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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
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◇
たのしいピクニックの興奮もようやく冷めてきた数日後の夜、リーゼロッテは自室のベッドで眠りにつこうとしていた。
ピクニックがお開きになったあと、ダーミッシュ領に泊まっていくことを提案されたジークヴァルトは、仕事を理由にあわただしく馬を駆って帰っていった。
ジークヴァルトは本当に忙しい中わざわざ来ていたようだ。翌日には今まで通りに手紙がきたので、体調的には問題ないようだが、リーゼロッテは無理はしないでほしいともう一度手紙にしたためた。
十五歳の誕生日を数日後に控え、今夜は守り石を外して眠る夜だ。ジークハルトの言うことが本当ならば、眠りと共に守護者の力を開放するのは今夜が最後になるだろう。
そうなれば今まで見ていた奇妙な夢も、今後は見なくなるのかもしれない。そう思うと、リーゼロッテは少し寂しい気持ちになった。
王城でジークヴァルトと力の制御の特訓を始めて以来、自分の力を少しだけ扱えるようになった。だが、それと守護者は結びつかない。自分の内にいるはずの守護者の存在を、リーゼロッテは微塵も感じることはできないでいた。
(ハルト様みたいに、わたしの守護者とも会話ができたらいいのに……)
カイや王子に、守護者とは本来そんなものだと言われたが、うまく発現しない力にもどかしさを感じてしまう。リーゼロッテが力を扱えないのは守護者との調和がとれていないせいだと言われれば、そんな思いが強くなるのは無理もなかった。
(誕生日を迎えれば、母様の力も消えて無くなってしまうのかしら……)
ジークハルトはマルグリットの力がリーゼロッテを守っていると言った。リーゼロッテはやはりその力を感じることはできなかったが、ジークヴァルトはその力がリーゼロッテを薄い膜のように包んでいると教えてくれた。
実母であるマルグリットの思い出は、いつも朧気だ。
瞳を閉じると、ベッドで横になった幼い自分にやさしく微笑みかける女性がまぶたに浮かぶ。
ゆるくウェーブのかかった蜂蜜色の長い髪に、翡翠のような深い緑の瞳をした儚げな雰囲気の女性だ。自分の未来予想図のようなこの女性が、記憶の中の母だった。
その母の後ろから手を伸ばし、彼女を抱きしめているのは父親だ。手を離さない父を少し困ったように見上げ、再び自分にやさしい視線を落とす。
母親についてそれ以上の思い出はない。どんな声をしていたとか、どんな会話をしたとか、具体的な記憶は残っていなかった。
リーゼロッテは自分の小さな白い手をぼんやりと見つめた。
異世界に転生して、気づいたときには伯爵令嬢として当たり前のように毎日を過ごしていた。リーゼロッテとして今こうして生きている。
正直なところ、日本での記憶のせいで、今の生活がおとぎ話のように思えることがある。うまく言葉にできない感覚だが、脳内突っ込みを入れていると、リーゼロッテの人生が他人事のように思えてくるのだ。
(こういう感覚って、異世界転生者あるあるなのかしら?)
しかし、リーゼロッテは知っている。この世界は決して夢まぼろしではないことを。
リーゼロッテは目の前の手のひらを、何回か開いたり閉じたりしてみた。
“リーゼロッテ”や“この世界”を俯瞰して、客観的に見てしまう癖はいまだ残っているが、こうやって動かそうと思えばリーゼロッテの体を自分の意思で動かせる。
転べば痛いし、ご馳走を食べればおいしいと思う。幸せな気分にもなるし、嫌だつらいと思うこともたくさんあった。まぎれもなくリーゼロッテは自分であり、この世界に確かに今生きているのだ。
この世界だっておとぎ話などではない。人々が生活を営み、みな懸命に生きている。この世はよろこびにあふれ、時には理不尽なほどかなしく苦しいことだって当たり前のように起こる。
不意にあの声が脳裏によみがえる。母の思い出と違って、その声は鮮明だ。
『お前を捨てていくオレを許してくれ』
それは実父の声だ。少しきつめに見える整った顔をゆがめて、絞り出すようにわたしに告げる。
『オレはあいつしか選べない』
そう言って父は、小さなわたしをきつくきつく、苦しいほどに抱きしめた。
揺れる瞳の色も震える声音もその体の温もりも、この身に消えることなく残っている。
「イグナーツ父様……」
あのとき自分は何と答えたのだろう。
母を思うとき必ずと言っていいほど、対のようにあの時の父親が浮かんでくる。だが、あのあと何があったのか、何一つ覚えていない。
気づけばダーミッシュ家の令嬢として、当たり前のように生活していた。
――愛されている。幸せだ。いまわたしはここに生きている。
そんなとりとめもないことを思いながら、リーゼロッテは眠りについた。
守護者の力があたりを包み、静かに夜が更けていく。
朝になれば、力を使い果たしておなかをすかせたリーゼロッテのために、エラがクッキーを食べさせてくれるだろう。
そんな当たり前の日常も、もうすぐ終わりを告げる。
その夜リーゼロッテは、小さな入り江から大海原に向かって船で旅立つ、そんな壮大な夢を見た。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。無事に十五歳になったわたしは、いよいよ公爵領へ。ジークヴァルト様の元で修行の再開です! 今度こそ異形の浄化をと意気込むものの、思うようにはいかなくて?
次回第23話「泣き虫な異形」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!
たのしいピクニックの興奮もようやく冷めてきた数日後の夜、リーゼロッテは自室のベッドで眠りにつこうとしていた。
ピクニックがお開きになったあと、ダーミッシュ領に泊まっていくことを提案されたジークヴァルトは、仕事を理由にあわただしく馬を駆って帰っていった。
ジークヴァルトは本当に忙しい中わざわざ来ていたようだ。翌日には今まで通りに手紙がきたので、体調的には問題ないようだが、リーゼロッテは無理はしないでほしいともう一度手紙にしたためた。
十五歳の誕生日を数日後に控え、今夜は守り石を外して眠る夜だ。ジークハルトの言うことが本当ならば、眠りと共に守護者の力を開放するのは今夜が最後になるだろう。
そうなれば今まで見ていた奇妙な夢も、今後は見なくなるのかもしれない。そう思うと、リーゼロッテは少し寂しい気持ちになった。
王城でジークヴァルトと力の制御の特訓を始めて以来、自分の力を少しだけ扱えるようになった。だが、それと守護者は結びつかない。自分の内にいるはずの守護者の存在を、リーゼロッテは微塵も感じることはできないでいた。
(ハルト様みたいに、わたしの守護者とも会話ができたらいいのに……)
カイや王子に、守護者とは本来そんなものだと言われたが、うまく発現しない力にもどかしさを感じてしまう。リーゼロッテが力を扱えないのは守護者との調和がとれていないせいだと言われれば、そんな思いが強くなるのは無理もなかった。
(誕生日を迎えれば、母様の力も消えて無くなってしまうのかしら……)
ジークハルトはマルグリットの力がリーゼロッテを守っていると言った。リーゼロッテはやはりその力を感じることはできなかったが、ジークヴァルトはその力がリーゼロッテを薄い膜のように包んでいると教えてくれた。
実母であるマルグリットの思い出は、いつも朧気だ。
瞳を閉じると、ベッドで横になった幼い自分にやさしく微笑みかける女性がまぶたに浮かぶ。
ゆるくウェーブのかかった蜂蜜色の長い髪に、翡翠のような深い緑の瞳をした儚げな雰囲気の女性だ。自分の未来予想図のようなこの女性が、記憶の中の母だった。
その母の後ろから手を伸ばし、彼女を抱きしめているのは父親だ。手を離さない父を少し困ったように見上げ、再び自分にやさしい視線を落とす。
母親についてそれ以上の思い出はない。どんな声をしていたとか、どんな会話をしたとか、具体的な記憶は残っていなかった。
リーゼロッテは自分の小さな白い手をぼんやりと見つめた。
異世界に転生して、気づいたときには伯爵令嬢として当たり前のように毎日を過ごしていた。リーゼロッテとして今こうして生きている。
正直なところ、日本での記憶のせいで、今の生活がおとぎ話のように思えることがある。うまく言葉にできない感覚だが、脳内突っ込みを入れていると、リーゼロッテの人生が他人事のように思えてくるのだ。
(こういう感覚って、異世界転生者あるあるなのかしら?)
しかし、リーゼロッテは知っている。この世界は決して夢まぼろしではないことを。
リーゼロッテは目の前の手のひらを、何回か開いたり閉じたりしてみた。
“リーゼロッテ”や“この世界”を俯瞰して、客観的に見てしまう癖はいまだ残っているが、こうやって動かそうと思えばリーゼロッテの体を自分の意思で動かせる。
転べば痛いし、ご馳走を食べればおいしいと思う。幸せな気分にもなるし、嫌だつらいと思うこともたくさんあった。まぎれもなくリーゼロッテは自分であり、この世界に確かに今生きているのだ。
この世界だっておとぎ話などではない。人々が生活を営み、みな懸命に生きている。この世はよろこびにあふれ、時には理不尽なほどかなしく苦しいことだって当たり前のように起こる。
不意にあの声が脳裏によみがえる。母の思い出と違って、その声は鮮明だ。
『お前を捨てていくオレを許してくれ』
それは実父の声だ。少しきつめに見える整った顔をゆがめて、絞り出すようにわたしに告げる。
『オレはあいつしか選べない』
そう言って父は、小さなわたしをきつくきつく、苦しいほどに抱きしめた。
揺れる瞳の色も震える声音もその体の温もりも、この身に消えることなく残っている。
「イグナーツ父様……」
あのとき自分は何と答えたのだろう。
母を思うとき必ずと言っていいほど、対のようにあの時の父親が浮かんでくる。だが、あのあと何があったのか、何一つ覚えていない。
気づけばダーミッシュ家の令嬢として、当たり前のように生活していた。
――愛されている。幸せだ。いまわたしはここに生きている。
そんなとりとめもないことを思いながら、リーゼロッテは眠りについた。
守護者の力があたりを包み、静かに夜が更けていく。
朝になれば、力を使い果たしておなかをすかせたリーゼロッテのために、エラがクッキーを食べさせてくれるだろう。
そんな当たり前の日常も、もうすぐ終わりを告げる。
その夜リーゼロッテは、小さな入り江から大海原に向かって船で旅立つ、そんな壮大な夢を見た。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。無事に十五歳になったわたしは、いよいよ公爵領へ。ジークヴァルト様の元で修行の再開です! 今度こそ異形の浄化をと意気込むものの、思うようにはいかなくて?
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