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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
自室に戻ってきたハインリヒは、手持ちぶさたになって部屋の中をウロウロと歩き回っていた。
昼間は公務が詰めに詰められているのに、夜はぽっかりと時間が空いてしまう。ゆっくり休めとの気遣いなのかもしれないが、それなら昼のスケジュールを調整して、アンネマリーとの時間をもっと作りたかった。
今までは自室に執務を持ち込むことが当たり前のことだったのに、今はなぜかそれを止められている。アンネマリーを思うと目が冴えてしまって早くに眠ることもできずに、結局は毎晩部屋を歩き回っているハインリヒだった。
書斎の本棚の前まで行って、再び居間に戻ってくる。寝室に入り寝ようかとも思うが、また書斎へと足を運んでしまう。
そんな時にカイがやってきた。自室に訪問するなど珍しいことだ。部屋に招き入れるとカイは部屋を見回しながら、いつもの笑顔を向けてくる。
「本格的に王城を離れようと思うので、その前にご挨拶に来ました。まだ部屋にいてくださってよかったです」
「こんな時間にどこへ行くというんだ。部屋にいるに決まっているだろう」
「今頃はもうアンネマリー嬢の所に行ってるんじゃないかと思ってたので……って、え? もしかして、ハインリヒ様、まだアンネマリー嬢に手を出していないんですか?」
カイが驚いたように声を上げた。この王太子用の部屋は、アンネマリーのいる星読みの間に隠し通路でつながっている。それこそ人目を忍んで行きたい放題だ。カイがハインリヒだったら、夜になったら速攻で行って、朝まで帰ってこないだろう。
「あんなに思いつめていたくせに、一体何やってるんですか? さっさと行ってさっさと押し倒してくればいいのに」
呆れたように言われ、ハインリヒは動揺したように声を荒げた。
「ば、馬鹿な事を言うな。あと数週間で婚儀を迎えるんだぞ。それくらい待てなくてどうするんだ」
「真面目ですか」
さらに呆れたようにカイがハインリヒを見やった。
「何のために昼に公務が詰められていると思ってるんです? 少しでもおふたりの時間がとれるように周りも気を使ってるんじゃないですか」
「いや、そんなことを言われてもだな。こんな夜に押しかけて、いきなり押し倒したりできるわけないだろう。アンネマリーに嫌われたら一体どうするんだ! 万が一怖がられたりしたらわたしは……」
先ほど晩餐の席で夢想していたことを思い出す。あんないやらしい想像をしていたことが知れたら、アンネマリーから軽蔑のまなざしで見られてしまうかもしれない。脳裏に浮かぶアンネマリーが蔑むような冷たい視線を向けてくる。
「いや、違うんだ、アンネマリー、あれはただの気の迷いで……! あああ、許してくれ、アンネマリーっ!」
どんな想像をしているのやら、ハインリヒが両手で頭をかきむしりながら悶絶している。
「へたれですか」
やれやれとカイは頭を振った。
「どうせ、行くか行かないかでうだうだと迷っていたんでしょう? 隠し通路は元々そのためにあるんですし、堂々と行ってくればいいじゃないですか」
「堂々と……いや、駄目だ、アンネマリーを怖がらせたくはない」
アンネマリーはテレーズの元にいた時に、隣国の王族に襲われたことがある。ハインリヒはその情報を手に入れていた。テレーズの手の者によってすぐに救い出されたそうだが、その時のアンネマリーの恐怖を思うと、相手の男を探し出して今すぐにでも八つ裂きにしてしまいたい。
「ようやくアンネマリー嬢を手に入れたっていうのに、何うつけてるんですか。いいですか、ハインリヒ様。彼女はとっくに社交界デビューも済んで王太子妃教育だって受けているんですよ? 閨の知識くらい十分あるに決まっているでしょう」
「そうかもしれないが……いや、だがしかし」
「相手が本気で嫌がっているかなんて、見ればすぐわかりますって。嫌がられたらそこでやめればいいんです」
「無責任なことを言うな。もしそれでアンネマリーに嫌われでもしたら一体どうしてくれるんだ」
「嫌がられたときは、誠心誠意謝ってください。それこそ土下座でもなんでもして、謝って謝って謝り倒すんです」
指先を立てて言うカイは妙に説得力がある。
「大丈夫。アンネマリー嬢ならちゃんと受け止めてくれますよ」
「お前に言われるとなんだか腹が立つな」
「そうお思いになるなら、さっさと自分のものにすればよろしいのに。ようやく欲しいものを手に入れたんです。誰にも遠慮することはないでしょう?」
カイのその言葉に、ハインリヒがはっとした顔をした。
「カイ……その、わたしばかりが浮かれてしまって……本当にすまな」
「それ以上言ったら、さすがのオレも怒りますよ。オレ、同情されるのがいちばん嫌いなんです」
真剣な声音に、ハインリヒはそのままぐっと口をつぐんだ。
「そんな顔しないでください。しあわせになるのに誰の許可もいりませんよ。遠慮せずに思い切りアンネマリー嬢としあわせになってください」
「ああ……ありがとう、カイ」
そう答えたハインリヒの顔は、裏腹に苦しげに歪められた。
「婚儀の折にはまた戻ってきますから。その時にでも戦果を聞かせてください」
そんなハインリヒにカイはいつもの笑顔を向けた。「健闘を祈ります」とウィンクを残して、カイは部屋を後にする。その後ろ姿をハインリヒは黙って見送った。
しばらくしてから、再び書斎の本棚の前まで歩いていく。そこにある一冊の本を押し込めば、アンネマリーのいる星読みの間へと続く通路が現れる。そこに手を伸ばしかけて、ハインリヒは躊躇したように手を止めた。
実を言うと、以前アンネマリーが星読みの間に滞在していた時に、この通路を辿って行ったことが何度も何度もあった。星読みの間の手前まで行っては、その先の気配を確かめた。この扉の向こうにアンネマリーがいる。そう思うと心も体も高鳴った。
その時はアンネマリーに触れることは叶わないと思っていたので、手前まで行ってはすごすごと帰ってきていたのだが。アンネマリーに触りたい放題にできる今となっては、会いに行ったが最後、自分を止めることはできそうにない。
アンネマリーは唯一自分が触れられる女性であり、心から触れたいと思う唯一の女性だ。そんな彼女にこんな時間に会いに行ったら、例え泣いて嫌がれたとしても、もう自分を止める自信がハインリヒにはなかった。
本棚に片手をつき、大きく息を吐く。この先にアンネマリーがいる。そう思うと、いてもたってもいられない。
会いたい。行ってはいけない。でも会いたい。
そんな思いが堂々巡りに沸き起こる。
その時、壁の奥でかちりと鳴って、目の前の本棚が音を立ててスライドしていった。冷たい風が入り込み、ハインリヒの髪をふわりと揺らした。
暗がりから人が現れる。目に前に立つのは、今まさに会いたいと思っていた、愛しくてたまらないアンネマリーだった。
自室に戻ってきたハインリヒは、手持ちぶさたになって部屋の中をウロウロと歩き回っていた。
昼間は公務が詰めに詰められているのに、夜はぽっかりと時間が空いてしまう。ゆっくり休めとの気遣いなのかもしれないが、それなら昼のスケジュールを調整して、アンネマリーとの時間をもっと作りたかった。
今までは自室に執務を持ち込むことが当たり前のことだったのに、今はなぜかそれを止められている。アンネマリーを思うと目が冴えてしまって早くに眠ることもできずに、結局は毎晩部屋を歩き回っているハインリヒだった。
書斎の本棚の前まで行って、再び居間に戻ってくる。寝室に入り寝ようかとも思うが、また書斎へと足を運んでしまう。
そんな時にカイがやってきた。自室に訪問するなど珍しいことだ。部屋に招き入れるとカイは部屋を見回しながら、いつもの笑顔を向けてくる。
「本格的に王城を離れようと思うので、その前にご挨拶に来ました。まだ部屋にいてくださってよかったです」
「こんな時間にどこへ行くというんだ。部屋にいるに決まっているだろう」
「今頃はもうアンネマリー嬢の所に行ってるんじゃないかと思ってたので……って、え? もしかして、ハインリヒ様、まだアンネマリー嬢に手を出していないんですか?」
カイが驚いたように声を上げた。この王太子用の部屋は、アンネマリーのいる星読みの間に隠し通路でつながっている。それこそ人目を忍んで行きたい放題だ。カイがハインリヒだったら、夜になったら速攻で行って、朝まで帰ってこないだろう。
「あんなに思いつめていたくせに、一体何やってるんですか? さっさと行ってさっさと押し倒してくればいいのに」
呆れたように言われ、ハインリヒは動揺したように声を荒げた。
「ば、馬鹿な事を言うな。あと数週間で婚儀を迎えるんだぞ。それくらい待てなくてどうするんだ」
「真面目ですか」
さらに呆れたようにカイがハインリヒを見やった。
「何のために昼に公務が詰められていると思ってるんです? 少しでもおふたりの時間がとれるように周りも気を使ってるんじゃないですか」
「いや、そんなことを言われてもだな。こんな夜に押しかけて、いきなり押し倒したりできるわけないだろう。アンネマリーに嫌われたら一体どうするんだ! 万が一怖がられたりしたらわたしは……」
先ほど晩餐の席で夢想していたことを思い出す。あんないやらしい想像をしていたことが知れたら、アンネマリーから軽蔑のまなざしで見られてしまうかもしれない。脳裏に浮かぶアンネマリーが蔑むような冷たい視線を向けてくる。
「いや、違うんだ、アンネマリー、あれはただの気の迷いで……! あああ、許してくれ、アンネマリーっ!」
どんな想像をしているのやら、ハインリヒが両手で頭をかきむしりながら悶絶している。
「へたれですか」
やれやれとカイは頭を振った。
「どうせ、行くか行かないかでうだうだと迷っていたんでしょう? 隠し通路は元々そのためにあるんですし、堂々と行ってくればいいじゃないですか」
「堂々と……いや、駄目だ、アンネマリーを怖がらせたくはない」
アンネマリーはテレーズの元にいた時に、隣国の王族に襲われたことがある。ハインリヒはその情報を手に入れていた。テレーズの手の者によってすぐに救い出されたそうだが、その時のアンネマリーの恐怖を思うと、相手の男を探し出して今すぐにでも八つ裂きにしてしまいたい。
「ようやくアンネマリー嬢を手に入れたっていうのに、何うつけてるんですか。いいですか、ハインリヒ様。彼女はとっくに社交界デビューも済んで王太子妃教育だって受けているんですよ? 閨の知識くらい十分あるに決まっているでしょう」
「そうかもしれないが……いや、だがしかし」
「相手が本気で嫌がっているかなんて、見ればすぐわかりますって。嫌がられたらそこでやめればいいんです」
「無責任なことを言うな。もしそれでアンネマリーに嫌われでもしたら一体どうしてくれるんだ」
「嫌がられたときは、誠心誠意謝ってください。それこそ土下座でもなんでもして、謝って謝って謝り倒すんです」
指先を立てて言うカイは妙に説得力がある。
「大丈夫。アンネマリー嬢ならちゃんと受け止めてくれますよ」
「お前に言われるとなんだか腹が立つな」
「そうお思いになるなら、さっさと自分のものにすればよろしいのに。ようやく欲しいものを手に入れたんです。誰にも遠慮することはないでしょう?」
カイのその言葉に、ハインリヒがはっとした顔をした。
「カイ……その、わたしばかりが浮かれてしまって……本当にすまな」
「それ以上言ったら、さすがのオレも怒りますよ。オレ、同情されるのがいちばん嫌いなんです」
真剣な声音に、ハインリヒはそのままぐっと口をつぐんだ。
「そんな顔しないでください。しあわせになるのに誰の許可もいりませんよ。遠慮せずに思い切りアンネマリー嬢としあわせになってください」
「ああ……ありがとう、カイ」
そう答えたハインリヒの顔は、裏腹に苦しげに歪められた。
「婚儀の折にはまた戻ってきますから。その時にでも戦果を聞かせてください」
そんなハインリヒにカイはいつもの笑顔を向けた。「健闘を祈ります」とウィンクを残して、カイは部屋を後にする。その後ろ姿をハインリヒは黙って見送った。
しばらくしてから、再び書斎の本棚の前まで歩いていく。そこにある一冊の本を押し込めば、アンネマリーのいる星読みの間へと続く通路が現れる。そこに手を伸ばしかけて、ハインリヒは躊躇したように手を止めた。
実を言うと、以前アンネマリーが星読みの間に滞在していた時に、この通路を辿って行ったことが何度も何度もあった。星読みの間の手前まで行っては、その先の気配を確かめた。この扉の向こうにアンネマリーがいる。そう思うと心も体も高鳴った。
その時はアンネマリーに触れることは叶わないと思っていたので、手前まで行ってはすごすごと帰ってきていたのだが。アンネマリーに触りたい放題にできる今となっては、会いに行ったが最後、自分を止めることはできそうにない。
アンネマリーは唯一自分が触れられる女性であり、心から触れたいと思う唯一の女性だ。そんな彼女にこんな時間に会いに行ったら、例え泣いて嫌がれたとしても、もう自分を止める自信がハインリヒにはなかった。
本棚に片手をつき、大きく息を吐く。この先にアンネマリーがいる。そう思うと、いてもたってもいられない。
会いたい。行ってはいけない。でも会いたい。
そんな思いが堂々巡りに沸き起こる。
その時、壁の奥でかちりと鳴って、目の前の本棚が音を立ててスライドしていった。冷たい風が入り込み、ハインリヒの髪をふわりと揺らした。
暗がりから人が現れる。目に前に立つのは、今まさに会いたいと思っていた、愛しくてたまらないアンネマリーだった。
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