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第2章 氷の王子と消えた託宣
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◇
リーゼロッテを見送ったアンネマリーは、自室の窓から侯爵家の整えられた庭の様子を、ひとり静かに眺めやっていた。秋の終わりにしては暖かく、晴天の日差しが庭の端々できらめいている。
すがるように、ずっと手放すことのできなかった王子の懐中時計――それが今こうしてこの手を離れて、安堵している自分がいる。今、心は、この庭のようにただ穏やかだった。
(もっと早くにこうすればよかった……)
自分はもう前を向かなくてはならない。すべてを吹っ切るには、まだ時間がかかりそうだけれど。
カイに言われたまま手にしていた懐中時計だったが、やはり自分が持ち続けるべきものではない。そう思いながらも、肌身離さず持ち歩いていた。
この手に握りしめたまま、眠れぬ夜を幾度明かしただろう。王子殿下に時計を返す手立てがみつからない。そう自分に言い訳をして。
溢れる涙を止められぬ夜は、今ではほとんど訪れることはなくなった。だが、ちりちりと刺さる棘のような塊が、いまだにこの胸の奥に潜んでいる。時折、発作のように押し寄せてくる痛みの波は、アンネマリーにはまだどうすることもできなかった。
それでも、一歩前に進めたのだ。
カイから預かったものだったのだから、カイへ返すのは道理だろう。自分から直接返されても、王子はきっと不快に思うだけだ。そう、カイならばきっとうまくやってくれるはず。
リーゼロッテには冗談めかして言ってみたが、隣国でいつか新しい恋を見つけるのも悪くないかもしれない。
(どのみち、この国にはいられない――)
王子の最後の望みを叶えるためには、それがいちばんの道だった。
『――わたしの目の前に、二度とその姿を見せないでくれ』
突き刺さるような冷たい声が、不意に甦る。
自分が社交界へデビューしたのちには、夜会などで王子と顔合わせる機会も出てくるだろう。侯爵家の令嬢として、それはどうあっても避けがたいことだ。
それならば、いっそ隣国にとどまり、そこで骨をうずめてしまえばいい。
アンネマリーは伏せたまぶたをそっと閉じて、遠く王城の奥にある静かな庭を思った。
あの庭で始まり、あの庭で終わったのだ。ふたりの思い出は、あの日、永遠に凍ってしまった。木漏れ日がやさしく揺れる、あの美しい庭の中で。
不意に自室のドアをノックされ、アンネマリーは意識を戻した。慌てた様子の家令にせかされて、急ぎ母ジルケの元へと向かう。
行った先の居間で待っていたのは、困惑気味の母・ジルケの顔だった。
「お母様、一体何事ですか?」
「……イジドーラ様から、アンネマリーに贈り物が届いたわ」
「王妃様から……?」
「王女殿下の話し相手を務めた褒美だそうよ」
立派な木箱に、王家の印が押された手紙が添えられている。差し出された手紙をアンネマリーは、無言で開いた。流れるような美しい文字を読み終えて、その手紙を手にしたままおもむろに箱の蓋を開けた。
「――どうして」
かすれた声が口から洩れる。青ざめた顔でアンネマリーはその場で立ちつくした。指が震えて、箱の蓋を戻すことすらままならない。
「イジドーラ様はなんといってきたの……?」
訝し気に問うたジルケは、アンネマリーの様子に眉をひそめた。不躾な行為とは分かっていたが、アンネマリーの手から王妃の手紙を抜き取り、目を走らせる。
そこにはピッパ王女の相手を務めたアンネマリーへのねぎらいの言葉と、褒美として王族の加護を込めた宝石を賜る旨が書かれてあった。そして、必ずそれを身に着けて白の夜会に参加するようにと、半ば命令するかのように締めくくられていた。
「どうして……どうしてなの……」
アンネマリーの瞳から一筋の涙が伝う。
手にしている箱の中には、見事な装飾の首飾りと対の耳飾りが納められていた。一番に目を引くのは、首飾りの大ぶりな艶やかな石だ。
その石はそれはそれは美しく、紫の光がたゆとうように揺らめいている。その色はまるで誰かの瞳を彷彿とさせ――
箱の中のひとそろいの意匠をみて、ジルケは思わず息をのんだ。
これを身につけて夜会に出ることの意味くらい、イジドーラに分からないはずもないだろう。いや、分かっているからこそ、アンネマリーにこれを身につけろと言うのか。
「何を考えているの、イジドーラ様は」
婚約者でもない令嬢に、王太子の瞳の色を表すアクセサリーを身につけさせるなど、悪趣味としか言いようがない。アンネマリーを王太子妃に望むとしても、順番がめちゃくちゃすぎる。
紫の瞳は王族の血筋特有のものであり、今この国でその色の瞳を持つ者はハインリヒ王子とその姉姫以外は存在しない。イジドーラにどんな意図があろうと、王太子の婚約者が不在の現状では、貴族の間で動揺が走るのは必至だ。
婚約のように確固たる約束が交わされるでもなく、王妃の気まぐれで贈られたものとなると、憶測が憶測を呼ぶだろう。王妃はアンネマリーの未来をつぶすつもりなのか。
「やっと……やっと、ふっきることができたと思ったのに……」
堰を切ったようにアンネマリーが泣き崩れた。だめだと分かっているのに、その石に手を伸ばしてしまう。
あたたかい波動を感じる。いつかの陽だまりのような。心が解ける笑顔のような。
紫がやさしく揺らめく石を両手に閉じ込め、その胸にかき抱く。
(ハインリヒ様――)
涙を止める術は、アンネマリーにはもう残されてはいなかった。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。公爵家に再びお邪魔したわたしは、ジークヴァルト様に出迎えられて……いきなりあーんはやめてください! アンネマリーの小箱を渡すタイミングがつかめず悩んでいた時に、公爵家に視察でやって来たのはなんとカイ様で!?
次回、2章 第3話「隠された少女」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
リーゼロッテを見送ったアンネマリーは、自室の窓から侯爵家の整えられた庭の様子を、ひとり静かに眺めやっていた。秋の終わりにしては暖かく、晴天の日差しが庭の端々できらめいている。
すがるように、ずっと手放すことのできなかった王子の懐中時計――それが今こうしてこの手を離れて、安堵している自分がいる。今、心は、この庭のようにただ穏やかだった。
(もっと早くにこうすればよかった……)
自分はもう前を向かなくてはならない。すべてを吹っ切るには、まだ時間がかかりそうだけれど。
カイに言われたまま手にしていた懐中時計だったが、やはり自分が持ち続けるべきものではない。そう思いながらも、肌身離さず持ち歩いていた。
この手に握りしめたまま、眠れぬ夜を幾度明かしただろう。王子殿下に時計を返す手立てがみつからない。そう自分に言い訳をして。
溢れる涙を止められぬ夜は、今ではほとんど訪れることはなくなった。だが、ちりちりと刺さる棘のような塊が、いまだにこの胸の奥に潜んでいる。時折、発作のように押し寄せてくる痛みの波は、アンネマリーにはまだどうすることもできなかった。
それでも、一歩前に進めたのだ。
カイから預かったものだったのだから、カイへ返すのは道理だろう。自分から直接返されても、王子はきっと不快に思うだけだ。そう、カイならばきっとうまくやってくれるはず。
リーゼロッテには冗談めかして言ってみたが、隣国でいつか新しい恋を見つけるのも悪くないかもしれない。
(どのみち、この国にはいられない――)
王子の最後の望みを叶えるためには、それがいちばんの道だった。
『――わたしの目の前に、二度とその姿を見せないでくれ』
突き刺さるような冷たい声が、不意に甦る。
自分が社交界へデビューしたのちには、夜会などで王子と顔合わせる機会も出てくるだろう。侯爵家の令嬢として、それはどうあっても避けがたいことだ。
それならば、いっそ隣国にとどまり、そこで骨をうずめてしまえばいい。
アンネマリーは伏せたまぶたをそっと閉じて、遠く王城の奥にある静かな庭を思った。
あの庭で始まり、あの庭で終わったのだ。ふたりの思い出は、あの日、永遠に凍ってしまった。木漏れ日がやさしく揺れる、あの美しい庭の中で。
不意に自室のドアをノックされ、アンネマリーは意識を戻した。慌てた様子の家令にせかされて、急ぎ母ジルケの元へと向かう。
行った先の居間で待っていたのは、困惑気味の母・ジルケの顔だった。
「お母様、一体何事ですか?」
「……イジドーラ様から、アンネマリーに贈り物が届いたわ」
「王妃様から……?」
「王女殿下の話し相手を務めた褒美だそうよ」
立派な木箱に、王家の印が押された手紙が添えられている。差し出された手紙をアンネマリーは、無言で開いた。流れるような美しい文字を読み終えて、その手紙を手にしたままおもむろに箱の蓋を開けた。
「――どうして」
かすれた声が口から洩れる。青ざめた顔でアンネマリーはその場で立ちつくした。指が震えて、箱の蓋を戻すことすらままならない。
「イジドーラ様はなんといってきたの……?」
訝し気に問うたジルケは、アンネマリーの様子に眉をひそめた。不躾な行為とは分かっていたが、アンネマリーの手から王妃の手紙を抜き取り、目を走らせる。
そこにはピッパ王女の相手を務めたアンネマリーへのねぎらいの言葉と、褒美として王族の加護を込めた宝石を賜る旨が書かれてあった。そして、必ずそれを身に着けて白の夜会に参加するようにと、半ば命令するかのように締めくくられていた。
「どうして……どうしてなの……」
アンネマリーの瞳から一筋の涙が伝う。
手にしている箱の中には、見事な装飾の首飾りと対の耳飾りが納められていた。一番に目を引くのは、首飾りの大ぶりな艶やかな石だ。
その石はそれはそれは美しく、紫の光がたゆとうように揺らめいている。その色はまるで誰かの瞳を彷彿とさせ――
箱の中のひとそろいの意匠をみて、ジルケは思わず息をのんだ。
これを身につけて夜会に出ることの意味くらい、イジドーラに分からないはずもないだろう。いや、分かっているからこそ、アンネマリーにこれを身につけろと言うのか。
「何を考えているの、イジドーラ様は」
婚約者でもない令嬢に、王太子の瞳の色を表すアクセサリーを身につけさせるなど、悪趣味としか言いようがない。アンネマリーを王太子妃に望むとしても、順番がめちゃくちゃすぎる。
紫の瞳は王族の血筋特有のものであり、今この国でその色の瞳を持つ者はハインリヒ王子とその姉姫以外は存在しない。イジドーラにどんな意図があろうと、王太子の婚約者が不在の現状では、貴族の間で動揺が走るのは必至だ。
婚約のように確固たる約束が交わされるでもなく、王妃の気まぐれで贈られたものとなると、憶測が憶測を呼ぶだろう。王妃はアンネマリーの未来をつぶすつもりなのか。
「やっと……やっと、ふっきることができたと思ったのに……」
堰を切ったようにアンネマリーが泣き崩れた。だめだと分かっているのに、その石に手を伸ばしてしまう。
あたたかい波動を感じる。いつかの陽だまりのような。心が解ける笑顔のような。
紫がやさしく揺らめく石を両手に閉じ込め、その胸にかき抱く。
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【次回予告】
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※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
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