ふたつ名の令嬢と龍の託宣【第二部公爵夫人編開始】

古堂 素央

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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 水のカーテンのようなゆらめきが、その寝台を守るように覆っている。そこに眠るのは美しい女性のはずだ。めしいたこの瞳では、その姿を見ることは叶わない。だが、形取られるその人型は、あまりにも清らかだ。

「すべてを慈しみ愛されしこの者に、絶え間ない青龍の加護を」

 そのゆらめきを前に祈りを捧げる。人型をしたそれが、共鳴するようにレミュリオに波を返した。

「ラウエンシュタインの力は、実に興味深いですね……」

 そうひとりごち、目の前のゆらめきに手のひらを押し当てる。そのまま押し込もうとするも、弾力ある幕が明らかな拒絶を示した。

「それ以上、ボクの妻に近づかないでもらえますか?」

 前触れなく背後からかけられた声に、レミュリオは静かに振り返った。

「これはラウエンシュタイン公爵代理。お戻りになられていたのですね。心配なさらずとも、近づきたくともこれ以上わたしには近づくことはできませんよ」
「用が済んだのなら、今すぐ帰ってください」
「そのようにマルグリット様を大事に思うのならば、ここへはもっと足を運んでいただきたいものですね」
「気やすく妻の名を呼ばないでほしいのですが」
「おや、それはたいへん失礼しました」

 イグナーツから放たれた殺気をものともせず、レミュリオは静かにほほ笑み返した。

「では、ひと月後にまた参ります。こればかりは神官としての重要な職務ですので、どうぞご容赦を」

 脇をすり抜けるようにレミュリオが部屋を出ていった。神職者は肌に合わない。特にあのレミュリオは最悪だ。理由もなくそう感じるが、ああいった人間は涼しい顔をしながら、腹に野心を抱えているものだ。

 一人取り残された部屋で、イグナーツは大きな寝台へと目を向ける。
 花に埋もれるようにして横たわるのは、若く美しい女性だ。蜂蜜色の長い髪が、あの日と変わることなく艶やかな川を描いている。

 イグナーツは水のカーテンへと歩み寄り、その中へと足を踏み入れた。こぽりとゆらめく水へと入り込む。水と言っても、龍が視せる幻影だ。呼吸がさえぎられることはない。

 自分以外、入ることは許されない。ここは、小さな聖域だ。

 寝台に手をついて、その顔を覗き込む。ただ静かに眠っているようにも見えるその体は、だが息をすることは決してない。
 目の前にあるのはただの入れ物だ。ここに彼女は欠片もいない。

 それでもその冷たい唇に、イグナーツは口づけを落とさずにはいられなかった。

「マルグリット……」

 落ちた涙はとりまく水にからめとられ、泡のように溶け込んでいった。

     ◇
 翌日すっきりと目覚めたリーゼロッテは、お腹がすくことなく朝を迎えた。力を果たした影響は、もうすっかりなくなったようだ。

「本日は夜会のドレスの仕立てでマダム・クノスペ来る予定です」

 エラに髪を梳かれながら、リーゼロッテは若干遠い目になる。

「あの時間がまたやってくるのね……」

 お針子たちに囲まれて、あちこち採寸されまくるのだ。リーゼロッテはここ最近体型が変わってきている。ドレスの微調整はどうしても必要なのだが、着せ替え人形にでもなったと思わなければ、あの時間は耐えられそうもない。

「今回は夜会に出るための一着のみと聞いていますから、先日よりも短いのではないでしょうか」
「本当? ならよかったわ」

 ほっと息をつくと、何かを思い出しようにリーゼロッテは小さな手鏡をその手に取った。確かめるように、いろいろな角度から自らの顔を覗き込む。

「お嬢様? お顔に気になる所でもございますか?」
「それがどこもおかしくないの……」

 その返答に、エラは横にいたベッティと目を合わせた。そのベッティもよくわからないと首をかしげている。

「おかしくないのは何よりですが……何かほかに気がかりなことがあるのですか?」
「昨日からジークヴァルト様と目が合わなくて」

 そう言いながら、リーゼロッテは鏡の中をしげしげと眺めた。にこっと笑ってみたり、口を開いたり閉じたり、顔を傾けて斜めからのぞき込んだりをくり返している。

「なんだか口元ばかりを見られているような気がするのよね」

 その言葉にエラはまあ、と言って瞳を輝かせた。昨日のふたりの様子を振り返る。確かに公爵の言動は、エラの目から見てもちょっとおかしく見えた。

「もしかして公爵様は、お嬢様に口づけをなさりたいのではないでしょうか?」
「ジークヴァルト様が? わたくしに?」

 目を丸くしたリーゼロッテは、次いでくすくすと笑いだした。

「あのヴァルト様がまさかそんなこと。エラったら本当におかしいわ」

 思いもよらなかったことを言われたといったリーゼロッテに、エラは少しばかり苦笑した。この幼いお嬢様は、まるで公爵の思いに気づいていない。はた目から見てこれ以上なく溺愛されているというのに、その無垢さがたまらく愛おしく思えてしまう。

「ねえ、ベッティもそう思うでしょう?」

 リーゼロッテが同意を求めると、ベッティは「本当にそうでございますねぇ」と腹話術のように唇を動かさずに早口で答えた。その小鼻がぷくりと膨らんでいる。きっと笑いをこらえているのだろう。

(こんなにも愛らしいお嬢様に、もし公爵様の思いが爆発したら……)
 リーゼロッテが無茶苦茶にされてしまうのではないのだろうか。エラは一瞬で青ざめた。

「ベッティ、あとで公爵様のことで相談が……」

 小声でそう耳打ちをする。この後エラは、王城でのジークヴァルトの暴走を知らされ、リーゼロッテの貞操を守る決意を固めることになる。せめてふたりの婚姻が果たされるまでは、身を挺して守り抜かなければ。

 エラとベッティの間で、リーゼロッテ保護同盟がひそかに結ばれたのであった。




【次回予告】
 はーい、わたしリーゼロッテ。年の瀬が迫る中、夜会の準備にいそしむわたしたち。新年を祝う夜会を前に、不穏な影が迫りゆく!? みなの思いが折り重なって、たどり着く先にあるものは……。2章もクライマックス目前! 王子の心を溶かすことはできるのか!?
 次回、2章第25話「陰謀の夜会 –前編-」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!

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