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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
冷んやりとしたエントランスで出迎えたのは、グレーデン家の年老いた家令ひとりだった。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
表情のない顔で恭しく腰を折られ、屋敷の奥へと促される。リーゼロッテを先頭に、エラとカイがそのあとに続いた。
静かな廊下を進んでいく。床には毛足の長い絨毯が敷かれ、足音もほぼ聞こえない。小さな衣擦れの音が響くばかりだ。
(なんだか静かなお屋敷ね)
人の気配というものがまるでしない。ダーミッシュの屋敷でも、フーゲンベルク家でも、使用人たちの楽しそうな笑い声が遠くに聞こえてくるのが日常だった。だが、ここグレーデン家では、使用人の影すら見当たらない。
その時、廊下の先の部屋から一人の男が現れた。ちょうど出かけるようないで立ちで、悠然とこちらへと向かってくる。
「グレーデン家当主でございます」
足を止めた家令がリーゼロッテを振り返った。向かってきた男はリーゼロッテの前で立ち止まり、静かに見下ろしてくる。
「エメリヒ・グレーデン侯爵様、お初にお目にかかります。ダーミッシュ伯爵の娘、リーゼロッテ・ダーミッシュでございます。本日はウルリーケ様にお招き預かりまして、ご訪問させていただきました」
緊張しながらも淑女の礼をとる。
「ああ、あなたが母上の新たな生贄か」
その言葉にわずかに身を震わせる。グレーデン侯爵は何事もなかったように「ゆるりと過ごされるといい」と平然と続けた。
「ありがとうございます、侯爵様」
その返事を待たずに、グレーデン侯爵は既に歩き出していた。後ろで控えるエラとカイには目もくれずに去っていく。
その後ろ姿を黙って見送っていると、家令に先に進むよう促される。その後は誰にもすれ違うことなく、一行は控えの部屋へと案内された。
◇
「ねえ、エラ。このお屋敷は随分と静かなのね」
部屋に通されてすぐに、グレーデン家のメイドが紅茶と茶菓子を運んできたが、無言で頭を下げた後すぐに出て行ってしまった。目の前に置かれた紅茶はリーゼロッテの分だけだ。
エラはリーゼロッテの座るソファの背後に控え、「そうでございますね」と言葉少なに頷いて見せた。
カイは部屋の外で待機している。いつ聞き込みに行くのかはわからないが、自分は客人として自然にしていなくては。
ちらりと壁際を見ると、いつものようについてきたカークが背筋を伸ばして立っている。グレーデン家にはあまり力ある者はいないようだった。カークを視ていきなり叫ばれても困るので、願ったり叶ったりといったところだ。
「大奥様がお待ちです。どうぞこちらへ」
ノックと共に入ってきたメイドが部屋を出るようにと誘っていく。リーゼロッテはそれに従い、長い廊下をメイドについて行った。その後ろをエラが続き、カイも無言で後を追ってくる。
「こちらでございます」
静かに頭を下げられ、温室のような場所へと通される。リーゼロッテとエラは歩を進めたが、カイは入り口で立ち止まったまま、中に入ってこようとはしなかった。リーゼロッテは一度振り返り、カイに向かって小さく頷いた。再び奥へと向き直ってから、ぐっと姿勢を正す。
(いよいよ決戦の時ね!)
おとり役を見事に成し遂げようと、リーゼロッテは気合を入れてその足を踏み出した。
外は雪が降り積もっているというのに、温室の中は暖かく、色とりどりの花が咲き乱れている。見たこともないような花がいくつも目に入り、むせかえるような香りが少しだけ辛く感じる。それをこらえてリーゼロッテは慎重な足取りで奥へと進んだ。
植物の陰から、白い丸テーブルと椅子に座る年配の夫人の姿が目に入る。それがグレーデン家の女帝なのだとわかると、リーゼロッテはきゅっと唇と引き結んだ。
(いいこと、リーゼロッテ・ダーミッシュ! あなたは伯爵令嬢……ガラスの仮面をかぶるのよ……!)
女帝と目が合うと、リーゼロッテは完ぺきともいえる淑女の笑みをその顔にのせた。腰を折り、王族にするのと同じ礼をとる。
「ウルリーケ・グレーデン様、お初にお目にかかります。ダーミッシュ伯爵の娘、リーゼロッテにございます。本日はこのような素敵なお茶会にお招きいただき、誠に光栄です」
「よく来ました。リーゼロッテ・ラウエンシュタイン」
冷たく震えた声だった。顔をあげなくとも、上から見下ろされているような感覚を覚える。
「恐れながら、グレーデン様。わたくしの家名はダーミッシュにございます」
静かに、だが引くことなく、リーゼロッテはそう返した。
「お前はラウエンシュタイン家に生まれた人間。そのことを誇りに思いなさい」
「グレーデン様のおっしゃる通り、わたくしの生家はラウエンシュタインでございます。ですが、先の白の夜会で、わたくしはダーミッシュ家の人間として、ディートリヒ王に認めていただきました」
いきなり立てつくような発言になってしまい、リーゼロッテは冷や汗をかいていた。だが、このことだけは誰が相手だろうと引くことはできない。義父のフーゴとも約束したのだ。ダーミッシュ家の一員であることに、いつでも胸を張っているようにと。
「頑固なところはあの娘にそっくりだこと」
だが、女帝は声音を変えることなく平たんにつぶやいた。目線で案内役のメイドに指示を出す。リーゼロッテは促されて、用意された席へと誘われた。
「お前はいいわ。下がりなさい」
後ろに続いたエラに冷たく言うと、すぐに視線をリーゼロッテに戻す。エラは無言で頭を垂れて、温室の入り口付近まで戻っていった。
不安げに振り返ると、エラはウルリーケの視界には入らず、だが、リーゼロッテからは姿が見える絶妙な場所で控えていた。
そのことに安堵すると、リーゼロッテは前に向き直り、引かれた椅子に腰かけた。背後に視線を感じてちらりと見やると、カークが距離を置いてそこに立っている。ドキドキしながら女帝を伺うが、その表情は動いていなかった。
(よかった。ウルリーケ様にカークが視えないみたい)
王族出身ならば、力ある者でもおかしくない。カークを視て卒倒されてはと、ちょっと心配していたのだ。
「あれはジークヴァルトが寄越したのね」
そう言われてはっと顔を上げる。ウルリーケの視線は、確実にカークの姿を捉えていた。
「ここでは何も起きないというものを。しょうのない子だこと」
とげとげしく聞こえるが、とがめているようには思えなかった。リーゼロッテは思い切って完全無欠の淑女の笑みを作り、ウルリーケへと向けてみた。
「ジークヴァルト様は過保護でいらっしゃいますから」
「睦まじくやっているのならそれでいいわ」
ウルリーケが興味なさげに言うと、メイドが静かに紅茶を差し出してきた。そのまま無言で頭を下げ、すぐに奥へと下がっていく。
「おあがりなさい」
つんと顎を反らされ、リーゼロッテは慎重な手つきでティーカップを手に取った。ふわりと上質な香りがする。一口含んで、リーゼロッテの口元は自然と笑みを作った。
「こちらは王家で愛飲されている紅茶ですわね。香りが高くてとてもおいしいですわ」
カイに特別に同じものを淹れてもらったことを思い出して、リーゼロッテはウルリーケに向けてふわりと笑った。
「お前は、小憎らしいくらいマルグリットにそっくりね」
不意にそう言われ、出だしから対応を間違えてしまったのだと、リーゼロッテは滅茶苦茶焦っていた。掛け違えたボタンをはめなおすことは難しい。だが、なんとか挽回しなくては、ジークヴァルトの顔をつぶすことになる。
焦りを顔には出さず、リーゼロッテは曖昧に笑顔を返した。
冷んやりとしたエントランスで出迎えたのは、グレーデン家の年老いた家令ひとりだった。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
表情のない顔で恭しく腰を折られ、屋敷の奥へと促される。リーゼロッテを先頭に、エラとカイがそのあとに続いた。
静かな廊下を進んでいく。床には毛足の長い絨毯が敷かれ、足音もほぼ聞こえない。小さな衣擦れの音が響くばかりだ。
(なんだか静かなお屋敷ね)
人の気配というものがまるでしない。ダーミッシュの屋敷でも、フーゲンベルク家でも、使用人たちの楽しそうな笑い声が遠くに聞こえてくるのが日常だった。だが、ここグレーデン家では、使用人の影すら見当たらない。
その時、廊下の先の部屋から一人の男が現れた。ちょうど出かけるようないで立ちで、悠然とこちらへと向かってくる。
「グレーデン家当主でございます」
足を止めた家令がリーゼロッテを振り返った。向かってきた男はリーゼロッテの前で立ち止まり、静かに見下ろしてくる。
「エメリヒ・グレーデン侯爵様、お初にお目にかかります。ダーミッシュ伯爵の娘、リーゼロッテ・ダーミッシュでございます。本日はウルリーケ様にお招き預かりまして、ご訪問させていただきました」
緊張しながらも淑女の礼をとる。
「ああ、あなたが母上の新たな生贄か」
その言葉にわずかに身を震わせる。グレーデン侯爵は何事もなかったように「ゆるりと過ごされるといい」と平然と続けた。
「ありがとうございます、侯爵様」
その返事を待たずに、グレーデン侯爵は既に歩き出していた。後ろで控えるエラとカイには目もくれずに去っていく。
その後ろ姿を黙って見送っていると、家令に先に進むよう促される。その後は誰にもすれ違うことなく、一行は控えの部屋へと案内された。
◇
「ねえ、エラ。このお屋敷は随分と静かなのね」
部屋に通されてすぐに、グレーデン家のメイドが紅茶と茶菓子を運んできたが、無言で頭を下げた後すぐに出て行ってしまった。目の前に置かれた紅茶はリーゼロッテの分だけだ。
エラはリーゼロッテの座るソファの背後に控え、「そうでございますね」と言葉少なに頷いて見せた。
カイは部屋の外で待機している。いつ聞き込みに行くのかはわからないが、自分は客人として自然にしていなくては。
ちらりと壁際を見ると、いつものようについてきたカークが背筋を伸ばして立っている。グレーデン家にはあまり力ある者はいないようだった。カークを視ていきなり叫ばれても困るので、願ったり叶ったりといったところだ。
「大奥様がお待ちです。どうぞこちらへ」
ノックと共に入ってきたメイドが部屋を出るようにと誘っていく。リーゼロッテはそれに従い、長い廊下をメイドについて行った。その後ろをエラが続き、カイも無言で後を追ってくる。
「こちらでございます」
静かに頭を下げられ、温室のような場所へと通される。リーゼロッテとエラは歩を進めたが、カイは入り口で立ち止まったまま、中に入ってこようとはしなかった。リーゼロッテは一度振り返り、カイに向かって小さく頷いた。再び奥へと向き直ってから、ぐっと姿勢を正す。
(いよいよ決戦の時ね!)
おとり役を見事に成し遂げようと、リーゼロッテは気合を入れてその足を踏み出した。
外は雪が降り積もっているというのに、温室の中は暖かく、色とりどりの花が咲き乱れている。見たこともないような花がいくつも目に入り、むせかえるような香りが少しだけ辛く感じる。それをこらえてリーゼロッテは慎重な足取りで奥へと進んだ。
植物の陰から、白い丸テーブルと椅子に座る年配の夫人の姿が目に入る。それがグレーデン家の女帝なのだとわかると、リーゼロッテはきゅっと唇と引き結んだ。
(いいこと、リーゼロッテ・ダーミッシュ! あなたは伯爵令嬢……ガラスの仮面をかぶるのよ……!)
女帝と目が合うと、リーゼロッテは完ぺきともいえる淑女の笑みをその顔にのせた。腰を折り、王族にするのと同じ礼をとる。
「ウルリーケ・グレーデン様、お初にお目にかかります。ダーミッシュ伯爵の娘、リーゼロッテにございます。本日はこのような素敵なお茶会にお招きいただき、誠に光栄です」
「よく来ました。リーゼロッテ・ラウエンシュタイン」
冷たく震えた声だった。顔をあげなくとも、上から見下ろされているような感覚を覚える。
「恐れながら、グレーデン様。わたくしの家名はダーミッシュにございます」
静かに、だが引くことなく、リーゼロッテはそう返した。
「お前はラウエンシュタイン家に生まれた人間。そのことを誇りに思いなさい」
「グレーデン様のおっしゃる通り、わたくしの生家はラウエンシュタインでございます。ですが、先の白の夜会で、わたくしはダーミッシュ家の人間として、ディートリヒ王に認めていただきました」
いきなり立てつくような発言になってしまい、リーゼロッテは冷や汗をかいていた。だが、このことだけは誰が相手だろうと引くことはできない。義父のフーゴとも約束したのだ。ダーミッシュ家の一員であることに、いつでも胸を張っているようにと。
「頑固なところはあの娘にそっくりだこと」
だが、女帝は声音を変えることなく平たんにつぶやいた。目線で案内役のメイドに指示を出す。リーゼロッテは促されて、用意された席へと誘われた。
「お前はいいわ。下がりなさい」
後ろに続いたエラに冷たく言うと、すぐに視線をリーゼロッテに戻す。エラは無言で頭を垂れて、温室の入り口付近まで戻っていった。
不安げに振り返ると、エラはウルリーケの視界には入らず、だが、リーゼロッテからは姿が見える絶妙な場所で控えていた。
そのことに安堵すると、リーゼロッテは前に向き直り、引かれた椅子に腰かけた。背後に視線を感じてちらりと見やると、カークが距離を置いてそこに立っている。ドキドキしながら女帝を伺うが、その表情は動いていなかった。
(よかった。ウルリーケ様にカークが視えないみたい)
王族出身ならば、力ある者でもおかしくない。カークを視て卒倒されてはと、ちょっと心配していたのだ。
「あれはジークヴァルトが寄越したのね」
そう言われてはっと顔を上げる。ウルリーケの視線は、確実にカークの姿を捉えていた。
「ここでは何も起きないというものを。しょうのない子だこと」
とげとげしく聞こえるが、とがめているようには思えなかった。リーゼロッテは思い切って完全無欠の淑女の笑みを作り、ウルリーケへと向けてみた。
「ジークヴァルト様は過保護でいらっしゃいますから」
「睦まじくやっているのならそれでいいわ」
ウルリーケが興味なさげに言うと、メイドが静かに紅茶を差し出してきた。そのまま無言で頭を下げ、すぐに奥へと下がっていく。
「おあがりなさい」
つんと顎を反らされ、リーゼロッテは慎重な手つきでティーカップを手に取った。ふわりと上質な香りがする。一口含んで、リーゼロッテの口元は自然と笑みを作った。
「こちらは王家で愛飲されている紅茶ですわね。香りが高くてとてもおいしいですわ」
カイに特別に同じものを淹れてもらったことを思い出して、リーゼロッテはウルリーケに向けてふわりと笑った。
「お前は、小憎らしいくらいマルグリットにそっくりね」
不意にそう言われ、出だしから対応を間違えてしまったのだと、リーゼロッテは滅茶苦茶焦っていた。掛け違えたボタンをはめなおすことは難しい。だが、なんとか挽回しなくては、ジークヴァルトの顔をつぶすことになる。
焦りを顔には出さず、リーゼロッテは曖昧に笑顔を返した。
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