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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
「で、それがリーゼロッテの涙を薄めた液なのね」
残り僅かな香水瓶を片手に、アデライーデが感心したように言った。
「リーゼロッテ……あなた、なんて言うかとても便利ね」
「……お役に立てて何よりですわ」
足手まといの自分にしてみれば、よくやったと言える功績だ。少しでもジークヴァルトの役に立てるならばと、リーゼロッテは前向きに考えることにした。
「これをみなに渡せば、この騒ぎもなんとかなりそうね」
しかし涙の原液は公爵家の部屋に置いてきてしまった。夜会の合間に、廊下にいる異形たちの苦しみを少しでも軽くできればと、薄めた香水瓶だけを忍ばせてきたのだ。
「申し訳ございません。わたくし、涙をすべて持ってくればよかったのに……」
うなだれたかと思うと、リーゼロッテはがばりと顔を起こした。
「わたくし今ここで泣きますわ!」
力強くこぶしを掲げ、ぐっと顔に力を入れる。唇をへの字に曲げて、懸命にふるふると震わせる。
「…………ちっとも泣けないっ!」
若干涙目になるものの、粒はひとつも溢れてこない。
(こんな時に出ないなんて!)
普段は必要以上に出るくせに、やはり自分は役立たずだ。リーゼロッテの顔が悲しそうに歪む。その勢いで泣いてしまえばいいものの、こんな時に限って涙は一滴も出てこなかった。
「ヴァルト様! 今すぐわたくしを泣かせてくださいませっ」
ジャケットの胸元を勢いで掴む。ぐいぐいと引っ張りながら、その顔を見上げて懸命に訴えた。
「いや、いきなり泣かせろと言われても……」
「何かございますでしょう? 日頃わたくしに言いたいこととか不満に思っていることとか。悪口でも構いませんわ。さあ、遠慮なくぶつけてくださいませ!」
「日頃お前に言いたいこと……?」
必死の懇願にジークヴァルトが眉根を寄せる。
もっとこちらを向いてほしい。いつだって笑っていてほしい。自分以外の人間を見ないでほしい。ずっとこの腕の中にいてほしい。
しかし、ジークヴァルトの頭の中で駆け巡ったのはそんな言葉だった。
「いや、そんなものは特にない」
すいとそらされた視線を受けて、リーゼロッテは逃すまいとジークヴァルトの顔を自分に向けさせた。
「お顔をそらすのは何かある証拠ですわ! さあ、遠慮なく言ってくださいませ。わたくしどんな言葉も受け止めますから!」
ぐいぐい胸元をひっぱられ、ジークヴァルトは前にめりにリーゼロッテと見つめ合った。可愛らしい小さな唇が目に入る。いっそこのまま口づけてしまえ。
そうしてしまえば彼女は驚いて泣くかもしれない。一瞬だけそんな思いがよぎるも、ジークヴァルトは必死の抵抗で顔をそらそうとした。
「いや、ない。ないと言ったならない」
「嘘をおっしゃらないでくださいませ。ヴァルト様は何かを誤魔化そうとするとき、必ずお顔をそらすではありませんか」
「それでもないものはない」
頑なに拒否するジークヴァルトの目の前で、リーゼロッテはむうと唇を尖らせた。
「そんなはずはございませんわ! 例えばわたくしの容姿の事とか……」
「お前の容姿?」
一瞬口をつぐんでリーゼロッテは、意を決したようにジークヴァルトをじっと見上げた。
「例えば『お前、自分の顔を鏡で見たことはあるのか』とか、そういったことですわ」
「鏡くらいお前だって自分でのぞくことはあるだろう」
何を言っているんだというふうの返しに、リーゼロッテは再びぐっと口をつぐんだ。
「ですから、お前は醜女だとか、つまりはそういうことですわ」
この異世界では自分の容姿は可愛くはないのだ。リーゼロッテはそう信じて疑わない。どうしてわからないのかと、頬を膨らませてジークヴァルトを不満げに見やった。
「何を馬鹿な事を……お前は一体何が言いたいんだ?」
あきれた様子のジークヴァルトは本当に理解できないといった様子だ。
「でしたらほかにもございますわ。例えば……」
「例えば?」
「む、胸が小さすぎるとか」
「胸が?」
青い瞳がリーゼロッテの胸元を凝視する。
「……別にそのくらいでちょうどいいだろう」
「ちょ、ちょうどいい!?」
途端にリーゼロッテが涙目になった。
(コルセットで寄せに寄せた上に、詰め物を詰めに詰めて、盛りに盛ったこのニセ乳を、よりにもよって『そのくらいでちょうどいい』ですってぇ!?)
わたし脱いだらしょぼいんです。それが確定となってしまったリーゼロッテの瞳から、もりもりと涙が溢れだす。
「なぜだ」
ぎゅっと眉根を寄せて、ジークヴァルトは助けを求めるようにアデライーデの顔を見た。アデライーデはうつむいて口元に手を当てている。肩が小刻みに震えているのは、笑いを必死にこらえているからだ。
その間にリーゼロッテの頬から滑り落ちた涙が水差しへと零れ落ちていく。一粒一粒落ちるたびに、水面に緑の波紋が広がった。
「うう、これを騎士団のみな様でお使いくださいませ。量が足りないかもしれませんが……」
涙ながらにその水差しを差し出すと、リーゼロッテは小さくすんと鼻をすすった。
「わたしにいい考えがるからこれだけあれば十分よ。ありがたく使わせてもらうわ。それに安心して、リーゼロッテ。あとでジークヴァルトは粛清しておいてあげるから。それとヴァルト、いくらここが安全だからって変な気を起こすんじゃないわよ」
くぎを刺すように言って、アデライーデは再び王城の混乱へと飛び込んでいった。
「で、それがリーゼロッテの涙を薄めた液なのね」
残り僅かな香水瓶を片手に、アデライーデが感心したように言った。
「リーゼロッテ……あなた、なんて言うかとても便利ね」
「……お役に立てて何よりですわ」
足手まといの自分にしてみれば、よくやったと言える功績だ。少しでもジークヴァルトの役に立てるならばと、リーゼロッテは前向きに考えることにした。
「これをみなに渡せば、この騒ぎもなんとかなりそうね」
しかし涙の原液は公爵家の部屋に置いてきてしまった。夜会の合間に、廊下にいる異形たちの苦しみを少しでも軽くできればと、薄めた香水瓶だけを忍ばせてきたのだ。
「申し訳ございません。わたくし、涙をすべて持ってくればよかったのに……」
うなだれたかと思うと、リーゼロッテはがばりと顔を起こした。
「わたくし今ここで泣きますわ!」
力強くこぶしを掲げ、ぐっと顔に力を入れる。唇をへの字に曲げて、懸命にふるふると震わせる。
「…………ちっとも泣けないっ!」
若干涙目になるものの、粒はひとつも溢れてこない。
(こんな時に出ないなんて!)
普段は必要以上に出るくせに、やはり自分は役立たずだ。リーゼロッテの顔が悲しそうに歪む。その勢いで泣いてしまえばいいものの、こんな時に限って涙は一滴も出てこなかった。
「ヴァルト様! 今すぐわたくしを泣かせてくださいませっ」
ジャケットの胸元を勢いで掴む。ぐいぐいと引っ張りながら、その顔を見上げて懸命に訴えた。
「いや、いきなり泣かせろと言われても……」
「何かございますでしょう? 日頃わたくしに言いたいこととか不満に思っていることとか。悪口でも構いませんわ。さあ、遠慮なくぶつけてくださいませ!」
「日頃お前に言いたいこと……?」
必死の懇願にジークヴァルトが眉根を寄せる。
もっとこちらを向いてほしい。いつだって笑っていてほしい。自分以外の人間を見ないでほしい。ずっとこの腕の中にいてほしい。
しかし、ジークヴァルトの頭の中で駆け巡ったのはそんな言葉だった。
「いや、そんなものは特にない」
すいとそらされた視線を受けて、リーゼロッテは逃すまいとジークヴァルトの顔を自分に向けさせた。
「お顔をそらすのは何かある証拠ですわ! さあ、遠慮なく言ってくださいませ。わたくしどんな言葉も受け止めますから!」
ぐいぐい胸元をひっぱられ、ジークヴァルトは前にめりにリーゼロッテと見つめ合った。可愛らしい小さな唇が目に入る。いっそこのまま口づけてしまえ。
そうしてしまえば彼女は驚いて泣くかもしれない。一瞬だけそんな思いがよぎるも、ジークヴァルトは必死の抵抗で顔をそらそうとした。
「いや、ない。ないと言ったならない」
「嘘をおっしゃらないでくださいませ。ヴァルト様は何かを誤魔化そうとするとき、必ずお顔をそらすではありませんか」
「それでもないものはない」
頑なに拒否するジークヴァルトの目の前で、リーゼロッテはむうと唇を尖らせた。
「そんなはずはございませんわ! 例えばわたくしの容姿の事とか……」
「お前の容姿?」
一瞬口をつぐんでリーゼロッテは、意を決したようにジークヴァルトをじっと見上げた。
「例えば『お前、自分の顔を鏡で見たことはあるのか』とか、そういったことですわ」
「鏡くらいお前だって自分でのぞくことはあるだろう」
何を言っているんだというふうの返しに、リーゼロッテは再びぐっと口をつぐんだ。
「ですから、お前は醜女だとか、つまりはそういうことですわ」
この異世界では自分の容姿は可愛くはないのだ。リーゼロッテはそう信じて疑わない。どうしてわからないのかと、頬を膨らませてジークヴァルトを不満げに見やった。
「何を馬鹿な事を……お前は一体何が言いたいんだ?」
あきれた様子のジークヴァルトは本当に理解できないといった様子だ。
「でしたらほかにもございますわ。例えば……」
「例えば?」
「む、胸が小さすぎるとか」
「胸が?」
青い瞳がリーゼロッテの胸元を凝視する。
「……別にそのくらいでちょうどいいだろう」
「ちょ、ちょうどいい!?」
途端にリーゼロッテが涙目になった。
(コルセットで寄せに寄せた上に、詰め物を詰めに詰めて、盛りに盛ったこのニセ乳を、よりにもよって『そのくらいでちょうどいい』ですってぇ!?)
わたし脱いだらしょぼいんです。それが確定となってしまったリーゼロッテの瞳から、もりもりと涙が溢れだす。
「なぜだ」
ぎゅっと眉根を寄せて、ジークヴァルトは助けを求めるようにアデライーデの顔を見た。アデライーデはうつむいて口元に手を当てている。肩が小刻みに震えているのは、笑いを必死にこらえているからだ。
その間にリーゼロッテの頬から滑り落ちた涙が水差しへと零れ落ちていく。一粒一粒落ちるたびに、水面に緑の波紋が広がった。
「うう、これを騎士団のみな様でお使いくださいませ。量が足りないかもしれませんが……」
涙ながらにその水差しを差し出すと、リーゼロッテは小さくすんと鼻をすすった。
「わたしにいい考えがるからこれだけあれば十分よ。ありがたく使わせてもらうわ。それに安心して、リーゼロッテ。あとでジークヴァルトは粛清しておいてあげるから。それとヴァルト、いくらここが安全だからって変な気を起こすんじゃないわよ」
くぎを刺すように言って、アデライーデは再び王城の混乱へと飛び込んでいった。
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