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第2章 氷の王子と消えた託宣

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 返事を待たずに扉を開け放つ。テーブルに足を乗せ、両脇に女をはべらせたイグナーツがご機嫌そうに酒を飲んでいた。

「よぉ、カイ、春ぶり。なんかお前、でかくなったじゃね?」
「やだぁ、カイ坊ちゃん、でかくなってるぅ」

 女の肩に手をかけたまま、軽く指を上げる。両脇の女も相当出来上がっているようで、けらけらと笑いながらイグナーツの胸を意味もなくバンバン叩いている。

「ねえ、ふたりとも。悪いんだけど、今日はもうあっちで飲んできてくれる? イグナーツ様が全部おごってくれるからさ」
「えー?」
「でもぉ」

 両脇の女がイグナーツにしなだれかかりながらしがみつく。グラスを片手にイグナーツは、その様子をへらへらとした顔で見やっている。

「今度、王都で流行りの菓子を山盛り持ってくるからさ」

 にっこり言うと、女たちの目が輝いた。イグナーツを押しのけるように前のめりになる。

「王都ではやりの?」
「あのきれいでたっかいやつ?」

 カイが満面の笑みで頷くと、女ふたりはあっさりと立ち上がった。

「んじゃあイグナーツ様ぁそゆうことで~」
「またうちらをご指名してねん~」

 両脇からぶちゅっと頬に口づけられ、イグナーツは再び締まりのない顔でヘラっと笑った。

「おうよ、またよろしくな~」

 ひらひらと手を振ると、女たちは千鳥足で部屋を出て行こうとする。カイが自然な動作で扉を開けると、女たちはけらけらと笑いながら、カイの頬にも熱烈なキスを落として出ていった。
 笑顔のままふたりを見送ってから扉を閉めたカイは、酒臭さが残る口紅を自身の袖で無造作にふき取った。

「へっ、相変わらずの酒嫌いだな」

 イグナーツ自身は両頬にべったりと赤い口紅を残したまま、酒瓶へと手を伸ばす。それをさっと取り上げると、カイは届かないようにテーブルのきわへと置いた。

「ルチアをどこにやったんですか?」

 ばん! とテーブルに手を着くと、イグナーツはそれをけるように、いまだテーブルに上げていた足をおろした。

「なんだよ、やぶから棒に」

 空になったグラスを片手で弄びながらへらりと笑う。その様子にルチアの置手紙を取り出して、カイはテーブルの上に広げて見せた。

「とぼけないでください。アニータ・スタン伯爵令嬢。ルチアの母親の正体は彼女でしょう?」

 その名にイグナーツが一瞬、真顔になった。金色の瞳がゆっくりと斜め上を向く。

「何のことだかわからねぇな」

 下手な口笛を吹くようなそのそぶりに、半眼となったカイは再びテーブルをバンと叩いた。

「分かっているんですか? ルチアの存在は、国の命運を左右するかもしれないんですよ!」

 真剣に言いつのるカイをちらりと見やり、イグナーツはだらしなく背もたれに背を預けた。そのままグラスをことりと置くと、その縁にゆっくり指を滑らせる。

「なあ、カイ。お前、王子の託宣の相手を探してるんだろう?」
 ぴんと弾くとグラスは不安定に揺れて、少しだけ奥へと移動した。

「だったら、無駄なことはやめとけやめとけ」
 ひらひら手を振って、イグナーツは上機嫌な様子で再びへらりと笑った。

「一体どういう意味です? イグナーツ様、あなたは何をどこまで知っているんですか?」
「さあな」

 身を乗り出して、イグナーツは端に置かれた酒瓶を手に取った。酒をグラスに注ぐと、すかさずカイがそれを取り上げる。

「お前母ちゃんみたいだな」
 おもしろそうに言ってイグナーツは、手にした瓶から残り少ない酒を直接あおった。

 ぶはぁと酒瓶から口を離したイグナーツを、心底嫌そうな目つきで見やる。それでもカイは努めて冷静に、その瞳を覗き込んだ。

「オレ、あなたのご息女にお会いしましたよ」

 その言葉にふらふらしていたイグナーツの動きが止まる。

「この秋、ご立派に社交界デビューを果たされました。ハインリヒ様のお相手が見つからないということは、ご息女の未来も危うくなる。つまりは、そう言うことなんですよ」
「へっ、ロッテにはジークヴァルトの坊主がついているんだろう? この国がどうなろうと、あいつにまかせときゃ問題ねえよ」

 対の託宣を受けた男とはそういうものだ。その事を身をもって知る瞳は、カイの言葉に揺らぐことはない。

「ご息女にお会いにならなくてよろしいんですか?」
「……オレはあいつを捨てたんだ。今さらどのつら下げて会いにいけるってんだ」

 唇をへの字に曲げたイグナーツの顔が、みるみるうちに歪んでいく。ふるふると口を震わせ、眉間にしわが寄せられた。

(うわ、来る)

 カイがそう思った瞬間、イグナーツは大粒の涙を溢れさせてわんわんと大声で泣き始めた。

「うおぉぉぉっリーゼロッテぇ、ふがいないオレを許してくれぇぇっ」

 そのままテーブルにつっぷしておいおいと泣きだした。その音量に耳を塞いだまま、カイは面倒くさそうに、それでも律儀にイグナーツのための言葉を探した。

「ご息女はそんなことを気にするような方ではありませんよ。とてもやさしい素直なご令嬢にお育ちです」
「そうだろうとも! リーゼロッテは昔から素直で可愛くて天使のようで……! ダーミッシュ伯爵、本当にいい人そうだもんなぁ。あそこに行ってホント正解だったってことだよなぁ……やっぱりオレなんかとはいない方が、ロッテに、ロッテにとってはしあわせなんだぁぁあぁうぁぅ」

 大の男が大号泣する様は、果てしなく鬱陶しい。ご婦人相手ならやさしく慰めようという気にもなるが、カイはうんざりした様子で懐に手を入れた。

「もういいです。ルチアの件は自分で何とかしますから。デルプフェルト家を舐めないでくださいよ」

 デルプフェルト侯爵家は、もともとザイデル公爵家のための諜報に特化した一族だった。それが、前公爵の謀反むほんによって、王家に膝をつく形となった。とがを負わない代わりに忠誠を誓い、その配下で動くようになって今に至る。

「今日ここに来た本題はこちらです」

 取り出した書状を広げると、ぐずぐずと泣き続けるイグナーツの頭に、嫌がらせのように押し付けた。

「三日以内にラウエンシュタイン家にお戻りください。戻らなかった場合、王家の馬車で迎えに行く許可をディートリヒ王から取り付けてあります」

 その言葉にイグナーツはがばりと顔を起こした。

「あんな趣味のわりぃもんよこすなよっ」
「そう思うなら、ご自分でお戻りになってください。三日以内です。いいですね?」

「……お前、年々可愛げがなくなってんぞ」
「そんなもの、初めから持ち合わせていませんよ」

 冷たい表情でカイが返すと、イグナーツは「違いねぇ」と愉快そうにカイを見やった。相変わらず、表情がくるくると変わる男だ。リーゼロッテが泣き上戸なのは、この男譲りに違いない。

 そう納得すると、カイはもう用はないとばかりに、書状を机の上に残したままその場を出ていった。

 酒臭い空間にひとり残されたイグナーツは、書状を指で弄びながらしばらくぼんやりと頬杖をついていた。思い出したように、テーブルの上にあった酒の残ったグラスに手を伸ばす。それを掴もうとした瞬間、それは何者かにひょいと取り上げられてしまった。

「今宵はもうこれくらいになさった方がよろしいかと」

 テーブルの脇に黒装束の女が立っている。気配を感じさせないその女は、顔にまるで表情というものが見いだせない。

 驚きもせずその女の顔を見上げると、イグナーツは言葉を選ぶようにゆっくりとした口調で言った。

「ボクの指示したとおり、アニータ嬢は、あちらに、無事に着いたのですか?」
「万事滞りなく」
「そうですか。それはありがとう。ご苦労様です」

 そう言って、疲れたように息を吐く。

「仕方がないので、明日にはラウエンシュタイン家に戻ります。すみませんが、馬車の手配をお願いできますか?」
「仰せのままに」

 静かに頭を下げると、その女はふっとその場からかき消えた。彼女はラウエンシュタイン家に仕える間諜のような存在だ。イグナーツを陰から支えるその徹底ぶりは、あのカイですらその存在に気づくことはない。

「あー……行きたくねぇなぁ……」
 だらしなく椅子に背を預けて、イグナーツは天井を仰いだ。

「会いてぇよぉ、マルグリットぉ……」

 その目じりから涙が流れ出る。辛気臭いその涙は、酒場の主人ルイーダが様子を見に来るまで、しとしとと止めどなく流され続けた。
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