169 / 523
第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
2
しおりを挟む
◇
その頃リーゼロッテは、エラと共に庭が見える公爵家のサロンで、お茶をしながらまったりと過ごしていた。
いつもなら美しい庭が堪能できる一面のガラス戸は、降りしきる雨のせいで磨りガラスのようにぼんやりと外の景色を映している。
サロンの片隅ではカークがふたりを遠巻きに見守っていた。ジークヴァルトの言いつけ通りにリーゼロッテについてきたようだ。
「この雨はなかなか止みそうもありませんね、お嬢様」
「ええ、そうねエラ」
昨日、エラはダーミッシュ領に用事で帰っていたため、リーゼロッテが倒れたことは知らされていない。
夕べ、雨のせいで予定より遅くエラが公爵家に戻ってきた時には、リーゼロッテは夢の中の住人だった。いつもより早いリーゼロッテの就寝に、庭で散歩中に雨に降られて、念のため早めに休んだと説明されていた。
「昨日は雨の中帰ってくるのはたいへんだったでしょう?」
「ダーミッシュ領を出た頃は小雨程度だったのですが、王都に近づくにつれて雨が激しくなってびっくりいたしました」
「雨で馬車が立ち往生したりしなくてよかったわ」
「はい、本当に。道は混雑してはいましたが、道中は特にトラブルはありませんでしたし、国が河川の整備をしっかりしてくれているおかげか、最近では大雨でも大きな被害はほとんどありませんからね。とはいえ、御者と馬はたいへんだったと思いますが」
犬のレオンの天気予報は本当によく当たるらしい。この大雨はあと二日は続くだろうとの見立てだった。
「昨日、ルカは王都に来ていたのよね?」
「はい。ルカ様は王城へ騎士様の訓練の見学に行かれていたようです。昨日はお会いできなくて残念でした」
「そうね……。でもジークヴァルト様がルカの見学にお付き合いしてくださるっておっしゃっていたから、後でお話をお伺いしましょう」
「そうですね。ところで、お嬢様……お加減はいかがですか? もしお辛いようなら、もう少し横になっておられますか?」
リーゼロッテがまったく茶菓子に手を付けていない様子を見て、エラが心配そうに言った。
「大丈夫よ、エラ。昨日は急な雨に少し濡れただけだから」
リーゼロッテはエラを安心させるように微笑んだ。
しかしその胸中は複雑だ。いちばんと言ってよいほど信頼を寄せているエラに、ここのところ嘘ばかりついている気がする。
話したくても話せない。王子には龍の託宣については他言無用と命令されている。異形の者や自分の力のことに関しても言えないことが多すぎて、どうにもそれが後ろめたかった。
「ですが、お嬢様がこの菓子にお手をお付けにならないなんて……。やはり体調がよろしくないのでありませんか?」
茶菓子として用意されていたのは、リーゼロッテがいつもならよろこんで食べるチョコレートの菓子だった。瞳を輝かせてその菓子を口にするリーゼロッテは、それはそれは愛らしいのだ。
エラの言葉にリーゼロッテの瞳が動揺したように揺れ動いた。
もちろんそれを見逃すエラではない。リーゼロッテの異変に、前のめりですぐさまその手を取った。
「お嬢様。何かお悩みでもございますか?慣れない環境でお疲れがたまっていらっしゃるのではありませんか?」
公爵家に来てから、リーゼロッテと共に過ごす時間が減っている。自分の知らないところで、リーゼロッテが傷つくようなことがあったのではないか。
そう思うとエラは顔色を悪くした。そのような事態を放置するなど、自分が公爵家について来た意味が何もない。それでなくともお嬢様は、周りを思って我慢なさる方なのだから。
「い、いいえ、体調が悪いわけではないの。そうではないのよ、エラ」
リーゼロッテは言いよどみ、それでも何かを言いたげに視線を右へ左へとさ迷わせた。
(何か言いにくいことがおありなのだわ!)
エラは瞬時に判断した。口に出しづらいことを打ち明けたいとき、リーゼロッテはこのような仕草をいつもする。例えばドレスにシミを作ってしまったとか、月のものがやってきたとか、ちょっと恥ずかしいと思うことを告白したいときに。
「お嬢様。やはり何かおありなのですね? おっしゃりにくいことなら無理にとは申しませんが……」
エラはできるだけしゅんとした態度を取った。こうするとリーゼロッテは大概のことは、慌てて告白してくれるのだ。
「……エラ……正直に言ってほしいのだけれど……」
思った通りリーゼロッテは素直に口を開いた。一度だけ躊躇して、恥ずかしそうに眼を逸らしながら、リーゼロッテは消え入りそうな小さな声で続けた。
「その、わたくし……最近、ちょっと太ったわよね?」
その頃リーゼロッテは、エラと共に庭が見える公爵家のサロンで、お茶をしながらまったりと過ごしていた。
いつもなら美しい庭が堪能できる一面のガラス戸は、降りしきる雨のせいで磨りガラスのようにぼんやりと外の景色を映している。
サロンの片隅ではカークがふたりを遠巻きに見守っていた。ジークヴァルトの言いつけ通りにリーゼロッテについてきたようだ。
「この雨はなかなか止みそうもありませんね、お嬢様」
「ええ、そうねエラ」
昨日、エラはダーミッシュ領に用事で帰っていたため、リーゼロッテが倒れたことは知らされていない。
夕べ、雨のせいで予定より遅くエラが公爵家に戻ってきた時には、リーゼロッテは夢の中の住人だった。いつもより早いリーゼロッテの就寝に、庭で散歩中に雨に降られて、念のため早めに休んだと説明されていた。
「昨日は雨の中帰ってくるのはたいへんだったでしょう?」
「ダーミッシュ領を出た頃は小雨程度だったのですが、王都に近づくにつれて雨が激しくなってびっくりいたしました」
「雨で馬車が立ち往生したりしなくてよかったわ」
「はい、本当に。道は混雑してはいましたが、道中は特にトラブルはありませんでしたし、国が河川の整備をしっかりしてくれているおかげか、最近では大雨でも大きな被害はほとんどありませんからね。とはいえ、御者と馬はたいへんだったと思いますが」
犬のレオンの天気予報は本当によく当たるらしい。この大雨はあと二日は続くだろうとの見立てだった。
「昨日、ルカは王都に来ていたのよね?」
「はい。ルカ様は王城へ騎士様の訓練の見学に行かれていたようです。昨日はお会いできなくて残念でした」
「そうね……。でもジークヴァルト様がルカの見学にお付き合いしてくださるっておっしゃっていたから、後でお話をお伺いしましょう」
「そうですね。ところで、お嬢様……お加減はいかがですか? もしお辛いようなら、もう少し横になっておられますか?」
リーゼロッテがまったく茶菓子に手を付けていない様子を見て、エラが心配そうに言った。
「大丈夫よ、エラ。昨日は急な雨に少し濡れただけだから」
リーゼロッテはエラを安心させるように微笑んだ。
しかしその胸中は複雑だ。いちばんと言ってよいほど信頼を寄せているエラに、ここのところ嘘ばかりついている気がする。
話したくても話せない。王子には龍の託宣については他言無用と命令されている。異形の者や自分の力のことに関しても言えないことが多すぎて、どうにもそれが後ろめたかった。
「ですが、お嬢様がこの菓子にお手をお付けにならないなんて……。やはり体調がよろしくないのでありませんか?」
茶菓子として用意されていたのは、リーゼロッテがいつもならよろこんで食べるチョコレートの菓子だった。瞳を輝かせてその菓子を口にするリーゼロッテは、それはそれは愛らしいのだ。
エラの言葉にリーゼロッテの瞳が動揺したように揺れ動いた。
もちろんそれを見逃すエラではない。リーゼロッテの異変に、前のめりですぐさまその手を取った。
「お嬢様。何かお悩みでもございますか?慣れない環境でお疲れがたまっていらっしゃるのではありませんか?」
公爵家に来てから、リーゼロッテと共に過ごす時間が減っている。自分の知らないところで、リーゼロッテが傷つくようなことがあったのではないか。
そう思うとエラは顔色を悪くした。そのような事態を放置するなど、自分が公爵家について来た意味が何もない。それでなくともお嬢様は、周りを思って我慢なさる方なのだから。
「い、いいえ、体調が悪いわけではないの。そうではないのよ、エラ」
リーゼロッテは言いよどみ、それでも何かを言いたげに視線を右へ左へとさ迷わせた。
(何か言いにくいことがおありなのだわ!)
エラは瞬時に判断した。口に出しづらいことを打ち明けたいとき、リーゼロッテはこのような仕草をいつもする。例えばドレスにシミを作ってしまったとか、月のものがやってきたとか、ちょっと恥ずかしいと思うことを告白したいときに。
「お嬢様。やはり何かおありなのですね? おっしゃりにくいことなら無理にとは申しませんが……」
エラはできるだけしゅんとした態度を取った。こうするとリーゼロッテは大概のことは、慌てて告白してくれるのだ。
「……エラ……正直に言ってほしいのだけれど……」
思った通りリーゼロッテは素直に口を開いた。一度だけ躊躇して、恥ずかしそうに眼を逸らしながら、リーゼロッテは消え入りそうな小さな声で続けた。
「その、わたくし……最近、ちょっと太ったわよね?」
0
お気に入りに追加
268
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
王太子殿下の想い人が騎士団長だと知った私は、張り切って王太子殿下と婚約することにしました!
奏音 美都
恋愛
ソリティア男爵令嬢である私、イリアは舞踏会場を離れてバルコニーで涼んでいると、そこに王太子殿下の逢引き現場を目撃してしまいました。
そのお相手は……ロワール騎士団長様でした。
あぁ、なんてことでしょう……
こんな、こんなのって……尊すぎますわ!!
年下の彼氏には同い年の女性の方がお似合いなので、別れ話をしようと思います!
ほったげな
恋愛
私には年下の彼氏がいる。その彼氏が同い年くらいの女性と街を歩いていた。同じくらいの年の女性の方が彼には似合う。だから、私は彼に別れ話をしようと思う。
【完結】大好きな幼馴染には愛している人がいるようです。だからわたしは頑張って仕事に生きようと思います。
たろ
恋愛
幼馴染のロード。
学校を卒業してロードは村から街へ。
街の警備隊の騎士になり、気がつけば人気者に。
ダリアは大好きなロードの近くにいたくて街に出て子爵家のメイドとして働き出した。
なかなか会うことはなくても同じ街にいるだけでも幸せだと思っていた。いつかは終わらせないといけない片思い。
ロードが恋人を作るまで、夢を見ていようと思っていたのに……何故か自分がロードの恋人になってしまった。
それも女避けのための(仮)の恋人に。
そしてとうとうロードには愛する女性が現れた。
ダリアは、静かに身を引く決意をして………
★ 短編から長編に変更させていただきます。
すみません。いつものように話が長くなってしまいました。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる