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第2章 氷の王子と消えた託宣
第10話 貴族街の聖女
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【前回のあらすじ】
オクタヴィアの瞳に合わせた新たなドレスの仮縫いを済ませたリーゼロッテ。
そんな中、エラに別れた恋人の魔の手が襲いかかります。
そのピンチを救ってくれたエーミールに尊敬と感謝の念を抱きつつ、ヨハンの刺繍のハンカチにも心を奪われるエラ。
そんなエラにヨハンは恋してしまうのでした。
「もう、一週間もないのね……」
ゆったりとしたソファに腰かけながら、リーゼロッテは小さく息をついた。
ここは王都にあるダーミッシュ家タウンハウスの一室だ。デビュタントのための舞踏会である白の夜会は、五日後に迫っている。雪がちらつくこれからの季節は、移動時間が読めないことが多いため、リーゼロッテは義母のクリスタと共に早めに王都のタウンハウスへと移動していた。
義父のフーゴは領地の執務で、数日遅れて合流する予定だ。義弟のルカはまだ夜会に出席できる年ではないため、唇を尖らせながら領地で留守番をしている。
「お嬢様……社交界デビューがご不安ですか?」
ミルクたっぷりの紅茶を差し出しながら、エラが気づかわし気な表情で問いかける。リーゼロッテはキリキリ痛む胃をごまかしながら、エラに笑顔を向けた。
「今からこんなふうではダメね。でも、やっぱり落ち着かなくて」
「旦那様がエスコートしてくださいますから、心配はご無用ですよ。お嬢様には公爵様もいらっしゃいますし」
そう言うエラ自身は、緊張しすぎていたせいでデビューの夜会の記憶はほどんど残っていない。なにしろ父親のエデラー男爵もエラに負けず劣らずガチガチだったので、ふたりで支え合いながら、せめて王の前で転ばないようにと、足を交互に繰り出すのが精いっぱいだった。
だが、それはにわか男爵父娘だったからだ。リーゼロッテは生まれながら高貴な令嬢として育ってきた。しかもどこに出しても恥ずかしくない淑女の鏡ともいえる自慢のお嬢様だ。
「最近では、お嬢様はお転びになることもございませんし、普段通りのお嬢さまでいらっしゃればよろしいのですよ」
エスコート役がしっかりしているので何も心配はないだろう。仮に転んだとしても、リーゼロッテは転ぶ姿までもが優雅で美しい。屋敷のありとあらゆる場所でリーゼロッテが転ぶ姿を何度も目にしてきたが、その可憐な姿は残像のように目に焼きついて、いつまでも脳裏を離れない。
その姿は庇護欲をかき立てられ、誰しもが手を差し伸べずにはいられなくなる。もし、転んだリーゼロッテを嘲笑する者がいたとしたら、その人間はよほど心根がゆがんでいるに違いない。
「普段通りにできるかしら……? 同じ側の手と足を同時に出して歩いてしまいそうだわ」
「ご安心ください、お嬢様。過去、緊張のあまりそのようになってしまったご令嬢は、他にもいらっしゃいます。それに、ドレスに隠れて足の動きは案外誤魔化せるものですよ」
安心させるようにエラは力強く言い切った。なにせ、それは自分の経験談だっだから説得力は抜群だ。
「ふふ、エラがそう言うなら心強いわ」
「お任せください。夜会では微力ながらわたしも全身全霊をもってサポートさせていただきます」
「ありがとう。けれど、エラもちゃんと夜会を楽しんでちょうだいね」
「はい、ありがとうございます、お嬢様」
ほのぼのとふたりで微笑みあっていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてくる。その足音が部屋の前で止まったかと思うと、ひとりの使用人が扉のノックもそこそこに部屋の中に飛び込んできた。
「お、お、お、お嬢様!」
息を切らしながらわたわたしている使用人にエラは眉をひそめた。
「落ち着いてください。お嬢様の前ですよ」
「す、すみません。ですが、奥様が今すぐにいらっしゃるようにと……!」
「まあ、何かしら? マダムのドレスは昨日届いていたし……もしかしたら、公爵家からオクタヴィアの瞳が届いたのかもしれないわね」
知らせてくれてありがとうとその使用人に微笑むと、リーゼロッテはクリスタの待つ部屋へと向かった。
「お義母様、参りましたわ」
部屋に入るなり目に飛び込んできたのは、部屋の中央に立つジークヴァルトの姿だった。
「ジークヴァルト様!?」
驚いて思わず声を上げると、ジークヴァルトの後ろからひょっこりとクリスタが顔のぞかせた。
「まあ、リーゼロッテ、きちんとご挨拶しないとダメでしょう?」
「あ……申し訳ございません。ジークヴァルト様、ようこそおいでくださいました」
困惑しつつ淑女の礼を取る。「ああ」と返事をすると、ジークヴァルトはするりとリーゼロッテの髪をなでた。
「あの、今日はどうしてこちらへ……?」
昨日届いた手紙には、そんなことは何も書いてなかった。ジークヴァルトと離れている間は、毎日手紙でやりとりをしている。二人の間ではそれがもう当たり前のことになっていた。
「わたくしが内緒にとお願いしたのよ。ふふ、会えないと思っていた時に、不意に会えるとうれしいものでしょう?」
愛しい方ならなおさらね、とクリスタは夢見る少女のようにうっとりした顔で言った。その言葉に、リーゼロッテの頬が朱に染まる。
(ジークヴァルト様とはそういう仲ではないのに……)
世間的には仲の良い婚約者を演じた方がよいのだろうが、身内にまでそんなふうに言われると、どうしようもなくむずむずしてしまう。だが、うきうき顔の義母の期待を裏切ることもできず、リーゼロッテは隣に立つジークヴァルトの顔を見上げて微笑んだ。
「はい……会いに来てくださってうれしいですわ」
「ああ、例のあれを届けに来た」
「わたくしも先ほどジークヴァルト様に見せていただいたのよ。オクタヴィアの瞳は想像以上に美しいものね」
やはりジークヴァルトはオクタヴィアの瞳を届けに来たようだ。しかし自ら来なくとも使用人に任せればよかったのではないだろうか。
「ダーミッシュ伯爵夫人、こちらの警護に幾人か置いていく。伯爵が不在でご不安もあるだろう」
「お気遣いありがとうございます、ジークヴァルト様。とても心強いですわ」
クリスタは優雅に微笑むと、今度はリーゼロッテにいたずらっぽい笑顔を向けてきた。
「では、リーゼはお着がえね」
「え?」
わけがわからぬまま、リーゼロッテはあてがわれた寝室へと連れていかれ、着ていたドレスから別のものへと大急ぎで着替えさせられたのであった。
オクタヴィアの瞳に合わせた新たなドレスの仮縫いを済ませたリーゼロッテ。
そんな中、エラに別れた恋人の魔の手が襲いかかります。
そのピンチを救ってくれたエーミールに尊敬と感謝の念を抱きつつ、ヨハンの刺繍のハンカチにも心を奪われるエラ。
そんなエラにヨハンは恋してしまうのでした。
「もう、一週間もないのね……」
ゆったりとしたソファに腰かけながら、リーゼロッテは小さく息をついた。
ここは王都にあるダーミッシュ家タウンハウスの一室だ。デビュタントのための舞踏会である白の夜会は、五日後に迫っている。雪がちらつくこれからの季節は、移動時間が読めないことが多いため、リーゼロッテは義母のクリスタと共に早めに王都のタウンハウスへと移動していた。
義父のフーゴは領地の執務で、数日遅れて合流する予定だ。義弟のルカはまだ夜会に出席できる年ではないため、唇を尖らせながら領地で留守番をしている。
「お嬢様……社交界デビューがご不安ですか?」
ミルクたっぷりの紅茶を差し出しながら、エラが気づかわし気な表情で問いかける。リーゼロッテはキリキリ痛む胃をごまかしながら、エラに笑顔を向けた。
「今からこんなふうではダメね。でも、やっぱり落ち着かなくて」
「旦那様がエスコートしてくださいますから、心配はご無用ですよ。お嬢様には公爵様もいらっしゃいますし」
そう言うエラ自身は、緊張しすぎていたせいでデビューの夜会の記憶はほどんど残っていない。なにしろ父親のエデラー男爵もエラに負けず劣らずガチガチだったので、ふたりで支え合いながら、せめて王の前で転ばないようにと、足を交互に繰り出すのが精いっぱいだった。
だが、それはにわか男爵父娘だったからだ。リーゼロッテは生まれながら高貴な令嬢として育ってきた。しかもどこに出しても恥ずかしくない淑女の鏡ともいえる自慢のお嬢様だ。
「最近では、お嬢様はお転びになることもございませんし、普段通りのお嬢さまでいらっしゃればよろしいのですよ」
エスコート役がしっかりしているので何も心配はないだろう。仮に転んだとしても、リーゼロッテは転ぶ姿までもが優雅で美しい。屋敷のありとあらゆる場所でリーゼロッテが転ぶ姿を何度も目にしてきたが、その可憐な姿は残像のように目に焼きついて、いつまでも脳裏を離れない。
その姿は庇護欲をかき立てられ、誰しもが手を差し伸べずにはいられなくなる。もし、転んだリーゼロッテを嘲笑する者がいたとしたら、その人間はよほど心根がゆがんでいるに違いない。
「普段通りにできるかしら……? 同じ側の手と足を同時に出して歩いてしまいそうだわ」
「ご安心ください、お嬢様。過去、緊張のあまりそのようになってしまったご令嬢は、他にもいらっしゃいます。それに、ドレスに隠れて足の動きは案外誤魔化せるものですよ」
安心させるようにエラは力強く言い切った。なにせ、それは自分の経験談だっだから説得力は抜群だ。
「ふふ、エラがそう言うなら心強いわ」
「お任せください。夜会では微力ながらわたしも全身全霊をもってサポートさせていただきます」
「ありがとう。けれど、エラもちゃんと夜会を楽しんでちょうだいね」
「はい、ありがとうございます、お嬢様」
ほのぼのとふたりで微笑みあっていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてくる。その足音が部屋の前で止まったかと思うと、ひとりの使用人が扉のノックもそこそこに部屋の中に飛び込んできた。
「お、お、お、お嬢様!」
息を切らしながらわたわたしている使用人にエラは眉をひそめた。
「落ち着いてください。お嬢様の前ですよ」
「す、すみません。ですが、奥様が今すぐにいらっしゃるようにと……!」
「まあ、何かしら? マダムのドレスは昨日届いていたし……もしかしたら、公爵家からオクタヴィアの瞳が届いたのかもしれないわね」
知らせてくれてありがとうとその使用人に微笑むと、リーゼロッテはクリスタの待つ部屋へと向かった。
「お義母様、参りましたわ」
部屋に入るなり目に飛び込んできたのは、部屋の中央に立つジークヴァルトの姿だった。
「ジークヴァルト様!?」
驚いて思わず声を上げると、ジークヴァルトの後ろからひょっこりとクリスタが顔のぞかせた。
「まあ、リーゼロッテ、きちんとご挨拶しないとダメでしょう?」
「あ……申し訳ございません。ジークヴァルト様、ようこそおいでくださいました」
困惑しつつ淑女の礼を取る。「ああ」と返事をすると、ジークヴァルトはするりとリーゼロッテの髪をなでた。
「あの、今日はどうしてこちらへ……?」
昨日届いた手紙には、そんなことは何も書いてなかった。ジークヴァルトと離れている間は、毎日手紙でやりとりをしている。二人の間ではそれがもう当たり前のことになっていた。
「わたくしが内緒にとお願いしたのよ。ふふ、会えないと思っていた時に、不意に会えるとうれしいものでしょう?」
愛しい方ならなおさらね、とクリスタは夢見る少女のようにうっとりした顔で言った。その言葉に、リーゼロッテの頬が朱に染まる。
(ジークヴァルト様とはそういう仲ではないのに……)
世間的には仲の良い婚約者を演じた方がよいのだろうが、身内にまでそんなふうに言われると、どうしようもなくむずむずしてしまう。だが、うきうき顔の義母の期待を裏切ることもできず、リーゼロッテは隣に立つジークヴァルトの顔を見上げて微笑んだ。
「はい……会いに来てくださってうれしいですわ」
「ああ、例のあれを届けに来た」
「わたくしも先ほどジークヴァルト様に見せていただいたのよ。オクタヴィアの瞳は想像以上に美しいものね」
やはりジークヴァルトはオクタヴィアの瞳を届けに来たようだ。しかし自ら来なくとも使用人に任せればよかったのではないだろうか。
「ダーミッシュ伯爵夫人、こちらの警護に幾人か置いていく。伯爵が不在でご不安もあるだろう」
「お気遣いありがとうございます、ジークヴァルト様。とても心強いですわ」
クリスタは優雅に微笑むと、今度はリーゼロッテにいたずらっぽい笑顔を向けてきた。
「では、リーゼはお着がえね」
「え?」
わけがわからぬまま、リーゼロッテはあてがわれた寝室へと連れていかれ、着ていたドレスから別のものへと大急ぎで着替えさせられたのであった。
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