313 / 506
第2章 氷の王子と消えた託宣
4
しおりを挟む
「夜会でバルバナス様にも同じことを言われましたわ」
「バルバナスに? そう、めずらしく白の夜会に出席したそうね。あの子もいい年をして、いつまでもふらふらと。本当に困ったものだわ」
女帝の手にかかれば、王兄バルバナスもあの子扱いのようだ。
「はい、アデライーデ様とご一緒の時にお会いいたしました」
リーゼロッテのその言葉に、ウルリーケがはっとした様子でこちらを見た。リーゼロッテは何かまずいことを言ったのかと、無言でその顔を見つめ返した。
「アデライーデは……元気にしているのね?」
「はい、とても。わたくしもアデライーデ様にはよくしていただいて……」
「そう。ならいいわ」
温室の外の雪景色を眺めながら、ウルリーケは静かに言った。その姿は、女帝という強い存在には程遠い。リーゼロッテの目には、ひとりのさびしい年老いた女性に映った。
ふとウルリーケの手が細かく震えているのが目に入る。その指先に黒いモヤがまとわりついていた。それは、異形の者というより、異形の残り香のような影で、ひどく薄汚れた重たいものだ。
「グレーデン様……」
「ウルリーケとお呼びなさい。許します」
鷹揚に言われ、リーゼロッテは臆することなく、できる限り親し気に微笑んだ。
「ありがとうございます、ウルリーケ様。お言葉に甘えさせていただきますわ。……あの、よろしければ、ウルリーケ様のお手に触れてもかまいませんか?」
「ふん、医者の真似事でもしようと言うの?」
ウルリーケにも自分の手のモヤが見えるのだろう。馬鹿にしたような言葉を乗せるが、ウルリーケは自ら手を差し伸べてきた。
リーゼロッテは椅子から立ち上がり、ウルリーケのそばへと近づいた。手を取る前に軽く礼をとってから、シワの刻まれたやせ細った手を自身の手のひらで包み込む。
ひやりと冷たい指先に、リーゼロッテはそっと自身の力を振りまいた。いつもより、ほんの少しだけ意識を傾けて力を流す。
あたたかなその感覚にウルリーケは僅かだが目を見開いた。常に感じていた不愉快な手のしびれが、嘘のように消えていく。リーゼロッテが手を離した後も、その心地よい熱は残されたままだった。
「お前はマルグリットとはまるで正反対ね。似ても似つかない」
先ほどと真逆の言葉を口にする。鼻で笑うようなしぐさがエーミールにそっくりだ。いや、エーミールがウルリーケに似ているというべきなのだろう。
「わたくし、母の思い出はほとんど持ち合わせておりません。ウルリーケ様、よろしければ母のことを、お話しくださいませんか?」
リーゼロッテはスカートが汚れることも厭わず、ウルリーケのそばで膝をついた。そのままウルリーケの膝の上へと手を乗せる。
よく見ると、ウルリーケのいたるところにモヤがまとわりついていた。ウルリーケもその手を払いのけるでもなく、リーゼロッテの好きにさせている。それを見て取り、リーゼロッテは遠慮なく丹念に黒いモヤを祓っていった。
「ふん。あの娘のことなど思い出したくもない。とにかく生意気な令嬢だったわ。わたくしの言うことなどまるで聞きもしない」
「まあ、そうだったのですね。いけないお母様ですわ」
見上げるように微笑んで、リーゼロッテは小首をかしげた。大方のモヤを祓い終わると、手の震えが幾分か小さくなっている。ウルリーケも少しは楽になったようだ。
おそらく異形の存在を知らなかった頃のリーゼロッテと同じような状態なのだろう。日常、体に重みを感じていた日々を思い出す。ウルリーケはモヤが視えても、祓う力がないのかもしれない。だが、視える分だけ、鬱陶しいことこの上ないのではないだろうか。
ふと思って、リーゼロッテはカイから渡されたジークヴァルトの守り石を取り出した。
「こちらがあれば、しばらくモヤは寄って来られないと思いますわ」
「それはお前の物でしょう?」
「いえ、わたくしが頂いた物ではないのですが……」
返答に困り、リーゼロッテは曖昧にほほ笑んだ。後でジークヴァルトに言えば、許してくれるに違いない。
「ウルリーケ様は、普段はどうなさっておられるのでしょう? エーミール様に祓っていただいているのですか?」
守り石はうやむやにして渡してしまおう。ジークヴァルトには事後報告をして、了承を得たことを後日ウルリーケに手紙で伝えればいい。そう思って、話題を変えようとエーミールの名を口にした。かわいい孫の話題なら、きっと話も弾むに違いない。
「ふん、あの子はここに近寄りもしない」
憎々し気な口調は、今日一番と言えるものだった。
(エーミール様、めっちゃ嫌われてる!?)
「まあ! エーミール様もいけない方ですわね」
もうエーミールは悪者にしてしまえ。こんなにも弱っている祖母を放っておくなど、孫として、人として、言語道断な振る舞いだ。
「ウルリーケ様。よろしければ、またわたくしとおしゃべりしていただけますか?」
「……お前は誰に似たというのかしら? とてもマルグリットの娘とは思えないわ」
よほど母が気に入らなかったのだろうか? リーゼロッテはかわいらしく小首をかしげて無邪気に笑って見せた。
「ふふ、だってわたくしはわたくしですもの。マルグリット母様とは別の人間ですわ」
「ふん、それもそうね。いいでしょう。いつでもここへ来るといい」
ウルリーケはそういった後、再び温室の外に視線を向けた。
「……少し疲れたわ」
そう言って、ウルリーケは静かに立ち上がった。すぐさまメイドがやってきて、支えるようにそのそばに立つ。
「お前はもうしばらくここで景色を楽しむといいわ。ここからの眺めは、昔からずっと変わらない……」
最後の方はぽつりと漏らす。そのまま、振り返りもせず、ウルリーケはメイドに付き添われてその場を後にした。
(なんだかおさびしい方……)
その奥に潜む孤独を感じ取って、リーゼロッテは静かに温室の外の雪景色に目を向けた。
『うまいこと気に入られたみたいだね』
「わたくし、うまくやれたのでしょうか……」
日本での記憶だと、自分に今日のようなイベントを卒なくこなすことは難しいように思える。しかし、いざというときには何とかなるだろうという根拠のない自信が、リーゼロッテの中にはなぜだかあった。
出だしはヒヤッとしたが、ウルリーケにはいつでも来ていいと言われたし、ジークヴァルトの守り石も持って行ってもらえたようだ。これはうまくやれたとみていいのかもしれない。
『大丈夫じゃない? 彼女、気に入らない人間は徹底的に排除にかかるから』
軽い口調でそう言われ、リーゼロッテはそこでやっと驚いたように声の主を振り返った。
「ジークハルト様!?」
そこにはあぐらをかいて浮いている、ジークヴァルトの守護者の姿があった。目が合うと、にっこりと笑顔を返してくる。
「どうしてここに……」
グレーデン家はフーゲンベルク領から馬車で二時間程度の場所にある。ジークヴァルトと離れて大丈夫なのだろうか。
『いやあ、ヴァルトがさ、あんまりにもリーゼロッテが心配だ心配だって、うるさく言うもんだからさ。このオレがヴァルトに代わってここまでついてきたってわけ』
ぽかんとジークハルトを見上げたタイミングで、控えていたエラがリーゼロッテの元に戻ってきた。
「お嬢様?」
訝し気に声をかけられ、はっと居住まいを正した。自分以外にジークハルトの姿は見えない。このままエア会話を続けると、エラに余計な心配をかけてしまう。
「何でもないのよ。この温室が素晴らしくて、思わず花にしゃべりかけてしまったわ」
誤魔化すように言うと、エラは微笑ましそうに頷いた。
「バルバナスに? そう、めずらしく白の夜会に出席したそうね。あの子もいい年をして、いつまでもふらふらと。本当に困ったものだわ」
女帝の手にかかれば、王兄バルバナスもあの子扱いのようだ。
「はい、アデライーデ様とご一緒の時にお会いいたしました」
リーゼロッテのその言葉に、ウルリーケがはっとした様子でこちらを見た。リーゼロッテは何かまずいことを言ったのかと、無言でその顔を見つめ返した。
「アデライーデは……元気にしているのね?」
「はい、とても。わたくしもアデライーデ様にはよくしていただいて……」
「そう。ならいいわ」
温室の外の雪景色を眺めながら、ウルリーケは静かに言った。その姿は、女帝という強い存在には程遠い。リーゼロッテの目には、ひとりのさびしい年老いた女性に映った。
ふとウルリーケの手が細かく震えているのが目に入る。その指先に黒いモヤがまとわりついていた。それは、異形の者というより、異形の残り香のような影で、ひどく薄汚れた重たいものだ。
「グレーデン様……」
「ウルリーケとお呼びなさい。許します」
鷹揚に言われ、リーゼロッテは臆することなく、できる限り親し気に微笑んだ。
「ありがとうございます、ウルリーケ様。お言葉に甘えさせていただきますわ。……あの、よろしければ、ウルリーケ様のお手に触れてもかまいませんか?」
「ふん、医者の真似事でもしようと言うの?」
ウルリーケにも自分の手のモヤが見えるのだろう。馬鹿にしたような言葉を乗せるが、ウルリーケは自ら手を差し伸べてきた。
リーゼロッテは椅子から立ち上がり、ウルリーケのそばへと近づいた。手を取る前に軽く礼をとってから、シワの刻まれたやせ細った手を自身の手のひらで包み込む。
ひやりと冷たい指先に、リーゼロッテはそっと自身の力を振りまいた。いつもより、ほんの少しだけ意識を傾けて力を流す。
あたたかなその感覚にウルリーケは僅かだが目を見開いた。常に感じていた不愉快な手のしびれが、嘘のように消えていく。リーゼロッテが手を離した後も、その心地よい熱は残されたままだった。
「お前はマルグリットとはまるで正反対ね。似ても似つかない」
先ほどと真逆の言葉を口にする。鼻で笑うようなしぐさがエーミールにそっくりだ。いや、エーミールがウルリーケに似ているというべきなのだろう。
「わたくし、母の思い出はほとんど持ち合わせておりません。ウルリーケ様、よろしければ母のことを、お話しくださいませんか?」
リーゼロッテはスカートが汚れることも厭わず、ウルリーケのそばで膝をついた。そのままウルリーケの膝の上へと手を乗せる。
よく見ると、ウルリーケのいたるところにモヤがまとわりついていた。ウルリーケもその手を払いのけるでもなく、リーゼロッテの好きにさせている。それを見て取り、リーゼロッテは遠慮なく丹念に黒いモヤを祓っていった。
「ふん。あの娘のことなど思い出したくもない。とにかく生意気な令嬢だったわ。わたくしの言うことなどまるで聞きもしない」
「まあ、そうだったのですね。いけないお母様ですわ」
見上げるように微笑んで、リーゼロッテは小首をかしげた。大方のモヤを祓い終わると、手の震えが幾分か小さくなっている。ウルリーケも少しは楽になったようだ。
おそらく異形の存在を知らなかった頃のリーゼロッテと同じような状態なのだろう。日常、体に重みを感じていた日々を思い出す。ウルリーケはモヤが視えても、祓う力がないのかもしれない。だが、視える分だけ、鬱陶しいことこの上ないのではないだろうか。
ふと思って、リーゼロッテはカイから渡されたジークヴァルトの守り石を取り出した。
「こちらがあれば、しばらくモヤは寄って来られないと思いますわ」
「それはお前の物でしょう?」
「いえ、わたくしが頂いた物ではないのですが……」
返答に困り、リーゼロッテは曖昧にほほ笑んだ。後でジークヴァルトに言えば、許してくれるに違いない。
「ウルリーケ様は、普段はどうなさっておられるのでしょう? エーミール様に祓っていただいているのですか?」
守り石はうやむやにして渡してしまおう。ジークヴァルトには事後報告をして、了承を得たことを後日ウルリーケに手紙で伝えればいい。そう思って、話題を変えようとエーミールの名を口にした。かわいい孫の話題なら、きっと話も弾むに違いない。
「ふん、あの子はここに近寄りもしない」
憎々し気な口調は、今日一番と言えるものだった。
(エーミール様、めっちゃ嫌われてる!?)
「まあ! エーミール様もいけない方ですわね」
もうエーミールは悪者にしてしまえ。こんなにも弱っている祖母を放っておくなど、孫として、人として、言語道断な振る舞いだ。
「ウルリーケ様。よろしければ、またわたくしとおしゃべりしていただけますか?」
「……お前は誰に似たというのかしら? とてもマルグリットの娘とは思えないわ」
よほど母が気に入らなかったのだろうか? リーゼロッテはかわいらしく小首をかしげて無邪気に笑って見せた。
「ふふ、だってわたくしはわたくしですもの。マルグリット母様とは別の人間ですわ」
「ふん、それもそうね。いいでしょう。いつでもここへ来るといい」
ウルリーケはそういった後、再び温室の外に視線を向けた。
「……少し疲れたわ」
そう言って、ウルリーケは静かに立ち上がった。すぐさまメイドがやってきて、支えるようにそのそばに立つ。
「お前はもうしばらくここで景色を楽しむといいわ。ここからの眺めは、昔からずっと変わらない……」
最後の方はぽつりと漏らす。そのまま、振り返りもせず、ウルリーケはメイドに付き添われてその場を後にした。
(なんだかおさびしい方……)
その奥に潜む孤独を感じ取って、リーゼロッテは静かに温室の外の雪景色に目を向けた。
『うまいこと気に入られたみたいだね』
「わたくし、うまくやれたのでしょうか……」
日本での記憶だと、自分に今日のようなイベントを卒なくこなすことは難しいように思える。しかし、いざというときには何とかなるだろうという根拠のない自信が、リーゼロッテの中にはなぜだかあった。
出だしはヒヤッとしたが、ウルリーケにはいつでも来ていいと言われたし、ジークヴァルトの守り石も持って行ってもらえたようだ。これはうまくやれたとみていいのかもしれない。
『大丈夫じゃない? 彼女、気に入らない人間は徹底的に排除にかかるから』
軽い口調でそう言われ、リーゼロッテはそこでやっと驚いたように声の主を振り返った。
「ジークハルト様!?」
そこにはあぐらをかいて浮いている、ジークヴァルトの守護者の姿があった。目が合うと、にっこりと笑顔を返してくる。
「どうしてここに……」
グレーデン家はフーゲンベルク領から馬車で二時間程度の場所にある。ジークヴァルトと離れて大丈夫なのだろうか。
『いやあ、ヴァルトがさ、あんまりにもリーゼロッテが心配だ心配だって、うるさく言うもんだからさ。このオレがヴァルトに代わってここまでついてきたってわけ』
ぽかんとジークハルトを見上げたタイミングで、控えていたエラがリーゼロッテの元に戻ってきた。
「お嬢様?」
訝し気に声をかけられ、はっと居住まいを正した。自分以外にジークハルトの姿は見えない。このままエア会話を続けると、エラに余計な心配をかけてしまう。
「何でもないのよ。この温室が素晴らしくて、思わず花にしゃべりかけてしまったわ」
誤魔化すように言うと、エラは微笑ましそうに頷いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
247
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる