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第2章 氷の王子と消えた託宣
第3話 隠された少女
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【前回のあらすじ】
アンネマリーに王子の懐中時計を託されたリーゼロッテ。ハインリヒへの思いを断ち切ろうとするアンネマリーに心を痛めます。
その一方で、心の平穏を取り戻そうと前を向くアンネマリーに、王妃から贈り物が届けられて……。
アンネマリーは再びハインリヒへの恋心に囚われてしまうのでした。
少女は足早に母親の待つ家へと向かっていた。雑踏をかき分け、胸に抱えた紙袋をつぶさないように注意して歩く。あまりの人の多さに辟易してしまう。
今日は龍の祝福コンテストの最終日だ。老若男女問わず誰もかれもが浮かれ立ち、祭りの熱に浮かされている。人の流れに逆らって、少女は髪が乱れるのを気にしながら進んでいった。
(早く帰って、母さんにビョウを食べてもらおう)
ビョウとは秋の終わりに実る果実の事だ。特にこの時期のビョウは、甘く栄養価が高いと言われている。いちビョウあれば怪我知らず、三ビョウあれば風邪知らず、十ビョウあれば寿命が延びる。そんなわらべ歌があるくらいだ。
平民が医者にかかることは滅多にない。少女の母親は病弱で、安い薬でだましだまし体調を維持していた。
今日は祭りの日だからと、少女の雇い主のおやじさんが、菓子でも買うようにと小遣いをくれた。その日暮らしの少女の口に、菓子が入ることなど滅多にない。
しかし少女はその小遣いで、新鮮なビョウをひとつ買った。それだけでお金はなくなってしまったが、母親に少しでも栄養のある物を食べさせたい。
そんな事情を知っている店のおかみが、ビョウのおまけにと祭りで人気の焼き菓子をひとつくれた。祭りの熱気の中、少女の心も浮き足立つ。少女はビョウと焼き菓子が入った袋を大事に抱え、人だかりを縫うように家へと急いだ。
途中、大きな通りで立派な貴族の馬車が、道行く人々の視線を集めていたが、少女は馬車をちらりと一瞥しただけで、特に興味もなさそうに素早くその脇を通り抜けようとした。
しかし、その馬車の屋根の上にあぐらをかいて座っている大男が目に入り、一瞬だけ足を止めた。
(あっぶない! 目が合うとこだった!)
あれは人には見えないよくないものだ。へたに目を合わせると、助けを求めるかのようについて来る。あんな大きなモノにまとわりつかれてはたまったものではない。
少女は何も気づかなかったふりをして、足早に雑踏を抜けていった。
人通りの少ない細い裏路地に入ると、少女は自然と駆け足になる。
「母さん、ただいま! 今日は人がすごくって、帰るのが遅くなっちゃった」
「お帰りなさい、ルチア。女の子がそんな乱暴に扉を開けるものではないわ」
「はいはい、わかってますわ、お母様」
紙袋をテーブルの上に置くと、わざとらしくスカートをつまんで、ルチアと呼ばれた少女は淑女の礼をしてみせた。古びた寝台に横たわったまま、ルチアの母は「はいは一回!」と厳しく言ったが、その顔はやわらかく笑っている。
ルチアの長すぎる前髪の隙間から、金色の瞳がちらりと覗く。どこにでもいるような茶色の髪は肩口できれいに切りそろえられているが、不自然に曲がってみえた。
「ルチア、髪が曲がっているわ」
「いやだ。人ごみをかき分けてきたからだわ」
ルチアは自分の髪に手を伸ばすと、無造作な手つきでそのままスポンと抜き取った。まるで帽子のように外された髪の下から、三つ編みの長い髪がこぼれ落ちた。
赤茶けた髪の生え際だけが、深紅の髪色に染まっている。いわゆるプリン状態だ。
「……髪が伸びてきたわね。今日にでも染め直しなさい」
母親にそう言われ、ルチアは三つ編みにした自分の長い髪をつまみあげた。
「ねえ……これって、どうしても切っちゃダメなの?」
幾度もした質問を再び母親に投げかける。
ルチアの地毛は、鮮やかな赤毛だ。根元に見える深紅の髪こそ本来の髪色だった。子供の頃から母親は、そのルチアの赤毛をなぜか茶色に染めさせていた。
理由を聞いても明確な返答は得られない。とにかく「人に見られてはいけない」の一点張りだ。毛を染めたうえで、さらにかつらまでかぶらされている。
先々代から続く赤毛の王の影響で、赤毛の子はけっこうもてる。末の王女もきれいな赤毛をしているともっぱらのうわさで、赤毛人気の風潮は平民の間で広がっていた。
ルチアの周りでも、赤茶色の髪の子がみなからうらやましがられたりしているので、自分の深紅のこの髪を披露したら、きっと誰からももてはやされるだろうに。
それなのに母親のアニサは、決してその赤毛を人目につかないようにしろと頑なに言ってくる。
そんなに見せられないものなら、せめて短く切ってこざっぱりしたいのだが、これもアニサは頑としてルチアに髪を切らせなかった。
普段は三つ編みできつく縛られているが、ルチアの髪は綺麗に延ばされ、今では腰に届きそうな長さになっている。
短い方が染めるのも簡単なのにと、ルチアは口には出さずに唇を尖らせた。
「だめよ。いつも言っているでしょう? ……その髪はいつか、あなたに必要になってくるから……」
「いつかっていつよ? なんなら今すぐ切り取って売ってしまえばいいわ! 赤毛は今人気なんだから、かつら用に高く買い取ってもらえるわ! お貴族様じゃあるまいし、こんなに長く伸ばしたって何の役にも立ちやしないじゃない!」
母のアニサは持病を抱えている。お金があれば、もっといい薬を買えるし、医者にみせることだってできるのだ。隠さなければならない髪など、売ってお金に替えてしまいたい。
「だめだと言っているでしょう。……お願いだから聞き分けてちょうだい」
つらそうに顔をゆがませたアニサに、ルチアはぐっと言葉をつまらせた。アニサは興奮すると発作を起こすことがある。あまり感情を高ぶらせてはならないと、最近なじみになった薬師に言われていた。
「……コンテストに出れば、絶対に優勝できるのに……」
ルチアは無意識に長袖の上から自身の二の腕をぎゅっと掴んだ。この腕には、見事な龍の祝福がある。コンテストの歴代の優勝者よりも、ずっと美しい、まるで絵で描いたような鮮明なあざだ。
賞金が手に入れば、アニサの薬を買えるし、気兼ねなく医者にもみせられる。働かずに、ずっとアニサのそばにもいられる。
「だめよ! そのあざは絶対に誰にも知られてはだめ!」
そう叫んだ後、アニサは激しく咳込んだ。
「母さん!」
かけよってその背中をさする。
「お願いよ……お願いだから……」
「ごめん……ごめんなさい……母さん、もう言わない……約束もちゃんと守るから……」
涙混じりで言うルチアを、アニサはまだ整わない息のままきつく抱きしめた。
(真実を、すべて話してしまえたら――)
だが、それを知ってしまったら、ルチアはこんなにも真っ直ぐに育たなかったかもしれない。
自分はもう長くない。アニサにはそのことがよく分かっていた。
(どうしたら、この子を守れるの……)
逃げるだけで精一杯だった。安住の地は望めず、その日その日をしのぐことで、何とかここまでやってきた。
生まれた家を頼ることはできない。過去、知り合った親切な友人たちにも。
(……神殿に、見つかるわけにはいかない……)
アニサは震える指で、枕の下から一枚の紙を取り出した。それをルチアに握らせると、不安げに揺れるルチアの金色の瞳をまっすぐに見つめて、その頬を両手で包み込んだ。
「ルチア……もしもわたしに何かあったら、ここを訪ねなさい。そして今まで通り、ひと所には留まらないようにして。あなたの秘密は、決して……決して誰にも知られないようにするのよ」
「母さん! なんでそんなこと言うの! いやよ、わたし……!」
「ルチア……お願い……約束してちょうだい……」
まだ十三歳のルチアにそれを望むのは過酷なことだ。それでもそうするよりほかに、ルチアを運命から守る手立てはない。
咳込みながら懇願する母に、ルチアは顔をゆがませた。
「……わかったわ……わかったから、母さん、これを……薬を飲んで……」
咳止めの粉薬を飲ませたあと、アニサを寝台に横たえさせる。薄い毛布を肩までかけ、しばらくするとアニサは青白い顔のまま眠りについた。
以前に比べて痩せてしまった母の寝顔をそっと見守る。アニサはここのところ常に顔色も悪く、食もずいぶんと細くなった。
これから過酷な冬がやってくる。南に位置する比較的暖かい王都にいるとはいえ、暖炉もないこの薄暗い小さな部屋で、子供のルチアにアニサを守れるだろうか。
紙袋からビョウを取り出す。母が目覚めたら少しでも口にしてもらおう。
一緒に入れてあった焼き菓子は、人ごみを歩いたせいでいびつにつぶれていた。ルチアの気持ちもこのひしゃげた菓子のように、すっかり小さくしぼんでしまっていた。
アンネマリーに王子の懐中時計を託されたリーゼロッテ。ハインリヒへの思いを断ち切ろうとするアンネマリーに心を痛めます。
その一方で、心の平穏を取り戻そうと前を向くアンネマリーに、王妃から贈り物が届けられて……。
アンネマリーは再びハインリヒへの恋心に囚われてしまうのでした。
少女は足早に母親の待つ家へと向かっていた。雑踏をかき分け、胸に抱えた紙袋をつぶさないように注意して歩く。あまりの人の多さに辟易してしまう。
今日は龍の祝福コンテストの最終日だ。老若男女問わず誰もかれもが浮かれ立ち、祭りの熱に浮かされている。人の流れに逆らって、少女は髪が乱れるのを気にしながら進んでいった。
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平民が医者にかかることは滅多にない。少女の母親は病弱で、安い薬でだましだまし体調を維持していた。
今日は祭りの日だからと、少女の雇い主のおやじさんが、菓子でも買うようにと小遣いをくれた。その日暮らしの少女の口に、菓子が入ることなど滅多にない。
しかし少女はその小遣いで、新鮮なビョウをひとつ買った。それだけでお金はなくなってしまったが、母親に少しでも栄養のある物を食べさせたい。
そんな事情を知っている店のおかみが、ビョウのおまけにと祭りで人気の焼き菓子をひとつくれた。祭りの熱気の中、少女の心も浮き足立つ。少女はビョウと焼き菓子が入った袋を大事に抱え、人だかりを縫うように家へと急いだ。
途中、大きな通りで立派な貴族の馬車が、道行く人々の視線を集めていたが、少女は馬車をちらりと一瞥しただけで、特に興味もなさそうに素早くその脇を通り抜けようとした。
しかし、その馬車の屋根の上にあぐらをかいて座っている大男が目に入り、一瞬だけ足を止めた。
(あっぶない! 目が合うとこだった!)
あれは人には見えないよくないものだ。へたに目を合わせると、助けを求めるかのようについて来る。あんな大きなモノにまとわりつかれてはたまったものではない。
少女は何も気づかなかったふりをして、足早に雑踏を抜けていった。
人通りの少ない細い裏路地に入ると、少女は自然と駆け足になる。
「母さん、ただいま! 今日は人がすごくって、帰るのが遅くなっちゃった」
「お帰りなさい、ルチア。女の子がそんな乱暴に扉を開けるものではないわ」
「はいはい、わかってますわ、お母様」
紙袋をテーブルの上に置くと、わざとらしくスカートをつまんで、ルチアと呼ばれた少女は淑女の礼をしてみせた。古びた寝台に横たわったまま、ルチアの母は「はいは一回!」と厳しく言ったが、その顔はやわらかく笑っている。
ルチアの長すぎる前髪の隙間から、金色の瞳がちらりと覗く。どこにでもいるような茶色の髪は肩口できれいに切りそろえられているが、不自然に曲がってみえた。
「ルチア、髪が曲がっているわ」
「いやだ。人ごみをかき分けてきたからだわ」
ルチアは自分の髪に手を伸ばすと、無造作な手つきでそのままスポンと抜き取った。まるで帽子のように外された髪の下から、三つ編みの長い髪がこぼれ落ちた。
赤茶けた髪の生え際だけが、深紅の髪色に染まっている。いわゆるプリン状態だ。
「……髪が伸びてきたわね。今日にでも染め直しなさい」
母親にそう言われ、ルチアは三つ編みにした自分の長い髪をつまみあげた。
「ねえ……これって、どうしても切っちゃダメなの?」
幾度もした質問を再び母親に投げかける。
ルチアの地毛は、鮮やかな赤毛だ。根元に見える深紅の髪こそ本来の髪色だった。子供の頃から母親は、そのルチアの赤毛をなぜか茶色に染めさせていた。
理由を聞いても明確な返答は得られない。とにかく「人に見られてはいけない」の一点張りだ。毛を染めたうえで、さらにかつらまでかぶらされている。
先々代から続く赤毛の王の影響で、赤毛の子はけっこうもてる。末の王女もきれいな赤毛をしているともっぱらのうわさで、赤毛人気の風潮は平民の間で広がっていた。
ルチアの周りでも、赤茶色の髪の子がみなからうらやましがられたりしているので、自分の深紅のこの髪を披露したら、きっと誰からももてはやされるだろうに。
それなのに母親のアニサは、決してその赤毛を人目につかないようにしろと頑なに言ってくる。
そんなに見せられないものなら、せめて短く切ってこざっぱりしたいのだが、これもアニサは頑としてルチアに髪を切らせなかった。
普段は三つ編みできつく縛られているが、ルチアの髪は綺麗に延ばされ、今では腰に届きそうな長さになっている。
短い方が染めるのも簡単なのにと、ルチアは口には出さずに唇を尖らせた。
「だめよ。いつも言っているでしょう? ……その髪はいつか、あなたに必要になってくるから……」
「いつかっていつよ? なんなら今すぐ切り取って売ってしまえばいいわ! 赤毛は今人気なんだから、かつら用に高く買い取ってもらえるわ! お貴族様じゃあるまいし、こんなに長く伸ばしたって何の役にも立ちやしないじゃない!」
母のアニサは持病を抱えている。お金があれば、もっといい薬を買えるし、医者にみせることだってできるのだ。隠さなければならない髪など、売ってお金に替えてしまいたい。
「だめだと言っているでしょう。……お願いだから聞き分けてちょうだい」
つらそうに顔をゆがませたアニサに、ルチアはぐっと言葉をつまらせた。アニサは興奮すると発作を起こすことがある。あまり感情を高ぶらせてはならないと、最近なじみになった薬師に言われていた。
「……コンテストに出れば、絶対に優勝できるのに……」
ルチアは無意識に長袖の上から自身の二の腕をぎゅっと掴んだ。この腕には、見事な龍の祝福がある。コンテストの歴代の優勝者よりも、ずっと美しい、まるで絵で描いたような鮮明なあざだ。
賞金が手に入れば、アニサの薬を買えるし、気兼ねなく医者にもみせられる。働かずに、ずっとアニサのそばにもいられる。
「だめよ! そのあざは絶対に誰にも知られてはだめ!」
そう叫んだ後、アニサは激しく咳込んだ。
「母さん!」
かけよってその背中をさする。
「お願いよ……お願いだから……」
「ごめん……ごめんなさい……母さん、もう言わない……約束もちゃんと守るから……」
涙混じりで言うルチアを、アニサはまだ整わない息のままきつく抱きしめた。
(真実を、すべて話してしまえたら――)
だが、それを知ってしまったら、ルチアはこんなにも真っ直ぐに育たなかったかもしれない。
自分はもう長くない。アニサにはそのことがよく分かっていた。
(どうしたら、この子を守れるの……)
逃げるだけで精一杯だった。安住の地は望めず、その日その日をしのぐことで、何とかここまでやってきた。
生まれた家を頼ることはできない。過去、知り合った親切な友人たちにも。
(……神殿に、見つかるわけにはいかない……)
アニサは震える指で、枕の下から一枚の紙を取り出した。それをルチアに握らせると、不安げに揺れるルチアの金色の瞳をまっすぐに見つめて、その頬を両手で包み込んだ。
「ルチア……もしもわたしに何かあったら、ここを訪ねなさい。そして今まで通り、ひと所には留まらないようにして。あなたの秘密は、決して……決して誰にも知られないようにするのよ」
「母さん! なんでそんなこと言うの! いやよ、わたし……!」
「ルチア……お願い……約束してちょうだい……」
まだ十三歳のルチアにそれを望むのは過酷なことだ。それでもそうするよりほかに、ルチアを運命から守る手立てはない。
咳込みながら懇願する母に、ルチアは顔をゆがませた。
「……わかったわ……わかったから、母さん、これを……薬を飲んで……」
咳止めの粉薬を飲ませたあと、アニサを寝台に横たえさせる。薄い毛布を肩までかけ、しばらくするとアニサは青白い顔のまま眠りについた。
以前に比べて痩せてしまった母の寝顔をそっと見守る。アニサはここのところ常に顔色も悪く、食もずいぶんと細くなった。
これから過酷な冬がやってくる。南に位置する比較的暖かい王都にいるとはいえ、暖炉もないこの薄暗い小さな部屋で、子供のルチアにアニサを守れるだろうか。
紙袋からビョウを取り出す。母が目覚めたら少しでも口にしてもらおう。
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