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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 令嬢姿のカイと共に一度会場から姿を消したハインリヒは、再び壇上へと舞い戻っていた。挨拶にやって来る貴族の相手をするのも、王太子としての大事な役目だ。

 先ほどダンスのパートナーを務めた令嬢は誰なのか。その問いかけがいちばんに面倒だった。その問いには無言で返し、冷たい表情を貫いた。あとは周りの者が気を遣って、次の貴族が待っているからと質問した貴族を追い返すのがいつもことだ。

(アンネマリーがいない……?)

 貴族へ対応しながら、会場の一角をみやる。ジークヴァルトたちを守るように取り巻く一団が目に入るが、そこにアンネマリーの姿はなかった。

(ファーストダンスの時は、確かにあの辺りにいたはずなのに)

 リーゼロッテが言っていたように、アンネマリーはあの不思議な光沢を放つ織物のドレスを身に纏っていた。遠めに見ても、その存在に意識が釘付けとなった。カイと踊っている間も、アンネマリーを盗み見ずにはいられなかった。

 ほかのフロアを見渡すも、その姿を見つけることはできない。クラッセン侯爵夫人はまだそこにいるということは、会場を後にしたわけではなさそうだ。

(アンネマリーが他の男と踊る姿など、もう見たくはない)

 結局、あの懐中時計は持ち歩いてしまっている。母の形見ではあるものの、これはアンネマリーとの思い出をつなぐ唯一の存在だ。
 アンネマリーと顔を合わせたところで何が生まれるわけでもない。だが、その姿が再び見られることに、期待で胸を膨らませている自分がいた。

 その彼女が、今、いない。

 貴族への対応も上の空に、胸騒ぎを覚えたハインリヒの視線は、会場の中を彷徨った。

     ◇
 ミヒャエルは、夜会の会場の片隅で、イジドーラ王妃がダンスフロアの中央で踊る姿を眺めやっていた。王と見つめ合いながら、優雅に踊る。その美しい姿に、自然と目が吸い寄せられた。

(あの娘はわたしの物だ)

 ザイデル公爵家の謀反が起きた時に、自分がイジドーラを救うはずだった。それを横からかっさらうように奪ったのがディートリヒだ。

 神官として生きてきた自分が、貴族のようにダンスを踊るわけにはいかない。踊りのステップのひとつも知らない自分が呪わしく感じる。

(いや、そんなもの、わたしが王となればどうとでもなる)

 あのイジドーラを、目の前に跪かせることもできるのだ。そう言い聞かせて心を落ち着ける。今はまだやらねばならないことがある。

(余裕の顔でいられるのも今のうちだ)

 そう思ってほくそ笑んだ。自分に近づいてきた貴族の男の目配せ受けて、その場を後にする。男と共に入った休憩室の一室では、幾人もの貴族たちが待っていた。

「ミヒャエル司祭枢機卿様……」
 うつろな目をした貴族たちが、自分に対して礼を取る。その様にミヒャエルは下卑た笑みを漏らした。

「女神はなんとおっしゃられているのですか?」

 ここに集まるは、紅の女神を真の神として崇める者たちだ。女神の存在をその肌で感じることができる選ばれた者たちだった。
 だが、女神の姿を見、その声を聞きことができるのは、唯一この自分だけだ。その事実こそ、自分がこの国の王となるべく女神に選ばれた人間という証と言えよう。

「我らが紅の女神は、この国を欲しておられる。国の命運を握るのはハインリヒ王子だ。王子を消せば、この国はすぐにでも我らが手に落ちるだろう」

 ミヒャエルの宣言に、その場にいた者たちの動揺が走る。その様を冷たく見やり、ミヒャエルは中指にはめた大ぶりの紅玉の指輪を掲げて見せた。

「紅の女神は、唯一にして絶対神なるぞ。我が命に従い、王子の首を取るのだ!」

 紅玉が禍々しいまでの光を放つ。その光は部屋にいた貴族だけでなく、夜会の会場周辺まで不穏な空気を広げていった。

     ◇
(なんだ……?)

 王城の廊下で突如感じた重い波動の広がりに、令嬢姿から式典用の騎士服に着替えたカイが辺りを見回した。

(異形たちがざわついている)
 リーゼロッテが起こした騒ぎの時とはまた違う、不安を煽られるような空気感だ。

「うわっと」

 物陰からいきなり剣を振り上げられて、カイは咄嗟にその人物から距離を取る。振り下ろされた剣は空を切り、先ほどまでカイがいた床を大きくえぐった。
 目の前にうつろな瞳をした王城騎士がいる。再び剣を振り上げ、カイへとその剣先を向けた。

(異形に憑かれているのか?)

 それを難なく避けて、カイはその騎士の首筋へと手刀を浴びせた。あっさりと倒れるかに見えた騎士が、寸でのところでゆらりと再び立ち上がった。

「ったく、面倒だな」

 完全に異形の者に飲まれている様子の騎士は、もはや操り人形のようだ。意識を失ったまま、危うげな足取りでカイへと迫って来る。

 騎士の背後へと回る。力を手中に溜めておき、それを叩きつけるように再び手を振り下ろした。騎士がその場に崩れ落ちる。今度こそ気を失ったようだ。騎士が立ち上がる様子はない。

(不穏な空気が広がっている)
 カイは急ぎ、夜会の会場へと向かった。

     ◇
 宴もたけなわの中、突然悲鳴が響き渡った。それを皮切りに、あちこちで混乱が巻き起こる。
 ある者は気分が悪くなって倒れ込み、ある者は錯乱したように周囲の者を傷つけようとする。王たちがいる壇上へも、数人の貴族が意味不明な言葉を叫びながら、剣を振り上げなだれ込んできた。

「王と王妃殿下はこちらへ」

 いち早くふたりが騎士たちに守られ、奥へと誘導されていく。その姿には目もくれずに、錯乱した一団は、ハインリヒへとまっすぐに向かっていった。

「王太子だ! 王太子の首を女神に差し出すのだっ」
 煽るようにどこからか声が響き、かばうように剣を受けた近衛騎士が薙ぎ飛ばされていく。

(狙いはわたしなのか?)

 ハインリヒも剣を抜き応戦に回るが、すぐに自身を守るように、近衛騎士の壁が目の前にでき上がった。

「この者たちは正気ではありません。すぐに安全な場所へお逃げください」

 目の前にいる者たちが、異形に憑かれていることはすぐに分かった。だが、夜会で貴族の帯剣は禁じられている。それがあっさり持ちこまれている様子を見ると、何か意図的なものを感じずにはいられなかった。

「王太子殿下、お急ぎください!」

 狙いが自分ならば、ここにいるのは足手まといだ。異形が原因というのなら、守りが張られている場所へと逃げ込めば、とりあえず奴らは手を出せなくなる。

「ハインリヒ様」
 背後からカイの声がする。

「こちらへ」

 振り向くと騎士服に着替えたカイが、王族用の出入り口の扉を開けて手招きをしていた。頷いてそちらへと駆け込んだ。扉が閉まる寸前に襲い掛かる貴族を、カイが剣で薙ぎ払った。

 鍵をかけ、その場をすぐに離れた。あちら側から人の力とは思えないほどの振動で扉をたたく音がする。

「騎士の中にも異形に飲まれている者がいます。どうかお気を付けを」

 誘導するように廊下の先を行くカイの背を追いかける。不穏な空気は王城の廊下まで広がっているようだ。普段は無害な異形までもが毛を逆立てるように殺気立っていた。

「一体何が……」
「分かりません。分かりませんけど、狙いはハインリヒ様のようです。ここは素直にお逃げください」

 頷きかけて、ハインリヒははっとした。会場でも異形に飲まれるように錯乱する者がいた。異形は弱い心に付け込んで、時に犯罪者を生むことになる。

「アンネマリーがいなかった」
 人の助けが入らないところで、誰かに襲われでもしたら。そう思うとハインリヒは一気に青ざめた。

「アンネマリー嬢なら、殿下の庭近くの廊下にいますよ。あそこにあるソファで待つように言ってあります」
「なぜ、そんなところに……?」
「廊下で迷っていたようなので、あとで迎えに行こうかと」
「どうしてすぐ連れてこなかったんだ!」
「オレ、その時まだカロリーネ姿だったから……って、ハインリヒ様、どこ行くんですかっ」

 いきなり走り出した背に叫ぶ。

「アンネマリーを探しに行くに決まっているだろう!」

 その姿はあっという間に廊下の先に消えていく。

「ったく、ハインリヒ様、あなたがいちばん危険だっつうの」

 ハインリヒのそばが今いちばんの危険地帯だ。アンネマリーを庇いながら襲われでもしたら、不利どころが窮地にしかならない。しかもハインリヒはアンネマリーに触れることすらできないのだ。そんな中彼女を守るのは、腕の立つ騎士でも難しいことだろう。

 カイは呆れながらも、仕方なしにその後を全速力で追いかけた。
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