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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
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◇
「やめて! やめてくださいませ、ハルトさまっ」
「痛めつけるのは本意じゃないんだけど……」
すまなそうな口調で言うが、その顔は相変わらず楽し気だ。リーゼロッテの両手首を片手で押さえこんだまま、ジークハルトはゆっくりと身を起こした。
隣のマテアスの執務机に積まれた書類が、床に崩れ落ちていく。いたずらな指先の動きをしばし止め、ジークハルトは窓の方向へ顔を向けた。
じっと窓の外を見つめていたかと思うと、ジークハルトはおもちゃを見つけた子供のように無邪気に笑った。
「あんまり時間もないみたいだし……仕方ないよね」
再び組み敷いているリーゼロッテに向き直り、その瞳を覗き込みながらやさしく囁いた。
「ごめんね。できるだけ早く終わらせるから。だから我慢して、ね、リーゼロッテ」
ジークハルトの言葉にリーゼロッテは恐怖で身を強張らせた。
「いやっやめて!」
リーゼロッテの悲鳴と共に部屋全体が大きく揺れる。荒れ狂う異形たちをちらりと見て、顔を上げたジークハルトが ふっと笑った。
「悪いけど、ちょっとだけおとなしくしといてよ」
言うなり部屋の圧がガンっと増す。息苦しさが倍増し、異形たちも苦しげな咆哮を上げた。
匂いも温もりも瞳の色も、目の前にいるのはジークヴァルトであるはずなのに、その何もかもがジークヴァルトではなかった。
掴まれた手首がさらにきつく締めあげられ、リーゼロッテは滲む視界を見上げ歯を食いしばった。
いつもやさしく髪を梳いていた指先が、身も心も痛めつけるようにはい回る。
半狂乱になる異形たちの叫びに同調するように、リーゼロッテは身をよじって泣き叫んだ。
「いやぁいやっいやっヴァルトさま、たすけてヴァルトさま、ヴァルトさまヴァルトさまヴァルトさまぁっ」
恐怖と異形たちの叫び声だけが支配する。涙でぐちゃぐちゃになりながら、髪を振り乱してリーゼロッテはただその名を呼んだ。
声も枯れ果て抵抗する気力も体力も尽きようとしたそのとき、リーゼロッテの目の前を一陣の風が吹き抜けた。
ジークハルトの動きが止まったかと思うと、リーゼロッテは不意にすくい上げるようにその体を抱き起こされた。
頭上で押さえつけられていた手が解放され、力が入らないまま膝の上に降ろされる。掴まれていた手首に血流が戻ってきたのか、指先がじんじんとした痛みを訴えた。
荒い呼吸のまま手首を見やると、掴まれた形で赤くなっている。その先の白い指は細かく震えていた。
乱れた髪がそっと耳にかけられる。続けてやさしく整えるように髪が梳かれていった。
執務机に座らされた状態で、リーゼロッテは恐る恐る顔を上げた。目の前にあったのは青い瞳だ。表情のないその瞳は、リーゼロッテの涙を見つめて苦しそうに歪められた。
「……ジーク……ヴァルトさま……?」
わずかに首をかしげると、大きな手に引き寄せられた。
「すまない……怖い思いをさせた……」
苦しいくらいに抱きしめられ、リーゼロッテは大きく目を見開いた。やさしく背中をさすられて、こわばった体から力が抜けていく。
「ふ……ぇ……ヴァルトさま……」
大きな体に抱きつきながら、リーゼロッテはボロボロと涙をこぼした。背中に回した手がジークヴァルトのシャツをぎゅっと掴む。
しゃくりあげるリーゼロッテの背中を、ジークヴァルトの手が何度も何度もやさしくなでていく。
ジークヴァルトの体から弾き飛ばされたジークハルトが、その様子を天井すれすれの場所から見下ろしていた。その表情は相変わらずにこやかだ。
(薄皮一枚、といったところかな)
守護者としてのジークヴァルトとの繋がりは、かつてなく希薄な物になり果てた。こんなことをしでかしたジークハルトへの信頼など、ジークヴァルトの中ではもはや欠片もないだろう。
それでも守護者としての絆を完全に断ち切ることはできなかったようだ。
(まあ、結果は上々だね)
嵐が去った跡のような部屋の中を一瞥してから、ジークハルトは天井を抜けてするりと消えていく。
シャボン玉がはじけるような気軽さで、執務室を包む大きな力は、ぱちんと消えて無くなった。
「やめて! やめてくださいませ、ハルトさまっ」
「痛めつけるのは本意じゃないんだけど……」
すまなそうな口調で言うが、その顔は相変わらず楽し気だ。リーゼロッテの両手首を片手で押さえこんだまま、ジークハルトはゆっくりと身を起こした。
隣のマテアスの執務机に積まれた書類が、床に崩れ落ちていく。いたずらな指先の動きをしばし止め、ジークハルトは窓の方向へ顔を向けた。
じっと窓の外を見つめていたかと思うと、ジークハルトはおもちゃを見つけた子供のように無邪気に笑った。
「あんまり時間もないみたいだし……仕方ないよね」
再び組み敷いているリーゼロッテに向き直り、その瞳を覗き込みながらやさしく囁いた。
「ごめんね。できるだけ早く終わらせるから。だから我慢して、ね、リーゼロッテ」
ジークハルトの言葉にリーゼロッテは恐怖で身を強張らせた。
「いやっやめて!」
リーゼロッテの悲鳴と共に部屋全体が大きく揺れる。荒れ狂う異形たちをちらりと見て、顔を上げたジークハルトが ふっと笑った。
「悪いけど、ちょっとだけおとなしくしといてよ」
言うなり部屋の圧がガンっと増す。息苦しさが倍増し、異形たちも苦しげな咆哮を上げた。
匂いも温もりも瞳の色も、目の前にいるのはジークヴァルトであるはずなのに、その何もかもがジークヴァルトではなかった。
掴まれた手首がさらにきつく締めあげられ、リーゼロッテは滲む視界を見上げ歯を食いしばった。
いつもやさしく髪を梳いていた指先が、身も心も痛めつけるようにはい回る。
半狂乱になる異形たちの叫びに同調するように、リーゼロッテは身をよじって泣き叫んだ。
「いやぁいやっいやっヴァルトさま、たすけてヴァルトさま、ヴァルトさまヴァルトさまヴァルトさまぁっ」
恐怖と異形たちの叫び声だけが支配する。涙でぐちゃぐちゃになりながら、髪を振り乱してリーゼロッテはただその名を呼んだ。
声も枯れ果て抵抗する気力も体力も尽きようとしたそのとき、リーゼロッテの目の前を一陣の風が吹き抜けた。
ジークハルトの動きが止まったかと思うと、リーゼロッテは不意にすくい上げるようにその体を抱き起こされた。
頭上で押さえつけられていた手が解放され、力が入らないまま膝の上に降ろされる。掴まれていた手首に血流が戻ってきたのか、指先がじんじんとした痛みを訴えた。
荒い呼吸のまま手首を見やると、掴まれた形で赤くなっている。その先の白い指は細かく震えていた。
乱れた髪がそっと耳にかけられる。続けてやさしく整えるように髪が梳かれていった。
執務机に座らされた状態で、リーゼロッテは恐る恐る顔を上げた。目の前にあったのは青い瞳だ。表情のないその瞳は、リーゼロッテの涙を見つめて苦しそうに歪められた。
「……ジーク……ヴァルトさま……?」
わずかに首をかしげると、大きな手に引き寄せられた。
「すまない……怖い思いをさせた……」
苦しいくらいに抱きしめられ、リーゼロッテは大きく目を見開いた。やさしく背中をさすられて、こわばった体から力が抜けていく。
「ふ……ぇ……ヴァルトさま……」
大きな体に抱きつきながら、リーゼロッテはボロボロと涙をこぼした。背中に回した手がジークヴァルトのシャツをぎゅっと掴む。
しゃくりあげるリーゼロッテの背中を、ジークヴァルトの手が何度も何度もやさしくなでていく。
ジークヴァルトの体から弾き飛ばされたジークハルトが、その様子を天井すれすれの場所から見下ろしていた。その表情は相変わらずにこやかだ。
(薄皮一枚、といったところかな)
守護者としてのジークヴァルトとの繋がりは、かつてなく希薄な物になり果てた。こんなことをしでかしたジークハルトへの信頼など、ジークヴァルトの中ではもはや欠片もないだろう。
それでも守護者としての絆を完全に断ち切ることはできなかったようだ。
(まあ、結果は上々だね)
嵐が去った跡のような部屋の中を一瞥してから、ジークハルトは天井を抜けてするりと消えていく。
シャボン玉がはじけるような気軽さで、執務室を包む大きな力は、ぱちんと消えて無くなった。
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