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奥さまが身重な狼男のガルムさん、優しい彼は今日も定時あがりです
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*****
顔がもろに狼のそれだからか、ガルムさんは普段からどことなく申し訳ないような表情を浮かべているように映る。多様性が謳われる昨今、狼男もヒトとして尊重しようという風潮であることは当然なのだが、しかしその考えが多くのニンゲンの意識に根付いているかというと、まだまだそんなことはない。著しく外見が異なる者に対して、ヒトはまだまだ排他的で冷たいらしい。理解が及ばないとも言えるだろう。
だけど、ガルムさんは誰よりも真面目で誠実だから、がんばってがんばって自分のことを奮い立たせて、同僚と協調しながら仕事を進めるのであって。ガルムさんはネットワークエンジニア。じつは社内における評判は悪くない。賢いし、ヒトとコミュニケーションをとるのがとても上手だからだ。基本、IT業界――特に技術者連中はひどく根暗なコミュ障が多いから当該分野に携わるニンゲンは対人スキルが著しく低く、だからああだこうだで揉め事が生じるケースが多いのだけれど、それがわかっていて、否、それがわかっているからだろう、ガルムさんはいつもいつも自ら折れ、人間関係を円滑なものに保とうとする。そういう存在を心の底から憎む輩なんていない。社会人とはそういうものだ。社会とはそういうものだ。
*****
某キャリアがお客様だ。キャリアとは決まって大きな会社だ。この先ずっと担当するかどうかはわからないのだけれど、私はとりあえず「それ」を「やれ」と申しつけられた。上司は「ガルムくんとやれ」と言う。おぉ、興味深い。女だてらに地に這いつくばることをことのほか良しとしている私としては、泥臭いガルムさんとの共闘は望むところなのだ――というか、ガルムさんの仕事ぶりを一度近くで見てみたい。キーボードさばきは達者なのだろうか、それともキー一つ叩くにしても慎重なのだろうか。作業の手法一つを観察するのも楽しみというものである。
*****
豊洲にあるデータセンターに入り、先方の担当者と合流した。年度が変わることを契機にガルムさんが主担当になることになったわけだけれど――そういうことってままあることなのだけれど、先方の担当者は不満げな、あるいは露骨に嫌そうな顔をした。わかる。よくある話でもある。いままでの弊社担当といろいろ積み上げてきたわけだ。それを根っこからひっくり返された。そう考えられてもしょうがない。だけど、どうしようもないのだ。かつての弊社担当は会社を去ってしまったのだから。私はIT業界しか知らないけれど、私たちの世界にはそういったヒトが多いような気がしている。渡り鳥が少なくないのだ。みな、高給を求めて飛び回るのだ。健全な動きと言えるだろう。私なんかはそう思う。
さて、先方にサーバールームへと案内される際、その先方――院卒二年目の若い男子から嫌味を聞かされてしまった。
「ガルムさんとおっしゃいましたか。なにせ狼の顔だ。抜け毛がファンに挟まって悪さをしやしませんかね」
憎たらしい物言いだが、なるほど。
まあ、たしかに、おっしゃるとおり。
私はてっきり、ガルムさんはしゅんとするものだと思った。だってガルムさんは優しくて優しくて優しくて、優しすぎるはずだから。でもガルムさんは臆する素振りも見せず、「だいじょうぶです」と言い切った。すると先方はややあってから「わかりました」と納得顔。すごい。鍔迫り合いだ。要するにガルムさんは「失敗なんてしません」と謳ったわけで、いっぽうのお客様は「失敗したら承知せんぞ」と応えたわけである。まだまだ女のコを自称する私としては、二人の男性のやり取りに身震いした。その上で思った。案外、お客様も含めた格好で私たち、けっこう、いい仕事ができるんじゃないだろうか。
にしてもガルムさん、やるじゃん。でも、そっか、ガルムさんが取り乱すところなんて、そういえば見たことがない。常に毅然としているのがガルムさんであるらしい。
*****
別の日。障害対応にまつわる作業、その帰り、昼食をとるべくマックに入った。入店直後はガルムさんを見た他の客や店員がぎょっとした顔をしたけれど、それもすぐにおさまった。多様性多様性。みな、心の中でそんなふうに唱えているのかもしれない。
ガルムさんと向かい合って座った。ガルムさんは大きな口でビッグマックをむしゃむしゃ食べる。その様子は怖いと言うより私的にはなかなかにラブリーだ。うん、物を食べるガルムさんはかなりかわいい。
食事を終えたガルムさんが、唐突に真面目な顔をした――ように見えた。ガルムさんは「イトウさん」と呼びかけてきた。
「はい、イトウですよ、なんですか?」
いえ、その……。
そんなふうに口籠ったガルムさんは、なんだか煮え切らない感じだ。
だけど決心したように顔を上げ――。
「イトウさん、あの、妻が身籠っていまして」
「えっ」
寝耳に水とはまさにこのこと。
私は喜びのあまり、つい万歳をしてしまった。
「すごいすごい! やったじゃありませんか!」
「ありがとうございます」というめでたい言葉とは裏腹に、ガルムさんは苦笑を浮かべた――ように見えた。「そこでその、少し相談事がありまして」
「なんでも言ってください。しょせんはイトウですが、力になりますよっ」
「では、あの……しばらくのあいだは、定時であがりたいんです」
「えっ、奥さま、調子が良くないのですか?」
「そうではないんですけれど、気の小さな女性なんです。私は彼女を不安がらせたくはない」
そうかそうか、そういうことか。気の小さな女性でなくても、身籠っている以上、なにかの折に不安感を覚えたりすることはあるだろう。そんなときには夫にそばにいてもらいたいはずだ。わかるわかる、わかるぞぉ、ガルムさん。
「いいですよ。私はガルムさんに全面的に協力します」
「ああ、イトウさんならそうおっしゃってくださると思っていました」
ガルムさんは安心したように笑った――ように見えた。やっぱり狼男であるものだから表情は読み取りづらい――というか、読み取ることは困難どころか不可能だ。
*****
私はいつも始業の一時間前にはオフィスにいる。それだけ家を早く出るのには理由があって、それはただ単に通勤ラッシュに巻き込まれたくないからというだけなのだけれど、これから先もよっぽどのことがない限りは早起きしてヒトより早く動き出すことだろう。信念みたいなものだ――なんて言うと大げさか。
いつもなら一番乗りであるはずなのに、今日は一人、丸テーブルを前に座っていた。ノートPCを開いてカタカタカタとキーボードを叩いている。ガルムさんだ。オフィスにおいて一人パソコンに向かう狼男の姿はなかなかにシュールだけれど、今日も朝からガルムさんの生真面目さが伝わってきて、そのいじらしさに私は目眩を覚えてしまう。びっくりさせてやろうと思い、私は「おはよう!」と声を張り上げた。びくっと身体を跳ねさせたガルムさんは、私のほうを向くとにこっと笑った――ように見えた。「おはようございます」と挨拶を返してくれた。ロッカーにもろもろを突っ込み、必要な書類、ファイルとノートPCを持って、私はガルムさんの正面の席に座った。ウチの会社はフリーアドレスなので、どこに座ってもかまわないのだ。
「ガルムさん、早いですね。どうかしたんですか? 私の知らないところでヘヴィな案件を抱えている、とか?」
「そうではありません」とガルムさんは微笑んだ――ように見えた。「定時であがらせてもらおうというんです。だったら、せめて朝早く出社しないと」
わかる理屈ではある。
私はノートPCを立ち上げつつ、ウィダーを食す。ルーチン。ウィダーは好きだ。なんだか身体にいいことをしたような気分になるから。
メーラーのアイコンをクリック――相変わらず千通以上ものメールが入っている。以前の配属先、障害チームにいたときの名残りのようなもので、アラートのメール等がほとんどである。だから無視してよいものだ。にしたって、いい加減、メーリングリストからは削除してもらいたい。以前からその依頼を出しているのに省いてもらえないのはどういう了見なのか……って、これってありがちな話でしかないのだけれど。
「イトウさん」
「はい、なんですか、ガルムさん」
「唐突ですみません。築地の新聞屋さんの案件、イトウさんに音頭を取っていただきたいのですが」
「えっ、そうなのですか?」
「はい。サーバーに関しては間違いなくイトウさんのほうが詳しいですから」
まあ、そうだ。ガルムさんの技術や知識はあくまでもネットワークに特化している。対して私のスキルは広く浅くだ。サーバーも、まあできる。
「よいのですよ、ガルムさん。ただ――」
「ただ?」
「いえですね、先方が女の主担当を認めてくれるのかという話であって」
「ああ、そうか。そういうことは、あるかもしれないなぁ」
「でも、狼男よりは信用されるかもしれません。あっ、他意はないですよ?」
ガルムさんは苦笑した――ように見えた。
「でしたら、やっぱりイトウさんにお任せしたいです」
「でも、一人だと不安なのですよぅ」
「一人にはしません。勉強してイトウさんに追いつきます。任せてください」
「わかりました。課長には私から話したほうがよいですか?」
「いえ。私が説明します。それくらいはさせてください」
おぉ、さすがだ、ガルムさん。
男らしい。
*****
いろいろあってさまざまあって、もろもろあって多々あって、そんなふうな経緯があった上で、私はまだガルムさんとコンビを組んでいる。ガルムさんは昨日も今日も定時あがりだ。きっと明日もそうだろう。
私は女だからこそ思うんだ。たとえば私のおなかが赤ちゃんで膨らんできたとき、そばに愛しい旦那さまがいてくれたらどれだけ心強いだろうな、って。裏を返せば、いてくれないとメチャクチャ不安になってしまうだろうということだ。身籠るのは女性のほうだ。だけど、妊娠って、一方的に女性にばかり押しつけていい問題ではないと思うのだ。そのへんよくわかっているから、ガルムさんは仕事をがんばりながらも、できるだけ奥さんのそばにいてあげたいと思うのだ。ああ、なんと美しき夫婦愛。その熱量を感じるだけで心が火傷しそうだ。
*****
築地の新聞社の件、揉め始めた。親会社のエンジニアがへたを打ったらしく、そのせいで先方はぷんすこ、怒ってしまったらしいのである。営業さんもうまくことをおさめることができなかったらしい。うはぁと頭を抱えたくなる。どうあれ日曜日にはサーバーの設定変更作業があるのだぞぅ……。
四人しか入れない会議室にガルムさんと入り、小さなテーブルを挟んで向かい合った。
「ガルムさん、私は抗議したいです。その上で言いたいです。おまえらのミスはおまえらで取り返せ、と」
「しかしですね、イトウさん、親会社は親会社なんです。先方から見れば、私たちも一緒くたなんですよ」
「そんなことわかってますよぅ。ちょっと不満を漏らしてみただけですってば。にしたってなぁ」
「ええ。顧客の温度が高いとは、まさにこのことです」
私は「あうぅぅぅ」といよいよ頭を抱えた。
だけどすぐに顔を上げた。
「しかしだいじょうぶなのですよ、ガルムさん。イトウにお任せあれなのですよ」
「そうもいかないと考えています」
「ひょえ? そうなのですか?」
「日曜日は私も同行します」
「よよよっ、よいですよぅ。ガルムさんは奥さまのそばに――」
「そうもいきません」
私が感涙しそうになったことは言うまでもない。
*****
作業――私がキーボードをカタカタカタと叩いているあいだ、その様子を見守っている先方の担当者と、ガルムさんはおしゃべりしていた。時折、二人からは笑い声が漏れた。ほんとうにほんとうにほんとうに、狼男にはまだまだ冷たい世の中だ。その観点で言うと、担当者の若い男性は理解があると言える。誰に対しても分け隔てなく接しようという意識が感じられるから。
作業はうまくいった。その報告を踏まえた事後の打ち合わせも滞りなく済んだ。やっぱり担当者の男性はイイヒトだった。できればずっと長いあいだ、付き合っていきたい。大きなユーザーと取引をしている実績があって、悪いことなどあろうはずもない――ということもある。そうでなくとも発注側と受注側があって、そういった関係の中であたりまえのように仕事が進めばそのこと以上に幸せなことなんてないとも思うのだ。
帰路、スタバに入った。アイスコーヒーを持って席につき、ガルムさんと向かい合う。やはりガルムさんは注目を浴びてしまう。狼男、まだまだレアなのだ。
「ふぃぃなのですよ、ガルムさん。手順書どおりの仕事をするだけなのに、こんなに緊張したのはきっと初めてなのですよ」
「見事なお手前でしたよ。担当者の方も安心して見ておられたようでした」
「おぉ、そうなのですか?」
「いままで作業をしていた方は、結構、ミスをしていたようです」
「うげげっ、そうなのですか? だったら、やっぱりマイナスからのスタートだったというわけですね」
「だからこそ、いい仕事をしましょう。盛り返せばいっそう、喜ばれます」
まったくもってガルムさん、あなたはなんてすばらしいことを言うんだ。
「あっ、そうでしたそうでした」私はストローに口をつけて苦い液体を飲んでから、「奥さまの調子はいかがなのですか?」と訊ねた。
ガルムさんは困ったように笑った――ように見えた。
「それが……」
「それが?」
「先ほど、生まれたそうなんです」
「えっ」
私は、それはもうびっくりした。
思わず席を立ってしまったくらいだ。
ガルムさんは後頭部を右手で掻き、なんだか照れ臭そうにしている。
――が、照れ臭そうにしている場合ではないだろうがっ。
「ばかっ!」
言って私はガルムさんの左の頬にビンタした。ガルムさんはぶたれた頬を押さえると、目を丸くして、私を見た。
「どうしてとっとと言わなかったんですか!」
「い、いえ、作業中でしたから」
「作業をしていたのは私です! はなからガルムさんなんて要らなかったんですからね!」
「そそ、そんな殺生な――」
「こんなところでコーヒーを飲んでる暇があるならとっとと帰ってください、お願いします!」
わかってる。作業するに際し私が不安がるに決まっているから、ガルムさんは付き合ってくれたのだ。それくらいわかってる。だけど、いまはとにかく、一刻も早く、奥さまのもとに馳せ参じてほしい。
その旨、強く伝えると、ガルムさんは立ち上がり、綺麗なお辞儀をした。それから身を翻して早足で進み、外に出るや否や駆け足になった。
そうだ、走れ、狼男!!
*****
後日、ガルムさんに自宅へと招かれた。無事に生まれた赤ちゃんをぜひ見に来てほしいという。ガルムさんちは立派なマンションの一室だった。永住するつもりはなくともしばらく住むつもりなのだという。
私は奥さまに言われ、赤ちゃんを抱っこさせてもらった。フツウの、フツウの赤ちゃんだ。ヒトの手、足、ヒトの身体、そしてヒトの顔。白いポロシャツ姿のガルムさんが「父親に似なくてよかったです」と言い――きっと微笑んだ。わかるよ、わかるよ、ガルムさん。そりゃ狼男に似たらいろいろとたいへんだったはず。にしても、にしたってなぁ、べつにガルムさんはなにも悪くないのになぁ……。
身体をゆっくり左右に揺らしながら赤ちゃんをあやしていると、涙が出てきた。かわいい。ほんとうにかわいい。ガルムさんの赤ちゃん、ほんとうにかわいいじゃんか……。
「あの、イトウさん、相談なんですが……」
「わかってますよ。しばらくは定時あがりを続けたいというお話でしょう?」
「いけませんか?」
「いいに決まってるじゃありませんか。っていうか、そのへんは課長や部長とネゴってください」
「わかりました」
「そうしてください」
私はガルムさんに微笑みかけ、奥様にも微笑みかけ、それから赤ちゃんにも微笑みかけた。
赤ちゃんが笑った。
顔がもろに狼のそれだからか、ガルムさんは普段からどことなく申し訳ないような表情を浮かべているように映る。多様性が謳われる昨今、狼男もヒトとして尊重しようという風潮であることは当然なのだが、しかしその考えが多くのニンゲンの意識に根付いているかというと、まだまだそんなことはない。著しく外見が異なる者に対して、ヒトはまだまだ排他的で冷たいらしい。理解が及ばないとも言えるだろう。
だけど、ガルムさんは誰よりも真面目で誠実だから、がんばってがんばって自分のことを奮い立たせて、同僚と協調しながら仕事を進めるのであって。ガルムさんはネットワークエンジニア。じつは社内における評判は悪くない。賢いし、ヒトとコミュニケーションをとるのがとても上手だからだ。基本、IT業界――特に技術者連中はひどく根暗なコミュ障が多いから当該分野に携わるニンゲンは対人スキルが著しく低く、だからああだこうだで揉め事が生じるケースが多いのだけれど、それがわかっていて、否、それがわかっているからだろう、ガルムさんはいつもいつも自ら折れ、人間関係を円滑なものに保とうとする。そういう存在を心の底から憎む輩なんていない。社会人とはそういうものだ。社会とはそういうものだ。
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某キャリアがお客様だ。キャリアとは決まって大きな会社だ。この先ずっと担当するかどうかはわからないのだけれど、私はとりあえず「それ」を「やれ」と申しつけられた。上司は「ガルムくんとやれ」と言う。おぉ、興味深い。女だてらに地に這いつくばることをことのほか良しとしている私としては、泥臭いガルムさんとの共闘は望むところなのだ――というか、ガルムさんの仕事ぶりを一度近くで見てみたい。キーボードさばきは達者なのだろうか、それともキー一つ叩くにしても慎重なのだろうか。作業の手法一つを観察するのも楽しみというものである。
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豊洲にあるデータセンターに入り、先方の担当者と合流した。年度が変わることを契機にガルムさんが主担当になることになったわけだけれど――そういうことってままあることなのだけれど、先方の担当者は不満げな、あるいは露骨に嫌そうな顔をした。わかる。よくある話でもある。いままでの弊社担当といろいろ積み上げてきたわけだ。それを根っこからひっくり返された。そう考えられてもしょうがない。だけど、どうしようもないのだ。かつての弊社担当は会社を去ってしまったのだから。私はIT業界しか知らないけれど、私たちの世界にはそういったヒトが多いような気がしている。渡り鳥が少なくないのだ。みな、高給を求めて飛び回るのだ。健全な動きと言えるだろう。私なんかはそう思う。
さて、先方にサーバールームへと案内される際、その先方――院卒二年目の若い男子から嫌味を聞かされてしまった。
「ガルムさんとおっしゃいましたか。なにせ狼の顔だ。抜け毛がファンに挟まって悪さをしやしませんかね」
憎たらしい物言いだが、なるほど。
まあ、たしかに、おっしゃるとおり。
私はてっきり、ガルムさんはしゅんとするものだと思った。だってガルムさんは優しくて優しくて優しくて、優しすぎるはずだから。でもガルムさんは臆する素振りも見せず、「だいじょうぶです」と言い切った。すると先方はややあってから「わかりました」と納得顔。すごい。鍔迫り合いだ。要するにガルムさんは「失敗なんてしません」と謳ったわけで、いっぽうのお客様は「失敗したら承知せんぞ」と応えたわけである。まだまだ女のコを自称する私としては、二人の男性のやり取りに身震いした。その上で思った。案外、お客様も含めた格好で私たち、けっこう、いい仕事ができるんじゃないだろうか。
にしてもガルムさん、やるじゃん。でも、そっか、ガルムさんが取り乱すところなんて、そういえば見たことがない。常に毅然としているのがガルムさんであるらしい。
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別の日。障害対応にまつわる作業、その帰り、昼食をとるべくマックに入った。入店直後はガルムさんを見た他の客や店員がぎょっとした顔をしたけれど、それもすぐにおさまった。多様性多様性。みな、心の中でそんなふうに唱えているのかもしれない。
ガルムさんと向かい合って座った。ガルムさんは大きな口でビッグマックをむしゃむしゃ食べる。その様子は怖いと言うより私的にはなかなかにラブリーだ。うん、物を食べるガルムさんはかなりかわいい。
食事を終えたガルムさんが、唐突に真面目な顔をした――ように見えた。ガルムさんは「イトウさん」と呼びかけてきた。
「はい、イトウですよ、なんですか?」
いえ、その……。
そんなふうに口籠ったガルムさんは、なんだか煮え切らない感じだ。
だけど決心したように顔を上げ――。
「イトウさん、あの、妻が身籠っていまして」
「えっ」
寝耳に水とはまさにこのこと。
私は喜びのあまり、つい万歳をしてしまった。
「すごいすごい! やったじゃありませんか!」
「ありがとうございます」というめでたい言葉とは裏腹に、ガルムさんは苦笑を浮かべた――ように見えた。「そこでその、少し相談事がありまして」
「なんでも言ってください。しょせんはイトウですが、力になりますよっ」
「では、あの……しばらくのあいだは、定時であがりたいんです」
「えっ、奥さま、調子が良くないのですか?」
「そうではないんですけれど、気の小さな女性なんです。私は彼女を不安がらせたくはない」
そうかそうか、そういうことか。気の小さな女性でなくても、身籠っている以上、なにかの折に不安感を覚えたりすることはあるだろう。そんなときには夫にそばにいてもらいたいはずだ。わかるわかる、わかるぞぉ、ガルムさん。
「いいですよ。私はガルムさんに全面的に協力します」
「ああ、イトウさんならそうおっしゃってくださると思っていました」
ガルムさんは安心したように笑った――ように見えた。やっぱり狼男であるものだから表情は読み取りづらい――というか、読み取ることは困難どころか不可能だ。
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私はいつも始業の一時間前にはオフィスにいる。それだけ家を早く出るのには理由があって、それはただ単に通勤ラッシュに巻き込まれたくないからというだけなのだけれど、これから先もよっぽどのことがない限りは早起きしてヒトより早く動き出すことだろう。信念みたいなものだ――なんて言うと大げさか。
いつもなら一番乗りであるはずなのに、今日は一人、丸テーブルを前に座っていた。ノートPCを開いてカタカタカタとキーボードを叩いている。ガルムさんだ。オフィスにおいて一人パソコンに向かう狼男の姿はなかなかにシュールだけれど、今日も朝からガルムさんの生真面目さが伝わってきて、そのいじらしさに私は目眩を覚えてしまう。びっくりさせてやろうと思い、私は「おはよう!」と声を張り上げた。びくっと身体を跳ねさせたガルムさんは、私のほうを向くとにこっと笑った――ように見えた。「おはようございます」と挨拶を返してくれた。ロッカーにもろもろを突っ込み、必要な書類、ファイルとノートPCを持って、私はガルムさんの正面の席に座った。ウチの会社はフリーアドレスなので、どこに座ってもかまわないのだ。
「ガルムさん、早いですね。どうかしたんですか? 私の知らないところでヘヴィな案件を抱えている、とか?」
「そうではありません」とガルムさんは微笑んだ――ように見えた。「定時であがらせてもらおうというんです。だったら、せめて朝早く出社しないと」
わかる理屈ではある。
私はノートPCを立ち上げつつ、ウィダーを食す。ルーチン。ウィダーは好きだ。なんだか身体にいいことをしたような気分になるから。
メーラーのアイコンをクリック――相変わらず千通以上ものメールが入っている。以前の配属先、障害チームにいたときの名残りのようなもので、アラートのメール等がほとんどである。だから無視してよいものだ。にしたって、いい加減、メーリングリストからは削除してもらいたい。以前からその依頼を出しているのに省いてもらえないのはどういう了見なのか……って、これってありがちな話でしかないのだけれど。
「イトウさん」
「はい、なんですか、ガルムさん」
「唐突ですみません。築地の新聞屋さんの案件、イトウさんに音頭を取っていただきたいのですが」
「えっ、そうなのですか?」
「はい。サーバーに関しては間違いなくイトウさんのほうが詳しいですから」
まあ、そうだ。ガルムさんの技術や知識はあくまでもネットワークに特化している。対して私のスキルは広く浅くだ。サーバーも、まあできる。
「よいのですよ、ガルムさん。ただ――」
「ただ?」
「いえですね、先方が女の主担当を認めてくれるのかという話であって」
「ああ、そうか。そういうことは、あるかもしれないなぁ」
「でも、狼男よりは信用されるかもしれません。あっ、他意はないですよ?」
ガルムさんは苦笑した――ように見えた。
「でしたら、やっぱりイトウさんにお任せしたいです」
「でも、一人だと不安なのですよぅ」
「一人にはしません。勉強してイトウさんに追いつきます。任せてください」
「わかりました。課長には私から話したほうがよいですか?」
「いえ。私が説明します。それくらいはさせてください」
おぉ、さすがだ、ガルムさん。
男らしい。
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いろいろあってさまざまあって、もろもろあって多々あって、そんなふうな経緯があった上で、私はまだガルムさんとコンビを組んでいる。ガルムさんは昨日も今日も定時あがりだ。きっと明日もそうだろう。
私は女だからこそ思うんだ。たとえば私のおなかが赤ちゃんで膨らんできたとき、そばに愛しい旦那さまがいてくれたらどれだけ心強いだろうな、って。裏を返せば、いてくれないとメチャクチャ不安になってしまうだろうということだ。身籠るのは女性のほうだ。だけど、妊娠って、一方的に女性にばかり押しつけていい問題ではないと思うのだ。そのへんよくわかっているから、ガルムさんは仕事をがんばりながらも、できるだけ奥さんのそばにいてあげたいと思うのだ。ああ、なんと美しき夫婦愛。その熱量を感じるだけで心が火傷しそうだ。
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築地の新聞社の件、揉め始めた。親会社のエンジニアがへたを打ったらしく、そのせいで先方はぷんすこ、怒ってしまったらしいのである。営業さんもうまくことをおさめることができなかったらしい。うはぁと頭を抱えたくなる。どうあれ日曜日にはサーバーの設定変更作業があるのだぞぅ……。
四人しか入れない会議室にガルムさんと入り、小さなテーブルを挟んで向かい合った。
「ガルムさん、私は抗議したいです。その上で言いたいです。おまえらのミスはおまえらで取り返せ、と」
「しかしですね、イトウさん、親会社は親会社なんです。先方から見れば、私たちも一緒くたなんですよ」
「そんなことわかってますよぅ。ちょっと不満を漏らしてみただけですってば。にしたってなぁ」
「ええ。顧客の温度が高いとは、まさにこのことです」
私は「あうぅぅぅ」といよいよ頭を抱えた。
だけどすぐに顔を上げた。
「しかしだいじょうぶなのですよ、ガルムさん。イトウにお任せあれなのですよ」
「そうもいかないと考えています」
「ひょえ? そうなのですか?」
「日曜日は私も同行します」
「よよよっ、よいですよぅ。ガルムさんは奥さまのそばに――」
「そうもいきません」
私が感涙しそうになったことは言うまでもない。
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作業――私がキーボードをカタカタカタと叩いているあいだ、その様子を見守っている先方の担当者と、ガルムさんはおしゃべりしていた。時折、二人からは笑い声が漏れた。ほんとうにほんとうにほんとうに、狼男にはまだまだ冷たい世の中だ。その観点で言うと、担当者の若い男性は理解があると言える。誰に対しても分け隔てなく接しようという意識が感じられるから。
作業はうまくいった。その報告を踏まえた事後の打ち合わせも滞りなく済んだ。やっぱり担当者の男性はイイヒトだった。できればずっと長いあいだ、付き合っていきたい。大きなユーザーと取引をしている実績があって、悪いことなどあろうはずもない――ということもある。そうでなくとも発注側と受注側があって、そういった関係の中であたりまえのように仕事が進めばそのこと以上に幸せなことなんてないとも思うのだ。
帰路、スタバに入った。アイスコーヒーを持って席につき、ガルムさんと向かい合う。やはりガルムさんは注目を浴びてしまう。狼男、まだまだレアなのだ。
「ふぃぃなのですよ、ガルムさん。手順書どおりの仕事をするだけなのに、こんなに緊張したのはきっと初めてなのですよ」
「見事なお手前でしたよ。担当者の方も安心して見ておられたようでした」
「おぉ、そうなのですか?」
「いままで作業をしていた方は、結構、ミスをしていたようです」
「うげげっ、そうなのですか? だったら、やっぱりマイナスからのスタートだったというわけですね」
「だからこそ、いい仕事をしましょう。盛り返せばいっそう、喜ばれます」
まったくもってガルムさん、あなたはなんてすばらしいことを言うんだ。
「あっ、そうでしたそうでした」私はストローに口をつけて苦い液体を飲んでから、「奥さまの調子はいかがなのですか?」と訊ねた。
ガルムさんは困ったように笑った――ように見えた。
「それが……」
「それが?」
「先ほど、生まれたそうなんです」
「えっ」
私は、それはもうびっくりした。
思わず席を立ってしまったくらいだ。
ガルムさんは後頭部を右手で掻き、なんだか照れ臭そうにしている。
――が、照れ臭そうにしている場合ではないだろうがっ。
「ばかっ!」
言って私はガルムさんの左の頬にビンタした。ガルムさんはぶたれた頬を押さえると、目を丸くして、私を見た。
「どうしてとっとと言わなかったんですか!」
「い、いえ、作業中でしたから」
「作業をしていたのは私です! はなからガルムさんなんて要らなかったんですからね!」
「そそ、そんな殺生な――」
「こんなところでコーヒーを飲んでる暇があるならとっとと帰ってください、お願いします!」
わかってる。作業するに際し私が不安がるに決まっているから、ガルムさんは付き合ってくれたのだ。それくらいわかってる。だけど、いまはとにかく、一刻も早く、奥さまのもとに馳せ参じてほしい。
その旨、強く伝えると、ガルムさんは立ち上がり、綺麗なお辞儀をした。それから身を翻して早足で進み、外に出るや否や駆け足になった。
そうだ、走れ、狼男!!
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後日、ガルムさんに自宅へと招かれた。無事に生まれた赤ちゃんをぜひ見に来てほしいという。ガルムさんちは立派なマンションの一室だった。永住するつもりはなくともしばらく住むつもりなのだという。
私は奥さまに言われ、赤ちゃんを抱っこさせてもらった。フツウの、フツウの赤ちゃんだ。ヒトの手、足、ヒトの身体、そしてヒトの顔。白いポロシャツ姿のガルムさんが「父親に似なくてよかったです」と言い――きっと微笑んだ。わかるよ、わかるよ、ガルムさん。そりゃ狼男に似たらいろいろとたいへんだったはず。にしても、にしたってなぁ、べつにガルムさんはなにも悪くないのになぁ……。
身体をゆっくり左右に揺らしながら赤ちゃんをあやしていると、涙が出てきた。かわいい。ほんとうにかわいい。ガルムさんの赤ちゃん、ほんとうにかわいいじゃんか……。
「あの、イトウさん、相談なんですが……」
「わかってますよ。しばらくは定時あがりを続けたいというお話でしょう?」
「いけませんか?」
「いいに決まってるじゃありませんか。っていうか、そのへんは課長や部長とネゴってください」
「わかりました」
「そうしてください」
私はガルムさんに微笑みかけ、奥様にも微笑みかけ、それから赤ちゃんにも微笑みかけた。
赤ちゃんが笑った。
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