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第2章 氷の王子と消えた託宣
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「あっ、ヴァルト様!」
思わず非難めいた声が出る。ジークヴァルトがそのハンカチを懐にしまおうとするのを制して、リーゼロッテは慌ててその端っこを掴んだ。
「このハンカチは、昔わたくしが贈ったものですわよね。大事に使ってくださって、とてもうれしいのですが……その、今見ると、刺繍の出来栄えがよくなくて、とても恥ずかしいので、こちらは返していただいてもよろしいですか?」
「いやダメだ」
ハンカチをふたりで引っ張り合う。ウサギが伸びて痛そうだ。しばしの攻防の末、勝利を勝ち取ったのはジークヴァルトの方だった。
「あっ、ダメですわ。かわりに新しいものを差し上げますから、そちらは返してくださいませっ」
「いや、これはオレがもらった物だ。これの所有権はオレにある」
「ですがそれはジークフリート様に……!」
そこまで言ってリーゼロッテはしまった、という顔をした。それを見たジークヴァルトはふっと鼻で笑う。
「これは父上に贈ったものだからか?」
「え……?」
ジークヴァルトは知っていたのだろうか? リーゼロッテが言いあぐねていると、マテアスが笑顔でおかわりの紅茶を差し出してきた。
「そのハンカチはフーゲンベルク公爵に対して贈られたものです。ですので、旦那様が爵位をお継ぎになられた時に、そのハンカチも先代から相続なさったのですよ」
リーゼロッテはぽかんと口を開けた。ハンカチを相続するなど意味が分からない。価値があるものならばともかく、自分が刺繍したウサギのハンカチだ。
そんな様子のリーゼロッテにマテアスは苦笑いを向ける。
(ヴァルト様がこのハンカチ欲しさに、公爵位を継ぐ日を心待ちにしていたなどと、リーゼロッテ様には思いもよらないのでしょうねぇ)
父親がもらったハンカチを、ジークヴァルトはそれはそれはうらやましそうに目で追っていた。ジークフリートは折角リーゼロッテがくれたのだからと、しばらくそのハンカチを使っていたのだが、あまりにもジークヴァルトが物欲しそうな顔をしていたので、爵位を継ぐときにそれを譲る約束をしたのだ。
さすがにすぐあげてしまうのは、リーゼロッテに申し訳ないと思ったのだろう。その間にジークヴァルトが忘れてしまうならそれでいいと、リーゼロッテのハンカチは約束の日まで大事にしまわれることになったのだ。
しかしジークヴァルトがその約束を忘れることは決してなかった。十五歳の誕生日に手に入れたそのハンカチを、ジークヴァルトが飽きもせずにずっとずっとずっと眺めていたあの日のことを、マテアスは今でもよく覚えている。
どんなに高価な物を贈られても表情ひとつ動かさなかったジークヴァルトが、初めて自分から望んだものだった。ジークヴァルトにはその自覚はないようだったが、子供の頃に一度会ったきりの婚約者への執着が、マテアスの目には不思議に映ったものだ。
「ですがやはり出来栄えが……」
「いや、オレはこのカエルの刺繍が気に入っている」
「か、カエル!?」
「なんだ? やはりブタだったのか?」
「ぶっ!? ブタでもカエルでもございませんっ! その刺繍はウサギですわ! だって長い耳がございますでしょう!?」
そう言われてジークヴァルトは手にしたハンカチの刺繍をじっと見つめた。
「……何にせよ、味がある刺繍だ」
「ウサギに見えないのなら、そうとおっしゃればよろしいですわ! もう返してくださいませ!」
リーゼロッテが腕を伸ばすと、ジークヴァルトが手の届かない高さにハンカチを持ち上げる。届きそうで届かない位置に、リーゼロッテはつま先立ちで懸命に手を伸ばした。
「うん、なんだか順調に親睦を深めてるみたいで何よりです」
不意にすぐそばから声をかけられる。ジークヴァルトにしがみつくように手を伸ばしていたリーゼロッテは、そのままの体勢でその声の主の方へ顔を向けた。
「カイ様!?」
そこに立っていたのは騎士服をきっちりと着込んだカイだった。いつからそこにいたのだろう。ちょうどマテアスがカイに紅茶を運んでいるところだった。
「デルプフェルト様。こちらは前回と同じ茶葉ですが、少し淹れ方を工夫してみたのです。ぜひご賞味いただければと」
「ああ、それは楽しみだね」
丁寧な物腰で紅茶を差し出すマテアスに、にっこり笑いながら返すカイ。お互いにこやかなはずなのに、空気が張り詰めているように感じるのは気のせいだろうか。
「まろやかな舌触りに、なにより香りがひきたってるね。茶葉の量と蒸らす時間を変えたのかな?」
「さすがはデルプフェルト様、素晴らしい味覚と洞察力でございますね」
「いや、従者君のたゆまぬ努力には感服するよ」
はははははとひとしきり笑顔の応酬を続けた後、マテアスがすっと真顔になった。
「それはさておきまして、デルプフェルト様。本日はどのような向きでおいでくださったのでしょう。先ぶれもなしのご訪問など、いかにデルプフェルト様といえど、無作法極まりないと思われますが」
「火急の案件が発生してね。そんな怖い顔しないでよ。ほら、これ、渡しとくから」
渡された書類に目を通すと、マテアスは一瞬はっとして、それをそのままジークヴァルトに手渡した。書類は王の勅命が書かれたものだ。公爵家の視察と、奥書庫の閲覧を許可せよとの内容だった。
常識的に考えてこの程度の内容で、王自ら命を下すことなどあり得ない。カイはイジドーラに頼み込んで、この勅命書をもぎ取ってきたのだ。
「どうしても今日中に確認しておきたいことがあるんです」
「……わかった。マテアス、手配を」
「承知いたしました。書庫の奥扉を開けるとなると、少々お時間いただくことになりますがよろしいですか?」
「今日は一日時間があるから待ってるよ」
マテアスににこやかに返すと、カイはジークヴァルトに顔を向けた。
「待っている間に、泣いている異形の調査をさせていただけると助かるんですけど」
「ああ、わかった。マテアス」
「では誰か案内人をご用意いたします」
「だったら、そこにいるあの娘、貸してもらえる?」
カイが壁際で静かに控えていた侍女を指さした。
「ああ、ベッティさん、ご案内をお願いしてもよろしいですか?」
「はいぃ、騎士様を泣き虫ジョンの元にご案内すればよろしいのですねぇ。承知いたしましたぁ」
ベッティについて出ていこうとする間際、カイがジークヴァルトを振り返った。
「そうだ、ジークヴァルト様。書庫での調べ物に、リーゼロッテ嬢をお借りしてもよろしいですか?」
人手があった方が助かるので、とカイが付け加えると、ジークヴァルトはぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「そんな顔をしないでくださいよ。ちゃんとカークも連れていきますから」
カイが呆れたように言うと、ジークヴァルトの眉間のしわがさらに深くなる。
「わたくし、お手伝いできることがあるのなら、カイ様のお力になりたいですわ」
異形も十匹きゅるんとさせた。今日はもうやることもないので、暇を持て余しているリーゼロッテにしてみれば、渡りに船な話だった。
「……わかった。だが無茶はするなよ」
「はい、お約束いたしますわ」
書庫でどんな無茶ができるというのだ。相も変わらず心配性なジークヴァルトに、リーゼロッテは呆れながらも微笑みを返した。
思わず非難めいた声が出る。ジークヴァルトがそのハンカチを懐にしまおうとするのを制して、リーゼロッテは慌ててその端っこを掴んだ。
「このハンカチは、昔わたくしが贈ったものですわよね。大事に使ってくださって、とてもうれしいのですが……その、今見ると、刺繍の出来栄えがよくなくて、とても恥ずかしいので、こちらは返していただいてもよろしいですか?」
「いやダメだ」
ハンカチをふたりで引っ張り合う。ウサギが伸びて痛そうだ。しばしの攻防の末、勝利を勝ち取ったのはジークヴァルトの方だった。
「あっ、ダメですわ。かわりに新しいものを差し上げますから、そちらは返してくださいませっ」
「いや、これはオレがもらった物だ。これの所有権はオレにある」
「ですがそれはジークフリート様に……!」
そこまで言ってリーゼロッテはしまった、という顔をした。それを見たジークヴァルトはふっと鼻で笑う。
「これは父上に贈ったものだからか?」
「え……?」
ジークヴァルトは知っていたのだろうか? リーゼロッテが言いあぐねていると、マテアスが笑顔でおかわりの紅茶を差し出してきた。
「そのハンカチはフーゲンベルク公爵に対して贈られたものです。ですので、旦那様が爵位をお継ぎになられた時に、そのハンカチも先代から相続なさったのですよ」
リーゼロッテはぽかんと口を開けた。ハンカチを相続するなど意味が分からない。価値があるものならばともかく、自分が刺繍したウサギのハンカチだ。
そんな様子のリーゼロッテにマテアスは苦笑いを向ける。
(ヴァルト様がこのハンカチ欲しさに、公爵位を継ぐ日を心待ちにしていたなどと、リーゼロッテ様には思いもよらないのでしょうねぇ)
父親がもらったハンカチを、ジークヴァルトはそれはそれはうらやましそうに目で追っていた。ジークフリートは折角リーゼロッテがくれたのだからと、しばらくそのハンカチを使っていたのだが、あまりにもジークヴァルトが物欲しそうな顔をしていたので、爵位を継ぐときにそれを譲る約束をしたのだ。
さすがにすぐあげてしまうのは、リーゼロッテに申し訳ないと思ったのだろう。その間にジークヴァルトが忘れてしまうならそれでいいと、リーゼロッテのハンカチは約束の日まで大事にしまわれることになったのだ。
しかしジークヴァルトがその約束を忘れることは決してなかった。十五歳の誕生日に手に入れたそのハンカチを、ジークヴァルトが飽きもせずにずっとずっとずっと眺めていたあの日のことを、マテアスは今でもよく覚えている。
どんなに高価な物を贈られても表情ひとつ動かさなかったジークヴァルトが、初めて自分から望んだものだった。ジークヴァルトにはその自覚はないようだったが、子供の頃に一度会ったきりの婚約者への執着が、マテアスの目には不思議に映ったものだ。
「ですがやはり出来栄えが……」
「いや、オレはこのカエルの刺繍が気に入っている」
「か、カエル!?」
「なんだ? やはりブタだったのか?」
「ぶっ!? ブタでもカエルでもございませんっ! その刺繍はウサギですわ! だって長い耳がございますでしょう!?」
そう言われてジークヴァルトは手にしたハンカチの刺繍をじっと見つめた。
「……何にせよ、味がある刺繍だ」
「ウサギに見えないのなら、そうとおっしゃればよろしいですわ! もう返してくださいませ!」
リーゼロッテが腕を伸ばすと、ジークヴァルトが手の届かない高さにハンカチを持ち上げる。届きそうで届かない位置に、リーゼロッテはつま先立ちで懸命に手を伸ばした。
「うん、なんだか順調に親睦を深めてるみたいで何よりです」
不意にすぐそばから声をかけられる。ジークヴァルトにしがみつくように手を伸ばしていたリーゼロッテは、そのままの体勢でその声の主の方へ顔を向けた。
「カイ様!?」
そこに立っていたのは騎士服をきっちりと着込んだカイだった。いつからそこにいたのだろう。ちょうどマテアスがカイに紅茶を運んでいるところだった。
「デルプフェルト様。こちらは前回と同じ茶葉ですが、少し淹れ方を工夫してみたのです。ぜひご賞味いただければと」
「ああ、それは楽しみだね」
丁寧な物腰で紅茶を差し出すマテアスに、にっこり笑いながら返すカイ。お互いにこやかなはずなのに、空気が張り詰めているように感じるのは気のせいだろうか。
「まろやかな舌触りに、なにより香りがひきたってるね。茶葉の量と蒸らす時間を変えたのかな?」
「さすがはデルプフェルト様、素晴らしい味覚と洞察力でございますね」
「いや、従者君のたゆまぬ努力には感服するよ」
はははははとひとしきり笑顔の応酬を続けた後、マテアスがすっと真顔になった。
「それはさておきまして、デルプフェルト様。本日はどのような向きでおいでくださったのでしょう。先ぶれもなしのご訪問など、いかにデルプフェルト様といえど、無作法極まりないと思われますが」
「火急の案件が発生してね。そんな怖い顔しないでよ。ほら、これ、渡しとくから」
渡された書類に目を通すと、マテアスは一瞬はっとして、それをそのままジークヴァルトに手渡した。書類は王の勅命が書かれたものだ。公爵家の視察と、奥書庫の閲覧を許可せよとの内容だった。
常識的に考えてこの程度の内容で、王自ら命を下すことなどあり得ない。カイはイジドーラに頼み込んで、この勅命書をもぎ取ってきたのだ。
「どうしても今日中に確認しておきたいことがあるんです」
「……わかった。マテアス、手配を」
「承知いたしました。書庫の奥扉を開けるとなると、少々お時間いただくことになりますがよろしいですか?」
「今日は一日時間があるから待ってるよ」
マテアスににこやかに返すと、カイはジークヴァルトに顔を向けた。
「待っている間に、泣いている異形の調査をさせていただけると助かるんですけど」
「ああ、わかった。マテアス」
「では誰か案内人をご用意いたします」
「だったら、そこにいるあの娘、貸してもらえる?」
カイが壁際で静かに控えていた侍女を指さした。
「ああ、ベッティさん、ご案内をお願いしてもよろしいですか?」
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ベッティについて出ていこうとする間際、カイがジークヴァルトを振り返った。
「そうだ、ジークヴァルト様。書庫での調べ物に、リーゼロッテ嬢をお借りしてもよろしいですか?」
人手があった方が助かるので、とカイが付け加えると、ジークヴァルトはぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「そんな顔をしないでくださいよ。ちゃんとカークも連れていきますから」
カイが呆れたように言うと、ジークヴァルトの眉間のしわがさらに深くなる。
「わたくし、お手伝いできることがあるのなら、カイ様のお力になりたいですわ」
異形も十匹きゅるんとさせた。今日はもうやることもないので、暇を持て余しているリーゼロッテにしてみれば、渡りに船な話だった。
「……わかった。だが無茶はするなよ」
「はい、お約束いたしますわ」
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