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第1章 ふたつ名の令嬢と龍の託宣
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あぐらをかいたハインリヒの膝の上で、長毛の猫がだらしなくおなかを上に向けて寝そべっている。顔を上げた毛まみれのハインリヒが、笑顔のまま固まった。
ぶな~と、およそ猫らしくない鳴き声が聞こえるまで、ふたりは長いこと、無言で見つめ合っていた。
王子を見下ろしていることに気づいたアンネマリーは、我に返り、あわてて膝をついて頭を垂れた。
「申し訳ございません! ピッパ様をお探しておりましたところ路に迷ってしまって」
言い訳にしかならないが、アンネマリーは必死に訴えた。いくら嫌っていても、一国の王子を目の前にして、不敬を働くわけにはいかなかった。
「ああ……あの子はまた抜け出したんだね……仕方のない子だ」
やわらかい声が落ちる。
「いいよ。顔を上げて」
自分に向けられたその声は思いのほかやさしく、自分の思っていた王子とは違ったことに、アンネマリーは驚きを隠せなかった。リーゼロッテが、王子殿下はよく笑う方だったと言っていたのを思い出す。
「君は確か、クラッセン侯爵令嬢だったね。義母上が無理を言ったようだ。すまない」
ハインリヒは、彼女が茶会で自分に興味なさげにしていた令嬢の一人であることに気づいた。
リーゼロッテを心配して王城にひとり残ったことも、王妃に妹姫の話し相手を命ぜられたことも、カイから報告を受けている。彼女なら、むげに追い払うようなことをしなくても大丈夫だろう。
「君はリーゼロッテ嬢の従姉だそうだね。……彼女は少し難しい案件で悩んでいる。心配かもしれないが、今しばらくこちらにまかせてくれないか?」
「え? あ、はい……もちろんです」
突然のことで、言葉がうまく出てこない。アンネマリーは、自分がハインリヒの紫の瞳をじっと見つめたままでいることにも気がつかなかった。
「あと、この姿を見たことは、秘密にしてくれると助かるのだが」
肩をすくめておどけたようにハインリヒは言った。毛まみれで猫にデレデレしていたハインリヒに、王太子の威厳は皆無であった。
「ふ、ふふ……わかりましたわ。わたくし、何も見ていませんわ。王太子殿下が、大きな猫と楽しそうに戯れていただなんて」
アンネマリーは、こらえきれず笑ってしまった。なんとなく、その猫に触れてみたくなる。お腹がぽよぽよしていて触ると気持ちがよさそうだ。
「あの、その猫に触れても?」
そう言うと、王子は笑顔から一転、渋面を作った。
「いや……殿下は少し気難しいんだ。慣れていない人間が触ろうとすると、引っかかれるかもしれない」
「殿下が……引っかく……?」
そう聞き返されて、ハインリヒはしまったというような顔をした。
「あ、いや、殿下、というのは……この猫の名だ」
「猫の名、でございますか?」
きょとんとして、アンネマリーが首をかしげる。ハインリヒは一瞬黙って、観念したように続けた。
「ああ、子供の頃にこの猫がやってきたのだが……。いつも、周りのみなが自分のことを“殿下” “殿下”と呼ぶものだから、その、何というか、自分も誰かを“殿下”と呼んでみたかったのだ。だからこの猫の名を殿下にした」
ちょっとやけくそのように言って、ハインリヒはそっぽを向いた。耳が赤くなっている。耐えきれなくなって、アンネマリーは庭にしゃがみこんだままお腹を抱えて笑ってしまった。
「王子殿下の殿下は、殿下以上に殿下らしいですわね」
ふてぶてしい態度で仰向けたまま、猫の殿下は狸のような太いしっぽを、ゆらゆらと左右に揺らしている。
「殿下がいっぱいでややこしいな。ここに来た時は、わたしのことはハインリヒと。そう呼んでくれないか?」
アメジストのような紫の瞳にまっすぐ見つめられ、アンネマリーの頬が朱に染まった。
「またここに来ることを……お許しいただけるのですか?」
ハインリヒは、ゆっくりとうなずいた。
「ただし、約束してほしいことがニつだけある」
殿下のお腹をなでながら、ハインリヒは一度視線を下に落とした。
「猫の殿下と、このわたしには、何があっても決して触れぬこと。……約束してくれるか?」
真剣な目で見つめられ、アンネマリーは是の答えしか返せなくなる。
「はい。決して触れないとお約束いたします。でも……」
今度は、アンネマリーが水色の瞳を伏せ、再びハインリヒを見つめた。
「お約束はふたつだけでよろしいのですか? あとひとつ……今日見たことを、わたくし、誰かにしゃべってしまうかもしれませんわ」
「ではこの秘密は、ふたりだけのものに」
これも約束だ、とハインリヒが柔らかい表情で言った。
「はい、ハインリヒ様」
どちらからともなくくすりと笑い、ふたりは猫の殿下が邪魔をするまで、しばらく見つめ合ったままでいた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ヴァルト様に力の謎を解いてもらうべく王城生活を続けていたけれど。いつの間にか、近衛の騎士様たちの噂の的になっていて⁉︎ ヴァルト様、恥ずかしいので抱っこするのはやめてください!
次回、第10話「囚われの妖精」 わたしのチート、探してプリーズ!!
ぶな~と、およそ猫らしくない鳴き声が聞こえるまで、ふたりは長いこと、無言で見つめ合っていた。
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言い訳にしかならないが、アンネマリーは必死に訴えた。いくら嫌っていても、一国の王子を目の前にして、不敬を働くわけにはいかなかった。
「ああ……あの子はまた抜け出したんだね……仕方のない子だ」
やわらかい声が落ちる。
「いいよ。顔を上げて」
自分に向けられたその声は思いのほかやさしく、自分の思っていた王子とは違ったことに、アンネマリーは驚きを隠せなかった。リーゼロッテが、王子殿下はよく笑う方だったと言っていたのを思い出す。
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ハインリヒは、彼女が茶会で自分に興味なさげにしていた令嬢の一人であることに気づいた。
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「君はリーゼロッテ嬢の従姉だそうだね。……彼女は少し難しい案件で悩んでいる。心配かもしれないが、今しばらくこちらにまかせてくれないか?」
「え? あ、はい……もちろんです」
突然のことで、言葉がうまく出てこない。アンネマリーは、自分がハインリヒの紫の瞳をじっと見つめたままでいることにも気がつかなかった。
「あと、この姿を見たことは、秘密にしてくれると助かるのだが」
肩をすくめておどけたようにハインリヒは言った。毛まみれで猫にデレデレしていたハインリヒに、王太子の威厳は皆無であった。
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「殿下がいっぱいでややこしいな。ここに来た時は、わたしのことはハインリヒと。そう呼んでくれないか?」
アメジストのような紫の瞳にまっすぐ見つめられ、アンネマリーの頬が朱に染まった。
「またここに来ることを……お許しいただけるのですか?」
ハインリヒは、ゆっくりとうなずいた。
「ただし、約束してほしいことがニつだけある」
殿下のお腹をなでながら、ハインリヒは一度視線を下に落とした。
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※小説家になろうグループムーンライトノベルズにて【R18】ふたつ名の令嬢と龍の託宣 不定期投稿中☆
第6章 嘘つきな騎士と破られた託宣 スタートました♡
※アルファポリス版は第1部令嬢編として一度完結としましたが、ムーンでは第6章を継続投稿中です。
こちらはR18ですので、18歳以上(高校生不可)の方のみ閲覧できます。
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