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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
(ああ、これぞ異世界の街並み……!)

 速度を落とした馬車の窓から見える景色に、リーゼロッテは目を輝かせた。もうすぐ自分の足であの石畳いしだたみの通りに降り立てるのだ。リーゼロッテが外を見たそうにうずうずしていると、ジークヴァルトは何も言わずに窓の方へ体を寄せた。

 膝に抱っこされた状態は相変わらずだが、もうこれは天然のチャイルドシートなのだと己を納得させる。リーゼロッテはその身をジークヴァルトに預けた完全リラックスモードで、貴族街の街並みを食い入るように見つめていた。

 赤レンガで統一された建物が、整備された大通りの左右に広がっている。軒先にはそれぞれ特徴のあるはたがはためき、その旗はそこが何の店なのかを知らせているようだ。ある店は大きなガラス窓から中がうかがえ、またある店は重厚な扉でその格式高さを鼓舞こぶしている。

 王都の中心部にある貴族街に足をみ入れる者は限られている。身分のある貴族か、主人のお使いで訪れる使用人、それも王城で発行される正式な許可証をたずさえた者のみがこの場所に来ることが許されていた。平民にとっては生涯訪れることのないあこがれの地だ。

 リーゼロッテたちを乗せた馬車は当然のごとく貴族街入口の大きな門を超え、ロータリー状になった馬車留めのひとつに静かに停車した。
 他にも貴族の馬車はいくつも停められていたが、公爵家の馬車は中でも周囲にいた人間の注目を集めていた。先に馬車から降りて目抜き通りへと向かっていた貴族も、主人の帰りをのんびり待っていた使用人たちも、興味津々といった様子で公爵家の馬車を目で追っている。

「ねえ、お母様。あちらの立派な馬車はどこの家かしら?」
「あの馬の家紋は……フーゲンベルク公爵家だわ!」
「公爵家! どうりで立派な馬車だと思ったら……! 素敵ね、一度でいいからあんな馬車に乗ってみたいわ」
「フーゲンベルク家の方が貴族街にいらっしゃるなんて珍しいわね。代替わりしてからここに来られたという話も聞かないし……先代の公爵夫人、ディートリンデ様がいらしたのかしら?」
「あら、でもディートリンデ様は前公爵様と共に、遠方で暮らされていると聞いたけれど」

 同じ時刻に到着し馬車から降りた三人連れの淑女が、立ち止まってひそひそと囁き合っている。
 しかしそんな様子なのはその三人だけではなかった。貴族街へ頻繁に足を運ぶのは、もっぱらひまを持て余している噂好きのご夫人たちだ。お使いで来ている使用人も、主人のために貴族街で情報収集をするのは当然とばかりに周囲の会話に耳をそばだてている。

 たまたまその場に居合わせた者は誰もがこれ幸いとばかりに足を止め、中から一体誰が出てくるのだろうと、好奇心に満ちた視線を送っていた。

 公爵家の馬車が停車すると、御者のひとりが急いで扉の前に踏み台を用意し、もうひとりが中に声掛けをして馬車の扉を開けた。周囲の人間が固唾かたずを飲んで見守る中、馬車から降りてきたのはすらりとした細身の騎士だった。

「あの方はグレーデン家のご次男だわ!」
「まあ、エーミール・グレーデン様ね! こんな場所でお目にかかれるなんて、帰ったらみなに自慢しなきゃ!」
「やあん、エーミール様、相変わらず格好いい! 次男じゃなきゃ絶対に狙ったのに!」

 若い令嬢だけでなく年配の夫人までもが、エーミールの登場にハートマークを飛ばしている。

 そんな中、エーミールが馬車の中に手を差し伸べたかと思うと、次に茶色がかった赤毛の令嬢が現れた。簡素なコートとドレスに身を包んでいるが、遠目にもかなりの美人なのが見て取れる。その令嬢はエーミールに手を引かれ、洗練された動作で馬車から降りてきた。

「うそ! あのご令嬢は一体誰!?」
「本当……見たことない方ね」
「あのエーミール様にとうとう恋人が!?」

 色めき立つ女性陣の視線が、赤毛の令嬢に突き刺さる。それを意に介した様子もなく、令嬢はエーミールと並んで馬車の扉に向き直った。

「まだ中に誰かいらっしゃるようだわ」
「やっぱりディートリンデ様かしら?」

 馬車から最後に降りるのは、いちばん地位が高い者だ。エーミールと謎の令嬢はお付きで来たのかもしれない。そう思って一同は再び馬車の扉に注目した。
 黒い外套を着た長身の青年がゆっくりと姿を現す。その人物に、誰しも言葉を失った。

「なんてこと……あれは……フーゲンベルク公爵様だわ……」
「え!? あの方が、噂のジークヴァルト様……!?」

 ジークヴァルト・フーゲンベルクは、若くして公爵家を継いだことで有名だ。王太子付きの近衛このえ騎士きしということもあり、その妻の座を狙っている令嬢は数多い。だが、その彼に浮いた話はほとんど存在しなかった。

 何しろ、フーゲンベルク公爵は、夜会など社交界の表舞台に滅多に姿を現さない。たまに出席したとしても、ハインリヒ王子の護衛として参加する程度だ。人間嫌いとの噂がある上、彼ににらまれてトラウマになってしまった者の話などもよく耳にする。

 そんな社交嫌いの彼が貴族街に出没するなど、晴天の霹靂へきれきのようだ。これはやはり、母親のつきそいで仕方なくやってきたのだろう。次に降りてくるのは、公爵の母であるディートリンデに違いない。

 その場にいた誰しもがそう思った中、若き公爵はゆっくりと馬車の中の人物に手を差し伸べた。
 その手を取った小さな白い手を認め、広いはずの馬車留めのロータリーは、不自然なほどの静けさに包まれた。想像していたのとはまったく違ったはかなげな令嬢の登場に、一同は驚愕に目を見張った。

 蜂蜜色の長い髪が吹く風にふわりと揺れる。雪のような真っ白な肌に、恥ずかし気に赤く染まった頬。色づいた唇はみずみずしい果実のようだ。伏せられた瞳は、エメラルドと見まごうほどの美しい緑色をしており、そのきらめきは見る者の目をくぎ付けにした。
 公爵の大きな手に導かれて、その華奢きゃしゃな令嬢は流れるような美しい所作で音ひとつ立てずに馬車から降り立った。公爵の腕の中に引き寄せられ、はにかんだように彼を見上げている。

「あのご令嬢はどなた……?」
「……もしかしてだけど、あの方、深窓しんそう妖精姫ようせいひめなんじゃないかしら」
「え? 妖精姫って……ダーミッシュ伯爵家のまぼろしの令嬢ってこと!?」
「そういえば、フーゲンベルク公爵様には婚約者がいるっていう噂を耳にしたことがあるわ。そのお相手はダーミッシュ伯爵のご令嬢だとか」
「あの王妃殿下のお茶会の話ね! そんな……あれはただの噂話だと思っていたのに……!」

 静寂が一気に崩れ、その場はどよめきにあふれた。公爵夫人の座を狙っていた者は青ざめ、幻の妖精姫をぜひその目に収めようする者は、好奇に満ちた視線を向けた。可憐な令嬢の姿に目を奪われている紳士も数多く、その場はかつてなく騒然とした状態になった。

 そんな周囲をしり目に、公爵一行はゆっくりと立ち並ぶ店のある目抜き通りへと向かって行く。

 この日の目撃情報は、またたに社交界へと広がっていくのだった。
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