407 / 506
第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
3
しおりを挟む
◇
書類に目を通していると、ふいに助けを求めるようなカークの思念が飛んできた。はっとなり、隣に座るリーゼロッテに視線を向けた。何も書かれていない白紙のページを見つめ、呆然とした様子で彼女は瞳から涙を溢れさせていた。
「ダーミッシュ嬢!」
何かに飲まれている意識を、引き戻すように強く言う。びくっと体を震わせて、彼女はその顔をこちらに向けた。
「――これは、オクタヴィアの日記なんだわ」
色を無くした唇が、小さく震えている。咄嗟に頬に落ちる涙を親指で拭い、その顔を胸に引き寄せた。背中に回された彼女の小さな手が、ぎゅっとシャツを掴んでくる。ざわつく感情を抑え込みながら、ジークヴァルトはリーゼロッテの髪をそっとやさしく梳いた。
「大丈夫だ、ここは安全だ」
「……はい、ヴァルト様」
平静を取り戻すように、リーゼロッテは小さく息をついた。次いでジークヴァルトを見上げてくる。
「それに何が書かれていたんだ?」
奥書庫にしまわれた書物が危険であるはずはない。そんな思い込みをしていた自分に、ジークヴァルトは苛立ちを覚えた。
「こちらの日記は、オクタヴィアが書いたもののようですわ」
「オクタヴィア? ジョンが仕えていたという令嬢か?」
「はい」
昨年の冬にあった泣き虫ジョンに関する出来事は、その後保留となり、春の雪解けまでは封印状態になっていた。調査を続行しようにも、ジョンのいる枯れ木は今、雪にうずもれている。
「リーゼロッテ様が視たというジョンの記憶を踏まえまして、わたしもあの後少々調べてみたのですが、オクタヴィアという方は、確かにフーゲンベルク家の家系図に存在されています。ちょうど今から九代ほど前の公爵夫人となられた方です」
「公爵夫人?」
「はい、龍の託宣により当時の王弟殿下をフーゲンベルク家の婿養子に迎え、おふたりは男児をひとりもうけたとの記録が残っております」
「え? ではオクタヴィアはあの時に亡くなったわけではないの?」
言われて見ればそうかもしれない。オクタヴィアは龍から託宣を受けた身だ。ジョンが龍の鉄槌を受け星に堕ちたというのなら、オクタヴィアの命はそれにより助かったのだ。
『龍から託宣を受けた者は、それを果たすまで死ぬことすら許されない。例え、死んだほうがましって目にあおうともね』
ふいにジークハルトの言葉が蘇る。オクタヴィアは託宣を果たすべく、カークを追って死ぬことはできなかったのだ。
(じゃあ、ジョンやカークの死は無駄だったってこと……?)
ぎゅっと胸が締め付けられた。先ほど流れ込んできたオクタヴィアの思いが蘇る。この事実を、オクタヴィアはどんな気持ちで受け止めたのだろうか。
「わたしが調べたところでは、男児が誕生した後、婿入りした王弟殿下はまもなく病死されています。その後オクタヴィア様は、当時のカーク子爵と再婚されたようですね」
「ええっ!?」
らしからぬ大きな声を上げて、リーゼロッテは椅子から立ちあがった。テーブルに両手をつき、前のめりにマテアスに問うてくる。
「オクタヴィアはカーク家へお嫁に行ったの!?」
「はい、記録ではそのように。カーク子爵家がフーゲンベルク家の傍系貴族になったのも、それがきっかけのようですし……」
マテアスの言葉にリーゼロッテは呆然とした様子だった。
「どういうことなの……? カークは冷たい雨に降られた後、亡くなったって……」
「カーク子爵家へ行けば、もっと子細な記録が残っているかもしれませんが」
困惑気味に答えるマテアスに、リーゼロッテは決意したように頷いた。次いでジークヴァルトの顔を仰ぎ見る。
「ヴァルト様、お願いでございます。わたくしを、カーク子爵家へ行かせてくださいませ」
必死の懇願に、ジークヴァルトの眉間のしわが一層深まった。
◇
「なんだか大所帯になってしまったわ……」
「リーゼロッテ嬢の立場を思えば、当然ともいえる処遇じゃない? まあ、グレーデン家の一件があるから、オレも信用されてないんだろうけど」
迎えられたカーク子爵家で、カイと共にソファに座った。その後ろにはユリウスとエマニュエルにエラ、そして不動のカークが並んで立っている。
「カイ様までお呼び立てして、本当に申し訳ありません」
「はは、大丈夫だよ。龍の託宣に関する事と星を堕とす者にまつわる事は、王城騎士としてのオレの管轄だから。そう言えば、フーゲンベルク家で託宣を受けた者の日記が見つかったんだって? 今度オレにも読ませてよ」
「日記はジークヴァルト様が管理なさっていますわ。……カイ様はまだ託宣の調査をされているのですか?」
王子の消えた託宣の相手はアンネマリーだった。それが見つかった今、調べることなどあるのだろうか。
「実は見つかってない託宣が他にもあるんだ。ハインリヒ様の件は一件落着になったけど、オレの仕事はまだまだ残ってるってわけ」
「そうだったのですね」
「だから、こうしてカーク子爵家の書庫を確認できるのは、オレ的にも願ったり叶ったりだよ」
そんな会話をしていると、慌てたようなヨハンがやってきた。
「お待たせして申し訳ありません。ただいま当主である父が不在でして、わたしがご挨拶に」
「いきなり押しかけて申し訳ありませんわ、ヨハン様」
「とんでもございません!! 我がカーク家にリーゼロッテ様に来ていただくなど、光栄の極みっ」
「お兄様、少しは落ち着いて」
手をわちゃわちゃさせながら言うヨハンの後ろから、使用人に手を引かれた少々ふくよかな令嬢が現れた。
「ブランシュ!」
「わたし、ブランシュって言います。いつも兄がお世話になってます」
ブランシュはぺこりと頭を下げた。そのしぐさは貴族令嬢というよりも、慣れない使用人といった感じだ。
「ブランシュは視力を失っていて……その、多少の粗相は見逃していただけたらと……」
すまなそうに言うヨハンに、リーゼロッテは微笑み返した。
「きちんとご挨拶いただけましたわ。こちらこそ、ヨハン様にはよくしていただいております」
リーゼロッテが淑女の礼を返すと、ブランシュは見えないはずの目を「きゃっ」とふくよかな両手で覆った。
「もしかしてあなたがリーゼロッテ様ですか? すごく綺麗な緑! 眩しすぎてよく見えないっ」
「こら、ブランシュ、リーゼロッテ様に失礼だぞ」
「だってお兄ちゃん」
「お兄ちゃんではないだろう? お兄様と呼びなさい」
「あは、またやっちゃった」
もちもちのほっぺたに手をやって、ブランシュはペロッと舌を出した。
「ブランシュ様は力を感じ取ることができるのですか?」
「はい! お兄様は青くって、リーゼロッテ様は輝く緑色! 隣の人は琥珀色だし、後ろにいるのは青、青、透明!」
「透明?」
「はい、だってその人は透き通ってて何も見えないから」
エラを指さして言うブランシュに、リーゼロッテは感心したように頷いた。
「無知なる者のエラは、透明に視えるのね」
「こら、人様を指さすのはやめなさい! エラ嬢、妹が失礼を働いて申し訳ない」
「問題ございません」
頭を下げるヨハンにエラは笑顔で首を振った。
「ヨハン殿、悪いけどオレあまり時間ないんだ。早いとこ書庫をのぞかせてもらえると助かるんだけど」
「あああっ、デルプフェルト様、申し訳ございませんっ! 今すぐご案内いたします!! エマ、悪いがブランシュの相手をしていてもらってもいいだろうか?」
「承知いたしました。さあ、ブランシュ様、参りましょう」
「やった! 今日は特別なお客様が来るからってお菓子も特別なの!」
「それは楽しみですわね」
エマニュエルに連れられて、ブランシュはうれしそうに去っていった。手探りをしながら歩く姿は、やはり目が見えていないのだと見て取れる。
「では、書庫へご案内します」
残りの一行はカーク子爵家の書庫へと移動した。
◇
「こちらの部屋です。あまり所蔵する書物は多くはないのですが、古い物はここで確認が取れるはずです」
フーゲンベルク家よりも手狭な小部屋だった。壁際に並ぶガラス戸付きの本棚に、小さめのテーブルがある。窓のそばに飾りのチェストが置かれ、その窓は厚いカーテンで閉め切られていた。部屋の中はほこりっぽく、籠った空気が支配している。
「急なことで掃除が行き届かず申し訳ありません。ここへは滅多に足を踏み入れないもので」
「とりあえず、家系図を見てみたいかな」
カイの言葉にヨハンは一枚の大判な羊皮紙を取り出した。それをテーブルの上で広げてみせる。
「これが我が家の家系図です」
カイがのぞき込みながら、その上に指を彷徨わせていく。
「あった、これだ。オクタヴィア・カーク。これがリーゼロッテ嬢が言ってた『ジョンのお嬢様』ってことかな?」
「はい、恐らく……」
リーゼロッテも家系図を同様に覗き込んだ。オクタヴィアの伴侶は第五代目のカーク子爵レオンとなっており、オクタヴィアはレオンとの間に五人の子供をもうけたようだ。その下にさらに家系図が広がっている。
(オクタヴィアは本当に、恋人のレオン・カークと結ばれたのね)
壁際にいるカークを見やる。不動のカークはレオン・カークが残した思念の残像のような物だ。本人がしあわせな人生を歩んでその生涯を閉じたとしても、その思いだけがあの場に焼き付いて残ったということだ。
「うーん、これだけじゃ、何も判断できないなぁ。他のも見させてもらおうかな?」
「はい、どうぞご自由に。ここでご覧いただく分には、どれでも見ていただければと思います」
「そうさせてもらうよ。リーゼロッテ嬢も手伝ってくれる?」
「はい、もちろんですわ」
本棚に向かうふたりを黙って見つめていたエラに、ヨハンが遠慮がちに声をかけた。
「エラ嬢、もしよかったら君に見せたいものがあるんだが……」
「わたしにですか?」
もじもじと大きな手指を付き合わせるヨハンに、エラは不思議そうに首を傾けた。
「ああ、別の部屋に置いてあるものをぜひ見せたくて」
「ですが……」
エラは困ったようにリーゼロッテの背に視線をやった。リーゼロッテのそばを離れるのはためらわれる。
「ここにはオレもいる。エラ嬢は少し息抜きしてきたらどうだ?」
隣に立っていたユリウスがにかっと笑った。
「エラ、わたくしなら大丈夫よ。何かあったらすぐに呼ぶから」
「ではお言葉に甘えまして、少しヨハン様と行ってまいります」
「おう、ふたりでゆっくりな」
今度はヨハンに向けてユリウスはにかっと笑った。次いで親指を立ててサムズアップする。
「オレはお前に賭けてるんだ。頑張れよ!」
「はぁ」
何のことを言われたのかわからなかったヨハンは、中途半端な返事をしてからエラを連れて書庫を出ていった。
「ユリウス様はヨハン殿に賭けているんですか? 無謀だなー。オレだったらグレーデン殿辺りにしますけど」
「大穴狙いの方が人生楽しいだろう?」
「はは、ユリウス様らしいですね」
「一体何のお話ですか?」
リーゼロッテが不思議そうに問うと、カイは朗らかな笑顔を向けてきた。
「リーゼロッテ嬢は知らないんだ? 今、フーゲンベルク家で大流行りの賭け事だよ」
「賭け事?」
「うん、エラ嬢を落とすのは一体誰かってね。あ、これ本人に言ったらダメだよ? おもしろくなくなるからね」
人差し指を立てて神妙に言うカイに、リーゼロッテはあんぐりと口を開けた。
「ちなみにベッティはジークヴァルト様の従者君に、かなりの額をぶち込んだみたい。お金に煩いベッティにしてはめずらしいよね」
破産しないといいけど、とカイは楽しそうに付け加えた。リーゼロッテは何も言えないまま、しばらくカイの顔を呆れたように見つめていた。
書類に目を通していると、ふいに助けを求めるようなカークの思念が飛んできた。はっとなり、隣に座るリーゼロッテに視線を向けた。何も書かれていない白紙のページを見つめ、呆然とした様子で彼女は瞳から涙を溢れさせていた。
「ダーミッシュ嬢!」
何かに飲まれている意識を、引き戻すように強く言う。びくっと体を震わせて、彼女はその顔をこちらに向けた。
「――これは、オクタヴィアの日記なんだわ」
色を無くした唇が、小さく震えている。咄嗟に頬に落ちる涙を親指で拭い、その顔を胸に引き寄せた。背中に回された彼女の小さな手が、ぎゅっとシャツを掴んでくる。ざわつく感情を抑え込みながら、ジークヴァルトはリーゼロッテの髪をそっとやさしく梳いた。
「大丈夫だ、ここは安全だ」
「……はい、ヴァルト様」
平静を取り戻すように、リーゼロッテは小さく息をついた。次いでジークヴァルトを見上げてくる。
「それに何が書かれていたんだ?」
奥書庫にしまわれた書物が危険であるはずはない。そんな思い込みをしていた自分に、ジークヴァルトは苛立ちを覚えた。
「こちらの日記は、オクタヴィアが書いたもののようですわ」
「オクタヴィア? ジョンが仕えていたという令嬢か?」
「はい」
昨年の冬にあった泣き虫ジョンに関する出来事は、その後保留となり、春の雪解けまでは封印状態になっていた。調査を続行しようにも、ジョンのいる枯れ木は今、雪にうずもれている。
「リーゼロッテ様が視たというジョンの記憶を踏まえまして、わたしもあの後少々調べてみたのですが、オクタヴィアという方は、確かにフーゲンベルク家の家系図に存在されています。ちょうど今から九代ほど前の公爵夫人となられた方です」
「公爵夫人?」
「はい、龍の託宣により当時の王弟殿下をフーゲンベルク家の婿養子に迎え、おふたりは男児をひとりもうけたとの記録が残っております」
「え? ではオクタヴィアはあの時に亡くなったわけではないの?」
言われて見ればそうかもしれない。オクタヴィアは龍から託宣を受けた身だ。ジョンが龍の鉄槌を受け星に堕ちたというのなら、オクタヴィアの命はそれにより助かったのだ。
『龍から託宣を受けた者は、それを果たすまで死ぬことすら許されない。例え、死んだほうがましって目にあおうともね』
ふいにジークハルトの言葉が蘇る。オクタヴィアは託宣を果たすべく、カークを追って死ぬことはできなかったのだ。
(じゃあ、ジョンやカークの死は無駄だったってこと……?)
ぎゅっと胸が締め付けられた。先ほど流れ込んできたオクタヴィアの思いが蘇る。この事実を、オクタヴィアはどんな気持ちで受け止めたのだろうか。
「わたしが調べたところでは、男児が誕生した後、婿入りした王弟殿下はまもなく病死されています。その後オクタヴィア様は、当時のカーク子爵と再婚されたようですね」
「ええっ!?」
らしからぬ大きな声を上げて、リーゼロッテは椅子から立ちあがった。テーブルに両手をつき、前のめりにマテアスに問うてくる。
「オクタヴィアはカーク家へお嫁に行ったの!?」
「はい、記録ではそのように。カーク子爵家がフーゲンベルク家の傍系貴族になったのも、それがきっかけのようですし……」
マテアスの言葉にリーゼロッテは呆然とした様子だった。
「どういうことなの……? カークは冷たい雨に降られた後、亡くなったって……」
「カーク子爵家へ行けば、もっと子細な記録が残っているかもしれませんが」
困惑気味に答えるマテアスに、リーゼロッテは決意したように頷いた。次いでジークヴァルトの顔を仰ぎ見る。
「ヴァルト様、お願いでございます。わたくしを、カーク子爵家へ行かせてくださいませ」
必死の懇願に、ジークヴァルトの眉間のしわが一層深まった。
◇
「なんだか大所帯になってしまったわ……」
「リーゼロッテ嬢の立場を思えば、当然ともいえる処遇じゃない? まあ、グレーデン家の一件があるから、オレも信用されてないんだろうけど」
迎えられたカーク子爵家で、カイと共にソファに座った。その後ろにはユリウスとエマニュエルにエラ、そして不動のカークが並んで立っている。
「カイ様までお呼び立てして、本当に申し訳ありません」
「はは、大丈夫だよ。龍の託宣に関する事と星を堕とす者にまつわる事は、王城騎士としてのオレの管轄だから。そう言えば、フーゲンベルク家で託宣を受けた者の日記が見つかったんだって? 今度オレにも読ませてよ」
「日記はジークヴァルト様が管理なさっていますわ。……カイ様はまだ託宣の調査をされているのですか?」
王子の消えた託宣の相手はアンネマリーだった。それが見つかった今、調べることなどあるのだろうか。
「実は見つかってない託宣が他にもあるんだ。ハインリヒ様の件は一件落着になったけど、オレの仕事はまだまだ残ってるってわけ」
「そうだったのですね」
「だから、こうしてカーク子爵家の書庫を確認できるのは、オレ的にも願ったり叶ったりだよ」
そんな会話をしていると、慌てたようなヨハンがやってきた。
「お待たせして申し訳ありません。ただいま当主である父が不在でして、わたしがご挨拶に」
「いきなり押しかけて申し訳ありませんわ、ヨハン様」
「とんでもございません!! 我がカーク家にリーゼロッテ様に来ていただくなど、光栄の極みっ」
「お兄様、少しは落ち着いて」
手をわちゃわちゃさせながら言うヨハンの後ろから、使用人に手を引かれた少々ふくよかな令嬢が現れた。
「ブランシュ!」
「わたし、ブランシュって言います。いつも兄がお世話になってます」
ブランシュはぺこりと頭を下げた。そのしぐさは貴族令嬢というよりも、慣れない使用人といった感じだ。
「ブランシュは視力を失っていて……その、多少の粗相は見逃していただけたらと……」
すまなそうに言うヨハンに、リーゼロッテは微笑み返した。
「きちんとご挨拶いただけましたわ。こちらこそ、ヨハン様にはよくしていただいております」
リーゼロッテが淑女の礼を返すと、ブランシュは見えないはずの目を「きゃっ」とふくよかな両手で覆った。
「もしかしてあなたがリーゼロッテ様ですか? すごく綺麗な緑! 眩しすぎてよく見えないっ」
「こら、ブランシュ、リーゼロッテ様に失礼だぞ」
「だってお兄ちゃん」
「お兄ちゃんではないだろう? お兄様と呼びなさい」
「あは、またやっちゃった」
もちもちのほっぺたに手をやって、ブランシュはペロッと舌を出した。
「ブランシュ様は力を感じ取ることができるのですか?」
「はい! お兄様は青くって、リーゼロッテ様は輝く緑色! 隣の人は琥珀色だし、後ろにいるのは青、青、透明!」
「透明?」
「はい、だってその人は透き通ってて何も見えないから」
エラを指さして言うブランシュに、リーゼロッテは感心したように頷いた。
「無知なる者のエラは、透明に視えるのね」
「こら、人様を指さすのはやめなさい! エラ嬢、妹が失礼を働いて申し訳ない」
「問題ございません」
頭を下げるヨハンにエラは笑顔で首を振った。
「ヨハン殿、悪いけどオレあまり時間ないんだ。早いとこ書庫をのぞかせてもらえると助かるんだけど」
「あああっ、デルプフェルト様、申し訳ございませんっ! 今すぐご案内いたします!! エマ、悪いがブランシュの相手をしていてもらってもいいだろうか?」
「承知いたしました。さあ、ブランシュ様、参りましょう」
「やった! 今日は特別なお客様が来るからってお菓子も特別なの!」
「それは楽しみですわね」
エマニュエルに連れられて、ブランシュはうれしそうに去っていった。手探りをしながら歩く姿は、やはり目が見えていないのだと見て取れる。
「では、書庫へご案内します」
残りの一行はカーク子爵家の書庫へと移動した。
◇
「こちらの部屋です。あまり所蔵する書物は多くはないのですが、古い物はここで確認が取れるはずです」
フーゲンベルク家よりも手狭な小部屋だった。壁際に並ぶガラス戸付きの本棚に、小さめのテーブルがある。窓のそばに飾りのチェストが置かれ、その窓は厚いカーテンで閉め切られていた。部屋の中はほこりっぽく、籠った空気が支配している。
「急なことで掃除が行き届かず申し訳ありません。ここへは滅多に足を踏み入れないもので」
「とりあえず、家系図を見てみたいかな」
カイの言葉にヨハンは一枚の大判な羊皮紙を取り出した。それをテーブルの上で広げてみせる。
「これが我が家の家系図です」
カイがのぞき込みながら、その上に指を彷徨わせていく。
「あった、これだ。オクタヴィア・カーク。これがリーゼロッテ嬢が言ってた『ジョンのお嬢様』ってことかな?」
「はい、恐らく……」
リーゼロッテも家系図を同様に覗き込んだ。オクタヴィアの伴侶は第五代目のカーク子爵レオンとなっており、オクタヴィアはレオンとの間に五人の子供をもうけたようだ。その下にさらに家系図が広がっている。
(オクタヴィアは本当に、恋人のレオン・カークと結ばれたのね)
壁際にいるカークを見やる。不動のカークはレオン・カークが残した思念の残像のような物だ。本人がしあわせな人生を歩んでその生涯を閉じたとしても、その思いだけがあの場に焼き付いて残ったということだ。
「うーん、これだけじゃ、何も判断できないなぁ。他のも見させてもらおうかな?」
「はい、どうぞご自由に。ここでご覧いただく分には、どれでも見ていただければと思います」
「そうさせてもらうよ。リーゼロッテ嬢も手伝ってくれる?」
「はい、もちろんですわ」
本棚に向かうふたりを黙って見つめていたエラに、ヨハンが遠慮がちに声をかけた。
「エラ嬢、もしよかったら君に見せたいものがあるんだが……」
「わたしにですか?」
もじもじと大きな手指を付き合わせるヨハンに、エラは不思議そうに首を傾けた。
「ああ、別の部屋に置いてあるものをぜひ見せたくて」
「ですが……」
エラは困ったようにリーゼロッテの背に視線をやった。リーゼロッテのそばを離れるのはためらわれる。
「ここにはオレもいる。エラ嬢は少し息抜きしてきたらどうだ?」
隣に立っていたユリウスがにかっと笑った。
「エラ、わたくしなら大丈夫よ。何かあったらすぐに呼ぶから」
「ではお言葉に甘えまして、少しヨハン様と行ってまいります」
「おう、ふたりでゆっくりな」
今度はヨハンに向けてユリウスはにかっと笑った。次いで親指を立ててサムズアップする。
「オレはお前に賭けてるんだ。頑張れよ!」
「はぁ」
何のことを言われたのかわからなかったヨハンは、中途半端な返事をしてからエラを連れて書庫を出ていった。
「ユリウス様はヨハン殿に賭けているんですか? 無謀だなー。オレだったらグレーデン殿辺りにしますけど」
「大穴狙いの方が人生楽しいだろう?」
「はは、ユリウス様らしいですね」
「一体何のお話ですか?」
リーゼロッテが不思議そうに問うと、カイは朗らかな笑顔を向けてきた。
「リーゼロッテ嬢は知らないんだ? 今、フーゲンベルク家で大流行りの賭け事だよ」
「賭け事?」
「うん、エラ嬢を落とすのは一体誰かってね。あ、これ本人に言ったらダメだよ? おもしろくなくなるからね」
人差し指を立てて神妙に言うカイに、リーゼロッテはあんぐりと口を開けた。
「ちなみにベッティはジークヴァルト様の従者君に、かなりの額をぶち込んだみたい。お金に煩いベッティにしてはめずらしいよね」
破産しないといいけど、とカイは楽しそうに付け加えた。リーゼロッテは何も言えないまま、しばらくカイの顔を呆れたように見つめていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
247
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる