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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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◇
「じゃあリーゼロッテ嬢、明日は気をつけてね」
「ありがとうございます。カイ様はしばらくはこちらにいらっしゃるのですか?」
「伯爵にお願いして、明日はここの学校を見学する予定なんだ。それが終わったら帰ろうかな?」
カイを見送るために廊下を歩く。先を行くカイとリーゼロッテに、数歩遅れて歩くのがエマニュエルだ。
見た目は三人だけだが、その後ろをカークが続き、そのさらに後方には、お目めきゅるるんな小鬼たちを、ぞろぞろと何匹も引き連れていた。視る者が視れば、驚きに振り返る在り様だ。幸いにもこのダーミッシュ家には、異形の存在を認識できる者はいなかった。
途中、きゃあきゃあと騒ぐ少女たちの一団とすれ違った。廊下の端に並んで形ばかりは礼を取っているが、みなリーゼロッテたちに好奇の目を向けている。
「ん? 行儀見習いの女の子たちかな?」
「はい、授業の一環として、定期的に見学に来ているようですわ」
微笑ましそうに頷いて、リーゼロッテはその横を通り過ぎた。富裕層とは言え、平民がそうそう貴族の屋敷に足を踏み入れることはない。ダーミッシュ伯爵も大胆なことをすると、カイは素直に驚いていた。
少女たちの列を通りすぎるや否や、突然カイが「はははっ」と腹を抱えて笑いだした。いきなりのことに驚いたリーゼロッテは、思わず足を止めて振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんだかしてやられた感がすごくって」
「してやられた感?」
リーゼロッテがきょとんとすると、カイはいまだ笑いながら、「ううん、なんでもないんだ」と首を振って歩き出した。
何がおかしいのか結局カイは、リーゼロッテが見送る間中、ずっと最後まで笑い続けていたのだった。
◇
「みなさん、よくお聞きなさい。今日は伯爵様のお屋敷に、行儀見習いとして参ります。決して、決して粗相のないよう気をつけるのですよ」
教鞭に立つ淑女マナー担当の女性教師が、チェーン付きの丸眼鏡をくいと上げた。
「出発する前に、おさらいをしておきましょう。貴族の方々にお会いしたら、まず顔を伏せること。目を合わせたり、不躾に見たりするのは不敬に当たります。十分注意するように」
はーいと少女たちが返事をするが、その様子はみな浮足立っている。
「廊下ですれ違う時は、必ず端によって道を譲ること。顔は伏せたまま、こう頭を下げて礼を取ります。よいですか、この角度が最も美しいとされています」
マナー教師が背筋を伸ばしてきっちりとお辞儀をする。
「ねえ、先生。淑女の礼のやり方も教えて欲しいわ」
「淑女の礼ですか?」
言ったのは、クラスの中でも金持ちの商家の娘だ。学校に多額な寄付金をしている家なので、教師に対しても常に傍若無人にふるまっている。
「だって、いつ貴族の方に結婚を申し込まれるかわからないでしょう? わたし、そのときに恥はかきたくないわ」
取り巻きの少女たちが、そーよそーよと口をそろえて言った。このクラスにいるのは裕福な家の子女たちだ。行儀見習いに行った先で、貴族に見初められることを夢みるような少女たちばかりだった。
そんなやり取りを、ルチアは後ろの席で興味なさげに聞いていた。貴族の屋敷では極力目立たないようにしなくては。ぼんやりと窓の外を眺めながら、そんなことを考えていた。
「ふむ。わかりました、いいでしょう。わたしも若い時分には貴族のお屋敷に努めていた身。見本を見せますから、よくご覧なさい」
教壇で女性教師はスカートをつまみ上げ、礼を取るポーズをした。生徒たちから、おおという尊敬の声が上がるが、その体勢はバランス悪く、頭も左右にぐらぐらと揺れている。ルチアの目には、不格好な礼にしか映らなかった。
「どうですか? せっかくですので、ひとりずつ前に出て練習してみましょう」
嬉々として、少女たちが順番に前に出ていき、見様見真似で礼を取る。ひとりひとりの姿勢をチェックしながら、教師があれやこれやとその所作を正していく。だが、結局は不格好なままの礼にしかならず、ルチアはこのへんてこな授業をぽかんと見守っていた。
ルチアは小さいころから、アニサと一緒に「お姫様ごっこ」という遊びをしていた。ルチアがお姫様になりきって、礼儀正しく振舞うのだ。
淑女の礼の取り方はもちろん、お姫様のしゃべり方や歩き方、食事の仕方から笑い方にいたるまで、アニサはいろんな振る舞いを教えてくれた。ごっこ遊びというには厳しすぎるほど教え込まれたが、忙しく働くアニサと一緒に過ごせる唯一の時間だったので、幼いルチアも一生懸命それに応えた。
今思えば、アニサはどうしてあんなことを自分に教えたのだろう。もしかしたら母もかつて、貴族の屋敷で働いていたのではないだろうか。マナーがなっていれば就職先の幅も広がる。イグナーツもお金持ちそうだったし、ふたりはきっとその頃の知り合いだったのだ。
そんなことを考えていると、女性教師がルチアに視線を向けた。
「ルチア・ブルーメ。あなたが最後ですよ。さあ、前にいらっしゃい」
ブルーメとは学校に入る際に、イグナーツが勝手につけた苗字だ。ここでルチアは「ブルーメ家の遠縁のお嬢さん」という肩書になっている。だが、ブルーメ家が一体どんな家なのか、ルチアにはよく分からないままだ。
面倒だったがルチアは仕方なくひとり前に出た。女性教師に促され、アニサに教えられたとおりの淑女の礼をとる。
背筋を伸ばし、指先の動きにまで神経を集中して、ゆっくりとスカートをつまみ上げた。カーテシーは足の位置が重要だ。不安定な姿勢に体の軸がぶれないよう、細心の注意を払う。瞳を伏せ、口元に小さな笑みを乗せたのも、すべてアニサの教えだった。
興味なさげにおしゃべりに興じていた少女たちが、その無駄のない一連の動きを前に、驚きで押し黙った。しんと静まり返った教室の中、ルチアはゆっくりとした優雅な所作で、淑女の礼を崩していった。
「ま、まあまあ、いい感じでできていました。さすがはブルーメ家に縁続きというだけはありますね」
動揺を隠しつつ、女教師が強がるように頷いた。
「あの、もう席に戻ってもいいですか?」
「ええ、練習はここまでにして、そろそろ伯爵様のお屋敷に向かいましょうか」
教師の声掛けに、教室内は再び騒然となった。
◇
少女たちの列の最後尾につき、ルチアはとにかく目立たないようにと、息をひそめながら歩いていた。貴族のお屋敷の廊下は、ふかふかの絨毯が敷き詰められている。いつか読んだ物語に書いてあった通りだと、その踏み心地を少しだけ楽しみながら進んだ。
「そこ! 私語は慎みなさい」
興奮気味におしゃべりをする少女たちに、先頭の教師の注意がとんだ。はーいと返事をしながらも、やはりみなが浮足立ってそわそわとしている。
廊下の向こうから、誰かが歩いて来るのが目に入る。すかさず教師が指示を出した。
「あちらは伯爵家のご令嬢、リーゼロッテ様でいらっしゃいます。さ、みなさん、壁に寄って決して粗相のないように!」
金髪の令嬢と、貴族と思わしき青年が並んでこちらに向かってくる。教師自身も緊張しているのが伝わってきて、少女たちは壁に並んで慌てて頭を下げた。
(何、あれ……!?)
ルチアもそれにならって頭を下げるが、驚きに目を見張っていた。令嬢たちの後ろに、もうひとり夫人が歩いていたが、そのさらに後方に、厳つい大男がついてきているのだ。
(あれはこの世の者ではないわ)
街中でもいたるところで見かける黒い吹き溜まりのような塊は、時に人の形をとっていることがある。だが、あそこまではっきりと視えることはそうそうなかった。
あれらと目を合わすと、助けを求めるかのように付きまとわれる。よくよく見ると、大男の後方にも、変な小人のような者たちが、床をぴょんぴょんと跳ねていた。ルチアは気づかなかったふりをして、とにかく視えないようにとぎゅっと瞳を閉じた。
令嬢一行が、目の前までやってくる。顔を伏せろと言われたのに、少女たちはみなちらちらとその様子を伺っていた。
「ん? 行儀見習いの女の子たちかな?」
ふいに聞こえた声に、ルチアは思わず顔を上げた。上げた先でその声の主と目が合いそうになり、ルチアは慌てて再び頭を伏せた。
(どうしてここにカイがいるの!?)
令嬢と並んで歩いているのは、確かにカイだ。王都のはずれの街で出会ったカイは、ごろつきからルチアを守り、親切にこんがり亭まで案内してくれた。
あの時に食べたシチューの味が忘れられない。真っ白なシチューは温かくておいしくて、不安でたまらなかったルチアの心も、一緒にあたためてくれた。今でこそ毎日贅沢な物を食べてはいるが、あの日ほどの感動を味わうことは一度もなかった。
(いいとこの坊ちゃんだって自分で言ってたけど、カイがお貴族様だったなんて……)
令嬢と並んで歩く姿は、眩しいほどに堂々としている。ルチアは少しさみしいようなよく分からない気持ちになって、ぎゅっと唇をかんだ。
とにかく見つからないようにしなければならない。カイが貴族だというのなら、なおさらだ。アニサは神殿や教会と共に、貴族の存在にも敏感だった。
結局カイは、そのままルチアを素通りした。令嬢と楽しそうに談笑しながら、廊下の向こうへと去っていく。その後ろを例の大男と、不細工な小人たちがぞろぞろとついていった。小人はやけに楽しそうにぴょんぴょん跳ねていて、途中、そのうちの一匹が足を止め、不思議そうにルチアの顔を覗き込んできた。
頑なに視えないふりをしていると、置いて行かれたことに気づいたのか、その小人は慌てて去った令嬢一行を追いかけていった。ほっと息をつくと、少女たちから興奮の声が上がる。初めて間近で見た貴族に、誰しも声が上ずっていた。
(早く帰りたい……)
その中でルチアだけが、小さくため息を落とした。教師の合図で再び移動が始まり、ルチアもはぐれないようにと最後尾に回る。これから数人ずつに分かれて、さまざまな場所を見学する予定になっていた。
先頭集団が廊下の角を曲がったところで、ルチアのスカートがくんと何かに引っかかった。驚いて下を見ると、おめめきゅるんなぶさ可愛い小人が、スカートのすそをぎゅっと掴んでいる。そのきゅるるんとばっちり目を合わせてしまったルチアは、出そうになった悲鳴を押し殺して、スカートを小人から取り返そうとした。
だが、ルチアに自分の姿が視えていることが分かった小人は、さらに瞳をきゅるんきゅるんと輝かせて、上機嫌でルチアをどこかへ連れて行こうとする。
「やだ、ちょっと、やめて」
必死に抵抗するも、小人はぐいぐいとルチアのスカートを引っ張って行く。助けを求めようにも、少女たちの列は廊下の角に消えてしまった。
(いやぁぁ、母さん助けてぇ!)
ルチアは訳もわからないまま、伯爵家の廊下を小走りに連れられて行った。
「じゃあリーゼロッテ嬢、明日は気をつけてね」
「ありがとうございます。カイ様はしばらくはこちらにいらっしゃるのですか?」
「伯爵にお願いして、明日はここの学校を見学する予定なんだ。それが終わったら帰ろうかな?」
カイを見送るために廊下を歩く。先を行くカイとリーゼロッテに、数歩遅れて歩くのがエマニュエルだ。
見た目は三人だけだが、その後ろをカークが続き、そのさらに後方には、お目めきゅるるんな小鬼たちを、ぞろぞろと何匹も引き連れていた。視る者が視れば、驚きに振り返る在り様だ。幸いにもこのダーミッシュ家には、異形の存在を認識できる者はいなかった。
途中、きゃあきゃあと騒ぐ少女たちの一団とすれ違った。廊下の端に並んで形ばかりは礼を取っているが、みなリーゼロッテたちに好奇の目を向けている。
「ん? 行儀見習いの女の子たちかな?」
「はい、授業の一環として、定期的に見学に来ているようですわ」
微笑ましそうに頷いて、リーゼロッテはその横を通り過ぎた。富裕層とは言え、平民がそうそう貴族の屋敷に足を踏み入れることはない。ダーミッシュ伯爵も大胆なことをすると、カイは素直に驚いていた。
少女たちの列を通りすぎるや否や、突然カイが「はははっ」と腹を抱えて笑いだした。いきなりのことに驚いたリーゼロッテは、思わず足を止めて振り返った。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんだかしてやられた感がすごくって」
「してやられた感?」
リーゼロッテがきょとんとすると、カイはいまだ笑いながら、「ううん、なんでもないんだ」と首を振って歩き出した。
何がおかしいのか結局カイは、リーゼロッテが見送る間中、ずっと最後まで笑い続けていたのだった。
◇
「みなさん、よくお聞きなさい。今日は伯爵様のお屋敷に、行儀見習いとして参ります。決して、決して粗相のないよう気をつけるのですよ」
教鞭に立つ淑女マナー担当の女性教師が、チェーン付きの丸眼鏡をくいと上げた。
「出発する前に、おさらいをしておきましょう。貴族の方々にお会いしたら、まず顔を伏せること。目を合わせたり、不躾に見たりするのは不敬に当たります。十分注意するように」
はーいと少女たちが返事をするが、その様子はみな浮足立っている。
「廊下ですれ違う時は、必ず端によって道を譲ること。顔は伏せたまま、こう頭を下げて礼を取ります。よいですか、この角度が最も美しいとされています」
マナー教師が背筋を伸ばしてきっちりとお辞儀をする。
「ねえ、先生。淑女の礼のやり方も教えて欲しいわ」
「淑女の礼ですか?」
言ったのは、クラスの中でも金持ちの商家の娘だ。学校に多額な寄付金をしている家なので、教師に対しても常に傍若無人にふるまっている。
「だって、いつ貴族の方に結婚を申し込まれるかわからないでしょう? わたし、そのときに恥はかきたくないわ」
取り巻きの少女たちが、そーよそーよと口をそろえて言った。このクラスにいるのは裕福な家の子女たちだ。行儀見習いに行った先で、貴族に見初められることを夢みるような少女たちばかりだった。
そんなやり取りを、ルチアは後ろの席で興味なさげに聞いていた。貴族の屋敷では極力目立たないようにしなくては。ぼんやりと窓の外を眺めながら、そんなことを考えていた。
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「どうですか? せっかくですので、ひとりずつ前に出て練習してみましょう」
嬉々として、少女たちが順番に前に出ていき、見様見真似で礼を取る。ひとりひとりの姿勢をチェックしながら、教師があれやこれやとその所作を正していく。だが、結局は不格好なままの礼にしかならず、ルチアはこのへんてこな授業をぽかんと見守っていた。
ルチアは小さいころから、アニサと一緒に「お姫様ごっこ」という遊びをしていた。ルチアがお姫様になりきって、礼儀正しく振舞うのだ。
淑女の礼の取り方はもちろん、お姫様のしゃべり方や歩き方、食事の仕方から笑い方にいたるまで、アニサはいろんな振る舞いを教えてくれた。ごっこ遊びというには厳しすぎるほど教え込まれたが、忙しく働くアニサと一緒に過ごせる唯一の時間だったので、幼いルチアも一生懸命それに応えた。
今思えば、アニサはどうしてあんなことを自分に教えたのだろう。もしかしたら母もかつて、貴族の屋敷で働いていたのではないだろうか。マナーがなっていれば就職先の幅も広がる。イグナーツもお金持ちそうだったし、ふたりはきっとその頃の知り合いだったのだ。
そんなことを考えていると、女性教師がルチアに視線を向けた。
「ルチア・ブルーメ。あなたが最後ですよ。さあ、前にいらっしゃい」
ブルーメとは学校に入る際に、イグナーツが勝手につけた苗字だ。ここでルチアは「ブルーメ家の遠縁のお嬢さん」という肩書になっている。だが、ブルーメ家が一体どんな家なのか、ルチアにはよく分からないままだ。
面倒だったがルチアは仕方なくひとり前に出た。女性教師に促され、アニサに教えられたとおりの淑女の礼をとる。
背筋を伸ばし、指先の動きにまで神経を集中して、ゆっくりとスカートをつまみ上げた。カーテシーは足の位置が重要だ。不安定な姿勢に体の軸がぶれないよう、細心の注意を払う。瞳を伏せ、口元に小さな笑みを乗せたのも、すべてアニサの教えだった。
興味なさげにおしゃべりに興じていた少女たちが、その無駄のない一連の動きを前に、驚きで押し黙った。しんと静まり返った教室の中、ルチアはゆっくりとした優雅な所作で、淑女の礼を崩していった。
「ま、まあまあ、いい感じでできていました。さすがはブルーメ家に縁続きというだけはありますね」
動揺を隠しつつ、女教師が強がるように頷いた。
「あの、もう席に戻ってもいいですか?」
「ええ、練習はここまでにして、そろそろ伯爵様のお屋敷に向かいましょうか」
教師の声掛けに、教室内は再び騒然となった。
◇
少女たちの列の最後尾につき、ルチアはとにかく目立たないようにと、息をひそめながら歩いていた。貴族のお屋敷の廊下は、ふかふかの絨毯が敷き詰められている。いつか読んだ物語に書いてあった通りだと、その踏み心地を少しだけ楽しみながら進んだ。
「そこ! 私語は慎みなさい」
興奮気味におしゃべりをする少女たちに、先頭の教師の注意がとんだ。はーいと返事をしながらも、やはりみなが浮足立ってそわそわとしている。
廊下の向こうから、誰かが歩いて来るのが目に入る。すかさず教師が指示を出した。
「あちらは伯爵家のご令嬢、リーゼロッテ様でいらっしゃいます。さ、みなさん、壁に寄って決して粗相のないように!」
金髪の令嬢と、貴族と思わしき青年が並んでこちらに向かってくる。教師自身も緊張しているのが伝わってきて、少女たちは壁に並んで慌てて頭を下げた。
(何、あれ……!?)
ルチアもそれにならって頭を下げるが、驚きに目を見張っていた。令嬢たちの後ろに、もうひとり夫人が歩いていたが、そのさらに後方に、厳つい大男がついてきているのだ。
(あれはこの世の者ではないわ)
街中でもいたるところで見かける黒い吹き溜まりのような塊は、時に人の形をとっていることがある。だが、あそこまではっきりと視えることはそうそうなかった。
あれらと目を合わすと、助けを求めるかのように付きまとわれる。よくよく見ると、大男の後方にも、変な小人のような者たちが、床をぴょんぴょんと跳ねていた。ルチアは気づかなかったふりをして、とにかく視えないようにとぎゅっと瞳を閉じた。
令嬢一行が、目の前までやってくる。顔を伏せろと言われたのに、少女たちはみなちらちらとその様子を伺っていた。
「ん? 行儀見習いの女の子たちかな?」
ふいに聞こえた声に、ルチアは思わず顔を上げた。上げた先でその声の主と目が合いそうになり、ルチアは慌てて再び頭を伏せた。
(どうしてここにカイがいるの!?)
令嬢と並んで歩いているのは、確かにカイだ。王都のはずれの街で出会ったカイは、ごろつきからルチアを守り、親切にこんがり亭まで案内してくれた。
あの時に食べたシチューの味が忘れられない。真っ白なシチューは温かくておいしくて、不安でたまらなかったルチアの心も、一緒にあたためてくれた。今でこそ毎日贅沢な物を食べてはいるが、あの日ほどの感動を味わうことは一度もなかった。
(いいとこの坊ちゃんだって自分で言ってたけど、カイがお貴族様だったなんて……)
令嬢と並んで歩く姿は、眩しいほどに堂々としている。ルチアは少しさみしいようなよく分からない気持ちになって、ぎゅっと唇をかんだ。
とにかく見つからないようにしなければならない。カイが貴族だというのなら、なおさらだ。アニサは神殿や教会と共に、貴族の存在にも敏感だった。
結局カイは、そのままルチアを素通りした。令嬢と楽しそうに談笑しながら、廊下の向こうへと去っていく。その後ろを例の大男と、不細工な小人たちがぞろぞろとついていった。小人はやけに楽しそうにぴょんぴょん跳ねていて、途中、そのうちの一匹が足を止め、不思議そうにルチアの顔を覗き込んできた。
頑なに視えないふりをしていると、置いて行かれたことに気づいたのか、その小人は慌てて去った令嬢一行を追いかけていった。ほっと息をつくと、少女たちから興奮の声が上がる。初めて間近で見た貴族に、誰しも声が上ずっていた。
(早く帰りたい……)
その中でルチアだけが、小さくため息を落とした。教師の合図で再び移動が始まり、ルチアもはぐれないようにと最後尾に回る。これから数人ずつに分かれて、さまざまな場所を見学する予定になっていた。
先頭集団が廊下の角を曲がったところで、ルチアのスカートがくんと何かに引っかかった。驚いて下を見ると、おめめきゅるんなぶさ可愛い小人が、スカートのすそをぎゅっと掴んでいる。そのきゅるるんとばっちり目を合わせてしまったルチアは、出そうになった悲鳴を押し殺して、スカートを小人から取り返そうとした。
だが、ルチアに自分の姿が視えていることが分かった小人は、さらに瞳をきゅるんきゅるんと輝かせて、上機嫌でルチアをどこかへ連れて行こうとする。
「やだ、ちょっと、やめて」
必死に抵抗するも、小人はぐいぐいとルチアのスカートを引っ張って行く。助けを求めようにも、少女たちの列は廊下の角に消えてしまった。
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