98 / 506
第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
第18話 愛しい人へ
しおりを挟む
「ねえ、エラ」
移動中の馬車の中で、リーゼロッテは向かいに座るエラに声をかけた。
公爵家の馬車は揺れも少なく、座り心地がとてもよかった。お茶会へ行くときにリーゼロッテは睡眠薬を飲んで眠っていたので、他と比べようもなかったが、馬車の中は思った以上に快適だった。
窓から外を見ると、馬に乗ったアデライーデが、馬車の横を並走している。ふと目が合うと、アデライーデはリーゼロッテに艶やかな視線をよこしてきた。
頬を赤らめながらエラに向き直ると、リーゼロッテは意を決したようにエラに尋ねた。
「ねえ、エラ。わたくし、子供のころから公爵家へお手紙を書いていたでしょう?」
「はい、わたしがお屋敷に奉公にあがった時には、もう何年もお書きになっていたようでした」
リーゼロッテの問いに、エラは頷いて答えた。エラがダーミッシュ家にやってきたのは、リーゼロッテが十歳の時だった。
「それがどうかなさいましたか?」
不思議そうにエラが聞くと、リーゼロッテは深刻そうな表情をした。
「わたくし……公爵家のどなたとお手紙を交換していたのかしら?」
エラは聞かれた意味がわからず、「公爵様だと伺っておりますが」と首をかしげた。
「その公爵様は、ジークフリート様? それともジークヴァルト様?」
リーゼロッテがそう聞き返すと、エラはぱちぱちと瞬きしながら答えた。
「ジークヴァルト様かと」
「初めから? 今の今まで?」
「はい、そのように聞いております」
エラが伯爵家に来る以前のことは定かではないが、エラがリーゼロッテの侍女となったとき、すでにリーゼロッテは公爵家からの手紙を心待ちにしている状態だった。
家令のダニエルからは、その手紙の主は、婚約者である公爵家の跡取りだと教えられた。
「でも、ようございました。あんなに公爵様からのお手紙を心待ちにされていたお嬢様が、公爵様が爵位をお継ぎになったとたん怖がるようになられて、ずっと心配しておりましたから」
それは手のひらを返すかのようだった。贈り物はおろか、喜んでいた手紙まで見たくもないとおびえるリーゼロッテに、エラはずっと心を痛めていた。
公爵が爵位を継いで結婚に現実味が増し、怖くなったのだとエラは思っていたのだが。最近のリーゼロッテの様子を見て、エラはすっかり安心していた。
エラはいまだ公爵の威圧感に恐怖を感じるが、リーゼロッテがやさしい人だと笑顔を見せるようになったので、急な王城滞在も悪いものではなかったとエラは思っていた。
慣れない王城で、エラはリーゼロッテを守るのに必死だった。王城勤めの使用人たちにうまく取り入り、情報を引き出して、リーゼロッテの味方になりそうな相手とはできる限り親しくふるまった。
おかげでそれなりに親しい相手ができ、夕べは世話になった人たちへの挨拶や、帰郷の準備で走り回っていたエラであった。
ようやくお屋敷に帰れることになって安堵していたエラだったが、目の前で顔色を悪くしている自分の主を見て、その顔を曇らせた。
「リーゼロッテお嬢様、馬車に酔われましたか?休憩をいれてもらいましょうか?」
心配顔のエラの言葉にリーゼはかぶりを振った。
「いいえ、大丈夫よ。ちょっと驚いたことがあっただけなの」
リーゼロッテはそのまま黙り込んだ。
(本当に文通相手がジークヴァルト様だったなんて……)
リーゼロッテは、その事実に打ちひしがれていた。なにしろ、ジークフリート宛だと思って書いていた手紙には、今思うととても恥ずかしいことを書いていたのだから。
幼少期、よく転ぶリーゼロッテは、マナー講師としてある夫人にいろいろと教えてもらっていた。転ばない歩き方から、こぼさない紅茶の飲み方、日常生活を安心安全に過ごせる立ち居振る舞いを教わった。
その中には手紙の書き方なども入っていて、リーゼロッテはその夫人に「愛する方へ送る手紙のしたため方」を享受してもらった。
教えてもらった手紙の書き出しはこうである。
《愛しい人へ》もしくは《わたくしのあなたへ》
ちなみに手紙の結びは、《わたくしはあなただけのもの》であった。
(子供になんてこと教えるのよ、ロッテンマイヤーさん)
ロッテンマイヤー呼びは脳内のみのものだった。夫人の長い名前が覚えられなかったからだ。
子供の頃も日本での知識はもちろんあったが、異世界の文字や言い回しは年相応に覚えたてだった。当時は意味もよくわからず、拝啓や前略、草々、かしこ的な扱いで、それなりの年齢になっても、もはやテンプレートのようにその書き出しと結びを手紙に書いていた。
そんな内容の手紙をジークヴァルトのもとへ、何通も 何通も 何通も 届けていたのだ。
文字を覚えたての当時ジークフリートの綴りがわからず、適当にあなたでごまかしていたのがいけなかった。返事の手紙の署名は例のごとく『S.Hugenberg』で、ジークフリートでもジークヴァルトでも、どちらともとれるのも原因だ。
なぜ、フルネームで署名しないのかと、リーゼロッテはジークヴァルトに逆恨みに近い感情を抱いた。ジークヴァルトの事だから、どうせ面倒くさいなどの理由だろう。
ジークヴァルトが公爵位を継いでからは、社交辞令オンリーな手紙しか送っていないが、二年前以前は、会えない婚約者にあてた恋文のような内容だったはずだ。
(恥ずかしすぎる……!)
あのジークヴァルトにむかって、わたくしのあなただの、どうして言えようか。
リーゼロッテは頭を掻きむしって、そこらじゅうをごろごろと転げまわりたい心境に駆られていた。
淑女としてそんな振る舞いはできようもなく、リーゼロッテは脳内で悶絶しつつ、住み慣れた屋敷へと到着したのであった。
移動中の馬車の中で、リーゼロッテは向かいに座るエラに声をかけた。
公爵家の馬車は揺れも少なく、座り心地がとてもよかった。お茶会へ行くときにリーゼロッテは睡眠薬を飲んで眠っていたので、他と比べようもなかったが、馬車の中は思った以上に快適だった。
窓から外を見ると、馬に乗ったアデライーデが、馬車の横を並走している。ふと目が合うと、アデライーデはリーゼロッテに艶やかな視線をよこしてきた。
頬を赤らめながらエラに向き直ると、リーゼロッテは意を決したようにエラに尋ねた。
「ねえ、エラ。わたくし、子供のころから公爵家へお手紙を書いていたでしょう?」
「はい、わたしがお屋敷に奉公にあがった時には、もう何年もお書きになっていたようでした」
リーゼロッテの問いに、エラは頷いて答えた。エラがダーミッシュ家にやってきたのは、リーゼロッテが十歳の時だった。
「それがどうかなさいましたか?」
不思議そうにエラが聞くと、リーゼロッテは深刻そうな表情をした。
「わたくし……公爵家のどなたとお手紙を交換していたのかしら?」
エラは聞かれた意味がわからず、「公爵様だと伺っておりますが」と首をかしげた。
「その公爵様は、ジークフリート様? それともジークヴァルト様?」
リーゼロッテがそう聞き返すと、エラはぱちぱちと瞬きしながら答えた。
「ジークヴァルト様かと」
「初めから? 今の今まで?」
「はい、そのように聞いております」
エラが伯爵家に来る以前のことは定かではないが、エラがリーゼロッテの侍女となったとき、すでにリーゼロッテは公爵家からの手紙を心待ちにしている状態だった。
家令のダニエルからは、その手紙の主は、婚約者である公爵家の跡取りだと教えられた。
「でも、ようございました。あんなに公爵様からのお手紙を心待ちにされていたお嬢様が、公爵様が爵位をお継ぎになったとたん怖がるようになられて、ずっと心配しておりましたから」
それは手のひらを返すかのようだった。贈り物はおろか、喜んでいた手紙まで見たくもないとおびえるリーゼロッテに、エラはずっと心を痛めていた。
公爵が爵位を継いで結婚に現実味が増し、怖くなったのだとエラは思っていたのだが。最近のリーゼロッテの様子を見て、エラはすっかり安心していた。
エラはいまだ公爵の威圧感に恐怖を感じるが、リーゼロッテがやさしい人だと笑顔を見せるようになったので、急な王城滞在も悪いものではなかったとエラは思っていた。
慣れない王城で、エラはリーゼロッテを守るのに必死だった。王城勤めの使用人たちにうまく取り入り、情報を引き出して、リーゼロッテの味方になりそうな相手とはできる限り親しくふるまった。
おかげでそれなりに親しい相手ができ、夕べは世話になった人たちへの挨拶や、帰郷の準備で走り回っていたエラであった。
ようやくお屋敷に帰れることになって安堵していたエラだったが、目の前で顔色を悪くしている自分の主を見て、その顔を曇らせた。
「リーゼロッテお嬢様、馬車に酔われましたか?休憩をいれてもらいましょうか?」
心配顔のエラの言葉にリーゼはかぶりを振った。
「いいえ、大丈夫よ。ちょっと驚いたことがあっただけなの」
リーゼロッテはそのまま黙り込んだ。
(本当に文通相手がジークヴァルト様だったなんて……)
リーゼロッテは、その事実に打ちひしがれていた。なにしろ、ジークフリート宛だと思って書いていた手紙には、今思うととても恥ずかしいことを書いていたのだから。
幼少期、よく転ぶリーゼロッテは、マナー講師としてある夫人にいろいろと教えてもらっていた。転ばない歩き方から、こぼさない紅茶の飲み方、日常生活を安心安全に過ごせる立ち居振る舞いを教わった。
その中には手紙の書き方なども入っていて、リーゼロッテはその夫人に「愛する方へ送る手紙のしたため方」を享受してもらった。
教えてもらった手紙の書き出しはこうである。
《愛しい人へ》もしくは《わたくしのあなたへ》
ちなみに手紙の結びは、《わたくしはあなただけのもの》であった。
(子供になんてこと教えるのよ、ロッテンマイヤーさん)
ロッテンマイヤー呼びは脳内のみのものだった。夫人の長い名前が覚えられなかったからだ。
子供の頃も日本での知識はもちろんあったが、異世界の文字や言い回しは年相応に覚えたてだった。当時は意味もよくわからず、拝啓や前略、草々、かしこ的な扱いで、それなりの年齢になっても、もはやテンプレートのようにその書き出しと結びを手紙に書いていた。
そんな内容の手紙をジークヴァルトのもとへ、何通も 何通も 何通も 届けていたのだ。
文字を覚えたての当時ジークフリートの綴りがわからず、適当にあなたでごまかしていたのがいけなかった。返事の手紙の署名は例のごとく『S.Hugenberg』で、ジークフリートでもジークヴァルトでも、どちらともとれるのも原因だ。
なぜ、フルネームで署名しないのかと、リーゼロッテはジークヴァルトに逆恨みに近い感情を抱いた。ジークヴァルトの事だから、どうせ面倒くさいなどの理由だろう。
ジークヴァルトが公爵位を継いでからは、社交辞令オンリーな手紙しか送っていないが、二年前以前は、会えない婚約者にあてた恋文のような内容だったはずだ。
(恥ずかしすぎる……!)
あのジークヴァルトにむかって、わたくしのあなただの、どうして言えようか。
リーゼロッテは頭を掻きむしって、そこらじゅうをごろごろと転げまわりたい心境に駆られていた。
淑女としてそんな振る舞いはできようもなく、リーゼロッテは脳内で悶絶しつつ、住み慣れた屋敷へと到着したのであった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
247
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる