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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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◇
闇雲に走り続けたツェツィーリアは、人気のない廊下でようやくその足を止めた。しばらく肩で息をしてから、辺りを見回してみる。
この屋敷は迷路のようになっているので、決して付添人から離れないようにとジークヴァルトからいつも言われていた。周囲に人の気配はない。感じるのは禍々しい異形の者の気配だけだ。
レルナー公爵家で龍から託宣を受けた者は、もうここ数代出ていない。ユリウスの様に異形を祓う浄化の力を有する者はいたが、その数もごくわずかだった。
ツェツィーリア自身、異形の姿を視ることはできても、それを祓う力は持ちあわせてはいなかった。ただ、異形の気配には人一倍敏感で、どこにどれだけ異形の者がいるのか、ある程度離れた距離でも感じ取ることはできた。
「どこなのよ、ここは……」
つぶやきは肌寒い廊下に吸い込まれて消えていく。
「気に入らないわ」
強気になって言ってみるものの、答える者は誰もおらず、ツェツィーリアはぎゅっと瞳を閉じて周囲の気配に意識を傾けた。
ここからずっと遠い場所に、ジークヴァルトとリーゼロッテの力が感じ取れる。それを目指していけばみなのいる場所には戻れるはずだ。しかし、行く方向に強い異形の気配がする。禍々しいそれは、ツェツィーリアが今までに遭遇したこともないような物だった。
足がすくんで先に進めない。そこを通らなければリーゼロッテたちの元には戻れないと分かっていはいるが、先に待つ異形の悪意に気押されて、ツェツィーリアはその場で立ち尽くしていた。
「どうかなさいましたか?」
突然背後から声をかけられて、ツェツィーリアは飛び上がらんばかりに驚いた。
「申し訳ございません、驚かせてしまったようですね」
その声に恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、亜麻色の髪に水色の瞳をした少年だった。ツェツィーリアよりもいくつか年上に見える少年は、天使の様に愛らしい顔をしている。
少年はツェツィーリアの顔を見ると、一瞬だけ驚いた顔をして、すぐさまその場で跪いた。
「美しい人、どうかあなたの名を、わたしにお聞かせ願えませんか?」
「……ツェツィーリアよ。わたくしはツェツィーリア・レルナー」
懇願するように問われ、ツェツィーリアは思わず答えを返してしまった。初対面の人間にたやすく名乗るなど、公爵家の人間ともなると誘拐の危険だってあり得るのだ。しかし、ツェツィーリアは目の前の少年にただ見とれてしまっていた。
「レルナー公爵家のご令嬢ですね。わたしの名を名乗る許可をいただいてもよろしいですか?」
「え、ええ、いいわ。名乗ることを許します」
ツェツィーリアの返答に、少年は惜しげもなく天使の笑みを返してきた。
「わたしの名はルカ。ダーミッシュ伯爵家の長男でございます」
「ルカ・ダーミッシュ? ではあなたはリーゼロッテお姉様の弟なの?」
「はい、姉がいつもお世話になっております」
ルカはまるで騎士の様に、ツェツィーリアに向けて礼を取った。
「いいからもう立ちなさい」
「ではお言葉に甘えまして」
ルカは立ち上がると、すぐさまツェツィーリアの手を取った。
「何かご不安なことでもありましたか?」
すぐ近くで水色の瞳に覗き込まれて、ツェツィーリアは赤くなった顔を誤魔化すように大きな声で答えた。
「べ、別に何もないわ。そんなこと、このわたくしにあるわけないでしょう?」
「わたしの気のせいならいいのです」
「え?」
「いえ、レルナー公爵令嬢様のそのお美しいお顔が、かなしみに沈んでいらしたように見えたので」
「な、な、な……」
顔を赤くして口をパクパクしているツェツィーリアを前に、「ななな?」とルカは不思議そうに首を傾けた。その仕草はどことなくリーゼロッテに似ている。
「ツェツィーよ。親しい者はそう呼ぶわ。わたしもルカと呼ぶからそれでいいでしょう?」
「光栄です、ツェツィー様」
天使の笑みを向けてくるルカに、ツェツィーリアはぶっきら棒に問うた。
「ルカはどうしてこんなところにいるのよ?」
「今日、姉の茶会が開かれると聞いて、内緒で参加しようと公爵家にお邪魔いたしました。もちろん義兄上の許可はいただいております」
「それがどうしてこんなところを歩いていたの?」
「このお屋敷を探検しておりましたところ、たまたまここを通りがかりまして」
「……要するに迷ったのね?」
ツェツィーリアが胡乱気に問うと、ルカは朗らかな笑顔を返した。
「はは、お恥ずかしい話です。ですが、おかげでこんなにもお美しい人に出会うことができました」
真剣に見つめられて、ツェツィーリアは動揺のあまり、ルカから距離を取ろうとした。転びそうになった所を、ルカに抱き留められる。
「お怪我はありませんか? わたしの美しい人」
「わ、わたくしはあなたの物ではないわ」
強い語調で言うと、ルカは真剣な瞳のまま、ツェツィーリアの前で跪いた。
「わたしはまだ未熟な身。もっと貴族として、男として、認められる立場になったら、あなたに求婚することを許してもらえますか?」
「きゅ、求婚!?」
ルカは真剣な眼差しで頷いた。
「む、無理よ、そんなこと。わたくしの結婚相手はお義父様が決めるのだもの。貴族として、それは当たり前の事でしょう」
ルカにというより、ツェツィーリアは自分に言い聞かせるように言った。本当は分かっていた。いつまでもジークヴァルトの迷惑になり続けることなど、できはしないのだから。
「ツェツィー様にはすでにご婚約者がいらっしゃるのですか?」
「いえ、まだいないけど、でもそのうち決まってしまうわ」
「分かりました。では、もし正式にお相手がお決まりになりましたら、わたしにその方の名を教えていただけますか?」
「教えてどうするのよ?」
「ツェツィー様に相応しい相手か確かめるために、決闘を申し込みます」
「け、け、け、決闘!?」
大真面目に頷くルカにツェツィーリアはぽかんと口を開けた。
「あなた馬鹿じゃないの? 決闘は国で禁止されているのよ? なんでそこまでする必要があるのよ!」
早口にまくしたてると、ルカは少しだけ悲しそうな顔をした。
「わたしは、ツェツィー様を誰にもとられたくありません」
跪いたまま、懇願するようにツェツィーリアの手を取った。
「わたしは伯爵家を継ぐ身。公爵家のご令嬢であるツェツィー様は、わたしにとっては身分違いの恋です。ですが、立派な人間となって、必ずあなたを幸せにすると誓います」
「わた、わたくしに言われてもどうしようもできないわ。そんなに言うならお義父様に言ってちょうだい」
「分かりました。必ずや、レルナー公爵様を説得して見せます」
ルカはツェツィーリアのスカートの裾を持ち上げて、その先にそっと口づけた。これは姫君に対して生涯の忠誠の誓いを立てる騎士の儀式のようなものだった。
「ななな……」
「ななな?」
「何なのよ、あなた!」
絶叫のような声が廊下へと木霊していく。
「わたしはルカ・ダーミッシュ。あなたの美しさに心を奪われた男です」
天使のような笑顔のまま言われ、ツェツィーリアは本気で卒倒しそうになった。
◇
「まだツェツィーリア様は見つからないの?」
お茶会がお開きになり、ヤスミンとクラーラを見送ったその後も、ツェツィーリアの行方はわからないままだった。
「ただ今屋敷中の者が手を尽くしてお探ししているそうです」
エラが不安げに答えると、ジークヴァルトが足早にやってきた。
「ヴァルト様、申し訳ございません。わたくしがついていながら……」
「いい、お前に落ち度はない」
そっけなく言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの手を引いた。
「こっちだ」
そのまま廊下へと歩き出す。訳も分からずエスコートされて、そのまま廊下を進んだ。人気もなく、あまり行ったことがないような方向だ。
「こちらにツェツィーリア様がいらっしゃるのですか?」
「ああ、気配がする」
そう言った矢先に、廊下の向こうから人影が見えてきた。あの姿は確かにツェツィーリアだ。安堵の息を漏らすも、その横には、ツェツィーリアよりも少し背の高い少年が歩いている。その見慣れない少年は、やさしくエスコートするようにツェツィーリアの手を引いていた。
「ルカ!?」
近づくにつれ、その少年の姿がはっきりしてくる。リーゼロッテは驚いて、ジークヴァルトの手を離れて思わずふたりに駆け寄った。
「ツェツィーリア様」
その体をぎゅっと抱きしめる。驚いた様子のツェツィーリアだったが、その腕を振り解こうとはしなかった。
「お怪我などはございませんか?」
「問題ないわ。屋敷の中をちょっと散歩してきただけよ」
ツェツィーリアは不機嫌そうにつんと顔をそらした。
「……でも、心配してくれてありがとう」
付け足された消え入りそうな小さな声に、リーゼロッテは心からの笑顔を返した。
「ご無事で何よりですわ」
そう言って再びぎゅっと抱きしめる。ツェツィーリアも戸惑いながらも、小さく抱きしめ返してきた。
「義姉上、ご無沙汰しております」
「ルカはどうしてここに……?」
「義姉上を驚かせようと黙ってお邪魔させていただきました。このまましばらく公爵家に滞在させていただく予定です」
「え?」
思わずジークヴァルトを見上げると、ジークヴァルトは黙って頷き返してきた。
「ジークヴァルト様、わたくしに引き続きルカまでお世話になるなんて……。父に代わってお礼を申し上げます」
「いい。好きなだけいればいい」
そう言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの髪を梳いた。
「義兄上と義姉上は相変わらず仲がよろしいようで安心しました」
ルカに天使の笑顔を向けられて、リーゼロッテの胸はちくりと痛んだ。しかし、先ほどのツェツィーリアの態度を見た後では、自分がどれほど贅沢なことを言っているのかと思ってしまう。
「義兄上、ひとつお願いがあるのですが。未来の義弟の願いだと思って、聞き届けてくださいますか?」
「ああ、何だ?」
真摯に見上げてくるルカに、ジークヴァルトは静かに視線を落とした。
「わたしはツェツィーリア様に先ほど求婚いたしました。身分をわきまえない愚かな思いかもしれません。ですが、わたしは本気でツェツィーリア様を幸せにしたいのです。悔しいことに、今のわたしは何の力もない子供です。どうか今しばらくは、義兄上のお力を貸していただきたいのです」
「まあ!」
リーゼロッテが驚いたように声を上げた横で、ツェツィーリアが真っ赤になって口をパクパクとしている。
「ああ、承知した。オレにできることなら力を尽くそう」
「ありがとうございます、義兄上!」
「ちょっと、ルカ、あなたにはプライドっていうものがないの!?」
動揺したように声を荒げるツェツィーリアに、ルカはきりっとした顔を返した。
「将を射んとする者はまず馬を射よ、です。欲しいものを手に入れるためなら、人の道に反しない限りは、やれるだけのことをするのは当然のことでしょう?」
そのゆるぎない返事に、ツェツィーリアはくらりと眩暈を覚えた。
「あなた、会ったばかりのわたくしに、なに馬鹿な事言っているのよ!!」
「一目ぼれなんです。必ず一生大切にします」
「まあ!」
ふたたびきりっとした顔で言われ、ツェツィーリアは今度こそ卒倒して、リーゼロッテの腕へと倒れ込んだ。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。公爵家にルカも加わって、なんだか賑やかな毎日に。イザベラ様に言われた言葉が胸に刺さりつつ、今自分にできることに専念しようとするわたしです。公爵家の書庫でお勉強をしていた時に、ある日記が見つかって……?
次回3章第5話「愛の賛歌」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
闇雲に走り続けたツェツィーリアは、人気のない廊下でようやくその足を止めた。しばらく肩で息をしてから、辺りを見回してみる。
この屋敷は迷路のようになっているので、決して付添人から離れないようにとジークヴァルトからいつも言われていた。周囲に人の気配はない。感じるのは禍々しい異形の者の気配だけだ。
レルナー公爵家で龍から託宣を受けた者は、もうここ数代出ていない。ユリウスの様に異形を祓う浄化の力を有する者はいたが、その数もごくわずかだった。
ツェツィーリア自身、異形の姿を視ることはできても、それを祓う力は持ちあわせてはいなかった。ただ、異形の気配には人一倍敏感で、どこにどれだけ異形の者がいるのか、ある程度離れた距離でも感じ取ることはできた。
「どこなのよ、ここは……」
つぶやきは肌寒い廊下に吸い込まれて消えていく。
「気に入らないわ」
強気になって言ってみるものの、答える者は誰もおらず、ツェツィーリアはぎゅっと瞳を閉じて周囲の気配に意識を傾けた。
ここからずっと遠い場所に、ジークヴァルトとリーゼロッテの力が感じ取れる。それを目指していけばみなのいる場所には戻れるはずだ。しかし、行く方向に強い異形の気配がする。禍々しいそれは、ツェツィーリアが今までに遭遇したこともないような物だった。
足がすくんで先に進めない。そこを通らなければリーゼロッテたちの元には戻れないと分かっていはいるが、先に待つ異形の悪意に気押されて、ツェツィーリアはその場で立ち尽くしていた。
「どうかなさいましたか?」
突然背後から声をかけられて、ツェツィーリアは飛び上がらんばかりに驚いた。
「申し訳ございません、驚かせてしまったようですね」
その声に恐る恐る振り返ると、そこにいたのは、亜麻色の髪に水色の瞳をした少年だった。ツェツィーリアよりもいくつか年上に見える少年は、天使の様に愛らしい顔をしている。
少年はツェツィーリアの顔を見ると、一瞬だけ驚いた顔をして、すぐさまその場で跪いた。
「美しい人、どうかあなたの名を、わたしにお聞かせ願えませんか?」
「……ツェツィーリアよ。わたくしはツェツィーリア・レルナー」
懇願するように問われ、ツェツィーリアは思わず答えを返してしまった。初対面の人間にたやすく名乗るなど、公爵家の人間ともなると誘拐の危険だってあり得るのだ。しかし、ツェツィーリアは目の前の少年にただ見とれてしまっていた。
「レルナー公爵家のご令嬢ですね。わたしの名を名乗る許可をいただいてもよろしいですか?」
「え、ええ、いいわ。名乗ることを許します」
ツェツィーリアの返答に、少年は惜しげもなく天使の笑みを返してきた。
「わたしの名はルカ。ダーミッシュ伯爵家の長男でございます」
「ルカ・ダーミッシュ? ではあなたはリーゼロッテお姉様の弟なの?」
「はい、姉がいつもお世話になっております」
ルカはまるで騎士の様に、ツェツィーリアに向けて礼を取った。
「いいからもう立ちなさい」
「ではお言葉に甘えまして」
ルカは立ち上がると、すぐさまツェツィーリアの手を取った。
「何かご不安なことでもありましたか?」
すぐ近くで水色の瞳に覗き込まれて、ツェツィーリアは赤くなった顔を誤魔化すように大きな声で答えた。
「べ、別に何もないわ。そんなこと、このわたくしにあるわけないでしょう?」
「わたしの気のせいならいいのです」
「え?」
「いえ、レルナー公爵令嬢様のそのお美しいお顔が、かなしみに沈んでいらしたように見えたので」
「な、な、な……」
顔を赤くして口をパクパクしているツェツィーリアを前に、「ななな?」とルカは不思議そうに首を傾けた。その仕草はどことなくリーゼロッテに似ている。
「ツェツィーよ。親しい者はそう呼ぶわ。わたしもルカと呼ぶからそれでいいでしょう?」
「光栄です、ツェツィー様」
天使の笑みを向けてくるルカに、ツェツィーリアはぶっきら棒に問うた。
「ルカはどうしてこんなところにいるのよ?」
「今日、姉の茶会が開かれると聞いて、内緒で参加しようと公爵家にお邪魔いたしました。もちろん義兄上の許可はいただいております」
「それがどうしてこんなところを歩いていたの?」
「このお屋敷を探検しておりましたところ、たまたまここを通りがかりまして」
「……要するに迷ったのね?」
ツェツィーリアが胡乱気に問うと、ルカは朗らかな笑顔を返した。
「はは、お恥ずかしい話です。ですが、おかげでこんなにもお美しい人に出会うことができました」
真剣に見つめられて、ツェツィーリアは動揺のあまり、ルカから距離を取ろうとした。転びそうになった所を、ルカに抱き留められる。
「お怪我はありませんか? わたしの美しい人」
「わ、わたくしはあなたの物ではないわ」
強い語調で言うと、ルカは真剣な瞳のまま、ツェツィーリアの前で跪いた。
「わたしはまだ未熟な身。もっと貴族として、男として、認められる立場になったら、あなたに求婚することを許してもらえますか?」
「きゅ、求婚!?」
ルカは真剣な眼差しで頷いた。
「む、無理よ、そんなこと。わたくしの結婚相手はお義父様が決めるのだもの。貴族として、それは当たり前の事でしょう」
ルカにというより、ツェツィーリアは自分に言い聞かせるように言った。本当は分かっていた。いつまでもジークヴァルトの迷惑になり続けることなど、できはしないのだから。
「ツェツィー様にはすでにご婚約者がいらっしゃるのですか?」
「いえ、まだいないけど、でもそのうち決まってしまうわ」
「分かりました。では、もし正式にお相手がお決まりになりましたら、わたしにその方の名を教えていただけますか?」
「教えてどうするのよ?」
「ツェツィー様に相応しい相手か確かめるために、決闘を申し込みます」
「け、け、け、決闘!?」
大真面目に頷くルカにツェツィーリアはぽかんと口を開けた。
「あなた馬鹿じゃないの? 決闘は国で禁止されているのよ? なんでそこまでする必要があるのよ!」
早口にまくしたてると、ルカは少しだけ悲しそうな顔をした。
「わたしは、ツェツィー様を誰にもとられたくありません」
跪いたまま、懇願するようにツェツィーリアの手を取った。
「わたしは伯爵家を継ぐ身。公爵家のご令嬢であるツェツィー様は、わたしにとっては身分違いの恋です。ですが、立派な人間となって、必ずあなたを幸せにすると誓います」
「わた、わたくしに言われてもどうしようもできないわ。そんなに言うならお義父様に言ってちょうだい」
「分かりました。必ずや、レルナー公爵様を説得して見せます」
ルカはツェツィーリアのスカートの裾を持ち上げて、その先にそっと口づけた。これは姫君に対して生涯の忠誠の誓いを立てる騎士の儀式のようなものだった。
「ななな……」
「ななな?」
「何なのよ、あなた!」
絶叫のような声が廊下へと木霊していく。
「わたしはルカ・ダーミッシュ。あなたの美しさに心を奪われた男です」
天使のような笑顔のまま言われ、ツェツィーリアは本気で卒倒しそうになった。
◇
「まだツェツィーリア様は見つからないの?」
お茶会がお開きになり、ヤスミンとクラーラを見送ったその後も、ツェツィーリアの行方はわからないままだった。
「ただ今屋敷中の者が手を尽くしてお探ししているそうです」
エラが不安げに答えると、ジークヴァルトが足早にやってきた。
「ヴァルト様、申し訳ございません。わたくしがついていながら……」
「いい、お前に落ち度はない」
そっけなく言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの手を引いた。
「こっちだ」
そのまま廊下へと歩き出す。訳も分からずエスコートされて、そのまま廊下を進んだ。人気もなく、あまり行ったことがないような方向だ。
「こちらにツェツィーリア様がいらっしゃるのですか?」
「ああ、気配がする」
そう言った矢先に、廊下の向こうから人影が見えてきた。あの姿は確かにツェツィーリアだ。安堵の息を漏らすも、その横には、ツェツィーリアよりも少し背の高い少年が歩いている。その見慣れない少年は、やさしくエスコートするようにツェツィーリアの手を引いていた。
「ルカ!?」
近づくにつれ、その少年の姿がはっきりしてくる。リーゼロッテは驚いて、ジークヴァルトの手を離れて思わずふたりに駆け寄った。
「ツェツィーリア様」
その体をぎゅっと抱きしめる。驚いた様子のツェツィーリアだったが、その腕を振り解こうとはしなかった。
「お怪我などはございませんか?」
「問題ないわ。屋敷の中をちょっと散歩してきただけよ」
ツェツィーリアは不機嫌そうにつんと顔をそらした。
「……でも、心配してくれてありがとう」
付け足された消え入りそうな小さな声に、リーゼロッテは心からの笑顔を返した。
「ご無事で何よりですわ」
そう言って再びぎゅっと抱きしめる。ツェツィーリアも戸惑いながらも、小さく抱きしめ返してきた。
「義姉上、ご無沙汰しております」
「ルカはどうしてここに……?」
「義姉上を驚かせようと黙ってお邪魔させていただきました。このまましばらく公爵家に滞在させていただく予定です」
「え?」
思わずジークヴァルトを見上げると、ジークヴァルトは黙って頷き返してきた。
「ジークヴァルト様、わたくしに引き続きルカまでお世話になるなんて……。父に代わってお礼を申し上げます」
「いい。好きなだけいればいい」
そう言って、ジークヴァルトはリーゼロッテの髪を梳いた。
「義兄上と義姉上は相変わらず仲がよろしいようで安心しました」
ルカに天使の笑顔を向けられて、リーゼロッテの胸はちくりと痛んだ。しかし、先ほどのツェツィーリアの態度を見た後では、自分がどれほど贅沢なことを言っているのかと思ってしまう。
「義兄上、ひとつお願いがあるのですが。未来の義弟の願いだと思って、聞き届けてくださいますか?」
「ああ、何だ?」
真摯に見上げてくるルカに、ジークヴァルトは静かに視線を落とした。
「わたしはツェツィーリア様に先ほど求婚いたしました。身分をわきまえない愚かな思いかもしれません。ですが、わたしは本気でツェツィーリア様を幸せにしたいのです。悔しいことに、今のわたしは何の力もない子供です。どうか今しばらくは、義兄上のお力を貸していただきたいのです」
「まあ!」
リーゼロッテが驚いたように声を上げた横で、ツェツィーリアが真っ赤になって口をパクパクとしている。
「ああ、承知した。オレにできることなら力を尽くそう」
「ありがとうございます、義兄上!」
「ちょっと、ルカ、あなたにはプライドっていうものがないの!?」
動揺したように声を荒げるツェツィーリアに、ルカはきりっとした顔を返した。
「将を射んとする者はまず馬を射よ、です。欲しいものを手に入れるためなら、人の道に反しない限りは、やれるだけのことをするのは当然のことでしょう?」
そのゆるぎない返事に、ツェツィーリアはくらりと眩暈を覚えた。
「あなた、会ったばかりのわたくしに、なに馬鹿な事言っているのよ!!」
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「まあ!」
ふたたびきりっとした顔で言われ、ツェツィーリアは今度こそ卒倒して、リーゼロッテの腕へと倒れ込んだ。
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