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第2章 氷の王子と消えた託宣
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「もしかして見てらしたのですか?」
「ああ……助けに入ろうかとも思ったのだが……以前アデライーデ様に、女性同士の諍いに男が口をはさむものではないと叱られたことがあってだな……だから、その……本当にすまない」
「いえ、そのようにしていただけて、こちらもむしろありがたかったです」
ああいった言い争いに男がしゃしゃり出ると、こじらせて後々ややこしいことになる。特にあの少女のようなタイプは、さらに闘志を燃やしてねちねちと陰湿な手段に走りがちだ。アデライーデの言うことはまったくもって正しいとエラは心底同意した。
「あの女性が手を上げたときは、思わず出ていきそうになったんだが……エデラー嬢は強い人なのだな」
「え? いいえ、そのようなことは……。ああいったことはよくあることですし……」
「そうなのか? しかし最近の市井の女性は、随分とあけすけな物言いをするのだな……」
別に市井だからというわけではないだろう。あけすけな女は貴族の中にもたくさんいる。しかし、ヨハンの中の女性像を崩すこともないと思い、エラは曖昧に笑うにとどめた。
「カーク様、ありがとうございます」
エラが深々と頭を下げると、ヨハンは慌てたように言った。
「いや、オレは結局ただ見ていただけだ。エデラー嬢の助けになったわけではないし」
「いえ、そのお心遣いだけで十分感謝いたします」
エラが頭を上げて微笑むと、ヨハンは顔を赤くした。
「そ、そうか。そう言ってもらえるとオレもうれしい」
照れたようにわちゃわちゃしているヨハンの手から、先程のハンカチが滑り落ちた。
「あ、カーク様、ハンカチが……」
エラがスカートのすそを気にしながら、腰を落としてハンカチを拾う。その女性らしい動きを、ヨハンはくぎ付けになったように目で追っていた。
ハンカチを手にしたエラは「まあ!」と感嘆の声を上げた。先程は気づかなかったが、そのハンカチには見事な刺繍が施されている。
色鮮やかな花が描かれた緻密で繊細な刺繍は、見事の一言だった。その刺繍にはエラが知りえないような複雑なステッチが使われているようだ。
「カーク様……こちらの刺繍は一体どなたが……?」
思わず広げて隅々まで観察してしまう。見たところ大量生産される既製品ではなく、明らかに個人が刺したと思われる一点もののハンカチだった。
貴族女性が手慰みに刺繍を刺すことはよくある話だ。ヨハンの身内の女性が作ったものではないかと、エラはヨハンに詰め寄った。
「このような素晴らしい刺繍は見たことがございません。もしご存知でしたら、この刺繍を施した方を教えていただけませんか?」
「あ、いや、それは……」
ヨハンは大きな手を胸の前でもじもじとさせている。その様子を見てエラはピンときた。ヨハンはカーク子爵家の跡取り息子だ。このハンカチは婚約者や恋人などから贈られたもので、ヨハンはそれを恥ずかしがっているのだろう。
「もしやこちらはカーク様の大事な方が……?」
「えっ!? いや、違う! オレには婚約者はいない!!」
「ではお母様やご身内の方が刺繍を施されたのでしょうか?」
「あ、いや、違うんだ……それは、その……エデラー嬢、笑わないで聞いてくれるか?」
「はい、もちろんです」
歯切れの悪いヨハンにエラは首をかしげつつも神妙に頷いた。
「……その刺繍は……このオレが刺したんだ」
「えっ!?」
エラはヨハンの顔を目を見開いて凝視した。
「この刺繍を……カーク様が……?」
ヨハンの顔とハンカチを交互に見やるエラを前に、ヨハンは巨体を丸めて慌てたように胸の前で両手を振った。
「ああっすまないっ、気持ちの悪いことを言って……」
「……しいです」
「え?」
エラはハンカチを手にしたまま、ヨハンの手を取り自分の顔の高さまで持ち上げた。
「素晴らしいです! カーク様! この大きな手が、このように繊細な刺繍を生み出すなんて……!!」
エラはヨハンの手をまるで大事な宝物のように握りしめた。頬ずりしそうなエラの勢いに、ヨハンの全身は真っ赤に染まった。
「え、え、え、え、エデラー嬢……!」
「はっ、わたしったら……! なんて不敬なことを」
慌てたエラが手を放そうとすると、今度は逆にヨハンがエラの手を握り返した。ちょっと痛いくらいの強さだったが、エラは振りほどくこともできずに力を抜いてヨハンに手を預けた。
「エデラー嬢はオレを不快に感じないのか?」
「ふかい……でございますか……?」
「ああ……オレはこの容姿だ。ただでかいばかりで気も利かぬ男だし、そんな男が刺繍を趣味にしているなどと聞いたら、エデラー嬢だって気持ちが悪いだろう?」
自嘲気味に語るヨハンに、エラはぽかんと口を開けた。
「……いいえ。わたしはそのようにはまったく思いませんが」
「いや、いいんだ。正直に言ってくれても」
「ですから先程、正直に申し上げました。カーク様が施された刺繍は、大変素晴らしいものですと。このようなものを作り上げる方を尊敬することはあれど、気持ち悪いなどと思うことなどあり得ません」
エラの尊敬のまなざしをまっすぐに受け、ヨハンの顔は湯気が出そうなほど赤みを帯びた。
「そそそ尊敬などと大げさな」
「いいえ! この刺繍はわたしが今まで見た中でも、随一と言っていいほど素晴らしいものです! カーク様、心より尊敬申しあげます!」
再び手を握り返してエラはヨハンに詰め寄った。食い入るようにヨハンの青い瞳を見つめる。
「厚かましいお願いとはわかっておりますが、ぜひともわたしにこの刺繍の技術を伝授していただけませんか!?」
「それはかまわないが……」
「本当ですか!? ありがとうございます!!」
「……エデラー嬢、君って人は……」
ヨハンが何かを言いかけた途中で、エラはハンカチを強く握りしめていることに気がついた。
「ああ! ハンカチにシワがっ!!」
「ああ、いや、べつに大丈夫だ」
「いいえ、責任をもってきれいにしてからお返しいたします! ああ、せっかくの刺繍が……」
「ハンカチなのだからそんなものだろう」
「ですが……!」
そう言いながらもエラは愛おしそうに刺繍のステッチを指でなぞっている。そんなに気に入ってくれたのだろうか?
「よければそれはエデラー嬢に差し上げようか?」
「え!?」
エラは驚きと期待に満ちた目を向けた。
「いえ、ですが、そんな厚かましいこと……」
「いや、ハンカチなら何枚もある。刺繍はいつでもまた刺せるし」
「本当にいただいてもよろしいのですか?」
「ああ。その代わりひとつ……いや、ふたつ願いがあるのだが」
「はい、なんでしょう?」
エラがハンカチを手にしたまま軽く首をかしげた。そのしぐさにヨハンの顔がまた赤く染まる。
「その、エデラー嬢のことを、名前で呼んでもかまわないか?」
「はい、もちろんです」
「それとオレのことはヨハンと、そう呼んでほしい」
「はい、承知しました、ヨハン様」
そのようなことならお安い御用だとエラは笑顔を返してから、再びハンカチに目を落とした。ヨハンの刺繍を見つめながら「本当に美しいです……」とため息をこぼす。
「いや……美しいのはエラ嬢……君だ……」
ヨハンの呆けたように開かれた口から小さなつぶやきが漏れた。
「ヨハン様? 今何かおっしゃいましたか?」
「あ、いや、何でもない!」
再びヨハンはわちゃわちゃと両手を振った。
あの大きな手がこの繊細な刺繍を生み出すのだ。ヨハンの手は魔法の手に違いないと、エラはうっとりとその動きを眺めていた。
「ああ……助けに入ろうかとも思ったのだが……以前アデライーデ様に、女性同士の諍いに男が口をはさむものではないと叱られたことがあってだな……だから、その……本当にすまない」
「いえ、そのようにしていただけて、こちらもむしろありがたかったです」
ああいった言い争いに男がしゃしゃり出ると、こじらせて後々ややこしいことになる。特にあの少女のようなタイプは、さらに闘志を燃やしてねちねちと陰湿な手段に走りがちだ。アデライーデの言うことはまったくもって正しいとエラは心底同意した。
「あの女性が手を上げたときは、思わず出ていきそうになったんだが……エデラー嬢は強い人なのだな」
「え? いいえ、そのようなことは……。ああいったことはよくあることですし……」
「そうなのか? しかし最近の市井の女性は、随分とあけすけな物言いをするのだな……」
別に市井だからというわけではないだろう。あけすけな女は貴族の中にもたくさんいる。しかし、ヨハンの中の女性像を崩すこともないと思い、エラは曖昧に笑うにとどめた。
「カーク様、ありがとうございます」
エラが深々と頭を下げると、ヨハンは慌てたように言った。
「いや、オレは結局ただ見ていただけだ。エデラー嬢の助けになったわけではないし」
「いえ、そのお心遣いだけで十分感謝いたします」
エラが頭を上げて微笑むと、ヨハンは顔を赤くした。
「そ、そうか。そう言ってもらえるとオレもうれしい」
照れたようにわちゃわちゃしているヨハンの手から、先程のハンカチが滑り落ちた。
「あ、カーク様、ハンカチが……」
エラがスカートのすそを気にしながら、腰を落としてハンカチを拾う。その女性らしい動きを、ヨハンはくぎ付けになったように目で追っていた。
ハンカチを手にしたエラは「まあ!」と感嘆の声を上げた。先程は気づかなかったが、そのハンカチには見事な刺繍が施されている。
色鮮やかな花が描かれた緻密で繊細な刺繍は、見事の一言だった。その刺繍にはエラが知りえないような複雑なステッチが使われているようだ。
「カーク様……こちらの刺繍は一体どなたが……?」
思わず広げて隅々まで観察してしまう。見たところ大量生産される既製品ではなく、明らかに個人が刺したと思われる一点もののハンカチだった。
貴族女性が手慰みに刺繍を刺すことはよくある話だ。ヨハンの身内の女性が作ったものではないかと、エラはヨハンに詰め寄った。
「このような素晴らしい刺繍は見たことがございません。もしご存知でしたら、この刺繍を施した方を教えていただけませんか?」
「あ、いや、それは……」
ヨハンは大きな手を胸の前でもじもじとさせている。その様子を見てエラはピンときた。ヨハンはカーク子爵家の跡取り息子だ。このハンカチは婚約者や恋人などから贈られたもので、ヨハンはそれを恥ずかしがっているのだろう。
「もしやこちらはカーク様の大事な方が……?」
「えっ!? いや、違う! オレには婚約者はいない!!」
「ではお母様やご身内の方が刺繍を施されたのでしょうか?」
「あ、いや、違うんだ……それは、その……エデラー嬢、笑わないで聞いてくれるか?」
「はい、もちろんです」
歯切れの悪いヨハンにエラは首をかしげつつも神妙に頷いた。
「……その刺繍は……このオレが刺したんだ」
「えっ!?」
エラはヨハンの顔を目を見開いて凝視した。
「この刺繍を……カーク様が……?」
ヨハンの顔とハンカチを交互に見やるエラを前に、ヨハンは巨体を丸めて慌てたように胸の前で両手を振った。
「ああっすまないっ、気持ちの悪いことを言って……」
「……しいです」
「え?」
エラはハンカチを手にしたまま、ヨハンの手を取り自分の顔の高さまで持ち上げた。
「素晴らしいです! カーク様! この大きな手が、このように繊細な刺繍を生み出すなんて……!!」
エラはヨハンの手をまるで大事な宝物のように握りしめた。頬ずりしそうなエラの勢いに、ヨハンの全身は真っ赤に染まった。
「え、え、え、え、エデラー嬢……!」
「はっ、わたしったら……! なんて不敬なことを」
慌てたエラが手を放そうとすると、今度は逆にヨハンがエラの手を握り返した。ちょっと痛いくらいの強さだったが、エラは振りほどくこともできずに力を抜いてヨハンに手を預けた。
「エデラー嬢はオレを不快に感じないのか?」
「ふかい……でございますか……?」
「ああ……オレはこの容姿だ。ただでかいばかりで気も利かぬ男だし、そんな男が刺繍を趣味にしているなどと聞いたら、エデラー嬢だって気持ちが悪いだろう?」
自嘲気味に語るヨハンに、エラはぽかんと口を開けた。
「……いいえ。わたしはそのようにはまったく思いませんが」
「いや、いいんだ。正直に言ってくれても」
「ですから先程、正直に申し上げました。カーク様が施された刺繍は、大変素晴らしいものですと。このようなものを作り上げる方を尊敬することはあれど、気持ち悪いなどと思うことなどあり得ません」
エラの尊敬のまなざしをまっすぐに受け、ヨハンの顔は湯気が出そうなほど赤みを帯びた。
「そそそ尊敬などと大げさな」
「いいえ! この刺繍はわたしが今まで見た中でも、随一と言っていいほど素晴らしいものです! カーク様、心より尊敬申しあげます!」
再び手を握り返してエラはヨハンに詰め寄った。食い入るようにヨハンの青い瞳を見つめる。
「厚かましいお願いとはわかっておりますが、ぜひともわたしにこの刺繍の技術を伝授していただけませんか!?」
「それはかまわないが……」
「本当ですか!? ありがとうございます!!」
「……エデラー嬢、君って人は……」
ヨハンが何かを言いかけた途中で、エラはハンカチを強く握りしめていることに気がついた。
「ああ! ハンカチにシワがっ!!」
「ああ、いや、べつに大丈夫だ」
「いいえ、責任をもってきれいにしてからお返しいたします! ああ、せっかくの刺繍が……」
「ハンカチなのだからそんなものだろう」
「ですが……!」
そう言いながらもエラは愛おしそうに刺繍のステッチを指でなぞっている。そんなに気に入ってくれたのだろうか?
「よければそれはエデラー嬢に差し上げようか?」
「え!?」
エラは驚きと期待に満ちた目を向けた。
「いえ、ですが、そんな厚かましいこと……」
「いや、ハンカチなら何枚もある。刺繍はいつでもまた刺せるし」
「本当にいただいてもよろしいのですか?」
「ああ。その代わりひとつ……いや、ふたつ願いがあるのだが」
「はい、なんでしょう?」
エラがハンカチを手にしたまま軽く首をかしげた。そのしぐさにヨハンの顔がまた赤く染まる。
「その、エデラー嬢のことを、名前で呼んでもかまわないか?」
「はい、もちろんです」
「それとオレのことはヨハンと、そう呼んでほしい」
「はい、承知しました、ヨハン様」
そのようなことならお安い御用だとエラは笑顔を返してから、再びハンカチに目を落とした。ヨハンの刺繍を見つめながら「本当に美しいです……」とため息をこぼす。
「いや……美しいのはエラ嬢……君だ……」
ヨハンの呆けたように開かれた口から小さなつぶやきが漏れた。
「ヨハン様? 今何かおっしゃいましたか?」
「あ、いや、何でもない!」
再びヨハンはわちゃわちゃと両手を振った。
あの大きな手がこの繊細な刺繍を生み出すのだ。ヨハンの手は魔法の手に違いないと、エラはうっとりとその動きを眺めていた。
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