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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣

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 マテアスは真っ青になりながら、ぎりっと歯噛みした。今見えた白いものは、どう考えても女性の足だった。
 この国の女性は平民であっても、いたずらに足を人目に晒したりはしない。女性の素足を拝めるのは、それこそ恋人か夫くらいのものである。

 そんなものが主の下から見える状況など、想像するだに恐ろしい。想像どころか、窓を隔てたすぐそこで、今まさにその光景が繰り広げられているのだ。
 ジークヴァルトの体勢はどんなに否定しても、リーゼロッテをその下に組み敷いているとしか思えなかった。もう一刻の猶予もない。

「ヨハン様! 強行突破します!」

 マテアスは舌打ちと共にロープを掴む手に力を入れて、壁を強く蹴った。

「ええっ!?」

 蹴った反動でブランコのように空中に放り出されたマテアスを見て、ヨハンは慌てて手すりに括られたロープの結び目を手で押さえた。ロープが擦れてぎしりと鳴る。

「ぜっったいに後でぶん殴る!」

 窓ガラスに蹴りが入る直前、マテアスはある程度の怪我は覚悟した。主の不始末と言えど、一発くらい殴らせてもらわないと割に合わない。絶対にリーゼロッテの目の前で殴り飛ばしてやる。

 マテアスの足が窓ガラスを突き破ろうとしたその瞬間、しかし、マテアスの体は空中でふわりと止まった。

「なんっ!?」

 足がガラスに突っ込むこともなく、体が打ちつけられる衝撃を感じることもなく、重力も加速もまるで無視したかのように、マテアスの体は窓の手前でぴたりと止まっていた。ロープの揺れさえも感じない。
 全身がふわりと何かに包まれている感覚がする。その何かが、執務室を包む強大な力と同じものだとマテアスは瞬時に気づいた。

 真綿でくるまれるかのごとくやさしく包みこまれているのに、この空恐ろしい圧迫感は一体何なのだ。マテアスの全身は一瞬で総毛立った。

 目の端に何か動くものを感じて、マテアスは反射的に窓の中、執務室内を凝視した。前傾姿勢だったジークヴァルトが身を起こしていくのが視界に入る。
 その瞬間、マテアスの執務机の上の書類の束が雪崩のように床に滑り落ちていった。

 遮るものがなくなったその先で、ジークヴァルトがゆっくりとこちらを振り返る。その視線は、明らかに窓の外にいるマテアスの姿を捉えていた。

 見慣れた主の青い瞳と窓越しにしばし見つめ合う。

 時が止まったような緊張感の中、マテアスは動くことができなかった。にじんだ汗が、つうっとこめかみを伝っていく。
 視線をマテアスから外さないまま、ジークヴァルトの唇がそれはそれは楽しそうに弧を描いた。その笑顔はまるで無邪気な子供のようだ。

(アレはダメだ……!)

 本能のレベルで体が動いていた。腕を伸ばしてロープを掴み、壁を駆け上がる勢いで上へと目指す。

「ヨハン様っ! 作戦変更です!」

 片手で手すりを掴んでひらりと飛び越えると、命綱のロープを外しながらマテアスは部屋を突っ切って出ていこうとする。

「え? あ、マテアス、このロープはどうすれば……」
「そんな物後回しです! あなたの馬鹿力の出番ですよ、早く付いて来てください!」

 呆気にとられるヨハンを置き去りに、部屋から出たマテアスは階下の執務室を足早に目指した。かろうじて足は前に進んでいるが、今さらながらに全身が震えてくる。

(何なんだ、何なんだアレは)

 あんなものが自分の主であるはずがない。
 震えに膝をつきそうな足を叱咤して、マテアスはエッカルトの待つ執務室の前へと向かった。それに追いついたヨハンが、気づかわし気にマテアスを覗き込んだ。

「マテアス、いったい何が……」
「今は話せることはありません。とにかくついて来てください」

 ヨハンはいつでも冷静沈着で頭の切れるマテアスを子供の頃から尊敬していた。そんなマテアスがいつになく動揺している。
 体を動かすしか能のない自分には推し量れないほどの、重大な何かが起きているのだろう。そう思うとヨハンはそれ以上口を開くことはしなかった。
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