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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 乗ってきた馬車に再び乗り込み、グレーデン家を後にした。今、この中にいるのは、ジークヴァルトとリーゼロッテだけだ。

「あの、ヴァルト様……」
「なんだ?」

 ジークヴァルトの膝の上に乗せられたリーゼロッテは、先ほどから自分の髪をせっせと編み込んでいるジークヴァルトに戸惑いを隠せなかった。
 膝に乗せられることが当たり前のようになっている事態もアレなのだが、今はそれ以上に、なぜジークヴァルトが自分の髪を結っているのかが分からない。

「あの、髪はそのままでも……」
「問題ない」

 そっけなく言って、ジークヴァルトはリーゼロッテのハーフアップにした髪を器用に整えていく。最後にどこからともなく出した青いリボンを、しゅるりと巻き付けた。
 その手つきは、あまりにも迷いがない。仕上げにきゅっとリボンを整えると、ジークヴァルトはいったんリーゼロッテの髪から手を離した。

(めっちゃ可愛くなってる!?)
 馬車のガラスに映る自分の姿を見て、リーゼロッテはその目を大きく見開いた。

 この世界の貴族男性は、一体どうなっているというのだろう。紅茶を淹れるのがうまい侯爵家のカイ。刺繍の達人子爵家ヨハン。ジークヴァルトに至っては公爵だ。そんな彼が髪結い名人とはなんたることだ。

(この世界の貴族男性は、女子力が高いのが当たり前なのかしら……)

 そんなことを思っていると、再びジークヴァルトがゆっくりと髪を梳き始めた。触れる指先がなんとも心地いい。

(ジークヴァルト様って、本当に髪を梳くのがお好きよね。でも、これをされると、眠くなっちゃうから困るのだけど)

 しかし、ここで寝入っては、遠足帰りの子供のようになってしまう。リーゼロッテはふんぬと目を見開いて、眠気をなんとか振り払おうとした。

「疲れただろう? 眠っていい」
「いえ、そのような訳には」

 自分はもう、社交会にデビューした一人前の貴族だ。お茶会帰りの馬車の中、婚約者の膝の上でおねむなど、どうしてそんなことができようか。

「また、怖い思いをさせた……」

 不意にぽつりと言葉が落ちる。はっとして顔を上げると、苦し気な瞳でジークヴァルトはこちらを見ていた。リーゼロッテはこの目を知っている。ジークハルトに体を乗っ取られたあの日、こんな表情かおをジークヴァルトは確かにしていた。

 ――ヴァルトが死にそうな目にあったのは、一度や二度のことじゃないよ

 あの日のジークハルトの言葉がよみがえる。ジークヴァルトは子供のころから異形に狙われ続けている。リーゼロッテが狙われるのも、ジークヴァルトの託宣の相手だからだ。
 でも、それは違う。唇をかみしめて、リーゼロッテは小さく首を振った。

「ジークヴァルト様のせいではございませんわ。それに、お借りしていた守り石がわたくしを守ってくれました。でも、もし、わたくしがもっとちゃんと力を扱えていたら……」

 あの青く揺らめく守り石が、無残に砕け散ってしまうことはなかったかもしれない。

「守り石など、いくらでも替えがきく」
 低く言ってジークヴァルトは、リーゼロッテを抱きしめる手に力を入れた。

(そうか、ヴァルト様は……)

 自らが味わってきた恐怖を知っているからこそ、この自分を同じ目に合わせたくないのだ。だから、あんなにも過保護で心配ばかりするのだろう。
 義務感からだとばかり思っていた自分が急に恥ずかしくなる。ジークヴァルトはこんなにも、いつでもこの身を案じてくれているというのに。

 先ほどの深紅の女の姿が、再び脳裏に浮かぶ。

(星を堕とす者……)

 カイは出くわすことはないと言っていた。だが、実際にはそれが自らリーゼロッテの元にやってきた。悪意に満ちた異形の女は、確かにあの時笑っていた。そう、それはまるで――
 宣戦布告のように。

「星を堕とす者はなぜ……」

 単純に考えて、ジークヴァルトの婚約者である自分を狙ってきたのかもしれない。だが、カイにしても、ジークヴァルトにしても、まったくの予想外だったという反応だ。
 いずれにせよ、カイの慌てぶりから察するに、危険で不穏ふおんな存在であることには間違いないのだろう。

「二度とあんな目に合わせはしない。お前は必ずオレが守る」

 ジークヴァルトの言葉にリーゼロッテは素直にうなずけなかった。自分はいつだって足手まといになるばかりだ。女だから、婚約者だから。守られて当然なのだと、とてもそんなふうには考えられない。

 自分には力がある。それが、きちんと使いこなせさえすれば――
(星を堕とす者だって、天にかえすことができるかもしれないのに……!)

 そこまで思ってリーゼロッテははっとした。

「ジークヴァルト様……ジョンは、この後どうなってしまうのですか?」

 もたれかかっていたジークヴァルトの胸から体を起こし、その顔を不安げに見上げた。もし本当に、泣き虫ジョンが星を堕とす者だというのなら、無理やりにでもはらわれてしまうのかもしれない。

 会いに行くたびに、いつもジョンから感じていた感情を思い出す。悲嘆ひたん悔恨かいこん、その中にひそむ孤独とやるせなさ。それらひとつひとつは、まさに人としてのそれだった。どうしてそれが禁忌きんきを犯した異形だというのか。

「それはオレにもわからない」
 静かに言うとジークヴァルトは、肩に回していた手に少しだけ力を入れて、リーゼロッテの体を再び自身へと引き寄せた。

 ジークヴァルトに頭を預けて、その胸の鼓動を聞く。一定のリズムに包まれて、次第に穏やかな気分になるのがわかる。ここは無条件で許される場所だ。腑に落ちたように、なんの脈絡もなくそんなことを思った。
 と同時に、異形が無理やり祓われるときの感覚がよみがえる。異形は人だ。少なくとも、そうなる前は人だった。苦しみで凝り固まったまま、異形たちはみな動けないでいる。そこを引きちぎるように力づくで天に還すのだ。

「だめ……!」
 リーゼロッテは自身の顔を両手で覆った。

「お願い……ヴァルト様、ジョンを……ジョンを殺さないで……!」

 そう言ってしがみつくようにジークヴァルトの胸に顔をうずめる。自分でも何を言っているのかわからない。ジョンはすでにこの世の者ではないというのに。

「……今日はいろいろあった。疲れているんだ。到着まで少し休め」

 そう言ってジークヴァルトは再びリーゼロッテの髪を梳きだした。ゆっくりと、やさしく。なだめるように。安心させるように。

「……ごめんなさい」
 そう呟きながら、リーゼロッテは泣き疲れた子供のように、いつの間にか眠りについた。

 無防備に眠るリーゼロッテの顔を、ジークヴァルトは飽くことなくじっと見つめていた。あどけないその寝顔は、まるで疑うことを知らないようで。

 彼女はなぜこんなにも簡単に、こころを他者に明け渡してしまうのだろう。
 異形など、人を害する不要のものだと思っていた。だが、彼女はそれらにすら、真摯しんしに寄り添おうとする。誰に言われるでもなく、ただそうすることが当たり前だと言うように。

 その瞳に映る者はこの自分ただひとりでいい。いっそ部屋に閉じ込めて、彼女をすべての危険から遠ざけてしまいたい。
 そんな仄暗ほのぐらい感情が湧き上がってくる。

 その時彼女は、まだ自分に笑顔をむけてくれるだろうか――

 揺れる馬車の中でリーゼロッテの髪を梳きながら、ジークヴァルトはそんなことをひとり考えていた。
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