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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 ダンスにきょうじる者、噂話に熱が入る者、社交に精を出す者。ハインリヒ王子はえんもたけなわな広い会場を、冷めた瞳で見つめていた。
 王と王妃も壇上の椅子に座って、静かにみなをながめやっている。

(クラッセン侯爵が到着しないまま、このまま時間が過ぎてしまえばいい)

 そうすればアンネマリーと顔を合わせないで済む。そんな卑怯ひきょうなことを考えている自分に心底嫌気いやけがさす。

 殿下の庭に来るように言ったのも、この名を呼ぶことを許したのも、すべてはおのれ自身だ。それなのに、不条理なほどひどいやり方でアンネマリーを冷たく突き放した。彼女にしてみればあまりにも唐突な出来事だったろう。

 彼女に嫌われてしまっていても仕方がない。いや、やさしいアンネマリーの事だ。顔を見せるなと自分に言われて、今日、この場に立たねばならぬことに、いたたまれない気持ちになっているかもしれない。

 無意識のまま、夜会服の上から腰のポケットの中を確かめる。そこには形見の懐中時計とアンネマリーの手紙をしまった引き出しのかぎが入っていた。

 この鍵はいましめだ。
 彼女への思いと引き換えに、自分は王族としての責務を果たす覚悟を決めた。
 この国の未来の王として、甘えた感情などこれ以上許されるはずもない。例え今日、彼女を目の前にしても、もう揺らぐことがあってはならないのだ。

 アンネマリーを傷つけたことは、やがて王になろうとも生涯消えることはない。そのつぐないとして、ハインリヒにはこの国の平和を守ると誓うことしかできなかった。
 それが、アンネマリーのこれからのしあわせにつながると信じて。

(くだらない自己満足だな)

 アデライーデにした取り返しのつかないあやまちも、いまだ何ひとつ償えないでいる。
 手の届く範囲にいる人間すらしあわせにすることもできない自分に、この国の王たる資格があるというのか。

(駄目だ。迷うな。これ以上自分の果たすべきものをあやまってはいけない)

 龍の指し示す道筋みちすじ辿たどらなければ、この国の行くすえ破滅はめつしかない。それを知ってなお、子供のように駄々だだをこねる自分を許容きょようするわけにはいかなかった。
 ハインリヒはこぶしをきつく握りしめ眉根を寄せた。

「ディートリヒ王、クラッセン侯爵が今しがた到着なさいました」

 城仕えの者による耳打ちに、ハインリヒの鼓動こどうが跳ね上がる。

 とうとうその時が来た。
 だが、やるべきことはただひとつだ。この国の王太子としてあるべき形で接すればいい。例えアンネマリーに声掛けをすることになったとしても、先ほどのリーゼロッテへの言葉を繰り返せばいいだけだ。

 誰に対しても平等であればいい。それは今までやってきたこと。だから、これからもそうすべきだし、自分にはそれができるはずだった。

 クラッセン侯爵の名が呼ばれ、最後のデビュタントを招くための扉が開かれていく。
 ハインリヒは目をそらすことなく、すべてを受入れるべく長い絨毯じゅうたんの先を冷たく見やった。

     ◇
「トビアス・クラッセン侯爵、アンネマリー・クラッセン侯爵令嬢、ご登場!」

 高らかな声とともに、青ざめたままアンネマリーは長い絨毯へと足を踏みいれた。
 壇上へ視線を向ける勇気はなかった。この自分の今の姿を王子に見られることを思うと、絶望しか感じない。

 となりを歩く父トビアスは、激怒げきどする様子を隠そうともしていない。壇上を見据みすえ、王をころすかのごとにらみつけている。

「アンネマリー、堂々と前を向け。お前は何も悪くはない」

 父のいらった口調に体がこわばる。その苛立ちは自分に向けられたものではないと分かっているが、それが引き金となって泣き出してしまいそうだ。
 それでもアンネマリーは奥歯をかみしめ、どうにか顔を上げて真っ直ぐに前を向いた。

 王と王妃が並んで座る斜め後ろに立つハインリヒ王子が視界に入る。

 会いたくて会いたくて会いたくて、それでも、この手に届かない人――

 最上級の夜会服を身にまとい、王族にふさわしくりんとしてたたずむその姿に、アンネマリーの呼吸が苦しく乱れた。父のひじに添える手が、いたずらに震えて止めることができなくなる。

「くそが」
 そんなアンネマリーの様子にトビアスが奥歯を鳴らした。

「すぐに終わらせてやる。それまでは耐えてくれ」

 返事の代わりにアンネマリーは、トビアスの肘を掴む手にぐっと力を入れた。

 壇上目前まで近づくと、ハインリヒ王子がはっと息をのむのがその場所からでもわかった。驚愕きょうがくした様子で、アンネマリーを凝視している。
 アンネマリーは震える体を叱咤しったして、王の前で礼を取った。

「クラッセン侯爵、悪天候あくてんこうの中よくぞ戻った。大儀であったな」
「ありがたきお言葉」

 礼を取りながらもトビアスの声はけんを含んでいる。

「国のため、これまで忠義を尽くしてまいりました。それをこのような形でお褒めを頂くとは、夢にも思ってもおりませんでした」

 王の足元をにらみつけたまま、トビアスは冷たい声で言った。このような形で、と言った時、一瞬だけ横で礼を取るアンネマリーに視線を向ける。
 父のあからさまな態度にアンネマリーは身を震わせた。王子が見ている。そう思うだけでここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

 今、アンネマリーが着ているドレスは、純白の飾り気のないシンプルなものだった。白はデビュタントのあかしだが、つねならば、フリルやリボン、刺繍などにさし色を入れて、それぞれが自分の色を出す。アンネマリーのように真っ白いドレスで参加する者など皆無かいむだ。

 このドレスは王妃から後日おくられたものだった。強制はなかったものの、白の夜会用に用意されたであろうことは容易に分かる。一貴族として、それを拒絶することは叶わなかった。

 アンネマリーのよそおいで、唯一、色を放っているのは、その胸元に輝く一粒の大きな石――紫がたゆとう、それはそれは美しい宝飾だ。白一色のドレスが、その紫をより一層際立きわだたせている。

 この石を身につけていると、あの日々に戻ったような錯覚さっかくおちいる。きらめく木漏れ日と、おだやかな声。あたたかく、こころがほどけていくようなやさしい笑顔。
 目の前の王子は、こんなにも凍った表情かおをしているのに――

 アンネマリーは王子の視線を感じて、これ以上は見られないようにと青ざめた顔をさらにうつむかせた。

 そんなアンネマリーの姿に、ハインリヒの視線はくぎ付けとなっていた。以前よりもほっそりとした肢体したい。それでいて柔らかな曲線は失われていない。
 純白のドレスからあらわになった白い肩、細すぎる腰と対比するように盛り上がる弾力のありそうな豊かな胸に、えりぐりからのぞくその谷間。そして、谷間の上のなんとも絶妙な位置に輝く、一粒の紫のゆらめき。

(なぜあの石をアンネマリーが――)

 あの石は王妃にわれ、姉姫であるテレーズのために力を込めた守り石だ。しかもあれは、いくつもあった中でも、いちばん大ぶりのものだったはずだ。
 最も大きなその石に、ハインリヒは三日を要して力を注いだ。この石を持つものが、安寧あんねいに過ごせるようにと思いを込めて。

 アンネマリーは預けた懐中時計を手放した。それが彼女の出した答えなのだと、無理矢理にでも納得させたというのに。

「クラッセン侯爵令嬢、その意匠いしょうは特別に作らせたもの。気に入ってもらえたようね?」
「はい……王妃殿下……このように恐れ多いものをたまわり……言葉もありません……」

 震える声でアンネマリーが答える。懸命に、絞り出したような声だった。

 ハインリヒは反射的に王妃を見た。驚いたように目を見開いた後、ぎりと歯噛みをしてその美しい横顔をにらみつける。

(――初めからそのつもりだったのか)

 イジドーラ王妃は涼しい顔のまま、目の前で礼をとるふたりに視線を向けている。

 アンネマリーはどんな気持ちで今ここに立っているのだろう。いや、あの青ざめた表情がすべてを物語っているではないか。ハインリヒはさらにきつくこぶしを握りしめた。

「王妃殿下におかれましては、我が娘にこのように過分なる物をいただき、感謝の念しかありません。この宝飾ほうしょくは我が家の家宝として、誰に触れさせることなくくらの奥深くにしまい込んでおきましょう」

 いまだに床をにらみつけているトビアスが、憎々にくにくな表情でこうべれた。その様子をかいするそぶりも見せずに、王妃はあやしげな笑みを口元に含ませる。

「しまい込むなどと無粋ぶすいなことを。最適な場所にかざってこそ、意匠いしょうも輝くというものよ」
「恐れながら、このように珍しい色彩を放つ宝飾など、我が娘には身に余るというもの。他にもっと相ふさわしいご令嬢がおられるはずです」

 珍しい色彩とは、ハインリヒの瞳の色に他ならない。デビューの夜会でこんな石を身に着けるなど、本来ならば正気の沙汰ではなかった。

 相手の色をまとうということは、身も心もその者にささげるというあかしだ。王太子おうたいしの座を狙う家であっても、こんな大胆なことはしないだろう。

「この夜会が終わり次第、娘も連れて再び隣国へおもむく所存です。出立しゅったつの準備ができ次第、すみやかに、一刻も早く」
「ならん」

 不意にディートリヒ王の声が重く響く。思わず顔を上げたトビアスに、ディートリヒ王はもう一度告げた。

「それはならん、クラッセン侯爵」
「……――っ!」

 抗議するように何かを言いかけたトビアスに、ディートリヒ王は静かな笑みを向ける。

「この冬はつねならぬ寒さになろう。すでに雪も多く積もっている。娘を連れていくのはせめて春の雪解けを待つが良い」

 隣国へ向かうには、とうげを一つ越えなければならない。今年、峠に降る雪は例年よりも早く、トビアスも帰国の際に難儀した身だ。これからの時期の道中は、さらに危険をはらんだものとなるだろう。屈強くっきょうな男ならまだしも、アンネマリーにとってそれは確かに過酷なことかもしれない。

「……王の仰せのままに」

 奥歯をかみしめて、トビアスは絞り出すような声で言った。こうなれば、もはやここにいる意味はない。あとは一刻も早くこの場をするだけだ。

不躾ぶしつけにも遅れてきた身。うたげに水を差すのも心苦しく思いますので、ファーストダンスは辞退したく存じます」

 トビアスの言葉に、アンネマリーも乞う様に頭を垂れた。この場を早く去りたいのは、アンネマリーも同じ気持ちだ。

今宵こよいは、生涯に一度きりのデビューの夜会。遠慮せずふたりで踊るといいわ」

 王妃のその言葉に、トビアスとアンネマリーは同時に身を震わせた。一方は怒りで、もう一方は悲嘆にくれて。

 王妃の言葉にダンスフロアが空けられる。誰もいなくなった広いフロアに、ふたりは王城の者によって導かれた。

 周囲からひそひそとささやき声が漏れる。純白のドレスに王子の瞳と同じくする意匠いしょうまとうアンネマリーは、大勢の好奇の目にさらされた。

 あの首飾りが王太子から贈られた物ならばとんでもない大事件だが、王子の様子を見る限りそのようなことはなさそうだ。何しろ王子はクラッセン侯爵令嬢を目で追ってはいるが、その表情はにらみつけていると言ってよいものだった。

 ならばあの宝飾は、侯爵家が自前で用意した物なのだろう。強欲ごうよくでなんとおろかしいことか。王太子妃の座を得ようと娘に王子の色をまとわせ、結果、不興ふきょうを買っているのだから。

 ――あれではまるで愛人の座を乞うているようだ。

 アンネマリーの女性らしい体つきも相まって、貴族たちの間からひそやかにあざけりの声が上がる。そんな中、ゆるやかに曲が流れだす。トビアスとアンネマリーは衆人が見守る中、ふたりきりのダンスフロアで手を取りあって踊りだした。

「すまん」

 娘がさらし者になると分かっていて、それを回避ができなかった自分をびる。そんな父親にアンネマリーは泣きそうにながら、なんとかそれをこらえて顔を上げた。

「すべてわたくしが悪いのです。お父様にもお母様にもご迷惑をおかけしてしまって……」
「お前は何も悪くない。悪くなどあってたまるか」

 父の吐き捨てるような言葉に、それ以上何も言えなくなる。こんな時でも体は動きを覚えているようで、なめらかにダンスは進む。

 もう、なくすものなどないのだから。この国を去る春を思い、アンネマリーはただステップを踏み続けた。
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