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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
第26話 聖女の微笑
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「旦那様、追加の仕事をお持ちしましたよ」
マテアスは扉をノックした後、返事を待たずしてジークヴァルトの部屋の扉に手をかけた。この部屋を訪れるのは、自分か侍女長である母のロミルダくらいだ。ジークヴァルトは在室中、部屋に鍵をかけたりはしないので、戸惑いもなく扉を開ける。
「ヴァルト様?」
異変に気付いたマテアスは、足早に室内に足を踏み入れた。
(いない……)
部屋はもぬけの空だった。
先刻自分が置いていった仕事は、あらかた終わっているようだ。追加の書類を脇に置いた後、マテアスはテーブルの上の書類を手に取って確認した。
ジークヴァルトがいつも座っているソファに手を当てる。艶やかな革張りの座面には、まだ温もりが残っていた。出て行ってからさほど時間は経っていないようだ。
ソファの片隅に開かれた便せんが無造作に置かれているのが目に入る。これはリーゼロッテからの手紙だ。
(……おかしい……どういうことだ……?)
自分の主人は婚約者からの手紙をそれはそれは大事にしている。誰にも読ませないし、触らせない。届いた手紙はリーゼロッテの年齢ごとに箱にしまわれ、全て綺麗な状態で保管されている。
時折箱を開いては、懐かし気に手紙を読んでいるようだが、ロミルダも自分も気づかないふりをしていた。
そんな大切な手紙をこのように放置して、部屋を空けることなどあり得ない。部屋の鍵も開いていた。部屋を出るときは、主は必ず鍵をかけていくというのにだ。
青ざめたマテアスは立ち上がり、素早く部屋を出た。念のため、スペアの鍵で施錠しておく。
(行くとしたら、リーゼロッテ様のお部屋……いや、それなら時間的に執務室から行き違いになるはずはない。でなかったら厩舎の方か……?)
気が逸る中、マテアスは足早に屋敷の中を移動した。
(くそっ、なんでいないんだ)
厩舎へはジークヴァルトは来ていないようだった。きまぐれに誰も伴わずに馬を駆って出ていくことがあるので、もしやと思ったのだが。
不意に、あの日の恐怖がよみがえる。血の気が引き、どくりと心臓が音を立てた。
「マテアス? どうしたの、そんなに血相を変えて」
廊下の向こうからエマニュエルが足早に寄ってきた。
「ヴァルト様がいないんです!」
咄嗟のようにエマニュエルの肩を掴んだその手は、小刻みに震えていた。ただならぬマテアスの様子に、エマニュエルは形のいいその唇をきゅっと引き結んだ。
「落ち着きなさい、マテアス。あなたがそんなに動揺していては、みなに示しがつかないわ」
はっとしたようにマテアスが顔を上げる。肩を掴んでいた手を離し、マテアスはすっと姿勢を正した。
「お見苦しいところをお見せしました。エマニュエル様」
「一体何があったというの?」
「自室で執務中に、旦那様の行方がわからなくなりました。厩舎や書庫など、行きそうな場所はあたったのですが……」
「息抜きに出られたのではなくて?」
「部屋に鍵は掛けられておりませんでした」
「そう……確かにそれはおかしいわね」
エマニュエルは少し考え込んだ後、はっとしてマテアスの顔を見た。
「先ほどリーゼロッテ様のお部屋に旦那様の守護者が現れたわ。それが何か関係あるのかもしれないわね」
「ヴァルト様の守護者が?」
「ええ。どうやらリーゼロッテ様は旦那様の守護者が視えるようなの。会話もなさっていたわ」
マテアスが驚いた様子でエマニュエルを見つめ返した。
「あの守護者はどうもいたずら好きのようね。ディートリンデ様も以前、無邪気な子供のようでそれがかえって腹が立つとおっしゃっていたし……今回も何かあったのかもしれないわ」
「無邪気な守護者、ですか……」
「とりあえずリーゼロッテ様のお部屋に行ってみましょう。――大丈夫よ、マテアス。旦那様はお強くなったわ。昔の、幼いままのヴァルト様ではないわ」
言い聞かせるようなエマニュエルの言葉に、マテアスはすがるような気持ちで頷いた。
マテアスは扉をノックした後、返事を待たずしてジークヴァルトの部屋の扉に手をかけた。この部屋を訪れるのは、自分か侍女長である母のロミルダくらいだ。ジークヴァルトは在室中、部屋に鍵をかけたりはしないので、戸惑いもなく扉を開ける。
「ヴァルト様?」
異変に気付いたマテアスは、足早に室内に足を踏み入れた。
(いない……)
部屋はもぬけの空だった。
先刻自分が置いていった仕事は、あらかた終わっているようだ。追加の書類を脇に置いた後、マテアスはテーブルの上の書類を手に取って確認した。
ジークヴァルトがいつも座っているソファに手を当てる。艶やかな革張りの座面には、まだ温もりが残っていた。出て行ってからさほど時間は経っていないようだ。
ソファの片隅に開かれた便せんが無造作に置かれているのが目に入る。これはリーゼロッテからの手紙だ。
(……おかしい……どういうことだ……?)
自分の主人は婚約者からの手紙をそれはそれは大事にしている。誰にも読ませないし、触らせない。届いた手紙はリーゼロッテの年齢ごとに箱にしまわれ、全て綺麗な状態で保管されている。
時折箱を開いては、懐かし気に手紙を読んでいるようだが、ロミルダも自分も気づかないふりをしていた。
そんな大切な手紙をこのように放置して、部屋を空けることなどあり得ない。部屋の鍵も開いていた。部屋を出るときは、主は必ず鍵をかけていくというのにだ。
青ざめたマテアスは立ち上がり、素早く部屋を出た。念のため、スペアの鍵で施錠しておく。
(行くとしたら、リーゼロッテ様のお部屋……いや、それなら時間的に執務室から行き違いになるはずはない。でなかったら厩舎の方か……?)
気が逸る中、マテアスは足早に屋敷の中を移動した。
(くそっ、なんでいないんだ)
厩舎へはジークヴァルトは来ていないようだった。きまぐれに誰も伴わずに馬を駆って出ていくことがあるので、もしやと思ったのだが。
不意に、あの日の恐怖がよみがえる。血の気が引き、どくりと心臓が音を立てた。
「マテアス? どうしたの、そんなに血相を変えて」
廊下の向こうからエマニュエルが足早に寄ってきた。
「ヴァルト様がいないんです!」
咄嗟のようにエマニュエルの肩を掴んだその手は、小刻みに震えていた。ただならぬマテアスの様子に、エマニュエルは形のいいその唇をきゅっと引き結んだ。
「落ち着きなさい、マテアス。あなたがそんなに動揺していては、みなに示しがつかないわ」
はっとしたようにマテアスが顔を上げる。肩を掴んでいた手を離し、マテアスはすっと姿勢を正した。
「お見苦しいところをお見せしました。エマニュエル様」
「一体何があったというの?」
「自室で執務中に、旦那様の行方がわからなくなりました。厩舎や書庫など、行きそうな場所はあたったのですが……」
「息抜きに出られたのではなくて?」
「部屋に鍵は掛けられておりませんでした」
「そう……確かにそれはおかしいわね」
エマニュエルは少し考え込んだ後、はっとしてマテアスの顔を見た。
「先ほどリーゼロッテ様のお部屋に旦那様の守護者が現れたわ。それが何か関係あるのかもしれないわね」
「ヴァルト様の守護者が?」
「ええ。どうやらリーゼロッテ様は旦那様の守護者が視えるようなの。会話もなさっていたわ」
マテアスが驚いた様子でエマニュエルを見つめ返した。
「あの守護者はどうもいたずら好きのようね。ディートリンデ様も以前、無邪気な子供のようでそれがかえって腹が立つとおっしゃっていたし……今回も何かあったのかもしれないわ」
「無邪気な守護者、ですか……」
「とりあえずリーゼロッテ様のお部屋に行ってみましょう。――大丈夫よ、マテアス。旦那様はお強くなったわ。昔の、幼いままのヴァルト様ではないわ」
言い聞かせるようなエマニュエルの言葉に、マテアスはすがるような気持ちで頷いた。
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