147 / 506
第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
5
しおりを挟む
◇
騒ぎの数日後、リーゼロッテはエマニュエルと共に自分の部屋へと戻るために長い廊下を歩いていた。
仮の執務室の準備が整うまで、浄化の訓練はお預け中である。今は泣き虫ジョンに会い行った帰りであった。
ほかにやることといえば、与えられた自室で刺繍にいそしむくらいなので、正直暇を持て余している。エラはエラであちこち引っ張りだこになっているので、領地にいた頃のようにふたりでずっと過ごすわけにもいかなかった。
お供を付ければ屋敷内や庭などは自由に散策していいと言われているが、それに付き合わされる使用人のことを考えると、あまりわがままは言えないでいた。
異世界令嬢生活を続けて早十五年。リーゼロッテはいまだ日本人気質が抜けきらないままだ。
「リーゼロッテ様はもう迷われずに行き来できそうですね」
後ろからついてきていたエマニュエルが微笑みながらリーゼロッテに声をかけた。
屋敷は複雑な構造で、リーゼロッテは一度迷子になりかけた。しかし毎日のように通うジョンがいる裏庭への道のりは、だんだんと覚えてきてはいる。
「確かに、帰りはカークの気配で迷わず進めますわね。でも行きはまだ迷ってしまいそう」
言っているうちに、カークの気配が濃くなっていく。進む先から漂ってくるのは、ふてくされ気味の心持ちだった。
廊下を曲がるとその先にカークが扉の前で立つ姿が見えてきた。相も変わらず扉に額を押し付けて立っている。
「ただいま、カーク。今日の気分はどうかしら?」
リーゼロッテがカークの背中にやさしく声をかけると、エマニュエルが続けて冷ややかに続けた。
「またふてくされて。それでは護衛にならないわ、カーク」
エマニュエルは心底邪魔そうにカークを避けつつ内開きの扉を開けた。立ちはだかるカークの脇をすり抜けて、部屋の中に入っていく。
別にすり抜けなくともカークを突き抜けて通ることはできるのだが、ビジュアル的にためらわれる。しかも、カークを通り抜けるときに、触れた場所から例のふてくされた感情がダイレクトに伝わってくるのだ。どんなに気分爽快な時でも、一瞬でテンション駄々下がりだ。
(三つ子の魂百までってやつかしら? カークの場合、もう何百年も経っているようだけど)
カークは動いたものの、守りたい願望二割、ふてくされ気分八割で感情がぐるぐる巡っているようだった。リーゼロッテも苦笑いしながら、カークの脇をすり抜けて部屋の中へと足を踏み入れた。
小柄なリーゼロッテは難なく通ることができるのだが、けしからんわがままボディの持ち主であるエマニュエルは、どうしても体の一部がかすってしまうらしい。
ちなみにカークが見えないエラは、何事もなく出入りしている。不思議なことにエラが通るとき、カークの輪郭がふわりとぶれる。義弟のルカと同じく無知なる者のエラは、全く異形の干渉を受けていないようだった。
「でもどうしてカークは扉の前に立つのかしら?」
部屋のソファに座りながらリーゼロッテは首をかしげた。横に避けるよう頼んでも、ずっと扉に額を押し付けている。
「旦那様に部屋を守るように言われたものの、カークは護衛の意味が分かってないのかもしれませんね」
エマニュエルの淹れる紅茶の香りがふわりと広がった。
『なんだかまたおもしろいことになってるね』
ふいに隣から声がかかり、リーゼロッテはびくりと真横を見やった。そこにはニコニコと笑うジークハルトがあぐらをかいて宙に浮かんでいた。
「まあ、ハルト様。なんだかお久しぶりですわね」
リーゼロッテが驚きの声を上げると、エマニュエルが怪訝な顔でリーゼロッテを見た。
「リーゼロッテ様? そこに何かいるのですか?」
ジークヴァルトの守護者であるジークハルトは、ジークヴァルトと自分にしか視えない。
その事実を、リーゼロッテはついつい忘れてしまう。透けてはいるものの、それくらいジークハルトの存在はいつでもはっきりとこの目に映っていた。
「ええ、ヴァルト様の守護者がこちらにいらっしゃっていますわ。なぜだかわたくしには視えるようなのです」
「まあ、リーゼロッテ様も!」
目を丸くしたエマニュエルは、心から驚いた様子だった。
「他にも視える方がいらっしゃるのですか?」
「以前、大奥様が大旦那様の守護者とよくお話しされていました。声だけで姿は視えないとのことでしたが」
「大奥様……?」
『ディートリンデのことだね』
「ディートリンデ様?」
「はい、大奥様のディートリンデ様です」
『ヴァルトの母親だよ』
「ヴァルト様のお母様……」
「ええ。近い将来、リーゼロッテ様のお義母様にもなられますね」
『ジークフリートの託宣の相手だから、リーゼロッテにとっては恋敵になるのかな?』
「まあ! 恋敵だなんて……ジークフリート様は、わたくしの初恋の方というだけで、今ではいい思い出ですわ」
「え? ……恋敵? 初恋の方……?」
『むきになるところがあやしいなぁ。ディートリンデは怒らせると怖いんだよ?』
「ええ? そんな!」
「あの……リーゼロッテ様……?」
エマニュエルが訝し気な表情を向けてくる。
エマニュエルにはジークハルトの声は聞こえていない。合間にジークハルトが言葉をはさむので、会話がよくわからないことになっていることにリーゼロッテは気がついた。
「あ、エマ様。ハルト様が……」
おろおろと自分と横の空間を交互に見ているリーゼロッテに、エマニュエルはすべてを察した。
「そこで旦那様の守護者が何か言っているのですね?」
「ええ。ごめんなさい、訳が分からないことを言ってしまって……」
「いいえ。大奥様もよく守護者と喧嘩をなさっていましたから」
昔、ディートリンデも何もないところに向かって罵詈雑言を吐いていた。エマニュエルは思い出し笑いのようにふふふと笑った。
『言ったろう? ディートリンデは怒らせると本当に怖いんだ。リーゼロッテも気をつけた方がいいよ』
完全におもしろがっているジークハルトに、リーゼロッテはジト目を返した。
「守護者は何と言っているのですか?」
「ディートリンデ様は、その、怒らせると怖い方だと……」
リーゼロッテの語尾がどんどん小さくなる。エマニュエルは思わず吹きだした。
「確かにそこにいるのは、旦那様の守護者のようですね」
姑コワイ説が、確定になってしまった。リーゼロッテは八の字眉になって小さく身ぶるいした。いまだ挨拶もしていない未来の嫁に、どんな仕打ちが待っているだろう。
騒ぎの数日後、リーゼロッテはエマニュエルと共に自分の部屋へと戻るために長い廊下を歩いていた。
仮の執務室の準備が整うまで、浄化の訓練はお預け中である。今は泣き虫ジョンに会い行った帰りであった。
ほかにやることといえば、与えられた自室で刺繍にいそしむくらいなので、正直暇を持て余している。エラはエラであちこち引っ張りだこになっているので、領地にいた頃のようにふたりでずっと過ごすわけにもいかなかった。
お供を付ければ屋敷内や庭などは自由に散策していいと言われているが、それに付き合わされる使用人のことを考えると、あまりわがままは言えないでいた。
異世界令嬢生活を続けて早十五年。リーゼロッテはいまだ日本人気質が抜けきらないままだ。
「リーゼロッテ様はもう迷われずに行き来できそうですね」
後ろからついてきていたエマニュエルが微笑みながらリーゼロッテに声をかけた。
屋敷は複雑な構造で、リーゼロッテは一度迷子になりかけた。しかし毎日のように通うジョンがいる裏庭への道のりは、だんだんと覚えてきてはいる。
「確かに、帰りはカークの気配で迷わず進めますわね。でも行きはまだ迷ってしまいそう」
言っているうちに、カークの気配が濃くなっていく。進む先から漂ってくるのは、ふてくされ気味の心持ちだった。
廊下を曲がるとその先にカークが扉の前で立つ姿が見えてきた。相も変わらず扉に額を押し付けて立っている。
「ただいま、カーク。今日の気分はどうかしら?」
リーゼロッテがカークの背中にやさしく声をかけると、エマニュエルが続けて冷ややかに続けた。
「またふてくされて。それでは護衛にならないわ、カーク」
エマニュエルは心底邪魔そうにカークを避けつつ内開きの扉を開けた。立ちはだかるカークの脇をすり抜けて、部屋の中に入っていく。
別にすり抜けなくともカークを突き抜けて通ることはできるのだが、ビジュアル的にためらわれる。しかも、カークを通り抜けるときに、触れた場所から例のふてくされた感情がダイレクトに伝わってくるのだ。どんなに気分爽快な時でも、一瞬でテンション駄々下がりだ。
(三つ子の魂百までってやつかしら? カークの場合、もう何百年も経っているようだけど)
カークは動いたものの、守りたい願望二割、ふてくされ気分八割で感情がぐるぐる巡っているようだった。リーゼロッテも苦笑いしながら、カークの脇をすり抜けて部屋の中へと足を踏み入れた。
小柄なリーゼロッテは難なく通ることができるのだが、けしからんわがままボディの持ち主であるエマニュエルは、どうしても体の一部がかすってしまうらしい。
ちなみにカークが見えないエラは、何事もなく出入りしている。不思議なことにエラが通るとき、カークの輪郭がふわりとぶれる。義弟のルカと同じく無知なる者のエラは、全く異形の干渉を受けていないようだった。
「でもどうしてカークは扉の前に立つのかしら?」
部屋のソファに座りながらリーゼロッテは首をかしげた。横に避けるよう頼んでも、ずっと扉に額を押し付けている。
「旦那様に部屋を守るように言われたものの、カークは護衛の意味が分かってないのかもしれませんね」
エマニュエルの淹れる紅茶の香りがふわりと広がった。
『なんだかまたおもしろいことになってるね』
ふいに隣から声がかかり、リーゼロッテはびくりと真横を見やった。そこにはニコニコと笑うジークハルトがあぐらをかいて宙に浮かんでいた。
「まあ、ハルト様。なんだかお久しぶりですわね」
リーゼロッテが驚きの声を上げると、エマニュエルが怪訝な顔でリーゼロッテを見た。
「リーゼロッテ様? そこに何かいるのですか?」
ジークヴァルトの守護者であるジークハルトは、ジークヴァルトと自分にしか視えない。
その事実を、リーゼロッテはついつい忘れてしまう。透けてはいるものの、それくらいジークハルトの存在はいつでもはっきりとこの目に映っていた。
「ええ、ヴァルト様の守護者がこちらにいらっしゃっていますわ。なぜだかわたくしには視えるようなのです」
「まあ、リーゼロッテ様も!」
目を丸くしたエマニュエルは、心から驚いた様子だった。
「他にも視える方がいらっしゃるのですか?」
「以前、大奥様が大旦那様の守護者とよくお話しされていました。声だけで姿は視えないとのことでしたが」
「大奥様……?」
『ディートリンデのことだね』
「ディートリンデ様?」
「はい、大奥様のディートリンデ様です」
『ヴァルトの母親だよ』
「ヴァルト様のお母様……」
「ええ。近い将来、リーゼロッテ様のお義母様にもなられますね」
『ジークフリートの託宣の相手だから、リーゼロッテにとっては恋敵になるのかな?』
「まあ! 恋敵だなんて……ジークフリート様は、わたくしの初恋の方というだけで、今ではいい思い出ですわ」
「え? ……恋敵? 初恋の方……?」
『むきになるところがあやしいなぁ。ディートリンデは怒らせると怖いんだよ?』
「ええ? そんな!」
「あの……リーゼロッテ様……?」
エマニュエルが訝し気な表情を向けてくる。
エマニュエルにはジークハルトの声は聞こえていない。合間にジークハルトが言葉をはさむので、会話がよくわからないことになっていることにリーゼロッテは気がついた。
「あ、エマ様。ハルト様が……」
おろおろと自分と横の空間を交互に見ているリーゼロッテに、エマニュエルはすべてを察した。
「そこで旦那様の守護者が何か言っているのですね?」
「ええ。ごめんなさい、訳が分からないことを言ってしまって……」
「いいえ。大奥様もよく守護者と喧嘩をなさっていましたから」
昔、ディートリンデも何もないところに向かって罵詈雑言を吐いていた。エマニュエルは思い出し笑いのようにふふふと笑った。
『言ったろう? ディートリンデは怒らせると本当に怖いんだ。リーゼロッテも気をつけた方がいいよ』
完全におもしろがっているジークハルトに、リーゼロッテはジト目を返した。
「守護者は何と言っているのですか?」
「ディートリンデ様は、その、怒らせると怖い方だと……」
リーゼロッテの語尾がどんどん小さくなる。エマニュエルは思わず吹きだした。
「確かにそこにいるのは、旦那様の守護者のようですね」
姑コワイ説が、確定になってしまった。リーゼロッテは八の字眉になって小さく身ぶるいした。いまだ挨拶もしていない未来の嫁に、どんな仕打ちが待っているだろう。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
247
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる