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第3章 寡黙な公爵と託宣の涙
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そんな中、若い女官がイザベラへとティーカップを運んできた。目の前でびよんと跳ねた縦ロールに驚いたのか、その女官は置いたカップを指に引っ掛け紅茶をこぼしてしまった。
「ちょっと、何するのよ! わたくしが火傷でもしたらどうしてくれるの!」
「申し訳ございませんっ」
青い顔のまま震える若い女官をフォローするように、すぐさまほかの女官たちが集まって来る。手際よくこぼれた紅茶を拭き、円卓の上を整えた。
「お父様に言って不敬罪にでもしてもらおうかしら」
若い女官を睨みながら言うイザベラには、一滴も紅茶はかかっていない。むしろ跳ねた液が、リーゼロッテへと飛んできていた。
「ダーミッシュ伯爵令嬢様、誠に申し訳ございません」
震えながら膝をついて頭を垂れる女官に向けて、リーゼロッテは静かに微笑んだ。
「少し跳ねただけよ。わたくしは何も問題ないわ。むしろあなたこそ熱かったのではない? きちんとお医者様にみてもらってね?」
「いえ、わたしのことなど……。お召し物を汚してしまってなんとお詫びを申し上げたらいいのか……!」
ドレスを見やると、確かに紅茶の飛沫のあとが何滴かついていた。しかし、言われて見なければ分からないような些細なものだ。半ばパニックを起こしている女官の手を取り、リーゼロッテはやさしく微笑んだ。
「このくらい問題はないわ。それにフーゲンベルク家には腕のいいシミ取り名人がいるの。だから安心してちょうだい」
泣きそうな瞳で見上げる女官に、もう一度安心させるように微笑んだ。
「せっかくご招待いただいた王太子妃殿下のお茶会だもの。大事にはしたくないわ。わたくし、処罰などは望みません。そのように計らってくれないかしら」
そばにいた年配の女官にそう声をかける。女官は「仰せのままに」と恭しく頭を下げた。
「何よ、いい子ぶっちゃって」
憎々し気な声が割り込んできた。
「さりげなくフーゲンベルク家の名を出したりして、自分は公爵様の婚約者だとひけらかしたいのかしら。なんてあざとい女なの」
イザベラのその発言に、周囲にいた者たちが凍り付いた。ヤスミンだけが観察するような目つきで、イザベラとリーゼロッテを見やっている。
面食らったリーゼロッテは二の句を告げられないでいた。そんなつもりは毛頭なかったが、貴族社会ではこんな上げ足取りは日常茶飯事の事なのか。隣で気色ばむエラを目配せで制して、リーゼロッテはどうしたものかと思案に暮れた。
(まるで女子更衣室のマウンティングだわ)
こういったやり取りは日本でも苦手だった。いかに穏便に済ませるか。言葉を探すも良さげな言い回しは一向に思いつかない。
ふと脳裏にアデライーデの顔が浮かんだ。
(そうだわ。こういった時はただ微笑んでいればいいってお姉様に言われたっけ)
アデライーデの助言の通りに、リーゼロッテは曖昧な笑みをイザベラへと向けた。少し小首をかしげて、何を言われたのか分からないといった表情を作ってみせる。
「まあ! 言われている言葉の意味も理解できないのね! なんて頭が足りないのかしら? これで公爵夫人に収まろうと言うのだから、本当に厚かましい女だわ」
同意を受けて当然とばかりにイザベラはどや顔で周囲を見回した。しかし場の雰囲気は、完全にリーゼロッテに軍配が上がっている。
「あら? 王太子妃殿下がお越しね」
緊張感のない声で言うと、ヤスミンは静かに立ち上がった。リーゼロッテもそれに倣い、こちらにやって来るアンネマリーへと礼を取った。ほかの円卓にいた令嬢たちも、同じように礼を取る。
「みな、よく来てくれました。今日招いたのはデビュー間もない者だけよ。そう緊張しないで交友を深めてちょうだい」
ここに集まるのは未婚の令嬢たちだ。デビューからせいぜい三年くらいの者を中心に招待されていた。アンネマリーは長い間、隣国で過ごしてきた。今まで希薄だった貴族とのつながりを築いていくのも、王太子妃としての大事な役目だ。
急な婚儀に不満を持つ貴族も少なくない。ここにいるのは社交経験の少ない令嬢たちばかりだったが、家の立場からアンネマリーを敵対視している者もこの場には存在した。おもねる態度を取りながらも、なんとか弱みを握れないものかとあら捜しをしているのだ。
「王太子妃殿下、本日はお招きありがとうございます」
円卓を囲んで、多くの令嬢が挨拶に来る。そのたびにアンネマリーは堂々とした態度で対応をした。同じ円卓に座るのは、リーゼロッテも含め爵位の高い令嬢だ。エラは既知ということもあり、特別扱いと言えた。
権力争いとは無縁の下位の令嬢たちは形ばかりの挨拶を終えると、別の円卓で盛り上がり始めたようだ。子供の頃からの顔見知りなどもいるようで、それぞれが楽しそうに茶菓子をつまんでいる。
そんな中、リーゼロッテはおとなしくアンネマリーの横に座っていた。イザベラの冷たい視線を感じながらも、王太子妃の立場が板についてきたアンネマリーの振る舞いをただ眩しそうに見つめていた。
あの日アンネマリーも招待客のひとりだった。その彼女が王太子妃として王妃の離宮で茶会を開くまでになったのだ。この辺りに置かれた壇上にいた王子は、遥か彼方の人だった。
(あの場でアンネマリーは、やたらと王子殿下を毛嫌いしていたっけ)
そんなふたりは今では夫婦となった。神殿で行われたふたりの婚儀はおとぎ話のように美しく、リーゼロッテは式の間ずっと感動の涙を流し続けた。
「さあ、貴女方も楽しんでちょうだい」
挨拶がひと段落ついたアンネマリーが円卓に声をかける。優雅にほほ笑む姿は、自信に満ちていて近寄りがたく思えるくらいだ。
(アンネマリーは本当に王太子妃になったのね)
なんだか手の届かない存在になったようで一抹のさびしさを感じていると、臆した様子もなくヤスミンが口を開いた。
「おふたりの婚姻の儀は本当にすばらしかったですわ」
「ありがとう、ヤスミン」
「リーゼロッテ様は式の間、ずっと泣いてらしたわね」
そうヤスミンに水を向けられ、リーゼロッテは思わず頬を朱に染めた。子供のようだと自分でも思うが、アンネマリーのしあわせそうなあの場面を思い返せば、今でも号泣できる自信はある。
「お恥ずかしい話ですが、わたくし本当に感動してしまって。王太子妃殿下、改めてお慶び申し上げます」
はにかんだ笑顔を向けると、アンネマリーの口元も小さくほころんだ。
「今日は格式ばった席ではないし、名で呼んでいいわ」
「はい、アンネマリー様」
さすがに呼び捨てはできなかったが、王族の一員となっても変わらずいてくれる。そんなアンネマリーのことが、リーゼロッテはますます大好きになった。
そのやり取りをおもしろくなさそうに見ていたイザベラが、何かを言いかけたリーゼロッテを制するように言葉を割り込ませてきた。
「アンネマリー様はずっと隣国で過ごされていたのですわよね。我が国のしきたりなど、お分かりにならないことも多いでしょうから、このわたくしがきちんと教えて差し上げますわ」
「……それは心強いわ、ブラル伯爵令嬢」
口元に笑みを貼りつかせたまま、アンネマリーは水色の瞳を細めた。爆弾令嬢の言動を、周囲にいる女官たちがハラハラとした様子で見守っている。
「あら、他人行儀に呼ばないでくださいな。アンネマリー様とわたくしの仲ではありませんか。イザベラと呼んでくださって結構ですわ」
どんな仲だよ。その場にいた者の胸中はおおむねそんなところだ。しかし、アンネマリーは態度を崩すことなく、イザベラに優雅にほほ笑み返した。
「王太子殿下のおなりでございます」
女官の声掛けと共に、和やかな雰囲気だったお茶会の席が一気に緊張感に包まれた。令嬢たちが一斉に立ち上がり、入ってきたハインリヒに対して礼を取る。
リーゼロッテたちも同様に礼を取ったまま、頭を下げた姿勢をキープする。アンネマリーは立ち上がってハインリヒを笑顔で迎え入れた。
「アンネマリー」
「ハインリヒ」
ふたりは互いに愛おしそうに見つめ合い、みなの前でやわらかくハグをした。そのままハインリヒは、アンネマリーの頬に口づけを落とす。遠くで礼を取っていた令嬢たちから、悲鳴のような歓声が上がった。
「楽しんでいるところ邪魔をして悪かったね。少し時間ができたからアンネマリーの顔が見たくなってしまって」
「わたくしもハインリヒの顔が見られてうれしいわ」
アンネマリーは王子の名を呼び捨てにできる関係になったのだ。ふたりのやり取りを間近で目にしたリーゼロッテは、感慨深く思ってきゅっと唇を噛み締めた。気を緩めると、涙腺が崩壊してしまいそうだ。
「リーゼロッテ嬢、顔を上げて」
ハインリヒにそう言われ、リーゼロッテは礼の姿勢を崩した。ヤスミンやイザベラを含めて、他の令嬢たちはみな礼を取ったままだ。
「君の様子が気になって仕方なさそうだったから、ジークヴァルトも一緒に連れてきたよ」
見るとハインリヒの後ろに騎士服姿のジークヴァルトが立っていた。じっとこちらの顔を見つめている。
(そんなに心配しなくても大丈夫なのに……)
庭の途中に弱い異形はいたが、ここは王妃の離宮の一角だ。そうそう大事が起こることはないだろう。そう思うも、リーゼロッテは黙ってジークヴァルトの青い瞳に笑みを返した。
「ああ、もう行かなくてはな」
懐から出した懐中時計をみやって、ハインリヒは残念そうに言った。もう一度アンネマリーを抱きしめて、今度はその唇に小さくキスを落とした。
「愛してるよ、アンネマリー」
大切な宝物を扱うようにその頬に指を滑らせる。その様子をばっちり見ていたリーゼロッテは、思わず赤面してしまった。
名残惜しそうにハインリヒは出口へと向かっていく。去り際にジークヴァルトがリーゼロッテの髪に手を伸ばしてきた。
「あとでまた迎えに来る」
横に流した前髪を指先で軽く整えると、ジークヴァルトは王子の背を追って出ていった。
「フーゲンベルク公爵は相変わらずみたいね」
アンネマリーにおもしろそうに言われ、リーゼロッテは羞恥からますますその頬を染めた。
「みな、顔を上げてちょうだい」
礼を取ったままでいる者たちにアンネマリーが声をかける。緊張を解かれた令嬢たちの息をつく声があちこちから漏れて出た。孤高の王太子と謳われていたハインリヒ王子の寵愛ぶりに、アンネマリーの王太子妃としての立場は盤石となったようだ。
和やかな雰囲気で茶会が再開される中、椅子に座るや否やヤスミンがリーゼロッテの顔を見ながらくすくすと笑いだした。
「本当、あの公爵様の変貌ぶりには驚きですわね」
「そんな……王太子殿下のご様子の方が驚きではないかしら……?」
王子がこんな人前で惜しげなく笑顔を見せるなど、今までは一度もなかったはずだ。アンネマリーを見やるも、ただ笑みを返された。
「ふふ、王子殿下のご様子はもう見慣れてしまいましたわ」
ヤスミンはずっとアンネマリーのそばにいたのだろうか。侯爵令嬢の立場から、そうであってもおかしくはない。
「あのフーゲンベルクの青い雷と呼ばれている方が、妖精姫の前では形なしなんですもの」
くすくすと笑い続けるヤスミンに、リーゼロッテは困ったような笑みを向けた。ジークヴァルトの突拍子なく思える言動は、それでいてきちんと理由がある。異形の者の存在や自分の秘めた力の事を、説明できないこの状況がもどかしく感じてしまう。
「先日の新年を祝う夜会でも、リーゼロッテ様はご自分のものだと、周囲に見せつけるようにしていらしたものね」
(あれは悪目立ちミッションのせいで……!)
アンネマリーに助けを求めるように視線を送るが、やはりおもしろそうな顔を返されただけだった。
「そう言えば、あの日ファーストダンスで王太子殿下と踊ってらしたご令嬢の正体は誰なの? わたくし、あの令嬢が王太子妃候補なのだと思っていたのよ。あなた、一緒に踊ったんだから名前くらいは聞いたのでしょう? いいからわたくしに教えなさい」
いきなりイザベラにそう言われ、リーゼロッテは口ごもってしまった。思わずアンネマリーの顔を見る。あの令嬢はカイが扮したものであると、アンネマリーは知っているのだろうか?
「彼女はイジドーラお義母様の遠縁にあたる方よ。カロリーネ様とおっしゃるの」
動じた様子もなくアンネマリーが代わりに答えた。小さくリーゼロッテに目配せを送って来る。
「ええ、カロリーネ様ですわ。ハスキーなお声が素敵な方でしたわ」
あの時のカイの様子に思わず吹き出しそうになる。涼しい顔をしているアンネマリーを見やり、リーゼロッテは笑いが漏れるのを何とかこらえた。
「ちょっと、何するのよ! わたくしが火傷でもしたらどうしてくれるの!」
「申し訳ございませんっ」
青い顔のまま震える若い女官をフォローするように、すぐさまほかの女官たちが集まって来る。手際よくこぼれた紅茶を拭き、円卓の上を整えた。
「お父様に言って不敬罪にでもしてもらおうかしら」
若い女官を睨みながら言うイザベラには、一滴も紅茶はかかっていない。むしろ跳ねた液が、リーゼロッテへと飛んできていた。
「ダーミッシュ伯爵令嬢様、誠に申し訳ございません」
震えながら膝をついて頭を垂れる女官に向けて、リーゼロッテは静かに微笑んだ。
「少し跳ねただけよ。わたくしは何も問題ないわ。むしろあなたこそ熱かったのではない? きちんとお医者様にみてもらってね?」
「いえ、わたしのことなど……。お召し物を汚してしまってなんとお詫びを申し上げたらいいのか……!」
ドレスを見やると、確かに紅茶の飛沫のあとが何滴かついていた。しかし、言われて見なければ分からないような些細なものだ。半ばパニックを起こしている女官の手を取り、リーゼロッテはやさしく微笑んだ。
「このくらい問題はないわ。それにフーゲンベルク家には腕のいいシミ取り名人がいるの。だから安心してちょうだい」
泣きそうな瞳で見上げる女官に、もう一度安心させるように微笑んだ。
「せっかくご招待いただいた王太子妃殿下のお茶会だもの。大事にはしたくないわ。わたくし、処罰などは望みません。そのように計らってくれないかしら」
そばにいた年配の女官にそう声をかける。女官は「仰せのままに」と恭しく頭を下げた。
「何よ、いい子ぶっちゃって」
憎々し気な声が割り込んできた。
「さりげなくフーゲンベルク家の名を出したりして、自分は公爵様の婚約者だとひけらかしたいのかしら。なんてあざとい女なの」
イザベラのその発言に、周囲にいた者たちが凍り付いた。ヤスミンだけが観察するような目つきで、イザベラとリーゼロッテを見やっている。
面食らったリーゼロッテは二の句を告げられないでいた。そんなつもりは毛頭なかったが、貴族社会ではこんな上げ足取りは日常茶飯事の事なのか。隣で気色ばむエラを目配せで制して、リーゼロッテはどうしたものかと思案に暮れた。
(まるで女子更衣室のマウンティングだわ)
こういったやり取りは日本でも苦手だった。いかに穏便に済ませるか。言葉を探すも良さげな言い回しは一向に思いつかない。
ふと脳裏にアデライーデの顔が浮かんだ。
(そうだわ。こういった時はただ微笑んでいればいいってお姉様に言われたっけ)
アデライーデの助言の通りに、リーゼロッテは曖昧な笑みをイザベラへと向けた。少し小首をかしげて、何を言われたのか分からないといった表情を作ってみせる。
「まあ! 言われている言葉の意味も理解できないのね! なんて頭が足りないのかしら? これで公爵夫人に収まろうと言うのだから、本当に厚かましい女だわ」
同意を受けて当然とばかりにイザベラはどや顔で周囲を見回した。しかし場の雰囲気は、完全にリーゼロッテに軍配が上がっている。
「あら? 王太子妃殿下がお越しね」
緊張感のない声で言うと、ヤスミンは静かに立ち上がった。リーゼロッテもそれに倣い、こちらにやって来るアンネマリーへと礼を取った。ほかの円卓にいた令嬢たちも、同じように礼を取る。
「みな、よく来てくれました。今日招いたのはデビュー間もない者だけよ。そう緊張しないで交友を深めてちょうだい」
ここに集まるのは未婚の令嬢たちだ。デビューからせいぜい三年くらいの者を中心に招待されていた。アンネマリーは長い間、隣国で過ごしてきた。今まで希薄だった貴族とのつながりを築いていくのも、王太子妃としての大事な役目だ。
急な婚儀に不満を持つ貴族も少なくない。ここにいるのは社交経験の少ない令嬢たちばかりだったが、家の立場からアンネマリーを敵対視している者もこの場には存在した。おもねる態度を取りながらも、なんとか弱みを握れないものかとあら捜しをしているのだ。
「王太子妃殿下、本日はお招きありがとうございます」
円卓を囲んで、多くの令嬢が挨拶に来る。そのたびにアンネマリーは堂々とした態度で対応をした。同じ円卓に座るのは、リーゼロッテも含め爵位の高い令嬢だ。エラは既知ということもあり、特別扱いと言えた。
権力争いとは無縁の下位の令嬢たちは形ばかりの挨拶を終えると、別の円卓で盛り上がり始めたようだ。子供の頃からの顔見知りなどもいるようで、それぞれが楽しそうに茶菓子をつまんでいる。
そんな中、リーゼロッテはおとなしくアンネマリーの横に座っていた。イザベラの冷たい視線を感じながらも、王太子妃の立場が板についてきたアンネマリーの振る舞いをただ眩しそうに見つめていた。
あの日アンネマリーも招待客のひとりだった。その彼女が王太子妃として王妃の離宮で茶会を開くまでになったのだ。この辺りに置かれた壇上にいた王子は、遥か彼方の人だった。
(あの場でアンネマリーは、やたらと王子殿下を毛嫌いしていたっけ)
そんなふたりは今では夫婦となった。神殿で行われたふたりの婚儀はおとぎ話のように美しく、リーゼロッテは式の間ずっと感動の涙を流し続けた。
「さあ、貴女方も楽しんでちょうだい」
挨拶がひと段落ついたアンネマリーが円卓に声をかける。優雅にほほ笑む姿は、自信に満ちていて近寄りがたく思えるくらいだ。
(アンネマリーは本当に王太子妃になったのね)
なんだか手の届かない存在になったようで一抹のさびしさを感じていると、臆した様子もなくヤスミンが口を開いた。
「おふたりの婚姻の儀は本当にすばらしかったですわ」
「ありがとう、ヤスミン」
「リーゼロッテ様は式の間、ずっと泣いてらしたわね」
そうヤスミンに水を向けられ、リーゼロッテは思わず頬を朱に染めた。子供のようだと自分でも思うが、アンネマリーのしあわせそうなあの場面を思い返せば、今でも号泣できる自信はある。
「お恥ずかしい話ですが、わたくし本当に感動してしまって。王太子妃殿下、改めてお慶び申し上げます」
はにかんだ笑顔を向けると、アンネマリーの口元も小さくほころんだ。
「今日は格式ばった席ではないし、名で呼んでいいわ」
「はい、アンネマリー様」
さすがに呼び捨てはできなかったが、王族の一員となっても変わらずいてくれる。そんなアンネマリーのことが、リーゼロッテはますます大好きになった。
そのやり取りをおもしろくなさそうに見ていたイザベラが、何かを言いかけたリーゼロッテを制するように言葉を割り込ませてきた。
「アンネマリー様はずっと隣国で過ごされていたのですわよね。我が国のしきたりなど、お分かりにならないことも多いでしょうから、このわたくしがきちんと教えて差し上げますわ」
「……それは心強いわ、ブラル伯爵令嬢」
口元に笑みを貼りつかせたまま、アンネマリーは水色の瞳を細めた。爆弾令嬢の言動を、周囲にいる女官たちがハラハラとした様子で見守っている。
「あら、他人行儀に呼ばないでくださいな。アンネマリー様とわたくしの仲ではありませんか。イザベラと呼んでくださって結構ですわ」
どんな仲だよ。その場にいた者の胸中はおおむねそんなところだ。しかし、アンネマリーは態度を崩すことなく、イザベラに優雅にほほ笑み返した。
「王太子殿下のおなりでございます」
女官の声掛けと共に、和やかな雰囲気だったお茶会の席が一気に緊張感に包まれた。令嬢たちが一斉に立ち上がり、入ってきたハインリヒに対して礼を取る。
リーゼロッテたちも同様に礼を取ったまま、頭を下げた姿勢をキープする。アンネマリーは立ち上がってハインリヒを笑顔で迎え入れた。
「アンネマリー」
「ハインリヒ」
ふたりは互いに愛おしそうに見つめ合い、みなの前でやわらかくハグをした。そのままハインリヒは、アンネマリーの頬に口づけを落とす。遠くで礼を取っていた令嬢たちから、悲鳴のような歓声が上がった。
「楽しんでいるところ邪魔をして悪かったね。少し時間ができたからアンネマリーの顔が見たくなってしまって」
「わたくしもハインリヒの顔が見られてうれしいわ」
アンネマリーは王子の名を呼び捨てにできる関係になったのだ。ふたりのやり取りを間近で目にしたリーゼロッテは、感慨深く思ってきゅっと唇を噛み締めた。気を緩めると、涙腺が崩壊してしまいそうだ。
「リーゼロッテ嬢、顔を上げて」
ハインリヒにそう言われ、リーゼロッテは礼の姿勢を崩した。ヤスミンやイザベラを含めて、他の令嬢たちはみな礼を取ったままだ。
「君の様子が気になって仕方なさそうだったから、ジークヴァルトも一緒に連れてきたよ」
見るとハインリヒの後ろに騎士服姿のジークヴァルトが立っていた。じっとこちらの顔を見つめている。
(そんなに心配しなくても大丈夫なのに……)
庭の途中に弱い異形はいたが、ここは王妃の離宮の一角だ。そうそう大事が起こることはないだろう。そう思うも、リーゼロッテは黙ってジークヴァルトの青い瞳に笑みを返した。
「ああ、もう行かなくてはな」
懐から出した懐中時計をみやって、ハインリヒは残念そうに言った。もう一度アンネマリーを抱きしめて、今度はその唇に小さくキスを落とした。
「愛してるよ、アンネマリー」
大切な宝物を扱うようにその頬に指を滑らせる。その様子をばっちり見ていたリーゼロッテは、思わず赤面してしまった。
名残惜しそうにハインリヒは出口へと向かっていく。去り際にジークヴァルトがリーゼロッテの髪に手を伸ばしてきた。
「あとでまた迎えに来る」
横に流した前髪を指先で軽く整えると、ジークヴァルトは王子の背を追って出ていった。
「フーゲンベルク公爵は相変わらずみたいね」
アンネマリーにおもしろそうに言われ、リーゼロッテは羞恥からますますその頬を染めた。
「みな、顔を上げてちょうだい」
礼を取ったままでいる者たちにアンネマリーが声をかける。緊張を解かれた令嬢たちの息をつく声があちこちから漏れて出た。孤高の王太子と謳われていたハインリヒ王子の寵愛ぶりに、アンネマリーの王太子妃としての立場は盤石となったようだ。
和やかな雰囲気で茶会が再開される中、椅子に座るや否やヤスミンがリーゼロッテの顔を見ながらくすくすと笑いだした。
「本当、あの公爵様の変貌ぶりには驚きですわね」
「そんな……王太子殿下のご様子の方が驚きではないかしら……?」
王子がこんな人前で惜しげなく笑顔を見せるなど、今までは一度もなかったはずだ。アンネマリーを見やるも、ただ笑みを返された。
「ふふ、王子殿下のご様子はもう見慣れてしまいましたわ」
ヤスミンはずっとアンネマリーのそばにいたのだろうか。侯爵令嬢の立場から、そうであってもおかしくはない。
「あのフーゲンベルクの青い雷と呼ばれている方が、妖精姫の前では形なしなんですもの」
くすくすと笑い続けるヤスミンに、リーゼロッテは困ったような笑みを向けた。ジークヴァルトの突拍子なく思える言動は、それでいてきちんと理由がある。異形の者の存在や自分の秘めた力の事を、説明できないこの状況がもどかしく感じてしまう。
「先日の新年を祝う夜会でも、リーゼロッテ様はご自分のものだと、周囲に見せつけるようにしていらしたものね」
(あれは悪目立ちミッションのせいで……!)
アンネマリーに助けを求めるように視線を送るが、やはりおもしろそうな顔を返されただけだった。
「そう言えば、あの日ファーストダンスで王太子殿下と踊ってらしたご令嬢の正体は誰なの? わたくし、あの令嬢が王太子妃候補なのだと思っていたのよ。あなた、一緒に踊ったんだから名前くらいは聞いたのでしょう? いいからわたくしに教えなさい」
いきなりイザベラにそう言われ、リーゼロッテは口ごもってしまった。思わずアンネマリーの顔を見る。あの令嬢はカイが扮したものであると、アンネマリーは知っているのだろうか?
「彼女はイジドーラお義母様の遠縁にあたる方よ。カロリーネ様とおっしゃるの」
動じた様子もなくアンネマリーが代わりに答えた。小さくリーゼロッテに目配せを送って来る。
「ええ、カロリーネ様ですわ。ハスキーなお声が素敵な方でしたわ」
あの時のカイの様子に思わず吹き出しそうになる。涼しい顔をしているアンネマリーを見やり、リーゼロッテは笑いが漏れるのを何とかこらえた。
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