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第2章 氷の王子と消えた託宣

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(今日はいろんなことが起きる日だわ)

 気分のアップダウンが激しい日だと思いながら、エラは再び廊下を歩いていた。
 ふと思い出して、廊下の窓に自分の顔をうつして化粧の具合を確かめてみる。

(あれ? 意外とまとも)

 ガラスに映る自分の顔は、やや涙のあとが残るもののお化けのような有様ありさまにはなっていなかった。

(ベッティはいったいどんな化粧を使ったのかしら……)

 泣いても落ちない化粧など、興味がありすぎる。それは特別な化粧品なのか、メイクの技術なのか。あとで絶対に秘密を聞きださなくては。

 エラがそう思いながら窓に映った自分の顔をしげしげとながめていると、不意に背後に複数の人の気配を感じた。

「あらぁ、厚化粧あつげしょうの女がいると思ったら、エデラー家のエラじゃなぁい。 男に振られて、もう次のおとこあさりをしてるのかしらぁ?」

 振り向くと、商家からダーミッシュ家に行儀ぎょうぎ見習みならいで来ている少女とその取り巻きたちが廊下にずらりと並んでいる。

 少女と言ってもエラとさほど年は変わらない。おそらく二十歳前と思われる彼女は背丈も低く、大きなリボンとフリルがふんだんにあしらわれたドレスを身にまとっているため、ぱっと見は幼い少女のように見えた。

 市井しせいから行儀見習いに来る彼女たちは定期的に入れ代わり立ち代わりで来るので、エラはいちいちその名前までは記憶していなかった。

(たしか、マッシモ商会のところの末娘すえむすめだったかしら……)

 マッシモ家はダーミッシュ領でも有数の商家だ。エラの実家であるエデラー商会には及ばないものの、最近特に力をつけてきている家だった。

「リーゼロッテ様にびを売っていい気になってるからそんな目にあうのよ」

 少女が鼻で笑うと、取り巻き達からも嘲笑ちょうしょうがもれた。
 もともとは一介の商家だったエデラー家は、運よく王家の目に留まり男爵位をたまわることができた。それをやっかむ人間は少なくない。マッシモ家もそのひとつで、長年にわたって敵対視されている。

 エラはこの手合てあいには慣れっこだった。とにかく相手にしないに限る。返事をしてやる義理もないので、エラはそのままその場を去ろうとした。

「ちょっと! あたしが話しかけてるのよ! ちゃんと聞きなさいよ!」
 少女の合図で取り巻きたちがエラの前に立ちふさがる。

「どこのどなたか知りませんが、わたしは仕事があるので、そこをどいていただけますか?」
「なっ!?」

 少女はかっと顔を赤くした。ライバル視している相手にお前は誰だと言われ、いたくプライドが傷ついたのだろう。

「ふざけないで! ほんと、いい気になって! あんたなんかおべっかだけでお嬢様に取り上げられたくせに、そのうち痛い目をみるんだからっ!」

 かんしゃくを起こした子供のように少女は地団駄じたんだんだ。

「話はそれだけですか? では、わたしは急ぎますので」
「それだけって何よ! あたしはそのうちルカ様を手玉てだまに取って伯爵夫人になるんだから! あんたなんかすぐに首にしてやる!」

 周りからさんざん甘やかされているのだろう。そんなあり得ない話が実現すると、少女は本気で思っているようだ。

 少女とルカの年はおそらく十歳は離れている。たとえ少女が貴族のだったしても、その時点でよほどその婚姻に利点がない限り、候補から外れることになぜ気づかないのだろうか?
 それに貴族の世界は少女が思っているほど甘くはない。こんな形ばかりの行儀見習いすらまともにこなせない人間が、無傷むきずで生きていけるような場所ではないのだ。

「ルカ様を? 手玉に?」

 エラは、すん、と冷たい顔になって、無表情で少女を見下ろした。背の高い美人にすごまれると迫力は満点だ。

「え、ええ、そうよ! あたしの美貌びぼうをもってすれば、あんな坊ちゃんイチコロに決まってるわ!」
「……今の言葉は聞かなかったことにします。それ以上言うのなら、旦那様に報告せざるを得なくなりますが」
「な、何よ……自分はひいきされてるからって……! 男たちに色目いろめばかり使って、どうせ旦那様にもいろ仕掛じかけで取り入ったんでしょう!」

「わたしのことはどう言おうと一向にかまわない。けれど、ダーミッシュ家の方々をおとしめるような発言は絶対に許さないわ!」

 エラのりんとした声が廊下に響く。取り巻きたちはびくりと身を震わせ、その身を寄せ合った。

売女ばいたのくせに!」

 少女も一瞬はひるんだが、カッとなった様子でエラに向かって手を振り上げた。エラは冷静にその手をよけて、逆に少女の手首をつかみ取った。

「よく聞きなさい。あなたのその言葉は伯爵家に対する不敬罪ふけいざいになるわ。出るところに出たら、マッシモ家はすぐにおしまいよ」

 これは戯言ざれごとではない。貴族の力をもってすれば、例え何の罪などなくとも、一介の商家などひねりつぶすのは簡単だ。その恐ろしさをこの少女は何も理解していない。最もダーミッシュ伯爵がそんなことを望むなどありはしないのだが。

「何よ何よ何よ! あんたばっかりうまいことやって! その上、か弱いあたしまでおとしいれようっていうの! なんて性悪しょうわるおんななの! あんたなんか地獄に落ちればいい!! あんたなんか、あんたなんか、お父様に言いつけてやるんだからぁっ」

 エラの手を無理やり振りほどくと、少女は取り巻きたちを連れてバタバタと走り去っていった。

 エラはその背中を無言で見送った。こんなことでいちいち心を揺り動かしていては、リーゼロッテのそばにいるなど到底できない。
 見ている人はきちんと見てくれている。それ以外のどうでもいい人間に何を言われようと、それは些細ささいなことだ。

(お嬢様をお守りするためにも、わたしはもっと強くならなくては)

 リーゼロッテは否応いやおうなしに貴族社会を生き抜かねばならない。自分はそのためのたてとなろう。エラは唇を引き結び、ぐっとこぶしを握り締めた。

 そんなエラの目の前に、すっとハンカチが差し出された。「えっ?」と思わず顔を上げると、そこには沈痛ちんつう面持おももちのヨハンが大きな体を丸めるようにして、エラにハンカチを差し出していた。

「カーク様……?」

 今日はよくハンカチを差し出される日だ などと思いながら、エラはヨハンの巨体を困惑しながら見上げた。

「あ、いや、すまない。エデラー嬢が泣いているのかと思って……」

 もちろんエラは泣いてなどいない。ヨハンはバツが悪そうに手に持ったハンカチを引っ込めた。
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