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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
馬車から降りたリーゼロッテは、公爵家の屋敷の正面玄関をくぐった。
広いエントランスの入り口近くに、黒い騎士服を着たジークヴァルトと公爵家家令のエッカルトが立っている。その奥に、大勢の使用人たちがエントランスの壁沿いにぐるりと囲むように控えていた。
「リーゼロッテ様、お帰りなさいませ」
エッカルトがうやうやしく腰を折った。それに合わせて使用人たちも腰を折る。
「またお世話になりますわ」
大仰な出迎えに戸惑いながらも、リーゼロッテはエッカルトに微笑んでから、ジークヴァルトに向かって淑女の礼をした。
ジークヴァルトの表情が動かないのはいつもの事なので、あまり気にすることもないのだが、近衛の騎士服を着ているということは、これから登城するところなのかもしれない。
(わたしが着くのをわざわざ待っていたのかしら……?)
城へ行く日はいつももっと早い時間に出立しているので、そんなことはないだろうと思いつつも、ジークヴァルトの後ろに控える使用人がそわそわしているのが気になった。
彼はいつもジークヴァルトの登城に付いていく役目を担っているのだが、どうやら時間を気にしているようだ。
(やっぱり無理して待ってたのかしら……?)
淑女の礼の姿勢からゆっくりと頭を上げようとすると、顔を上げ切る前にチョコレートの菓子が目の前に差し出された。上目づかいで、菓子を差し出している張本人、ジークヴァルトの顔を伺う。
すかさず「あーん」と言いながら、ジークヴァルトは唇の数センチ先まで菓子を近づけた。この間、ジークヴァルトは完全な無表情である。
(この状況であーんなの……!?)
ちらっとエッカルトの顔に視線を向けると、期待に満ちた目でこちらを見ている。なぜだろう。周りを囲む使用人たちも、みな口元をむにむにしているように思えてならない。
到着して早々の公開羞恥プレイに、リーゼロッテは涙目になった。この中であせった顔をしているのは、リーゼロッテと時間を気にしている使用人だけだ。
もう一度ジークヴァルトを上目づかいでみやると、無表情の青い瞳とぶつかった。さらにずいと唇すれすれのところまで差し出され、観念したリーゼロッテはそっとその唇を開いた。
絶妙のタイミングで押し込まれ、リーゼロッテの口内に甘いチョコレートがとろけていく。思わずうっとりとした表情になったことに気づかないのは当の本人だけで、それを目の当たりにした使用人一同は、「よっしゃーっ!」と内心でガッツポーズを作っていた。
エッカルトも胸元のポケットからハンカチを取り出して、そっと目頭の涙を拭いている。
公爵家では、ふたりのあーんはノルマであり、神聖な儀式と化していた。
使用人たちはその瞬間を一目見ようと躍起になっており、あーんを目撃した者は、その日一日ラッキーなことに恵まれるなどというジンクスまで広まっている。
訪問先の玄関で菓子を立ったまま食べるなど、およそ貴族令嬢のすることではないのだが、リーゼロッテが拒否できる雰囲気ではまるでない。
(うう……あーんはノルマだって言ったのは自分だけど……せめて人目のない室内でやってほしい……)
後でマテアスに相談してみよう。リーゼロッテがそう決意している間に、使用人にせかされたジークヴァルトがしかめ面をしながら扉に向かって行った。
「今日は遅くなる。ダーミッシュ嬢は先に休んでいろ」
振り向きざまにそう言い残して、ジークヴァルトは王城へと慌ただしく出かけていった。
「いってらっしゃいませ、ジークヴァルト様」
リーゼロッテが淑女の礼で見送ると、使用人たちもそれにならってジークヴァルトに腰を折ってその背を見送った。
(なんだか、本当の夫婦みたいなやり取りね……)
リーゼロッテはいまだジークヴァルトの婚約者の身。公爵家にはあくまで客人として迎えられているはずだ。だが、その扱いはもはや公爵家の一員のようだった。
ジークヴァルトを見送った後、エッカルトに連れられて自身にあてがわれた部屋へと向かう。すれ違う使用人たちに腰を折られ、口々に「お帰りなさいませ」とあいさつされる。
いつも使わせてもらっている部屋も客室ではなく、公爵家ではリーゼロッテの部屋と認識されていた。リーゼロッテはすっかり若奥様ポジションを確固たるものにしているのだか、本人にその自覚はまったくない。
しばらく行くと廊下の途中で書類を抱えたマテアスに出くわした。
「リーゼロッテ様、お帰りなさいませ」
ジークヴァルトの従者であるマテアスは、王城勤めに忙しい主人に代わり、公爵領の政務のほとんどを担っている。未来の家令だけあって、マテアスも相変わらず忙しそうだ。
「お出迎えもできずに申し訳ありません」
「マテアスは忙しいのですもの。わたくしのことは二の次でかまわないわ」
「いいえ、そのようには……。リーゼロッテ様を最優先させるようにと、わたしどもは旦那様より仰せつかっております。ですので、リーゼロッテ様はご遠慮なさらず何なりとお申し付けください」
やわらかく腰を折られて、リーゼロッテは困ったように微笑んだ。
「無理ばかり言っては申し訳ないわ……」
「無理などではございませんよ。わたくしどもはリーゼロッテ様にお仕えすることに至上のよろこびを感じておりますから」
「でも……ジークヴァルト様は、無理をしておいでなのではないかしら……。先ほども登城の予定があるのに、わたくしの到着を待っていたようだったから……」
「ああ、あれは決して無理などでは……むしろ、旦那様自ら望まれて、リーゼロッテ様をお待ちだったのです。ですからそのようにリーゼロッテ様が、気に病まれる必要などございませんよ」
(今日のヴァルト様は朝からずっとそわそわしっぱなしで、まったく使いものになりませんでしたからねぇ)
表情は変わらないくせに、自分の主の行動は単純でものすごくわかりやすい。ことさらリーゼロッテに関して言えば。
「ですが……」
「マテアスの言う通りでございます。リーゼロッテ様……どうかこれまで通り、旦那様の思うようにやらせていただけないでしょうか」
「わたしからも重ねてお願いいたします。もちろん、旦那様の行いを不快に感じられるようでしたら、遠慮なくこのマテアスにおっしゃってください。ああ……もし、おっしゃりづらいことであれば、エマニュエル様やエラ様にお話しくだされば、こちらで誠心誠意対処いたしますから……そう言えば、エラ様はご一緒ではないのですか?」
マテアスが周りを見渡しながら言った。
「エラはわたくしの社交界の準備でダーミッシュ家に残ってもらったの。それに、エラのお母様のお加減もあるし……」
「そうでございましたか。エデラー男爵夫人のお加減は快方に向かっているとのことで、何よりでございますね」
「ええ、でも、もう少しお母様のそばにいさせてあげたいの。一度こちらに来たら、なかなか戻ることはできないから……」
リーゼロッテの言葉にマテアスは、もっともだと言うように頷いた。
「忙しいところ引きとめてごめんなさい」
マテアスが書類を抱えていることを思い出し、リーゼロッテはすまなさそうに言った。
「とんでもございません。わたしは優秀な侍従ですので、この程度のことお茶の子さいさいでございます」
書類を軽く掲げて得意げに言うマテアスに、エッカルトがくいっと片眉を上げた。それを見たマテアスがそそくさとこの場を退場しようとする。
「あ、マテアス。ジークヴァルト様がお戻りになられたら、お話したいことがあるの。お時間が取れるときで構わないので、そうお願いしてほしいのだけれど……」
手にした小箱をぎゅっと握りしめ、リーゼロッテは慌ててマテアスに言った。先ほどはジークヴァルトに頼みごとができる雰囲気ではなかった。ジークヴァルトが城に向かうところだったのに、せっかくのチャンスを逃してしまったことが悔やまれる。
大切なアンネマリーのたっての願いだ。なんとかジークヴァルトにお願いしなくては。
「かしこまりました。主にはそのように申し伝えさせていただきます」
恭しく腰折ったあと、今度こそマテアスは廊下の向こうへと去っていった。
「では、参りましょう、リーゼロッテ様」
エッカルトに促されて、再び廊下を進み始める。部屋の前につくと、そこにはやはりカークが当たり前のように背筋を伸ばして立っているのだった。
馬車から降りたリーゼロッテは、公爵家の屋敷の正面玄関をくぐった。
広いエントランスの入り口近くに、黒い騎士服を着たジークヴァルトと公爵家家令のエッカルトが立っている。その奥に、大勢の使用人たちがエントランスの壁沿いにぐるりと囲むように控えていた。
「リーゼロッテ様、お帰りなさいませ」
エッカルトがうやうやしく腰を折った。それに合わせて使用人たちも腰を折る。
「またお世話になりますわ」
大仰な出迎えに戸惑いながらも、リーゼロッテはエッカルトに微笑んでから、ジークヴァルトに向かって淑女の礼をした。
ジークヴァルトの表情が動かないのはいつもの事なので、あまり気にすることもないのだが、近衛の騎士服を着ているということは、これから登城するところなのかもしれない。
(わたしが着くのをわざわざ待っていたのかしら……?)
城へ行く日はいつももっと早い時間に出立しているので、そんなことはないだろうと思いつつも、ジークヴァルトの後ろに控える使用人がそわそわしているのが気になった。
彼はいつもジークヴァルトの登城に付いていく役目を担っているのだが、どうやら時間を気にしているようだ。
(やっぱり無理して待ってたのかしら……?)
淑女の礼の姿勢からゆっくりと頭を上げようとすると、顔を上げ切る前にチョコレートの菓子が目の前に差し出された。上目づかいで、菓子を差し出している張本人、ジークヴァルトの顔を伺う。
すかさず「あーん」と言いながら、ジークヴァルトは唇の数センチ先まで菓子を近づけた。この間、ジークヴァルトは完全な無表情である。
(この状況であーんなの……!?)
ちらっとエッカルトの顔に視線を向けると、期待に満ちた目でこちらを見ている。なぜだろう。周りを囲む使用人たちも、みな口元をむにむにしているように思えてならない。
到着して早々の公開羞恥プレイに、リーゼロッテは涙目になった。この中であせった顔をしているのは、リーゼロッテと時間を気にしている使用人だけだ。
もう一度ジークヴァルトを上目づかいでみやると、無表情の青い瞳とぶつかった。さらにずいと唇すれすれのところまで差し出され、観念したリーゼロッテはそっとその唇を開いた。
絶妙のタイミングで押し込まれ、リーゼロッテの口内に甘いチョコレートがとろけていく。思わずうっとりとした表情になったことに気づかないのは当の本人だけで、それを目の当たりにした使用人一同は、「よっしゃーっ!」と内心でガッツポーズを作っていた。
エッカルトも胸元のポケットからハンカチを取り出して、そっと目頭の涙を拭いている。
公爵家では、ふたりのあーんはノルマであり、神聖な儀式と化していた。
使用人たちはその瞬間を一目見ようと躍起になっており、あーんを目撃した者は、その日一日ラッキーなことに恵まれるなどというジンクスまで広まっている。
訪問先の玄関で菓子を立ったまま食べるなど、およそ貴族令嬢のすることではないのだが、リーゼロッテが拒否できる雰囲気ではまるでない。
(うう……あーんはノルマだって言ったのは自分だけど……せめて人目のない室内でやってほしい……)
後でマテアスに相談してみよう。リーゼロッテがそう決意している間に、使用人にせかされたジークヴァルトがしかめ面をしながら扉に向かって行った。
「今日は遅くなる。ダーミッシュ嬢は先に休んでいろ」
振り向きざまにそう言い残して、ジークヴァルトは王城へと慌ただしく出かけていった。
「いってらっしゃいませ、ジークヴァルト様」
リーゼロッテが淑女の礼で見送ると、使用人たちもそれにならってジークヴァルトに腰を折ってその背を見送った。
(なんだか、本当の夫婦みたいなやり取りね……)
リーゼロッテはいまだジークヴァルトの婚約者の身。公爵家にはあくまで客人として迎えられているはずだ。だが、その扱いはもはや公爵家の一員のようだった。
ジークヴァルトを見送った後、エッカルトに連れられて自身にあてがわれた部屋へと向かう。すれ違う使用人たちに腰を折られ、口々に「お帰りなさいませ」とあいさつされる。
いつも使わせてもらっている部屋も客室ではなく、公爵家ではリーゼロッテの部屋と認識されていた。リーゼロッテはすっかり若奥様ポジションを確固たるものにしているのだか、本人にその自覚はまったくない。
しばらく行くと廊下の途中で書類を抱えたマテアスに出くわした。
「リーゼロッテ様、お帰りなさいませ」
ジークヴァルトの従者であるマテアスは、王城勤めに忙しい主人に代わり、公爵領の政務のほとんどを担っている。未来の家令だけあって、マテアスも相変わらず忙しそうだ。
「お出迎えもできずに申し訳ありません」
「マテアスは忙しいのですもの。わたくしのことは二の次でかまわないわ」
「いいえ、そのようには……。リーゼロッテ様を最優先させるようにと、わたしどもは旦那様より仰せつかっております。ですので、リーゼロッテ様はご遠慮なさらず何なりとお申し付けください」
やわらかく腰を折られて、リーゼロッテは困ったように微笑んだ。
「無理ばかり言っては申し訳ないわ……」
「無理などではございませんよ。わたくしどもはリーゼロッテ様にお仕えすることに至上のよろこびを感じておりますから」
「でも……ジークヴァルト様は、無理をしておいでなのではないかしら……。先ほども登城の予定があるのに、わたくしの到着を待っていたようだったから……」
「ああ、あれは決して無理などでは……むしろ、旦那様自ら望まれて、リーゼロッテ様をお待ちだったのです。ですからそのようにリーゼロッテ様が、気に病まれる必要などございませんよ」
(今日のヴァルト様は朝からずっとそわそわしっぱなしで、まったく使いものになりませんでしたからねぇ)
表情は変わらないくせに、自分の主の行動は単純でものすごくわかりやすい。ことさらリーゼロッテに関して言えば。
「ですが……」
「マテアスの言う通りでございます。リーゼロッテ様……どうかこれまで通り、旦那様の思うようにやらせていただけないでしょうか」
「わたしからも重ねてお願いいたします。もちろん、旦那様の行いを不快に感じられるようでしたら、遠慮なくこのマテアスにおっしゃってください。ああ……もし、おっしゃりづらいことであれば、エマニュエル様やエラ様にお話しくだされば、こちらで誠心誠意対処いたしますから……そう言えば、エラ様はご一緒ではないのですか?」
マテアスが周りを見渡しながら言った。
「エラはわたくしの社交界の準備でダーミッシュ家に残ってもらったの。それに、エラのお母様のお加減もあるし……」
「そうでございましたか。エデラー男爵夫人のお加減は快方に向かっているとのことで、何よりでございますね」
「ええ、でも、もう少しお母様のそばにいさせてあげたいの。一度こちらに来たら、なかなか戻ることはできないから……」
リーゼロッテの言葉にマテアスは、もっともだと言うように頷いた。
「忙しいところ引きとめてごめんなさい」
マテアスが書類を抱えていることを思い出し、リーゼロッテはすまなさそうに言った。
「とんでもございません。わたしは優秀な侍従ですので、この程度のことお茶の子さいさいでございます」
書類を軽く掲げて得意げに言うマテアスに、エッカルトがくいっと片眉を上げた。それを見たマテアスがそそくさとこの場を退場しようとする。
「あ、マテアス。ジークヴァルト様がお戻りになられたら、お話したいことがあるの。お時間が取れるときで構わないので、そうお願いしてほしいのだけれど……」
手にした小箱をぎゅっと握りしめ、リーゼロッテは慌ててマテアスに言った。先ほどはジークヴァルトに頼みごとができる雰囲気ではなかった。ジークヴァルトが城に向かうところだったのに、せっかくのチャンスを逃してしまったことが悔やまれる。
大切なアンネマリーのたっての願いだ。なんとかジークヴァルトにお願いしなくては。
「かしこまりました。主にはそのように申し伝えさせていただきます」
恭しく腰折ったあと、今度こそマテアスは廊下の向こうへと去っていった。
「では、参りましょう、リーゼロッテ様」
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