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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
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◇
しばらくガラス越しにサロンの外の庭をじっと見つめていたリーゼロッテは、ふと視線を感じて後ろを振り返った。
サロンの入口に公爵家の護衛服を着た細身の若い男が立っている。じっとリーゼロッテを見ていたようで、目が合うと少しばつが悪そうな表情になった。
「あの……?」
何か用事があるのかと、護衛の男の正面に向き直ってリーゼロッテは軽く首をかしげた。
(この人は確か……エーミール様……グレーデン侯爵家の方だったわよね……)
エーミールはリーゼロッテが公爵領へ赴く際に、護衛としてわざわざダーミッシュ領まで迎えにきてくれた男だ。その時にアデライーデに紹介されたのをリーゼロッテは思い出した。
彼の方が家格が上だということに思い当たって、リーゼロッテは淑女の礼を取った。
深窓の妖精姫と噂される令嬢は、サロンから見える庭をバックに、そのふたつ名に恥じない儚さを備えていた。リーゼロッテの優雅な礼に見とれていたエーミールは、はっと我に返り慌てたようにサロンに足を踏み入れた。
「リーゼロッテ様、わたしに対してそのように礼を取る必要はない」
「ですが……」
戸惑うリーゼロッテに男はやさしく微笑みかけた。
「確かにわたしは侯爵家の人間だが、リーゼロッテ様はフーゲンベルク公爵夫人となられるお方だ。それに今は伯爵家にその身を落とされているが、あなたはラウエンシュタイン公爵家の正統な姫君でいらっしゃる」
「まあ、身を落とすなどと……」
リーゼロッテにとってダーミッシュ家は実家も同然だ。養子なのは事実だが、そのように言われては家族を侮辱されたように感じてしまう。
聞きとがめたようなリーゼロッテの声音に、エーミールはふたたびやさしい笑顔を向けた。
「ふっ、あなたは噂に違わぬ妖精のような方だな。可憐で儚げで慈悲深い。ジークヴァルト様が大事にされるのも頷けるというものだ」
やさし気な口調の中に馬鹿にしたような響きを感じ取って、リーゼロッテは無言で瞳を伏せた。
(なんだろう……この人、好きじゃないかも……)
エーミールは今までリーゼロッテの周りにはいなかったタイプの人間だった。見た目はすらりとした爽やかそうなイケメン貴公子だが、いけ好かないという表現がしっくりくる人物だ。
無礼にならない程度に淑女の笑みを保っているが、これ以上会話を続けたいとは思わない。リーゼロッテは静かに微笑んだまま押し黙った。
エーミールはそんなリーゼロッテの体から溢れる緑の力の輝きを見つめ、目を細めた。
(ジークヴァルト様の婚約者が、ダーミッシュ家の令嬢と聞いてどうなることかと思っていたが……)
ダーミッシュ伯爵家は中立派の比較的歴史の浅い貴族だ。しかし中立と言っても、最近では下位の新興貴族との交流が深く、領民相手に教育を施しているという話をよく耳にする。
平民は貴族に黙って従うもので、教育など必要ないと考えているエーミールにとっては、ダーミッシュ伯爵はやっかいな部類の貴族だった。
(だが、聞けばリーゼロッテ様は公爵家の血筋の方……ジークヴァルト様との釣り合いも十分とれる)
初めてリーゼロッテに会った時の衝撃は今も忘れることはできない。
この小さい身に纏わせた緑の力は、今まで目にしたことのない清廉な輝きを放っていた。ジークヴァルトほどの力強さはないものの、彼女こそ自分の主人の伴侶にふさわしいと、エーミールは大いに満足したのだ。
リーゼロッテが瞳を伏せているのをいいことに、エーミールはぶしつけなほど彼女の姿をまじまじと観察した。
(それに、これを機にやり手のダーミッシュ伯爵をこちら側に取り込むにも悪くない)
値踏みをされているような視線を感じ、リーゼロッテは小さく身震いした。
自分を目の前にして、か弱いウサギのように震えているリーゼロッテに、エーミールは満足そうに薄く笑った。
「リーゼロッテ様、こちらにいらしたのですね。お迎えにあがりましたわ」
不意にエマニュエルがサロンにやってきてリーゼロッテに声をかけた。エーミールに無言で礼を取ったあと、「さあ、参りましょう」とリーゼロッテを連れて出ていこうとする。
「これはこれは、ブシュケッター子爵夫人。相変わらずお美しいな」
賞賛の声とは裏腹に、その声音には侮蔑の色がありありと伺えた。
公爵家の使用人だったエマニュエルは、ブシュケッター子爵に見初められその妻となった。貴族社会ではうまくやったものだと陰口をたたく者も多くいる。エーミールもそう考えるひとりだった。
「まあ、若い令嬢たちのあこがれの的であるエーミール様にそのように言っていただけるなんて。お世辞でもうれしいですわ」
意に介した様子もなく、エマニュエルは大人の笑みをエーミールに向けた。泣きぼくろのある瞳を妖艶に細め、誘うような唇が弧を描く。
エーミールは鼻白んで、思わず赤くなってしまった顔をエマニュエルから咄嗟にそむけた。
「それにしても、エーミール様……リーゼロッテ様の護衛はそれと気づかれぬよう、旦那様から言いつかっていたはずですのに……どうしてこのようなことになっているのでしょう」
エーミールの前で怯えるように目を伏せていたリーゼロッテを庇うように立ち、エマニュエルは毅然とした態度でエーミールの顔を見上げた。
ぐっと言葉に詰まった後、エーミールは苦々しい顔をして開き直ったように言った。
「リーゼロッテ様の可憐な姿につい見とれてしまったのだ。おやさしいリーゼロッテ様に甘えて、お声がけをしてしまっただけだ。そうでしょう?リーゼロッテ様」
エマニュエルにではなくリーゼロッテに向けられた声は、ともすれば甘く聞こえる台詞だった。しかしそこに心が伴っているようには到底思えない。
うぶな令嬢ならばコロッと参ってしまうような表情と声音だったが、リーゼロッテは困ったようにエマニュエルに視線を向けた。
「……ともかく、この件は旦那様にご報告させていただきます。さ、リーゼロッテ様」
この話は終わりだとばかりに、エマニュエルがリーゼロッテを促した。頷いたリーゼロッテはエーミールへと向き直り、優雅な所作で淑女の礼をする。
「それでは失礼いたします、グレーデン様」
サロンから出ていくふたりを不遜な笑顔で見送ったエーミールだったが、エマニュエルの小さくなっていく背に向けて忌々しそうに舌打ちをした。
「成り上がりの使用人風情が……」
その横をカークがゆっくりと通り過ぎ、ふたりを追うように出ていった。
「ジークヴァルト様もあのような異形をリーゼロッテ様につけるとは……」
エーミールにとっては、力こそが正義だった。貴族としても、力ある者としても、ジークヴァルトはその頂点に立つべき存在だ。
エーミールは力を持つ者として、王家に仕える道よりもジークヴァルトへの忠誠を選んだ。ジークヴァルトが道を踏み外さないよう、行くべき正しい場所へ導くことこそが、己の役目だと信じて疑わない。
「全てはジークヴァルト様のために……」
サロンの出口を睨みつけるように、エーミールはひとりつぶやいた。
しばらくガラス越しにサロンの外の庭をじっと見つめていたリーゼロッテは、ふと視線を感じて後ろを振り返った。
サロンの入口に公爵家の護衛服を着た細身の若い男が立っている。じっとリーゼロッテを見ていたようで、目が合うと少しばつが悪そうな表情になった。
「あの……?」
何か用事があるのかと、護衛の男の正面に向き直ってリーゼロッテは軽く首をかしげた。
(この人は確か……エーミール様……グレーデン侯爵家の方だったわよね……)
エーミールはリーゼロッテが公爵領へ赴く際に、護衛としてわざわざダーミッシュ領まで迎えにきてくれた男だ。その時にアデライーデに紹介されたのをリーゼロッテは思い出した。
彼の方が家格が上だということに思い当たって、リーゼロッテは淑女の礼を取った。
深窓の妖精姫と噂される令嬢は、サロンから見える庭をバックに、そのふたつ名に恥じない儚さを備えていた。リーゼロッテの優雅な礼に見とれていたエーミールは、はっと我に返り慌てたようにサロンに足を踏み入れた。
「リーゼロッテ様、わたしに対してそのように礼を取る必要はない」
「ですが……」
戸惑うリーゼロッテに男はやさしく微笑みかけた。
「確かにわたしは侯爵家の人間だが、リーゼロッテ様はフーゲンベルク公爵夫人となられるお方だ。それに今は伯爵家にその身を落とされているが、あなたはラウエンシュタイン公爵家の正統な姫君でいらっしゃる」
「まあ、身を落とすなどと……」
リーゼロッテにとってダーミッシュ家は実家も同然だ。養子なのは事実だが、そのように言われては家族を侮辱されたように感じてしまう。
聞きとがめたようなリーゼロッテの声音に、エーミールはふたたびやさしい笑顔を向けた。
「ふっ、あなたは噂に違わぬ妖精のような方だな。可憐で儚げで慈悲深い。ジークヴァルト様が大事にされるのも頷けるというものだ」
やさし気な口調の中に馬鹿にしたような響きを感じ取って、リーゼロッテは無言で瞳を伏せた。
(なんだろう……この人、好きじゃないかも……)
エーミールは今までリーゼロッテの周りにはいなかったタイプの人間だった。見た目はすらりとした爽やかそうなイケメン貴公子だが、いけ好かないという表現がしっくりくる人物だ。
無礼にならない程度に淑女の笑みを保っているが、これ以上会話を続けたいとは思わない。リーゼロッテは静かに微笑んだまま押し黙った。
エーミールはそんなリーゼロッテの体から溢れる緑の力の輝きを見つめ、目を細めた。
(ジークヴァルト様の婚約者が、ダーミッシュ家の令嬢と聞いてどうなることかと思っていたが……)
ダーミッシュ伯爵家は中立派の比較的歴史の浅い貴族だ。しかし中立と言っても、最近では下位の新興貴族との交流が深く、領民相手に教育を施しているという話をよく耳にする。
平民は貴族に黙って従うもので、教育など必要ないと考えているエーミールにとっては、ダーミッシュ伯爵はやっかいな部類の貴族だった。
(だが、聞けばリーゼロッテ様は公爵家の血筋の方……ジークヴァルト様との釣り合いも十分とれる)
初めてリーゼロッテに会った時の衝撃は今も忘れることはできない。
この小さい身に纏わせた緑の力は、今まで目にしたことのない清廉な輝きを放っていた。ジークヴァルトほどの力強さはないものの、彼女こそ自分の主人の伴侶にふさわしいと、エーミールは大いに満足したのだ。
リーゼロッテが瞳を伏せているのをいいことに、エーミールはぶしつけなほど彼女の姿をまじまじと観察した。
(それに、これを機にやり手のダーミッシュ伯爵をこちら側に取り込むにも悪くない)
値踏みをされているような視線を感じ、リーゼロッテは小さく身震いした。
自分を目の前にして、か弱いウサギのように震えているリーゼロッテに、エーミールは満足そうに薄く笑った。
「リーゼロッテ様、こちらにいらしたのですね。お迎えにあがりましたわ」
不意にエマニュエルがサロンにやってきてリーゼロッテに声をかけた。エーミールに無言で礼を取ったあと、「さあ、参りましょう」とリーゼロッテを連れて出ていこうとする。
「これはこれは、ブシュケッター子爵夫人。相変わらずお美しいな」
賞賛の声とは裏腹に、その声音には侮蔑の色がありありと伺えた。
公爵家の使用人だったエマニュエルは、ブシュケッター子爵に見初められその妻となった。貴族社会ではうまくやったものだと陰口をたたく者も多くいる。エーミールもそう考えるひとりだった。
「まあ、若い令嬢たちのあこがれの的であるエーミール様にそのように言っていただけるなんて。お世辞でもうれしいですわ」
意に介した様子もなく、エマニュエルは大人の笑みをエーミールに向けた。泣きぼくろのある瞳を妖艶に細め、誘うような唇が弧を描く。
エーミールは鼻白んで、思わず赤くなってしまった顔をエマニュエルから咄嗟にそむけた。
「それにしても、エーミール様……リーゼロッテ様の護衛はそれと気づかれぬよう、旦那様から言いつかっていたはずですのに……どうしてこのようなことになっているのでしょう」
エーミールの前で怯えるように目を伏せていたリーゼロッテを庇うように立ち、エマニュエルは毅然とした態度でエーミールの顔を見上げた。
ぐっと言葉に詰まった後、エーミールは苦々しい顔をして開き直ったように言った。
「リーゼロッテ様の可憐な姿につい見とれてしまったのだ。おやさしいリーゼロッテ様に甘えて、お声がけをしてしまっただけだ。そうでしょう?リーゼロッテ様」
エマニュエルにではなくリーゼロッテに向けられた声は、ともすれば甘く聞こえる台詞だった。しかしそこに心が伴っているようには到底思えない。
うぶな令嬢ならばコロッと参ってしまうような表情と声音だったが、リーゼロッテは困ったようにエマニュエルに視線を向けた。
「……ともかく、この件は旦那様にご報告させていただきます。さ、リーゼロッテ様」
この話は終わりだとばかりに、エマニュエルがリーゼロッテを促した。頷いたリーゼロッテはエーミールへと向き直り、優雅な所作で淑女の礼をする。
「それでは失礼いたします、グレーデン様」
サロンから出ていくふたりを不遜な笑顔で見送ったエーミールだったが、エマニュエルの小さくなっていく背に向けて忌々しそうに舌打ちをした。
「成り上がりの使用人風情が……」
その横をカークがゆっくりと通り過ぎ、ふたりを追うように出ていった。
「ジークヴァルト様もあのような異形をリーゼロッテ様につけるとは……」
エーミールにとっては、力こそが正義だった。貴族としても、力ある者としても、ジークヴァルトはその頂点に立つべき存在だ。
エーミールは力を持つ者として、王家に仕える道よりもジークヴァルトへの忠誠を選んだ。ジークヴァルトが道を踏み外さないよう、行くべき正しい場所へ導くことこそが、己の役目だと信じて疑わない。
「全てはジークヴァルト様のために……」
サロンの出口を睨みつけるように、エーミールはひとりつぶやいた。
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