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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣

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     ◇
 夕刻に王妃に謁見しに離宮を訪れたカイは、顔を見た瞬間、イジドーラ王妃の様子がいつもと違うことに気がついた。

「イジドーラ様? 何かあったんですか?」

 王妃はカイを一瞥したあと、たたんだ扇を口元に置いたまま、不満そうな表情で目をそらした。

「王と喧嘩でもしたんですか? ……そんな拗ねた顔をして」
 カイがそう問いかけると、イジドーラは横目でカイを見やった。

「フーゲンベルクの眠り姫が呼び戻されたのよ」
そう言って、納得がいかないという風に、王妃は薄い水色の瞳をすがめてみせた。

「フーゲンベルクの眠り姫……? アデライーデ様、ですか?」

 カイはここ数年会っていない、隻眼せきがんの美しい令嬢を思い浮かべる。

「……バルバナス様がよく許しましたね」

 イジドーラが何を不満に思っているか分かっていながら、カイは別のことを口にした。

 バルバナスはディートリヒ王の実兄だ。王兄であり、大公と言う地位にありながら、公務もそこそこに辺境の地でわりと気ままに過ごしている自由人だ。

 根っからの武人で、国の騎士団の頂点に立つ立場でもあり、脳筋の騎士たちにはことさら人気が高い。女だてら騎士として働くアデライーデも、そんなバルバナスを慕って彼の元で任務に就いているとカイは聞いていた。

「バルバナス様も本当に使えないお方だこと」
 イジドーラは珍しく苛立ちを含んだ声で言った。

「呼び戻されたって……それは王の命ですか? だとしたらさすがのバルバナス様も嫌だとは言えませんよ」
 カイは大げさに肩をすくめて見せた。

「……まあ、いいわ」
 扇を広げると王妃は囁くように言った。

「王は眠り姫をジークヴァルトの小鳥につける気でいるわ」
「あー、なるほど……妥当と言えば妥当なんじゃないですか?」

 むしろ、いずれフーゲンベルク家に嫁ぐ彼女のお目付け役としては、アデライーデほどの適任者はいないだろう。リーゼロッテの今の状態を慮るに、そこに突っ込みを入れる余地は見当たらない。

「これは諦める他なさそうですよ? イジドーラ様」

 カイがそう言うと、子供のように拗ねた顔をしたあと、王妃はつんと顔をそらした。

「そんなかわいい顔しても、王を喜ばせるだけですよ」

 何枚も上手なディートリヒ王に、イジドーラはこれからどう出るのか。カイは予想もできない展開を期待している自分に、ろくでもないな、と我がことながらあきれていた。

     ◇
 王妃の離宮を出て足早に王城の廊下を進んでいたカイは、廊下の向こう側から幽霊のような顔をした令嬢がひとり歩いてくるのが目に入った。
 そこそこ遅い時間だ。訝し気に近づくと、それがアンネマリーであることにカイは気がついた。

「アンネマリー嬢?」

 いつもの彼女では考えられないような弱々しい姿に、カイは目を見張った。ただ事ではないと感じ、人目につかない廊下の先へと彼女をいざなった。

「カイ様……?」
 生気のない瞳でカイの姿を認めると、その直後アンネマリーは大粒の涙をこぼし始めた。

(ああ、これは……ハインリヒ様がらみだな)

 そう思うと、先ほど王妃から聞いた話を思い出し、そういうことかと納得がいった。まさにイジドーラが恐れていた展開だ。

(……王もひどいことをする)
――王子がどんな選択をするかなんて、王には分かっていただろうに。

(それにしても……ハインリヒ様も、もう少しうまくやればいいものを……)

 王子の愚直なまでの真面目さは、一周回って尊敬に値する。自分では逆立ちしても真似できそうになかった。
 嗚咽をこらえるアンネマリーを前に、カイはどうしたものかと思案した。

「カイ様」

 震える声で名を呼ぶと、アンネマリーはハインリヒの懐中時計を差し出した。こんなときでも気丈に振るまおうとする姿が彼女らしいとカイは目を細めた。

「こちらを……王子殿下にお返しして頂けませんか?」

 傷ついて弱くなっている令嬢につけこむなど、カイにとってはお手の物だったが、今はどうしてかそんな気分になれなかった。
 なんだかんだいっても自分は、あの不器用でクソ真面目な心優しい王子のことを気に入っているのだ。イジドーラのことを抜きにしても、そう認めざるを得ないと、カイは自嘲気味に笑った。

「アンネマリー嬢……オレが言うべきことではないと思うけど……ハインリヒ様のこと、信じてやってもらえないかな?」

 そう言ってカイは、差し出された手を時計ごと自身の両手で包み込み、懐中時計をアンネマリーに握らせた。

「大丈夫だから……これはこのまま君が持っていて」
「ですが、わたくしは……」

 カイの言葉に、アンネマリーの瞳が動揺に揺れる。あの時の凍るようなハインリヒの瞳を思い出し、水色の瞳から、再び涙がこぼれ落ちた。

(ああ……なんて綺麗なんだ)

 その涙が自分のためでないことを、カイは少し残念に思った。もしも彼女の全てが自分のものだったなら。
 もっと滅茶苦茶にできるのに――

 カイはその目じりに口づけたいのを我慢して、人目につかないよう、アンネマリーを王妃の離宮へと送っていった。
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