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第2章 氷の王子と消えた託宣

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 扉の手前で立ち止まったカイは、一拍置いてから振り返った。何かを躊躇ちゅうちょしているようなそぶりに、ハインリヒは眉をひそめる。

「何か言いたいことでもあるのか?」

 そう問うとしばしの後、カイは心を決めたように口を開いた。

「確定事項ではないので、過度な期待はせずにお聞きになってください。王家の血筋と思われる十三歳の少女が見つかりました。龍のあざを持つかは調査中です。結果は近日中にお知らせできるかと」

 その言葉に真顔になって、ハインリヒは「わかった」とだけ言って頷いた。自分の託宣の相手が見つかるかもしれない。表情とは裏腹に、鼓動だけが早くなる。

 カイが部屋を出て行って、入れ替わりのように宰相であるブラル伯爵がやってきた。ブラル伯爵はディートリヒが王位についた頃から宰相を務める優秀な人物だ。最近では、執務を受け継ぐハインリヒを補佐することが多くなった。
 王太子とは言え若造と侮る貴族が多い中、ブラル伯爵はハインリヒに対して常に敬意を払って接してくる。古株の貴族の中ではめずらしい存在だった。

「お時間をいただきましてありがとうございます。王太子殿下はこの後、確か会食がございましたね。少しでもご休憩時間がとれるよう、手短にお話しさせていただくとしましょう」

 たれ目をやさし気に細めながら、ブラル伯爵は薄い書類の束を手渡してきた。

「新年を祝う夜会の出席者のリストでございます。簡単に注意事項もまとめてありますので、夜会までに一通り目をお通しになっておいてください」

 新年を祝う夜会は、毎年王城で開かれる王家主催の舞踏会だ。領地に引きこもって年を明かす者もいるが、王都に残る貴族の多くがこぞってこれに参加する。年末年始をまたいで夜通し行われるこの夜会は、極寒の真冬に唯一開催される大規模なものだった。

 ハインリヒはリストに目を落とすと、眉根を寄せた。各貴族の最近の動向が、注意事項として記載されている。領地経営でどんなトラブルを抱えているとか、こんな野心を持っているとか、考慮しておくべきそんなたぐいの事だ。

「グレーデン家の不正はまだ野放しなのか? 資金の流用で領地の整備が行き届いてないと聞く。父上は何をお考えなのだ」
「いやはや、王太子殿下の民を思うお心にはいつも感服させられますな。とは言ったものの、貴族たちにある程度いい思いをさせるのも、まつりごとの一環と言えましょう。ディートリヒ王もきちんとお考えの上での事にございますよ」

 しかし、と反論しようとするハインリヒに、ブラル伯爵はうんうんと頷きながらやんわりと言葉を遮った。

「王太子殿下の御代みよとなった折が楽しみですな。いや、この国の未来は明るい。我が子の暮らす世が安泰と言うのは、誠に喜ばしいことです。いえ、我が娘イザベラは少々甘やかして育てすぎたせいか、なかなか気の強い娘に育ってしまいまして。そんなイザベラが乱世に生きようものなら、勇ましく前線に飛び出しかねないと常々心配を……」

 口をはさむ余地なくしゃべり続けるブラル伯爵を前に、ハインリヒは言いかけていた言葉を飲み込んだ。そんな様子に気づいたブラル伯爵は、頭に手をやり朗らかに笑った。

「いやはや、誠に申し訳ございません。遅くに授かった娘ですので、どうにも猫っ可愛がりをしてしまいまして。何にいたしましても、新年を祝う夜会は貴族たちにとって、長い冬唯一の娯楽でございます。政治的駆け引きは必要最低限に留め置くのが、最良の判断と言えましょう」

 宰相の立場も相まって、誰からも一目を置かれるブラル伯爵だが、このおしゃべりのせいでまるで威厳というものが感じられない。
 誰に対しても態度が変わることのないこの人柄は、やんわりと相手のふところに入り込んでしまう。宰相という地位にありながらも、目立った敵がいないのもそのためだ。これが計算ずくというのなら、この男こそ、人を束ねる王に相応ふさわしいのかもしれない。

「宰相の方がよほど施政者に向いているな」
 思わず弱音を漏らしてしまう。

「何をおっしゃいますか。わたしごときは、使われてこそ能力を発揮できる人間です。上に立つべき者の資質など、これっぽっちも持ち合わせてなどおりませんよ」

 だが、ブラル伯爵には伝わっているはずだ。焦りと劣等感を、常にハインリヒが抱えていることに。

「王太子殿下はこれ以上なく努力を重ねておいでです。何、このブラルが保証いたします。伊達だてに何年もおそばでお仕えしておりませんよ」

 たれ目をさらにたれさせて朗らかに笑った後、ブラル伯爵はすっと真顔になった。

「そちらのリストには載せてはおりませんが、本人たっての希望でミヒャエル殿が夜会に出席することとなりました」
司祭しさい枢機卿すうきけいが?」

 ブラル伯爵は神妙に頷いて見せる。神殿の人間が貴族の夜会に出席することはほとんどない。主催する貴族が招くことはあっても、自らが要望するなど常識では考えられないことだった。

「不穏な噂も多い男です。彼にだけは、十分お気をつけくださいますよう」
「分かった。注意しよう」

 声をひそめて言うブラル伯爵に、ハインリヒは深く頷いた。

 ミヒャエルは神殿組織で、神官長に次ぐ地位につく男だ。司祭枢機卿などという肩書も、半ば強引に自らが作り上げた称号だった。
 当代の神官長は敬虔けいけんな人物で、地位や権力などにまったく興味を持たない根っからの神職者だ。人望は厚いものの、組織をまとめ上げるには不向きな人間と言えた。

 それをいいことに、ミヒャエルは周囲の人間を金品や脅しでからめとり、その権力を年々増してきている。ここ数年の目に余るほどの増長は、多くの貴族から不興を買っていた。
 だが神殿は龍から賜る託宣を、一元に管理する役割を担っている。王家と言えどおおっぴらに手を出すことができない仕組みが、長い歴史の中で確立されていた。

「とは言え、ディートリヒ王にお任せしておけば大事はないでしょう。時に王太子殿下。今年はどなたかご令嬢をエスコートする予定はございますか?」

 ブラル伯爵は龍の託宣の存在を知らない。宰相として、ただ国の行く末を案じているのだろうことは分かるのだが、ハインリヒの口からは重いため息が漏れて出た。

「今年もその予定はない」
「いやはや、さようでございますか。そこで王太子殿下に、お伺いするだけお伺いしたいことがあるのですが……」

 再びニコニコ顔になったブラル伯爵は「なんだ?」という返事に、声をひそめるように少しだけ前のめりになった。

「わたしの娘のイザベラなのですが、王太子殿下の夜会のパートナーにどうかと思いまして」
「すまないがそれは無理だ」

 即答したハインリヒに、ブラル伯爵は安堵したようにうんうんと頷いた。

「そうでしょうそうでしょう、いやはや安心いたしました」

 自分で聞いておいてその反応はないだろう。訝し気な顔のハインリヒに、ブラル伯爵は裏のない笑顔を向けた。

「いえ、わたしには子供がもうひとり、長男のニコラウスがいるのですが、恥ずかしながらニコラウスは愛人に産ませた子供なもので、妻が家督を継がせることに難色を示してですね。いや、妻とニコラウスの仲は良好なのですよ。ですが妻にしてみれば、やはり血を分けた娘が可愛いというのは人のさが。いろいろと話し合った結果、我がブラル家は婿養子を迎えてゆくゆくはイザベラの子供に継がせようということになりましてね。ニコラウスもそこのところは十分納得しておるのです。しかし当のイザベラは兄を差し置いてそんなことはできないと、他家へと嫁ぐと言ってきかなくてですね。いやはや、兄思いの心根のやさしい娘に育ってくれてわたしも感激のあまり涙が止まらなくなり……」

「宰相……それで、一体何が言いたいのだ?」

 放っておくといつまでもしゃべっていそうなブラル伯爵を、ハインリヒはようやくの思いで制した。

「ああ、これはとんだご無礼を。可愛い娘のことになるとどうにも親馬鹿になっていけませんな。まあそんな事情でして、妻がもしもイザベラを王族へと嫁がせることができるのならば、ニコラウスに家督を譲っても構わないと申してですね。王太子殿下に一応聞くだけ聞いてみようと、あのようなことをお伺いした次第です。いや、わたしも殿下のお返事は分かり切ってはいたのですが、何せ妻にはわたしの嘘が一切通用しなくてですね。お伺いせぬままやはり無理だったと言うのは何と申しましょうか、どんなにうまく誤魔化しても妻には見抜かれてしまうというか」

「事情はわかった。しかし宰相は、わたしの不興を買うとは思わなかったのか?」

 マシンガントークを繰り広げるブラル伯爵を、ハインリヒは呆れたように手で制した。託宣の存在を知らないとしても、ハインリヒが近づく令嬢たちを冷たくあしらっている姿は何度も目にしているはずだ。そのたびに不機嫌になっている様子も、ずっとそばで見ていただろう。

「王太子殿下は理由なく理不尽な行いをするお方ではありませんよ。そのようなことくらい、おそばで見ていれば容易に分かるというものでしょう」

 やさし気に目を細めたブラル伯爵は、おべっかを使っているようには見えない。心からそう思っているだろうことが伝わってきた。

「そうか」

 こんな父親がいてくれたらさぞかし心強いだろう。複雑な心境になりながら、ハインリヒはニコラウスが少しだけうらやましいと感じていた。

「ご休憩が取れるようにと申し上げながら、余計な時間を頂いてしまいました。いやはや、つい話し過ぎてしまうのはわたしの悪い癖です。今日のところはここらで退散すると致しましょう」

 始終笑顔のまま、ブラル伯爵は部屋を辞していった。ひとり残されたハインリヒは疲れたように深いため息をつく。

 夜会のリストに目を落とす。そこにはアンネマリーの名も載っていた。

 アデライーデへの償えぬ罪。間もなく見つかるかもしれない託宣の相手。
 それらを前にしてもなお、この頭の中を占めるのはやはりアンネマリーなのだ。王太子である以前に、人としてもう終わっている。アンネマリーのいない日々だけが、当たり前の日常になり得ない。自分でも嫌気がさすほど、彼女ばかりを渇望してしまうのはなぜなのか。

 どうしようもなくなって、ハインリヒはとうとうその鍵を開けてしまった。自分の弱さにこれ以上ない苛立ちを覚えるが、引き出しの奥にあるそれに、手を伸ばさずにはいられなかった。

 脳裏に浮かぶはただひとり。
 冷えた懐中時計を握りしめ、ぎゅっとそのまぶたを閉じる。

 ――アンネマリー
(君に、会いたい)
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