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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
こぽこぽと水音がする。
頬にひんやりとした感覚を覚えて、アンネマリーは気だるげにその身をゆっくりと起こした。両腕を突っ張ったまま、部屋の中を見回していく。
自分は崩れた床から落ちたはずだ。天井を見上げるも、そこには同じ円陣が描かれていた。周りの床にも瓦礫が落ちている様子はない。あれだけの勢いで床が崩れたはずなのに、白昼夢でも見たのかとその部屋にハインリヒの姿を探した。
しかしここには自分しかいない。同じ部屋にいるはずなのに、覚える違和感は一体何なのか。
(天井と床が逆なんだわ……)
見上げる天井には、床に描かれていた円陣が刻まれ、今座る床には、あの部屋の天井で見た幾何学模様が描かれていた。先ほどまでいた部屋と鏡写しのような構造に、感じた違和感はこれだったのかと納得する。
よく見るとこの部屋には扉が見当たらない。さらに首を巡らせると、大きな盃のような泉が目に入った。
(さっきからしていた水音はこれだったのね)
泉が滾々と湧き出して、その杯から清水が溢れ出している。しかしその水は床に落ちことなく、途中で消えて見えなくなっていた。その不思議な光景に、アンネマリーは夢を見ているのだと本気で思った。
自分は崩れた床から落ちて、そのまま死んでしまったに違いない。その答えがいちばん納得できる。崩れかけた髪をほどこうとして、アンネマリーはこの手に何かを握りしめていることに気がついた。
開いた手のひらには紫の石が輝いていた。たゆとうように紫が揺らめき、アンネマリーの心も揺らされた。ぎゅっと握り込むと、体が熱くなる。すっと不安が消えていくようで、アンネマリーはその石を胸にゆっくりと立ち上がった。
浮遊感が残るものの、怪我をしているところはどこもなかった。夢うつつのように、アンネマリーは改めて部屋の中を見回した。繊細なレリーフが壁一面に彫られているが、やはり扉は見当たらなかった。
(本当にどこから入ってきたのかしら)
落ちてきたはずなのに、いるのは先ほどまでいた部屋の鏡写しのような場所だ。やはり自分は死んでしまったのかもしれない。そんなことを思っていると、手が何かにくん、と引っ張られる感覚がした。
見ると握った石から輝きが漏れている。指の間から紫の光の筋をこぼし、磁石のようにそれがどこかへ引っ張られていく。
その力に逆らわずに歩を進める。石が持ち上がり、手を引かれるようにアンネマリーはそれについて行った。石は杯の泉の前で動きを止めた。湧き出る水の波紋に映る紫を、アンネマリーは覗き込むように見た。泉に、自分の姿が映る。
そのとき泉からまばゆい光が放たれた。その光の洪水を前に、アンネマリーは見とれるように立ち尽くす。
まるで噴水の水が踊るように、あふれ出る光の渦は生まれては消え、生まれては消えを繰り返す。それを呆然と見上げていたアンネマリーは、その光が文字を浮かび上がらせていることに気がついた。
少し古めかしい文字が、幾度も幾度も描かれていく。それを目で追いながら、アンネマリーはその文字を読み上げた。
「アンネマリー・クラッセン……汝、イオを冠する王をただひとり癒す者……ルィンの名を受けしこの者、必ずこの地に舞い戻らん……」
その文言が何度も何度も繰り返される。光の洪水はさらに激しくなり、アンネマリーの髪がするりとほどけていった。後頭部が痛いくらいに熱を持つ。思わず手を差し入れて、うなじの少し上あたりをぎゅっと押さえた。
「アンネマリー……!」
不意に名を呼ばれて、アンネマリーは振り返る。なかったはずの扉が開かれ、アンネマリーはその逆光の中に、誰か人影を垣間見た。
こぽこぽと水音がする。
頬にひんやりとした感覚を覚えて、アンネマリーは気だるげにその身をゆっくりと起こした。両腕を突っ張ったまま、部屋の中を見回していく。
自分は崩れた床から落ちたはずだ。天井を見上げるも、そこには同じ円陣が描かれていた。周りの床にも瓦礫が落ちている様子はない。あれだけの勢いで床が崩れたはずなのに、白昼夢でも見たのかとその部屋にハインリヒの姿を探した。
しかしここには自分しかいない。同じ部屋にいるはずなのに、覚える違和感は一体何なのか。
(天井と床が逆なんだわ……)
見上げる天井には、床に描かれていた円陣が刻まれ、今座る床には、あの部屋の天井で見た幾何学模様が描かれていた。先ほどまでいた部屋と鏡写しのような構造に、感じた違和感はこれだったのかと納得する。
よく見るとこの部屋には扉が見当たらない。さらに首を巡らせると、大きな盃のような泉が目に入った。
(さっきからしていた水音はこれだったのね)
泉が滾々と湧き出して、その杯から清水が溢れ出している。しかしその水は床に落ちことなく、途中で消えて見えなくなっていた。その不思議な光景に、アンネマリーは夢を見ているのだと本気で思った。
自分は崩れた床から落ちて、そのまま死んでしまったに違いない。その答えがいちばん納得できる。崩れかけた髪をほどこうとして、アンネマリーはこの手に何かを握りしめていることに気がついた。
開いた手のひらには紫の石が輝いていた。たゆとうように紫が揺らめき、アンネマリーの心も揺らされた。ぎゅっと握り込むと、体が熱くなる。すっと不安が消えていくようで、アンネマリーはその石を胸にゆっくりと立ち上がった。
浮遊感が残るものの、怪我をしているところはどこもなかった。夢うつつのように、アンネマリーは改めて部屋の中を見回した。繊細なレリーフが壁一面に彫られているが、やはり扉は見当たらなかった。
(本当にどこから入ってきたのかしら)
落ちてきたはずなのに、いるのは先ほどまでいた部屋の鏡写しのような場所だ。やはり自分は死んでしまったのかもしれない。そんなことを思っていると、手が何かにくん、と引っ張られる感覚がした。
見ると握った石から輝きが漏れている。指の間から紫の光の筋をこぼし、磁石のようにそれがどこかへ引っ張られていく。
その力に逆らわずに歩を進める。石が持ち上がり、手を引かれるようにアンネマリーはそれについて行った。石は杯の泉の前で動きを止めた。湧き出る水の波紋に映る紫を、アンネマリーは覗き込むように見た。泉に、自分の姿が映る。
そのとき泉からまばゆい光が放たれた。その光の洪水を前に、アンネマリーは見とれるように立ち尽くす。
まるで噴水の水が踊るように、あふれ出る光の渦は生まれては消え、生まれては消えを繰り返す。それを呆然と見上げていたアンネマリーは、その光が文字を浮かび上がらせていることに気がついた。
少し古めかしい文字が、幾度も幾度も描かれていく。それを目で追いながら、アンネマリーはその文字を読み上げた。
「アンネマリー・クラッセン……汝、イオを冠する王をただひとり癒す者……ルィンの名を受けしこの者、必ずこの地に舞い戻らん……」
その文言が何度も何度も繰り返される。光の洪水はさらに激しくなり、アンネマリーの髪がするりとほどけていった。後頭部が痛いくらいに熱を持つ。思わず手を差し入れて、うなじの少し上あたりをぎゅっと押さえた。
「アンネマリー……!」
不意に名を呼ばれて、アンネマリーは振り返る。なかったはずの扉が開かれ、アンネマリーはその逆光の中に、誰か人影を垣間見た。
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