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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
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◇
護衛をつけない状態でハインリヒは、行くあてもなく王城内を彷徨っていた。通常ではあり得なかったが、それだけ冷静さを欠いた状態だった。
あわただしく行きかう城仕えの者たちの合間を縫って、ハインリヒは歩を進める。
王太子がひとりでふらふら出歩いているなどと誰もが思わなかったせいか、すれ違ったほとんどの人間がハインリヒの存在に気づくことはなかった。
ふと気づくと、王城の最奥、王族以外は立ち入ることが許されない、いつもの場所にたどり着いていた。風がそよと吹き、木々が揺れる音以外、あたりは静寂に包まれている。
――そこへ、行ってはいけない。
そう思うのに、ハインリヒは歩みを止めることはできなかった。
茂みの奥から、鈴を転がすような楽し気な声が聞こえた。ずっと会いたくて、だが、今、いちばん会ってはいけない彼女の声だ。
「や、ダメよ殿下。すり寄ってこないでちょうだい。あなたに触れるとハインリヒ様に怒られてしまうわ」
愛おしい彼女の声がする。ずっと聞いていたい。ずっとそばにいたい。
「きゃっ、ダメだったら殿下! もう、胸に飛び込まないで」
かさりと音を立ててハインリヒがその場にたどり着いたとき、猫の殿下をそのやわらかそうな胸に抱いている彼女がそこにいた。風に揺れる木漏れ日が、まぶしくアンネマリーを包んでいる。
ハインリヒに気がつくと、アンネマリーは輝くような笑顔を真っ直ぐに向けた。
「ハインリヒ様!」
そう言った後、触れないよう約束した猫の殿下を腕に抱いていることを思い出し、アンネマリーはばつの悪そうな顔をした。
「あのこれは、殿下から自分で……」
ハインリヒならきっと笑って許してくれる。ハインリヒが時折見せるやさしい苦笑いの表情が、アンネマリーはとても好きだった。
ハインリヒはそんなアンネマリーを前にして、心のままに手を伸ばしたくなる。だが、もう許されない。いや、初めから許されるはずなどなかったのだ。
爪が食い込むほどにハインリヒは自身の手を握りしめた。
「……いでくれ」
うつむいたまま、ハインリヒは低い声で言った。
「え?」
アンネマリーは、ハインリヒの顔に、表情が全くないことに戸惑いを感じた。
「クラッセン侯爵令嬢、わたしの目の前に、二度とその姿を見せないでくれ」
目を合わすことなく、ハインリヒの冷たく平坦な声が響く。
「え……?」
アンネマリーの顔から色が無くなる。何を言われたのか、理解ができなかった。
歩がひとりでに前に出て、アンネマリーはハインリヒに近づいた。気づくと、その表情の消された蒼白な顔に、そっと手を伸ばしていた。
「触れるなっ!」
鋭く大きな声に、アンネマリーはびくりと身を震わせた。
「ハイン……リヒ、様……?」
信じられないものを見つめるように、アンネマリーがハインリヒの顔を凝視する。伸ばそうとした指先が宙をさまよい、殿下を抱く腕に力が入った。
その視線を受けたハインリヒは一度ぎゅっと目をつぶって再び目を開けた。宙を睨み、さげすむような表情をつくってから、ゆっくりとアンネマリーへとその顔を向けていく。
「その名を呼ぶことも禁ずる。不愉快だ」
氷のような表情で言い放つと、ハインリヒは踵を返した。振り返りもせずその場を去っていく。
ぶな、と鳴いた後、アンネマリーの腕から猫の殿下が飛び降りて、ハインリヒを追うように走っていった。
残されたアンネマリーは、茫然としてその場に立ちつくす。木漏れ日が、ただ静かに、殿下の庭に揺れていた。
冷たくなってきた風が横をすり抜けるように吹いていく。どれくらいそうしていたのだろう。気づくと、夕日がアンネマリーのその身を照らしていた。
(帰らなくちゃ……)
――でも、どこに?
アンネマリーはなぜ今ここに、自分がいるのかわからなかった。
それでもふらりと歩き出す。
ここにいてはいけない。また、王子殿下の不興をかってしまうから。
そうだ。自分は王子との約束を守らなかったのだ。猫に触れてはいけないと、初めに約束をしていたのに――
(自業自得……なのだわ)
アンネマリーはどこをどう歩いているのかもわからないまま、ただ重い足で歩き続けた。
護衛をつけない状態でハインリヒは、行くあてもなく王城内を彷徨っていた。通常ではあり得なかったが、それだけ冷静さを欠いた状態だった。
あわただしく行きかう城仕えの者たちの合間を縫って、ハインリヒは歩を進める。
王太子がひとりでふらふら出歩いているなどと誰もが思わなかったせいか、すれ違ったほとんどの人間がハインリヒの存在に気づくことはなかった。
ふと気づくと、王城の最奥、王族以外は立ち入ることが許されない、いつもの場所にたどり着いていた。風がそよと吹き、木々が揺れる音以外、あたりは静寂に包まれている。
――そこへ、行ってはいけない。
そう思うのに、ハインリヒは歩みを止めることはできなかった。
茂みの奥から、鈴を転がすような楽し気な声が聞こえた。ずっと会いたくて、だが、今、いちばん会ってはいけない彼女の声だ。
「や、ダメよ殿下。すり寄ってこないでちょうだい。あなたに触れるとハインリヒ様に怒られてしまうわ」
愛おしい彼女の声がする。ずっと聞いていたい。ずっとそばにいたい。
「きゃっ、ダメだったら殿下! もう、胸に飛び込まないで」
かさりと音を立ててハインリヒがその場にたどり着いたとき、猫の殿下をそのやわらかそうな胸に抱いている彼女がそこにいた。風に揺れる木漏れ日が、まぶしくアンネマリーを包んでいる。
ハインリヒに気がつくと、アンネマリーは輝くような笑顔を真っ直ぐに向けた。
「ハインリヒ様!」
そう言った後、触れないよう約束した猫の殿下を腕に抱いていることを思い出し、アンネマリーはばつの悪そうな顔をした。
「あのこれは、殿下から自分で……」
ハインリヒならきっと笑って許してくれる。ハインリヒが時折見せるやさしい苦笑いの表情が、アンネマリーはとても好きだった。
ハインリヒはそんなアンネマリーを前にして、心のままに手を伸ばしたくなる。だが、もう許されない。いや、初めから許されるはずなどなかったのだ。
爪が食い込むほどにハインリヒは自身の手を握りしめた。
「……いでくれ」
うつむいたまま、ハインリヒは低い声で言った。
「え?」
アンネマリーは、ハインリヒの顔に、表情が全くないことに戸惑いを感じた。
「クラッセン侯爵令嬢、わたしの目の前に、二度とその姿を見せないでくれ」
目を合わすことなく、ハインリヒの冷たく平坦な声が響く。
「え……?」
アンネマリーの顔から色が無くなる。何を言われたのか、理解ができなかった。
歩がひとりでに前に出て、アンネマリーはハインリヒに近づいた。気づくと、その表情の消された蒼白な顔に、そっと手を伸ばしていた。
「触れるなっ!」
鋭く大きな声に、アンネマリーはびくりと身を震わせた。
「ハイン……リヒ、様……?」
信じられないものを見つめるように、アンネマリーがハインリヒの顔を凝視する。伸ばそうとした指先が宙をさまよい、殿下を抱く腕に力が入った。
その視線を受けたハインリヒは一度ぎゅっと目をつぶって再び目を開けた。宙を睨み、さげすむような表情をつくってから、ゆっくりとアンネマリーへとその顔を向けていく。
「その名を呼ぶことも禁ずる。不愉快だ」
氷のような表情で言い放つと、ハインリヒは踵を返した。振り返りもせずその場を去っていく。
ぶな、と鳴いた後、アンネマリーの腕から猫の殿下が飛び降りて、ハインリヒを追うように走っていった。
残されたアンネマリーは、茫然としてその場に立ちつくす。木漏れ日が、ただ静かに、殿下の庭に揺れていた。
冷たくなってきた風が横をすり抜けるように吹いていく。どれくらいそうしていたのだろう。気づくと、夕日がアンネマリーのその身を照らしていた。
(帰らなくちゃ……)
――でも、どこに?
アンネマリーはなぜ今ここに、自分がいるのかわからなかった。
それでもふらりと歩き出す。
ここにいてはいけない。また、王子殿下の不興をかってしまうから。
そうだ。自分は王子との約束を守らなかったのだ。猫に触れてはいけないと、初めに約束をしていたのに――
(自業自得……なのだわ)
アンネマリーはどこをどう歩いているのかもわからないまま、ただ重い足で歩き続けた。
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