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第2章 氷の王子と消えた託宣
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異形を祓うこともできない力なき者。それが無知なる者だ。そう思って、今までその存在など歯牙にもかけなかった。
エラに近づいたのは、利用できると思ったからだ。マテアスやエマニュエルに取り込まれていくリーゼロッテを見ているのは、正直おもしろくなかった。エラをうまく使えば、彼女を通じてリーゼロッテを自分へ引き込めるかもしれない。すべてはジークヴァルトのためだ。
確かにエラは侍女として有能だと認めよう。自分の立場をわきまえる分別を持っているし、他の貴族女性のように自分にしなだれかかって媚を売ってくることもない。
だが、エラは他の使用人たちと何も変わりはしない。使用人などは、使えるか使えないか、ただそれだけが存在価値の有無を分ける。彼女はジークヴァルトの婚約者の侍女であり、エーミールにとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
しかし、エラに対して不可思議な感覚を覚えている自分に、エーミールはここのところずっと戸惑っていた。彼女に近づくとなぜだか心が穏やかになる。日々感じる苛立ちも、その時ばかりはすべてが些末なことに感じられた。
ダーミッシュ伯爵の屋敷で、彼女と接する機会を自ら作りだそうと画策している自分に気づくと、エーミールはなぜそのようなことをするのかと己の行動を訝しんだ。結局はリーゼロッテを引き込むためだと無理矢理納得していたのだが。
(もしも、それすらも無知なる者の作用だとしたら……)
彼らの存在は危険かもしれない。毒となるか薬となるか。きちんと見極めなくてはならないだろう。
真剣な表情でエラの顔を見つめていると、エラが頬を赤らめながらもエーミールを気づかわし気な様子で見上げてきた。エラが差し出したハンカチは、いつの間にか椅子の上に落ちている。エーミールがエラの手を掴んだままでいる理由は、今どこにも存在しなかった。
(一体どうすればいいのだ……!)
この手を離せば先ほどの吐き気が襲ってくる。一度楽になったこの体に、あの負荷が一度にのしかかってきたら、もう耐えきる自信はない。手を離したが最後、胃の中身をリバースすることは避けられそうになかった。
しかし、エラの手を握ったままでいることも難しい。彼女は馬車に酔ったと思っているようだが、仮にそうだったとしてもこのように女性の手にすがるなど、何もできない無力な子供のようではないか。
残された道は、ジークヴァルトに助けを求めるしかない。おそらくリーゼロッテの力が充満しているのは、ジークヴァルトの守りの力が馬車に張り巡らされているからだ。それを解いてもらいさえすれば、リーゼロッテの力は拡散されて、あの耐えがたい重圧からは解放されるはずだ。
(いや、駄目だ。ジークヴァルト様にそのようなことは頼めない)
願い出ればジークヴァルトは否とは言わないだろう。彼は昔から弱い者にはためらいなくその手を差し伸べる。
言われずともそうするのが当然というように、多くの者がジークヴァルトの手により救われるのを、エーミールは傍らでずっとみてきた。エーミールにしてみれば取るに足らないような者に対しても、ジークヴァルトはその立場と力を使うことを惜しむことはない。
だからこそ、自分が手を差し伸べられる側になることは許されなかった。ジークヴァルトは、逆に近しい人間を甘やかすことはない。それは、その者の力量を認めているからに他ならなかった。
弱音を吐かない限り、ジークヴァルトは自分の行動に口を出したりしない。まさに上に立つ者の器だと、エーミールは誰よりもジークヴァルトを崇拝していた。
今のこの状況はすでにジークヴァルトにも知られてしまっているだろう。だが、何も言わないのは自分の力を認めてくれているからだ。そう思うと、エーミールは自ら弱音を吐くなど到底できなかった。
エーミールは腹を決めて、エラから手を離した。目的地には程なく到着する。それまでは、己の矜持にかけて耐えて見せよう。
「……ふ……ぐっ!」
それでも漏れ出る声を、必死に押し殺した。椅子の座面に落ちていたハンカチを思わず握りしめる。小さいがエラの気配がする。ないよりましな程度だが、その感覚はエーミールの唯一の拠り所となった。
何かを言いたげにしていたエラは、背筋を正してそのまま前に向き直った。ジークヴァルトに抱えられて恥ずかしそうにしているリーゼロッテを見て、そっと口元を綻ばせている。
彼女がでしゃばりな女でなくてよかった。エーミールのプライドをくみ取って、何も言わずに引いたエラはよくできた侍女だと心から思う。
気を紛らわすかのようにエーミールがそんなことを考えていると、前を向いて主人に視線を向けたままのエラが、静かにエーミールの手に自分のそれを重ねてきた。
椅子に押し付けるように握りこまれた拳にそっと乗せられただけの手のひらは、一瞬にしてエーミールからすべての不快感を取り去った。
「な……っ!」
エーミールの動揺をよそに、わずかな揺れに合わせてエラはさりげなく身を寄せる。視線をリーゼロッテから外さないままエラは小声でささやいた。
「エーミール様。お恥ずかしいのですが、わたし、先ほどの揺れのせいでまだ少し怖くて……もうしばらくこうしていていただけると、とても安心できるのですが……」
エラはそう言いながらスカートのしわを直すふりをして、ふたりの重なった手のひらをそっとスカートの下に隠した。その自然な動きに、向かいに座るリーゼロッテたちは何も気づいていないようだ。
エラの横顔はいたって冷静で、とても恐怖を引きずっているようには思えない。その様子に、エーミールは一瞬思考が飛んで頭が真っ白になった。
エーミールのためではない。彼女はあくまで自分のために手を握らせてほしい、そう言っているのだ。それがわかると、じわじわと複雑な感情が湧いてきた。
嬉しいような情けないような、怒りにも羞恥にも似たよくわからない思いが胸を占拠する。エーミールはエラの横顔を睨むように一瞥した後、視線を窓の外に移して、握りこんでいた己の手のひらを上に返した。
素早くエラの指をからめとり、握りなおす。一瞬驚いたように小さく身じろいだエラは、すぐに背筋を伸ばして正面に向き直った。
「……ありがとうございます」
馬車の走る音にかき消されそうな小さな声に、そっぽを向いたままのエーミールは、ほんの少しだけ力を込めてエラの手を握り返した。
エラに近づいたのは、利用できると思ったからだ。マテアスやエマニュエルに取り込まれていくリーゼロッテを見ているのは、正直おもしろくなかった。エラをうまく使えば、彼女を通じてリーゼロッテを自分へ引き込めるかもしれない。すべてはジークヴァルトのためだ。
確かにエラは侍女として有能だと認めよう。自分の立場をわきまえる分別を持っているし、他の貴族女性のように自分にしなだれかかって媚を売ってくることもない。
だが、エラは他の使用人たちと何も変わりはしない。使用人などは、使えるか使えないか、ただそれだけが存在価値の有無を分ける。彼女はジークヴァルトの婚約者の侍女であり、エーミールにとってはそれ以上でもそれ以下でもなかった。
しかし、エラに対して不可思議な感覚を覚えている自分に、エーミールはここのところずっと戸惑っていた。彼女に近づくとなぜだか心が穏やかになる。日々感じる苛立ちも、その時ばかりはすべてが些末なことに感じられた。
ダーミッシュ伯爵の屋敷で、彼女と接する機会を自ら作りだそうと画策している自分に気づくと、エーミールはなぜそのようなことをするのかと己の行動を訝しんだ。結局はリーゼロッテを引き込むためだと無理矢理納得していたのだが。
(もしも、それすらも無知なる者の作用だとしたら……)
彼らの存在は危険かもしれない。毒となるか薬となるか。きちんと見極めなくてはならないだろう。
真剣な表情でエラの顔を見つめていると、エラが頬を赤らめながらもエーミールを気づかわし気な様子で見上げてきた。エラが差し出したハンカチは、いつの間にか椅子の上に落ちている。エーミールがエラの手を掴んだままでいる理由は、今どこにも存在しなかった。
(一体どうすればいいのだ……!)
この手を離せば先ほどの吐き気が襲ってくる。一度楽になったこの体に、あの負荷が一度にのしかかってきたら、もう耐えきる自信はない。手を離したが最後、胃の中身をリバースすることは避けられそうになかった。
しかし、エラの手を握ったままでいることも難しい。彼女は馬車に酔ったと思っているようだが、仮にそうだったとしてもこのように女性の手にすがるなど、何もできない無力な子供のようではないか。
残された道は、ジークヴァルトに助けを求めるしかない。おそらくリーゼロッテの力が充満しているのは、ジークヴァルトの守りの力が馬車に張り巡らされているからだ。それを解いてもらいさえすれば、リーゼロッテの力は拡散されて、あの耐えがたい重圧からは解放されるはずだ。
(いや、駄目だ。ジークヴァルト様にそのようなことは頼めない)
願い出ればジークヴァルトは否とは言わないだろう。彼は昔から弱い者にはためらいなくその手を差し伸べる。
言われずともそうするのが当然というように、多くの者がジークヴァルトの手により救われるのを、エーミールは傍らでずっとみてきた。エーミールにしてみれば取るに足らないような者に対しても、ジークヴァルトはその立場と力を使うことを惜しむことはない。
だからこそ、自分が手を差し伸べられる側になることは許されなかった。ジークヴァルトは、逆に近しい人間を甘やかすことはない。それは、その者の力量を認めているからに他ならなかった。
弱音を吐かない限り、ジークヴァルトは自分の行動に口を出したりしない。まさに上に立つ者の器だと、エーミールは誰よりもジークヴァルトを崇拝していた。
今のこの状況はすでにジークヴァルトにも知られてしまっているだろう。だが、何も言わないのは自分の力を認めてくれているからだ。そう思うと、エーミールは自ら弱音を吐くなど到底できなかった。
エーミールは腹を決めて、エラから手を離した。目的地には程なく到着する。それまでは、己の矜持にかけて耐えて見せよう。
「……ふ……ぐっ!」
それでも漏れ出る声を、必死に押し殺した。椅子の座面に落ちていたハンカチを思わず握りしめる。小さいがエラの気配がする。ないよりましな程度だが、その感覚はエーミールの唯一の拠り所となった。
何かを言いたげにしていたエラは、背筋を正してそのまま前に向き直った。ジークヴァルトに抱えられて恥ずかしそうにしているリーゼロッテを見て、そっと口元を綻ばせている。
彼女がでしゃばりな女でなくてよかった。エーミールのプライドをくみ取って、何も言わずに引いたエラはよくできた侍女だと心から思う。
気を紛らわすかのようにエーミールがそんなことを考えていると、前を向いて主人に視線を向けたままのエラが、静かにエーミールの手に自分のそれを重ねてきた。
椅子に押し付けるように握りこまれた拳にそっと乗せられただけの手のひらは、一瞬にしてエーミールからすべての不快感を取り去った。
「な……っ!」
エーミールの動揺をよそに、わずかな揺れに合わせてエラはさりげなく身を寄せる。視線をリーゼロッテから外さないままエラは小声でささやいた。
「エーミール様。お恥ずかしいのですが、わたし、先ほどの揺れのせいでまだ少し怖くて……もうしばらくこうしていていただけると、とても安心できるのですが……」
エラはそう言いながらスカートのしわを直すふりをして、ふたりの重なった手のひらをそっとスカートの下に隠した。その自然な動きに、向かいに座るリーゼロッテたちは何も気づいていないようだ。
エラの横顔はいたって冷静で、とても恐怖を引きずっているようには思えない。その様子に、エーミールは一瞬思考が飛んで頭が真っ白になった。
エーミールのためではない。彼女はあくまで自分のために手を握らせてほしい、そう言っているのだ。それがわかると、じわじわと複雑な感情が湧いてきた。
嬉しいような情けないような、怒りにも羞恥にも似たよくわからない思いが胸を占拠する。エーミールはエラの横顔を睨むように一瞥した後、視線を窓の外に移して、握りこんでいた己の手のひらを上に返した。
素早くエラの指をからめとり、握りなおす。一瞬驚いたように小さく身じろいだエラは、すぐに背筋を伸ばして正面に向き直った。
「……ありがとうございます」
馬車の走る音にかき消されそうな小さな声に、そっぽを向いたままのエーミールは、ほんの少しだけ力を込めてエラの手を握り返した。
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