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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣

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     ◇
(慌てないで……そう、ゆっくり回して……流して……集めて……)

 両の手のひらを胸の前でゆるく握りながら、リーゼロッテは瞳を閉じて力の流れに集中していた。その横で、エマニュエルがその様子をじっと見つめている。

 ここはいつもの執務室だ。騒ぎから数日、守護者の反乱劇で壊滅状態となっていた部屋の修復が滞りなく済み、リーゼロッテの修行も無事に再開されていた。マテアスの修復の手配もこなれてきたのか、以前と変わらない風景がそこにはあった。

 手のひらの中に力が集まってきたのを感じたリーゼロッテは、そっと瞳を開いた。横にいるエマニュエルに視線を向けると、エマニュエルはゆっくりと、だが力強く頷いた。
 それを受けたリーゼロッテは、自分の目の前にうそうそとうごめく小鬼に向かって手のひらを広げ、握りこんでいた力をそっと放った。

 緑の力がふんわりと異形に降り注ぐ。リーゼロッテは固唾かたずをのんで、その様子を見守った。
 きらきらとした光が終息していく。光が大気に溶けてなくなると同時に、異形はその顔を上げた。

「……――っ!」

 どろどろと形を成さなかった小さな異形は、ずんぐりむっくりした小人のようななりとなっていた。きゅるんっと愛らしい瞳をリーゼロッテに向けている。

(またブサかわいくなってる……!)

 隣のエマニュエルもぽかんと口を開けたまま絶句して固まっている。リーゼロッテは頬に両手を当てて涙目になった。

「エマ様……」

 すがるような声に我に返ったエマニュエルは、リーゼロッテを見つめて言いにくそうに口を開いた。

「リーゼロッテ様は……異形の浄化を無理になさらなくともよろしいのではないでしょうか……」

 浄化の力を放って、なぜに異形が可愛く変化するのだろうか。やろうと思ってできることではない。かえって凄すぎるとエマニュエルは思うのだが、リーゼロッテの顔は今にも泣き出しそうになっている。

「リーゼロッテ様は力を収束させるのが苦手のようですねぇ」

 マテアスが紅茶を目の前に差し出しながら、テーブルにカップを置こうと、邪魔な小鬼を人差し指でピンとはじいた。小さな異形はころりと転がって、テーブルからぽてりと落ちていく。
 その様子は、回し車にはじかれたハムスターを連想させて、リーゼロッテの頬が思わずゆるんだ。

(って笑ってる場合じゃない!)

 リーゼロッテがあわてて口元を引き締めると、同じように口元を綻ばせていたエマニュエルが擁護するように口を開いた。

「それでも、リーゼロッテ様はずいぶんと力の制御が上手になりましたわ。流れをきちんと把握できるようになって、力を使い果たすこともなくなりましたし。ですから、これ以上を望むのは……」

 暗に浄化は諦めろと言われて、リーゼロッテの眉がそれはそれは悲しそうに寄せられた。

「ともかく、根を詰めてはいけませんわ! 異形の浄化は気長に!じっくりと練習いたしましょう!」

 エマニュエルはリーゼロッテのこの顔に弱かった。まわりがリーゼロッテを守りすぎだと危惧している割には、自分もその一人になりつつある。その自覚はあったが、目の前で、しかも自分のせいでこんな顔をされるとなると、いたたまれない気分になってしまう。

「さ、旦那様もこちらで休憩なさってください」

 マテアスが執務机から離れようとしないジークヴァルトを促して無理やりその腰を上げさせる。
 あの事件以来、ジークヴァルトは自らリーゼロッテに触れることをしなくなった。そのあからさまな態度に、使用人たちがそのことを気にしだしている。

 ジークヴァルトがリーゼロッテに嫌われたのではないかなどの憶測が飛び交い、公爵家ではちょっとした騒ぎになっていた。なんとしてもリーゼロッテを逃してはいけない。
 頑張れ旦那様!
 最近ではそんな雰囲気が屋敷中にあふれていた。

「旦那様、どうしてそちらに座ろうとなさるんですか」

 リーゼロッテから離れたソファに座ろうとするジークヴァルトを、マテアスが小声で睨みつける。許さないといったように、マテアスはいつもの定位置、リーゼロッテの隣にジークヴァルト用の冷めた紅茶をかちゃんと置いた。
 普段のマテアスらしからぬ乱暴な所作にリーゼロッテが首をかしげると、ジークヴァルトはしぶしぶといった様子でリーゼロッテの横に腰かけた。

 冷めた紅茶を手に取り一息に飲み干すと、ジークヴァルトはすぐに立ち上がろうとする。そこをすかさずマテアスが背後から肩を抑えつけた。

「旦那様。休憩も仕事のうちでございますよ。根を詰めすぎては執務の効率が落ちますからね。たっぷり一時間は休憩なさってくださらないと」

 一見いたわるように肩をもみこんでいるが、意地でも立ち上がらせまいとマテアスの額に青筋がたっている。ジークヴァルトは不承不承のていで、もう一度ソファに沈み込んだ。
 マテアスはその様子に満足そうに頷いて、自分は執務机に戻って書類仕事を再開した。

「マテアスは休憩しなくても大丈夫なの?」

 リーゼロッテが声をかけると、マテアスはにっこりと笑顔を返した。

「お気遣いいたみいります。わたしは有能な従者ですので、休憩などしなくともバリバリ仕事をこなせるのですよ。それにひきかえ旦那様は、王城での勤務も兼ねていますので、適度な休憩は必要です。リーゼロッテ様も旦那様が仕事に戻らないよう、見張っていてくださいね」
「あら、それはいいですね。わたしもこれから所用がございますので、リーゼロッテ様の訓練も今日はここまでといたしましょう。リーゼロッテ様も旦那様とご一緒にゆっくりと休憩なさってください」

 エマニュエルはそう言うと、執務室を出ていった。

 残されたリーゼロッテとジークヴァルトは、並んでソファに座ったまましばらくじっと紅茶のカップを見つめていた。会話もないまま時計が進むカチカチという音がやけに大きく響いている。

 書類をめくりながらマテアスがふたりの様子をちらりと見やるが、何も言わずにすぐに書類に目を落とした。滞った執務を前に、そこまでは面倒を見ていられない。スローガンは、頑張れ旦那様!だ。

 リーゼロッテはテーブルの上のお茶うけのクッキーに視線をやった。いつもならジークヴァルトの手で差し入れられるクッキーは、お皿の上で行儀よく鎮座している。

(あの日から、あーんも一度もないのよね……)

 あれほど恥ずかしいからやめてほしいと思っていたのに、それがなくなってさびしいと感じる自分もどうかと思うのだが。

(だけど、やっぱり……)

 クッキーから目を離して、隣のジークヴァルトの顔を見上げた。

「あの、ジークヴァルト様……」

 リーゼロッテの呼びかけにジークヴァルトは「なんだ?」と言って、静かに顔を向けた。

 呼べばこちらを見てくれる。問いかけにも応えてくれるし、無視されるようなこともない。ただ、自らリーゼロッテに近づこうとしないだけで。
 見えない壁を作られたようで、それがとても悲しかった。

 リーゼロッテは一度クッキーをみやってから、再びジークヴァルトに視線を戻した。

「あーんはノルマなのですわ」

 突然のリーゼロッテの言葉に、ジークヴァルトは無言でじっとみつめ返してくる。少しすねたような口調になってしまい、リーゼロッテはあわてたように付け加えた。

「一日一回、あーんはヴァルト様からしてくださらないとダメなのです。でないとまた……エッカルトが泣いてしまうから……」

 エッカルトに一日一回はあーんを受け入れてほしいとさめざめと泣かれたのだ。そういう言い訳の元、意を決して紡いだ言葉は、どんどんと語尾が小さくなっていった。
 恥ずかしくてジークヴァルトから視線をそらしてしまった。いたたまれない沈黙がその場に落ちる。

「ふ、そうか」

 不意に頬に手を添えられて、顔を上向かされた。その先には、今まで見たこともない柔らかな笑顔でリーゼロッテを見つめるジークヴァルトがいた。

「そら、あーんだ」

 頬に添えた手のひらはそのままに、ジークヴァルトはリーゼロッテにクッキーを差し出した。呆然とジークヴァルトを見つめたまま、リーゼロッテは無意識に口を開いた。ジークヴァルトの指がゆっくりと唇の隙間にクッキーを押し込んでいく。
 クッキーは口の中でほろりと崩れ、すぐに甘い味が広がった。

(ジークヴァルト様が…………デレた!!)

 一瞬でリーゼロッテの全身が真っ赤に染まる。と同時に体中から力がボボンと溢れだした。

「ほあっリーゼロッテ様!?」

 一気に力を放出しきったリーゼロッテにマテアスが叫び声をあげる。力が抜けて、くにゃりとジークヴァルトにもたれかかった。

 結局その日リーゼロッテは、ジークヴァルトの膝の上で、ゆっくりたっぷり、クッキーを差し入れられるはめとなったのだった。




 はーい、わたしリーゼロッテ! ここで第1章は終了、ここまでお付き合いいただき感謝です! 
 第2章「氷の王子と消えた託宣」でお会いできること、楽しみにしておりますわ。
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