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第2章 氷の王子と消えた託宣
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淑女のたしなみも忘れて思わず大きな叫び声が出てしまう。馬車が蛇行するたびに、壁とジークヴァルトの間を小さな体が行ったり来たりする。半ば飛び跳ねるように浮き上がったリーゼロッテは、ジークヴァルトの腕の中に素早く収められ、すぐに安定感を取り戻した。そのまま膝の上へと乗せられる。
向かいの席で同じようにエラの肩を抱き寄せているエーミールが、「何事だ!」と御者に向かって鋭く叫んだ。先ほどの今にも倒れそうな状態とうって変わった凛々しい姿は、腐っても騎士、いや酔っても騎士と言うべきか。
「申し訳ございません! 急に犬が飛び出してきたもので……!」
御者の焦った声が聞こえた後、馬車は程なくして平衡を取り戻す。減速しながらしばらく進んだのちに、ゆっくりと静かに停車した。
「お怪我はございませんか?」
御者が震える声で外から問いかける。エーミールは馬車の中を見渡した。リーゼロッテはいまだ縮こまって震えているものの、ジークヴァルトの膝の上で大事に抱えられている。目が合うとジークヴァルトはエーミールに問題ないと目線で答えた。
次にエーミールは自分が抱き寄せているエラに視線を落とした。胸に手を当てて固まっているが、こちらも怪我はなさそうだ。エーミールの視線に気づくと、エラは自分は問題ないと頷いて見せた。
「こちらは大丈夫だ。馬と馬車には問題はないか?」
御者台に続く小窓を少し開け、エーミールは御者に問うた。
「はい、今確認しましたところ、馬車には傷ひとつついておりません。馬は少し興奮していますが、直に落ち着くでしょう。犬もうまく避けてくれたようで……しかし、危ないところでした。まことに申し訳ありません」
「まったくだ。ジークヴァルト様に大事があったらどうする気だ」
「お前たちに怪我はないか?」
ふいにジークヴァルトが口を挟む。御者は恐縮したようにすぐさま返事をした。
「はい! わたしどもも問題はありません!」
「そうか。ならばいい」
「旦那様、お気遣いありがとうございます。念のためもう一度点検してから、すぐに出発いたします」
いまだジークヴァルトの膝の上にいたリーゼロッテは、自分の頭の上にあるジークヴァルトの顔を見上げた。
(ヴァルト様が公爵家のみんなに慕われているのが分かる気がする……)
常に無表情の鉄面皮で、たまに笑ったとしても魔王のような笑みしか浮かべないジークヴァルトだが、公爵家の使用人たちに心から敬愛されている。それはこんなふうに仕える者たちを気遣えるやさしさがあるからなのだろう。
ダーミッシュ家の者たちは、ジークヴァルトのことを遠巻きにして敬遠している様子だった。公爵という立場からそれは仕方のないことなのかもしれないが、怖い人ではないのだとみなに伝えたい。
(これから長い付き合いになるんだもの。わたしの周りにいる人たちにだけでも、ちゃんとわかってもらいたい……)
そんなことを思いながら、リーゼロッテはジークヴァルトの膝の上で身じろぎした。馬車が動き出す前に、隣の席に戻ったほうがいいだろう。
「あの、ヴァルト様。危ないところを支えてくださってありがとうございました。……その、もう大丈夫ですので、降ろしていただけますか?」
そう言いながら膝から降りようとすると、ジークヴァルトはその腕で逆にがっちりとホールドしてくる。リーゼロッテはそれ以上身動きが取れなくなり、困惑したようにその顔を再び見上げた。
「ヴァルト様……?」
「却下だ。また何かあると危険だろう」
「え? いえ、このようなことは早々あるものでは……」
「いや、何かあってからでは遅い」
「ですが……」
「だめだ、お前は軽すぎる。飛んで行ったらどうする」
さらにぎゅうと抱きすくめられて、リーゼロッテはぽかんと口を開けた。
「……さすがにそれは過保護すぎと言うものですわ」
「そんなことはない」
呆れ気味のリーゼロッテの言葉に、ジークヴァルトは不機嫌そうにふいと顔を逸らした。こうなったら観念するほかはない。眉を下げつつもリーゼロッテは力を抜いて、ジークヴァルトに素直に身を預けた。
そんな二人の様子をエーミールは向かいの席から黙って見ていた。
(このご様子なら、おふたりにお子ができるのも時間の問題だな)
ふっと口元に笑みが浮かぶ。エーミールは子供時代からジークヴァルトをよく知っている。あの彼がこのようにひとりの女性に固執するなど、今までは考えられもしなかった。
「……エーミール様」
横から控えめに声をかけられて、エーミールは隣に座っているエラに顔を向けた。不思議なくらい至近距離にあったエラの顔に驚き、思わずその顔をじっと見つめてしまう。
「……危険なところ、ありがとうございました。その……そろそろ離していだだいても、大丈夫かと思うのですが……」
エラは自分の胸板に寄りかかって、所在なさげに目をさ迷わせている。頬を染めているエラをしばらく見つめていたエーミールは、いまだエラの肩を抱き寄せている自分にようやく気がついた。しかも反対の手はエラの白い手を握りしめて自分の膝の上で拘束している。
そんな中、再び馬車は静かに走り出した。カラカラと車輪が回る音が響き渡る。
彼女の顔が近すぎるのは、誰でもない自分のせいだ。はっとして、エーミールは慌ててエラを自分の腕から解放した。
「ああ、っとその、怪我がなくて何より……――ぐっ!」
言いかけてエーミールは自身の口元に手を当てた。しばらく忘れていた吐き気が、一気にその身を襲ったからだ。
「エーミール様?」
「何でもない、大丈夫だ」
言葉とは裏腹に、みるみるうちに脂汗が滲んでくる。生唾がこみあげてきて今にも胃の中身がせり出してきそうだ。しかし今ここで、先日のベッティのような醜態をさらすわけはいかない。エーミールは貴族として、男として、己のすべての誇りをかけて、必死に耐えようとした。
口元を押さえながら反対の手で制するようにされ、エラは戸惑ったようにエーミールの顔を覗き込んだ。通常、侍女や従者が馬車に乗るときは、主人の対面、進行方向を背にして座る。エーミールは侯爵家の人間なので、慣れないこの乗り方のせいで馬車酔いをしているのだろう。
そう思い至ると、エラはおもむろにハンカチを一枚取り出した。
「エーミール様、差し出がましいと分かっておりますが、こちらのハンカチには馬車酔いした時に効くという香料をつけてあります。気休め程度ですが、もしよろしかったらお使いください」
体調によってはリーゼロッテが馬車酔いをするかもしれないと、前もって用意していたものだ。厚手で大判のハンカチなので、万が一吐きそうになったときに使えるのではとの思いもあり、エラはそれを差し出した。
エラの白い手がエーミールの手を包み込むようにハンカチをその手に乗せる。
「気遣いはありがたい、が……――っ!」
言いかけてエーミールは、ハンカチごとエラの手をぎゅっと握りしめた。
(――吐き気が……おさまった……?)
驚いたように顔を上げ、エラの顔を凝視する。あれほど感じていた重圧もかき消えている。エラは無知なる者と聞いておりますので……と、ふいに、リーゼロッテが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
恐る恐るエーミールはエラの手を掴んでいる力を緩めた。自分の手がエラの細い指からほんの少し離れた瞬間、エーミールのその身に一気に重圧がのしかかった。思わずエラの手を握りなおすと、その圧が嘘のようにかき消える。
(これは……無知なる者の力なのか……?)
向かいの席で同じようにエラの肩を抱き寄せているエーミールが、「何事だ!」と御者に向かって鋭く叫んだ。先ほどの今にも倒れそうな状態とうって変わった凛々しい姿は、腐っても騎士、いや酔っても騎士と言うべきか。
「申し訳ございません! 急に犬が飛び出してきたもので……!」
御者の焦った声が聞こえた後、馬車は程なくして平衡を取り戻す。減速しながらしばらく進んだのちに、ゆっくりと静かに停車した。
「お怪我はございませんか?」
御者が震える声で外から問いかける。エーミールは馬車の中を見渡した。リーゼロッテはいまだ縮こまって震えているものの、ジークヴァルトの膝の上で大事に抱えられている。目が合うとジークヴァルトはエーミールに問題ないと目線で答えた。
次にエーミールは自分が抱き寄せているエラに視線を落とした。胸に手を当てて固まっているが、こちらも怪我はなさそうだ。エーミールの視線に気づくと、エラは自分は問題ないと頷いて見せた。
「こちらは大丈夫だ。馬と馬車には問題はないか?」
御者台に続く小窓を少し開け、エーミールは御者に問うた。
「はい、今確認しましたところ、馬車には傷ひとつついておりません。馬は少し興奮していますが、直に落ち着くでしょう。犬もうまく避けてくれたようで……しかし、危ないところでした。まことに申し訳ありません」
「まったくだ。ジークヴァルト様に大事があったらどうする気だ」
「お前たちに怪我はないか?」
ふいにジークヴァルトが口を挟む。御者は恐縮したようにすぐさま返事をした。
「はい! わたしどもも問題はありません!」
「そうか。ならばいい」
「旦那様、お気遣いありがとうございます。念のためもう一度点検してから、すぐに出発いたします」
いまだジークヴァルトの膝の上にいたリーゼロッテは、自分の頭の上にあるジークヴァルトの顔を見上げた。
(ヴァルト様が公爵家のみんなに慕われているのが分かる気がする……)
常に無表情の鉄面皮で、たまに笑ったとしても魔王のような笑みしか浮かべないジークヴァルトだが、公爵家の使用人たちに心から敬愛されている。それはこんなふうに仕える者たちを気遣えるやさしさがあるからなのだろう。
ダーミッシュ家の者たちは、ジークヴァルトのことを遠巻きにして敬遠している様子だった。公爵という立場からそれは仕方のないことなのかもしれないが、怖い人ではないのだとみなに伝えたい。
(これから長い付き合いになるんだもの。わたしの周りにいる人たちにだけでも、ちゃんとわかってもらいたい……)
そんなことを思いながら、リーゼロッテはジークヴァルトの膝の上で身じろぎした。馬車が動き出す前に、隣の席に戻ったほうがいいだろう。
「あの、ヴァルト様。危ないところを支えてくださってありがとうございました。……その、もう大丈夫ですので、降ろしていただけますか?」
そう言いながら膝から降りようとすると、ジークヴァルトはその腕で逆にがっちりとホールドしてくる。リーゼロッテはそれ以上身動きが取れなくなり、困惑したようにその顔を再び見上げた。
「ヴァルト様……?」
「却下だ。また何かあると危険だろう」
「え? いえ、このようなことは早々あるものでは……」
「いや、何かあってからでは遅い」
「ですが……」
「だめだ、お前は軽すぎる。飛んで行ったらどうする」
さらにぎゅうと抱きすくめられて、リーゼロッテはぽかんと口を開けた。
「……さすがにそれは過保護すぎと言うものですわ」
「そんなことはない」
呆れ気味のリーゼロッテの言葉に、ジークヴァルトは不機嫌そうにふいと顔を逸らした。こうなったら観念するほかはない。眉を下げつつもリーゼロッテは力を抜いて、ジークヴァルトに素直に身を預けた。
そんな二人の様子をエーミールは向かいの席から黙って見ていた。
(このご様子なら、おふたりにお子ができるのも時間の問題だな)
ふっと口元に笑みが浮かぶ。エーミールは子供時代からジークヴァルトをよく知っている。あの彼がこのようにひとりの女性に固執するなど、今までは考えられもしなかった。
「……エーミール様」
横から控えめに声をかけられて、エーミールは隣に座っているエラに顔を向けた。不思議なくらい至近距離にあったエラの顔に驚き、思わずその顔をじっと見つめてしまう。
「……危険なところ、ありがとうございました。その……そろそろ離していだだいても、大丈夫かと思うのですが……」
エラは自分の胸板に寄りかかって、所在なさげに目をさ迷わせている。頬を染めているエラをしばらく見つめていたエーミールは、いまだエラの肩を抱き寄せている自分にようやく気がついた。しかも反対の手はエラの白い手を握りしめて自分の膝の上で拘束している。
そんな中、再び馬車は静かに走り出した。カラカラと車輪が回る音が響き渡る。
彼女の顔が近すぎるのは、誰でもない自分のせいだ。はっとして、エーミールは慌ててエラを自分の腕から解放した。
「ああ、っとその、怪我がなくて何より……――ぐっ!」
言いかけてエーミールは自身の口元に手を当てた。しばらく忘れていた吐き気が、一気にその身を襲ったからだ。
「エーミール様?」
「何でもない、大丈夫だ」
言葉とは裏腹に、みるみるうちに脂汗が滲んでくる。生唾がこみあげてきて今にも胃の中身がせり出してきそうだ。しかし今ここで、先日のベッティのような醜態をさらすわけはいかない。エーミールは貴族として、男として、己のすべての誇りをかけて、必死に耐えようとした。
口元を押さえながら反対の手で制するようにされ、エラは戸惑ったようにエーミールの顔を覗き込んだ。通常、侍女や従者が馬車に乗るときは、主人の対面、進行方向を背にして座る。エーミールは侯爵家の人間なので、慣れないこの乗り方のせいで馬車酔いをしているのだろう。
そう思い至ると、エラはおもむろにハンカチを一枚取り出した。
「エーミール様、差し出がましいと分かっておりますが、こちらのハンカチには馬車酔いした時に効くという香料をつけてあります。気休め程度ですが、もしよろしかったらお使いください」
体調によってはリーゼロッテが馬車酔いをするかもしれないと、前もって用意していたものだ。厚手で大判のハンカチなので、万が一吐きそうになったときに使えるのではとの思いもあり、エラはそれを差し出した。
エラの白い手がエーミールの手を包み込むようにハンカチをその手に乗せる。
「気遣いはありがたい、が……――っ!」
言いかけてエーミールは、ハンカチごとエラの手をぎゅっと握りしめた。
(――吐き気が……おさまった……?)
驚いたように顔を上げ、エラの顔を凝視する。あれほど感じていた重圧もかき消えている。エラは無知なる者と聞いておりますので……と、ふいに、リーゼロッテが言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
恐る恐るエーミールはエラの手を掴んでいる力を緩めた。自分の手がエラの細い指からほんの少し離れた瞬間、エーミールのその身に一気に重圧がのしかかった。思わずエラの手を握りなおすと、その圧が嘘のようにかき消える。
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