(あ、これはまだ見てないわね)
奥の方に押し込まれていたぼろぼろの日記を探し当てる。紙が破れないようにと、アンネマリーはそっとそれを開いた。
ぺらぺらと少しめくって、アンネマリーは慌てたようにその日記を閉じた。顔を赤くして、しばし固まったまま動けなくなる。
(見間違いではないわよね……)
心を落ち着けてから、再びそうっと日記を開く。中でもだんとつと言えるほどすり切れたその日記には、細かい文字でびっしりと閨の作法が記されていた。
いかにして愛する王太子を癒すのか。そんなことが中心に書かれている。刺激的な体位、マンネリになった時の打開策、殿方の体に関する知識のアレコレ。時には図解入りで、夜の営みに関することが、表現豊かに綴られていた。
しかもいろいろな者が、後から書き加えた痕跡も残っている。王太子妃たちの叡智が詰まった、究極の愛の教本となっていた。
立ったまま、食い入るようにそれに目を通していたアンネマリーは、途中ではっと我に返った。ハインリヒとは毎晩のように体をつなげている。癒すどころかハインリヒに翻弄されて、アンネマリーはいつもされるがままだ。
体が火照ってくるのを感じて、慌ててその日記を本棚の奥に押し込んだ。
気を取り直して、もっと日々の公務に役立ちそうなものを探す。いちばん端の真新しそうな日記を見て、アンネマリーは驚きの声を上げた。
「これ、アランシーヌ語で書かれているわ」
アランシーヌは鎖国を貫くこの国が、唯一国交を持つ隣国だ。手に取って中を確かめると、そこには綺麗なアランシーヌの文字で日記が綴られていた。
それを手に、一度居間へと戻る。ソファに座り、アンネマリーはゆっくりと目を通していった。
(この日記は、セレスティーヌ前王妃……ハインリヒ様のお母様が書いたものだわ)
セレスティーヌは隣国の王女だったと聞く。その縁もあって第二王女のテレーズは、アランシーヌの王族へと嫁ぐこととなった。セレスティーヌは病弱で、ハインリヒが幼い時に亡くなっている。故人の記憶を盗み見ているようで、アンネマリーは後ろめたい気持ちになった。
《九月九日、晴れ、この国に来てからもう一か月。まだ秋も間もないのに、この寒さはどういうことなのかしら。真冬が来たら、わたくしはきっと氷漬けね》
ふいに背後からハインリヒの声が聞こえた。流暢なアランシーヌ語で、ちょうどアンネマリーが開いているページの日記を読み上げていく。
「ハインリヒ様!?」
「一応声はかけたけど、驚かせてしまったね」
ソファの背をまたいで、アンネマリーの後ろに無理やりに座ってきた。時々こんなふうにハインリヒは、すごく子供っぽいことをする。それは自分にだけ見せる姿だと思うと、アンネマリーはくすぐったい気分になった。
少し前にずれたアンネマリーを抱え込んで、そのうなじに口づけを落とす。
「ん……ハインリヒ様、そこは駄目です」
龍のあざがある場所に触れられると、否応なしに体が熱を持ってしまう。
「仕方ないよ、アンネマリーが可愛いのが悪い」
そう言って、再びうなじに口づける。肩をすくませて逃げようとする体を、ハインリヒはぎゅっと背後から抱きしめた。
「それにアンネマリー、また様がついてるよ」
「あ……」
気を抜くとすぐ昔に戻ってしまう。これも急な立場の変化についていけてない証だ。
「大丈夫。アンネマリーはちゃんとやれているから」
今度はその耳にキスを落とす。そのままアンネマリーの肩に、ハインリヒは自分の顔を乗せた。
「ハインリヒはアランシーヌ語が話せたのですね」
「ああ、でも聞くのはそこそこできても、話すのは苦手だな」
「ですが、先ほどは完璧でしたわ」
「そうかい? テレーズ姉上に比べたらまだまだってところだろうな。姉上は子供の頃からアランシーヌ語がペラペラだったから」
「え? テレーズ様が?」
アンネマリーは首をかしげた。テレーズの元にいた時、隣国の言葉をうまく話せない彼女のために、アンネマリーはいつも通訳のようなことをしていた。時には隣国の貴族に、テレーズに伝えられないような暴言を吐かれて、人知れず涙した日もあった。
「ああ、分からないふりはきっとわざとだよ。言葉を理解できないとなると、侮って相手はぼろを出しやすくなるからね」
「そんな……」
あんな口汚い言葉を、テレーズはにこやかな顔で聞いていたのだろうか。そのしたたかさに、アンネマリーは驚きを隠せない。
「アンネマリーは隣国の言葉に長けているからね。わたしもうまく話せないことにしておいた方が、隣国との交渉がうまくいくかもしれないな」
そう言いながら、ハインリヒは腕に乗せたアンネマリーの胸をゆさゆさと揺らした。腹に巻き付けた腕に乗せ、先ほどからその重みを楽しんでいるようだ。
ハインリヒはこの大きな胸がいたくお気に入りだ。ずっとコンプレックスに思っていたのに、今では大きくてよかったと思っているから、自分も相当現金だ。くすりと笑って、ハインリヒを振り返った。
「ん? どうしたんだい?」
「いえ、ハインリヒが楽しそうだなと思って」
再びくすりと笑うと、ハインリヒは途端に真顔になった。
「それは違うよ、アンネマリー」
あまりにも真剣な声音に、怒らせてしまったのかとアンネマリーは不安に駆られた。
「楽しそうなんじゃない。楽しいんだ」
王太子顔できりりと言われ、アンネマリーはぽかんと口を開けた。
「ふ……ふふふ、それは本当に何よりですわ」
くすくす笑っているうちに、ハインリヒが耳を食んでくる。日記を手にしていたアンネマリーは、読み進めることを諦めて、閉じたそれをテーブルへと置いた。
「もういいの?」
「ハインリヒより大事なことなんて、この世にはひとつもありませんわ」
振り向いて、唇を奪う。意表を突かれたハインリヒは、すぐさまアンネマリーに口づけを返した。つばむようなキスは、やがて深いものとなり――
お互いの熱を分けるように、静かに夜は更けていった。
◇
三度ゆっくりと呼吸をして、ミヒャエルは深い瞑想から目を開けた。
「ラウエンシュタインの小娘は公爵家へと戻ったか……」
新年を祝う夜会以来、紅の女神は姿を現さない。何度乞うても、その声を聞くことは叶わなかった。
(いや、まだ見捨てられたというわけではない)
言い聞かせるように、ミヒャエルは左の拳を握り締めた。あの夜、ラウエンシュタインの忌まわしき力の反撃にあって、負傷した右手はいまだ動かぬままだ。
緑の小娘を今すぐにでも八つ裂きにしてやりたい。だが、フーゲンベルクの厚い盾に守られて、その居場所を探るのが精一杯だった。
(指輪さえ砕けなければ……)
あの指輪と共に、女神から賜った力も失われてしまった。おかげで、フーゲンベルクの青にすら、太刀打ちできない事態に陥っている。
今の状態で、ラウエンシュタインの力に敵うことはないだろう。だが――
「盾を崩すだけなら、やりようはある」
ひとりほくそ笑み、再び目をつぶる。
(いつか、すべてを取り返す)
その日を願ってミヒャエルは、女神の声をただひたすらに待ちつづけた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ジークヴァルト様との距離がつかめないまま、ぎくしゃくするわたしたち。そんな中、レルナー家を飛び出したツェツィーリア様が、公爵家にやって来て。そして再び、ミヒャエル司祭枢機卿の魔の手が迫る……!
次回、3章第9話「妄執の棘 - 前編 -」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
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姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
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だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
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