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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣

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     ◇
「本当にここから降りるのか?」

 腰にロープを巻き付けたマテアスに、公爵家の護衛の制服を身に着けた厳つい大男が、心配そうな声音で言った。ロープはそのままテラスの手すりに括りつけられている。

 ここは屋敷の四階にある部屋のテラスだ。ちょうどこの真下に執務室がある。
 執務室にははめ殺しの窓があるだけだが、マテアスはここから降りて窓から執務室に入れないか試すつもりだった。

「ええ、ヨハン様はとりあえず周囲を見張っていてください」

 腰に巻いた命綱とは別に、マテアスはもう一本太めのロープを手すりに括りつけて下に垂らした。結び目が緩まないようにと、手すりに足をかけて引っ張るように結びつける。ヨハンがそれを引き取って、素手のままぎりぎりとさらにきつくロープを縛りつけた。

「しかし、このような荒事をマテアス自らしなくとも……。何ならオレが降りるが」
「ヨハン様の巨体ではロープが持ちませんよ。それに一体誰があなたを引き上げるというんですか」
「う、まあ、それはそうだが」
「とにかくヨハン様はここで待機です」

 マテアスはもう一度腰に巻き付けたロープの結び目を確かめてから、テラスの手すりをひょいと飛び越えた。そのまま何の躊躇もなく垂らしたロープを掴んでするすると降りていく。

 普段は公爵領政務の補佐として書類仕事ばかりしているマテアスだが、子供の頃からジークヴァルトの剣術の稽古の相手を務めてきたので、それなりに体は鍛え上げている。

 ヨハンに荒事と言われたが、体を動かすことは嫌いではない。机にかじりついて山積みの書類にうずもれるより毎日よりも、よほど性に合っているというものだ。

 それに今回の件は、誰にでも任せられる事態ではなかった。真実はどうあれ、公爵家の当主が婚約者とふたりきりで密室に籠城しているのである。大ごとにはできないし、信頼のおける者にしか協力を仰ぐことはできなかった。

 その点、ヨハンは公爵家の傍系である子爵家の長男で、マテアスにとっていわゆる幼馴染の間柄だ。身分差はあるが、ヨハンは身分を笠に着るでもなく実に誠実な男だった。

(近辺に人影はなし……と)

 ロープを伝って慎重に降りながら、眼下の庭先にくまなく視線を送る。執務室前の裏庭は人払いをして誰も近寄らないように指示してあった。とにかく秘密裏に事を進めなくてはならない。

「マテアス、大丈夫か?」

 上を見上げると心配性の幼馴染が手すりから身を乗り出してのぞき込んでいる。
 ヨハンは強面の大男のくせに、気がやさしく繊細な心の持ち主だった。剣の腕は豪胆で力任せなのに、趣味は刺繍と編み物というよくわからない男でもあった。

「問題ありませんよ。ヨハン様、あなたは周囲の警戒を怠らないで……」

 言い終わる前に執務室からひときわ大きな音が響いた。異形たちの動揺がびりびりと伝わってくる。

「マテアス、下では一体何が……」
「ですから、今から、それを、確かめに、行くんです、よっ」

 トントンと壁を蹴りながら、一気に下の階まで下降する。ガラスを避けて、マテアスは執務室の窓枠に足をかけた。

 先日の雨のせいか窓ガラスが泥で汚れて曇っている。マテアスは片手をロープから離し、無造作に白いシャツの袖でガラスの汚れを拭い落とした。

(外が明るいせいか中が見えづらいな……)

 マテアスは細い糸目をさらに細めて室内に目を凝らした。

 予想通り執務室の中はぐちゃぐちゃだった。
 あれだけ異形が騒いでいるのだ。ジークヴァルトがリーゼロッテに欲情を感じているだろうことは想定済みなので、室内の惨状に怒りは覚えても、別段驚きはなかった。

 座っていたソファにリーゼロッテの姿はない。だとすると執務机の方か。しかし、この位置からでは自分の机が邪魔で主の机までは見渡せない。

 不意に、マテアスの執務机に積まれた書類の影から、ジークヴァルトの背中が見えた。前かがみになって奥の机の方に伏せているように見える。

(くっそ、何をしてるかまではわからないな)

 窓枠に掛ける足の位置をずらしながら、マテアスは窓の端へと移動した。ロープが斜めになって不安定だが手と足をつっぱりながらどうにか体勢を取る。
 主の背中越しに、一瞬だが白くて細いものがちらっと垣間見えた。

(誰か嘘だと言ってくれ……!)
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