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悠久幼女の女王陛下は、今日も暇を持て余す
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◆◆◆
見た目は七つやそこらのまま、スフィーダは二千年以上も生きている。
ゆえに、人々からは魔女と称されたり、神と崇められたりしている。
そんなスフィーダの現状の立ち位置は、プサルムという国の女王である。
偉いのである。
尊いのである。
おまけに美少女なのである。
とはいえだ。
偉いのは、単なるヒエラルキーの話だ。
尊いのだって、客観的な評価にすぎない。
美少女だという点については、生まれついての性質としか言いようがない。
立場に基づく実務に多大なる責任が伴うことは承知している。
尊敬を集めるべく毅然と振る舞わなければならないことも肝に銘じている。
だが、容姿は結構どうでもよくって、かくあるべきなどと考えたことすらない。
いつ何時も、民に寄り添う女王であろう。
そのたった一つの信念、モットー、精神、構成要素、あるいは成分で、スフィーダの小さな体はできている。
◆◆◆
現在、スフィーダのかたわらには、優秀な部下がいる。
ヨシュア・ヴィノーという男である。
十(とお)も飛び級して大学を卒業した。
十二で教鞭をとった。
十六で軍に入り、瞬く間に昇進、二十歳の若さで軍司令にまでのぼり詰めた。
それとときを同じくしてスフィーダの最側近となった。
まさに天才中の天才、稀代の逸材なのである。
ヨシュアは現在、二十三歳。
生まれつき左目の視力が弱いらしく、それもあってトレードマークは片眼鏡。
まとう白い魔法衣の胸元には紫色の薔薇を模した刺繍が施されており、花弁の真ん中では大ぶりのルビーが洗練された輝きを放っている。
艶やかな銀髪と綺麗な碧眼が特徴的な美丈夫なので、軍人、文民、庶民を問わず、女性人気がことのほか高い。
彼に妻があることを知りながら、恋文をしたためる女(おな)子(ご)も少なくないという。
◆◆◆
政(まつりごと)を担う大臣はいることだし、戦《いくさ》の指揮をとる将軍もいる。
よほど重要な議題でない限り、女王たるスフィーダの判断は必要とされない。
国の運営は、極力、ヒトの手に委ねるのが彼女の大方針でもある。
すなわち、国家元首というのは一つの記号にしかすぎないということだ。
プサルムにおいて女王とは基本的に象徴であり、また象徴でしかないのである。
よって、スフィーダという個人が仕事に忙殺されるなんてことはない。
手が空いていることが多い。
否、結構、暇だ。
もっと言うと、水晶で造られた無駄に背もたれの高い玉座を尻で磨いているだけの時間は、暇で暇でしょうがないのだ。
ゆえに白いビキニをつけて、今日もテラスのプールで泳ぐのだ。
バシャバシャバシャバシャ水を掻いて蹴ってして、はしゃぐのだ。
さて、そんなふうに水遊びに興じていると、そのうち、気づかされるわけだ。
白い柱の隣に立っている人影に、自然と目が行くわけだ。
いつも、そうなのだ。
侍女はきちんといるのだが、決まってヨシュアがバスタオルを持って待ち構えているのである。
スフィーダがプールから上がると、彼は静かな歩様で近づいてきて、彼女のことをそっとタオルで包んでくれる。
当初、「自分の体ぐらい自分で拭けるわいっ!」と拒んだスフィーダである。
しかし、言っても聞かなかった。
触れられるのが煩わしくて、逃げ回ったこともある。
しかし、すぐに捕まってしまった。
「お風邪を召されては困りますから」
とのことだった。
忠誠心が旺盛なのだ。
ちょっとおせっかいがすぎるくらい。
◆◆◆
スフィーダは、眠い目をこすりつつ、玉座の裏手にある私室から出た。
いつもの通り、ヨシュアは玉座の脇に控えており、彼のしゅっとした背中が見えた。
ヨシュアはゆっくりと身を翻し、穏やかな微笑を浮かべたのだった。
「陛下。おはようございます」
「ああ。おはようなのじゃ、よひゅあぁ~……」
名を呼ぼうとしたところで、途方もなく大きなあくびが出てしまった。
スフィーダのそばまで来たヨシュアが膝を折り、ダイヤやクリスタルで彩られた純白のドレスの乱れを正してくれる。
「陛下、よだれが」
そう言って、親指で口元を拭ってくれた。
ようやっとスフィーダは、ちょこんと玉座についた。
その隣に、ヨシュアが控える。
ヨシュアは肘を抱えて目を閉じたまま。
いっぽうで、スフィーダは脚をぷーらぷら。
「暇じゃー、暇じゃー、ヨシュアよ、わしはメチャクチャ暇なのじゃー。なにか仕事はないものかのぅ」
「現状、陛下のお手を煩わせるような事案は一つもございません」
「むぅ。ならば仕方あるまい。プールで泳ぐぞ」
「今日は少し寒うございます。お控えを」
「むむぅ」
玉座の間は、中央に赤絨毯が敷かれている以外は真っ白である。
南北は壁、東西は柱だ。
その柱の間から見渡せる空は晴天なのだが、確かに幾分、空気が冷たい。
年がら年中ぽかぽか陽気のプサルムにだって、そんな日もあるのだ。
「ならば、じゃんけんでもするか」
「仰せのままに」
「よしっ。やるとなれば、せっかくじゃ。罰ゲームを決めねばならぬな」
「なんなりと」
「そうじゃな……うむっ。わしが勝ったら、お姫様抱っこをしろ。そしてそのまま、宙を舞えっ」
なんとも子供じみた罰ゲームではあるが、パッと思いついたのだから、しょうがない。
しかし、考えようによっては、なかなかの名案なのではないか。
存分に空中遊泳を楽しんだあと、地に降り立って、民衆を驚かせてやろう。
そんな愉快な想像まで頭に浮かんでしまう。
「それでは、私からの罰ゲームを申し上げます」
「おうおう。なんでも申してみるがよいぞ」
「私が勝ちしましたら、向こう一年間は、玉座と私室を行き来するだけにしてくださいませ」
「プールもいかんのか?」
「無論でございます」
「では、城内の散歩も?」
「当然」
「む、むぅ。その条件は、あまりにもからすぎやせんか?」
「そうお思いになるのなら、じゃんけんはやめにいたしましょう」
「い、いや、やるぞ。わしにとってどれだけリスキーであろうと、一度決めたことはやるぞ」
「であれば」
「うむっ」
じゃーんけーん、ぽん。
パーとグー。
スフィーダ、見事に散った。
「の、のぅ、ヨシュアよ。やはり、あまりに無慈悲すぎる罰ゲームであるような気がするのじゃが……」
「実は冗談で申し上げてみました」
「じょ、冗談とな!?」
「はい。陛下にはストレスとは無縁であっていただきたいと考えておりますので」
「わしをからかいおったのか!」
「そう解釈されるのも止む無しかと存じます」
スフィーダはぷんぷん怒って、玉座の上に立ち上がった。
するとだ。
ヨシュアがひょいとお姫様抱っこをしてくれた。
「サービスでございます」
そう言って、ヨシュアはスフィーダを抱いたまま、くるっと一回転したのだった。
◆◆◆
スフィーダはその日も「暇じゃー、暇じゃー」と心の中で唱えつつ、玉座の上で膝から下をぷらぷらさせていた。
そこにヨシュアが現れた。
赤絨毯の上で立ち止まり、片膝をついてみせた。
「陛下。ご機嫌はいかがでございますか?」
「うむ。悪くないぞ。じゃが、やっぱり暇で暇でたまらんのじゃ」
「暇を持て余すことも、仕事の一つだとお考えくださいませ」
「それはわかっているつもりじゃ。ときにヨシュアよ。クロエは元気でやっておるか?」
「とても元気でございます」
「それはなによりじゃ」
クロエとは、ヨシュアの妻である。
二年ほど前に結婚した。
式は挙げなかった。
それが二人の意向だったらしい。
スフィーダ、クロエを見たことがない。
だからしきりに「会わせろ」と言っている。
だが「一般人の謁見をゆるしていてはキリがありません」と突っぱねられてしまう。
「それにしても、暇なのじゃー。書類にぽんぽん印を押すだけでもよい。なにかないのか?」
「ヒトの営みはヒトに任せる。それが陛下のご意向なのでございましょう?」
「まあそうなんじゃが。それでもこう、なにもやることがないというのはじゃな」
「なれば、一つ報告を。取るに足らない事項ではございますが」
「おぉ、おぉぉ。なんでもよいぞ。聞かせてみるのじゃ」
「実は昨夜の零時過ぎ、ドル・レッドが首都直上に姿を現しました」
「なっ! ドル・レッドじゃと!」
ドル・レッドとは、炎のように真っ赤な肌をしている翼竜のことだ。
筋骨隆々の体つきで、身の丈は三メートルほど。
小ぶりだが、実力は一騎当千。
二つ名は”最後の知恵ある竜”という。
しばしばであちこちの国で暴れ回ることから、人々からは魔竜とされている。
遠い以前にも、竜はこの首都に来襲したことがある。
その際には、スフィーダが一人で相手をした。
彼女は世界屈指の魔法使いとされている一人なのである。
取り逃がしたわけではない。
向こうが「退(ひ)く」と言ったので、見逃してやったのだ。
魔物であろうと、なるべく殺めたくないというのが、スフィーダの考え方である。
「なぜ、即刻、わしに知らせんかった!」
スフィーダは玉座の上に立ち、ぷんすか怒った。
「竜は、それはもう大きな咆哮をあげました」
「むむっ。そうなのか?」
「はい。ですから、陛下が真っ先に飛び出していかれるものと考えておりました」
「ぐ、ぐぬっ、それはじゃな」
「陛下の眠りは、とてつもなく深いようでございますね」
「ぐっ、ぐぬぬぬぬっ」
「いずれにせよ、陛下の安眠を妨げることにはならず、幸いでございました」
ヨシュアは口元を緩めてみせた。
彼の微笑みを見ると、なんだか肩の力が抜けてしまうのである。
スフィーダは玉座にすとんと座り直した。
「しかし、竜が現れたわけじゃ。パニックに陥った民もいたのではないのか?」
「いたかもしれませんが、すぐにご退場いただきましたので」
「事後の処理は?」
「危機は去ったという私の発言を掲載するよう、各新聞社に触れを出しました」
「そうか。おまえの言葉とあれば、民も安心することじゃろうな」
「恐れ入ります」
「ドル・レッドめは魔物のくせに移送法陣を使える。まったくもって厄介な奴じゃ」
「”最後の知恵ある竜”の名は、伊達ではないということでございましょう」
移送法陣とは、すなわち、ワープである。
それが使用できるから、竜はほうぼうに突如として姿を現すことができるのだ。
「相手は、おまえ一人でしたのじゃな?」
「さようでございます」
「まあ、おまえほどの男がなにを成したところで、今さら驚きはせんが」
「恐縮の限りでございます」
「なんでも速やかにこなしてしまうおまえが右腕である限り、わしの退屈は続きそうじゃのぅ」
「重ねてになりますが、それが陛下のあるべき姿だと考えております」
◆◆◆
前日に、会談の要請を受けた。
言わずもがな、相手は要人である。
スフィーダと同じく、悠久のときを生きる魔女だ。
アーカムという国の主統治者であり、名はネフェルティティという。
アーカムは砂漠の多いところである。
だからネフェルティティは、”熱砂の女王”などと呼ばれる。
スフィーダ、実はネフェルティティのことが好きではない。
どちらかと言えば、嫌いである。
いつも偉そうに、上から目線でしゃべるからだ。
といっても、話し合いに応じないわけにはいかない。
プサルムとアーカムは同盟関係にあるのだから。
ネフェルティティは、決まって巨大な飛空艇でやってくる。
だから、スフィーダはヨシュアとともに、客人用の船着き場で待っていた。
出迎える準備は万端である。
飛空艇はゆっくりと降下し、着陸した。
プロペラの動きが止まると、そのうち、使いらしき者が、階段を下りて船内から出てきた。
黄色い布をまとい、白い腰巻きをつけているその男は、スフィーダの前まで来ると片膝をついた。
「スフィーダ様。ネフェルティティ様より仰せつかりました。乗船されよとのことでございます」
「乗船しろじゃと? こちらは食事の用意までしておるのじゃぞ?」
「食事は結構だと申されております。毒を盛られてはかなわないと」
「そんな真似、するわけがないじゃろうが!」
「とにかく、おいでください」
黄色い布の男は立ち上がるなり、身を翻した。
ついてこいと言わんばかりの態度である。
「ぐぬぬぬぬっ。ネフェルティティめ。なんたる無礼な振る舞いか」
「そのお気持ちは理解できますが、文句を言っても始まりません」
「ヨシュアよ、おまえはネフェルティティに対して寛大すぎやせんか?」
「寛大もなにも、ネフェルティティ様は女王であらせられますので、敬意を払うのは当然かと」
「むぅ……」
「まずはお目にかかることにいたしましょう」
黄色い布の男のあとに続き乗船した。
船内の腹にあるネフェルティティの居室へと案内され、ヨシュアを後ろに従え中へと入った。
甘い匂いがする香(こう)がたかれているのは、なんともいただけない。
白い煙が部屋中に漂っていて、それも非常にうっとうしい。
ネフェルティティは、金(こん)色(じき)の椅子に座っていた。
浅黒い肌を覆うドレスも金(きん)で彩られている。
黒いおかっぱ頭の上にのっているティアラまで金製である。
金(きん)色(いろ)にこだわりがあるのはかまわないが、品がないように映ってしょうがない。
ネフェルティティの隣に立っている女に目をやった。
見たことのない、若い女だ。
紺色のローブには大胆なスリット。
体を包み込むような紅色のマント。
髪の色も紅色だ。
「そっちの女は何者じゃ?」
「わらわの右腕である。フェイス・デルフォイという」
「フェイス・デルフォイ。ヨシュア、おまえは知っておるか?」
「”魔女に最も近い者”とされている女性です。拝顔するのは、私も初めてでございますが」
「よくもまあ、そんな女を手なずけたものじゃな」
「わらわには人望があるのでな」
「自分で抜かすな」
「しょうがなかろう? 事実であるぞ」
「それで、今日はなんの用なのじゃ?」
「率直に申そう。ヨシュア・ヴィノー閣下をもらい受けにきた」
「なっ、なんじゃと!?」
「プサルムにおける大将、それにおまえの最側近という役割は、閑職であろうと思うてのぅ」
「そ、それはじゃな」
「わらわの言い分は間違っておるか?」
「ぐぬ、ぐぬぬぬぬっ」
「わらわなら、ヴィノー閣下を、最高の待遇をもって迎え入れるぞよ?」
スフィーダはちょっと弱気になってしまい、隣に立っているヨシュアを思わず見上げた。
「ヨ、ヨシュアよ、おまえはどうしたいのじゃ? どうありたいのじゃ?」
「ネフェルティティ様」
「なんであろう? ヴィノー閣下」
「少々、お時間をいただけますでしょうか。書面にて回答いたします」
「あいわかった。なれば、しばし停泊させてもらおう。スフィーダよ、もう行ってよいぞ」
「偉そうに申すなっ!」
スフィーダはヨシュアを連れ、飛空艇をあとにした。
ぷんすか怒ったまま城内に入り、最上階の玉座の間へと戻った。
玉座についていると、徐々に怒りがおさまった。
おさまったのだが、今度は強烈な不安感に襲われた。
「の、のぅ、ヨシュアよ。おまえはネフェルティティに仕えるつもりなのか?」
「さあ。どうでございましょう」
「はぐらかすのはよさんかっ」
「まさか、デルフォイ氏ともあろう女性が、アーカムにいるとは思いませんでした」
「それほどの使い手なのか?」
「はい。私など遠く及ばないことだろうと存じます」
「では、もうアーカムに戦力など必要ないじゃろう? い、いや、そんなことはどうでもよくてじゃな」
「私がおらずとも、プサルムの大勢には、まったく影響がございません」
「そそ、そんなことはないじゃろう? と、というか、ネフェルティティは危ないぞ? いたずらに戦地を広げてばかりいるのじゃぞ?」
「それは承知しております」
「奴めに魅力を感じておるのか?」
「お答えしかねます」
「じゃから、はぐらかすのはよせと言っておろうに!」
「どういった返事を差し上げたかは、事後、報告いたします」
夜、いつも熟睡するスフィーダであるが、その日はさすがに寝つけなかった。
ヨシュアは偶然、この国に生まれたから、ここに身を置いているのではないか。
となると、別にプサルムに愛着などないのではないのか。
そんなことまで考えた。
やがて、朝を迎えた。
寝間着である白いワンピースから、純白のドレスに着替え、私室をあとにした。
今日も玉座の脇にヨシュアが控えており、彼はくるっと身を翻した。
いつも通りの微笑を浮かべる。
「陛下。おはようございます」
「うむ」
「よく眠れましたか?」
「わしに眠れん夜などありはせん」
「目の下にくまがございますが?」
「き、気にせんでいい。……それで」
「はい?」
「いや、その、あのじゃな……」
スフィーダは、ドキドキしている。
ヨシュアがどんな返答を寄越してくるのか、ドキドキしている。
「ネフェルティティ様からの、お誘いの件でございますか?」
「う、うむ。まあそうじゃ。わしはそんなこと、気にも留めておらんがの」
「陛下に止められるようであれば、私はそれに従うより他ございません」
「個人の判断は尊重するぞ」
「やはりお優しい」
「ということは、その、やはりおまえは……」
「丁重に、お断りいたしました」
「へっ、そうなのか?」
「私はこの国を、プサルムを愛しておりますので。無論、陛下のことも愛しております」
「ほ、本気で言っておるのか?」
「勿論でございます」
スフィーダ、おもむろに、体を預けるようにして、のっぽなヨシュアに正面から抱きついた。
「おまえがいなくなってしまったら、どうしようかと思ったぞ……」
「熟慮はおろか、考えるまでもないことでございました」
「なれば、その場ですぐに断ればよかったじゃろうに」
「陛下に少し、意地悪をしてみた次第でございます」
「タチが悪いぞ」
「私は陛下のそばにおりますゆえ」
「本当か?」
「嘘など申し上げません」
「泣いてしまいそうじゃ」
「侍女らが見ております。お控えを」
◆◆◆
ヨシュアが玉座の間に入ってきた。
なぜだろう。
彼は右手に木製の小さな桶を持ち、左手には持ち手の付いた布製の簡素なバッグを提げている。
下に桶とバッグを置くと、普段通り、ヨシュアは赤絨毯の上で片膝をついた。
「陛下。おはようございます」
「うむ。おはようなのじゃ」
「ご機嫌はいかがでございますか?」
「よいぞ」
「それはなによりでございます」
「して、その桶とバッグはなんじゃ?」
そう尋ねたところ、ヨシュアは三段だけある階段をのぼり、近づいてきた。
改めて片膝をつき、桶とバッグをスフィーダの前に置く。
彼女は玉座からおり、しゃがみ込んで桶の中を覗いた。
朱色の絵の具が薄く張られていた。
ヨシュアがバッグから取り出した紙を手渡してきた。
三十センチ四方くらいのサイズ。
ちょっと分厚い――これは色(しき)紙(し)だ。
「ヨシュアよ。どういうことじゃ?」
「実は私邸の近くに、病を患っている少女がおりまして」
「病とな?」
「はい。先はもう長くはないそうでございます」
「……不幸なことじゃ。胸が痛くなる」
「少女は陛下に見舞いに来てほしいと申しております」
「そういうことであれば、わしは喜んでは出向くぞ」
「女王が民と個人的に会うことはゆるされません。いつも申し上げていることでございます」
「じゃが、なんというか、背に腹はかえられんじゃろう?」
「それでも、決め事は守っていただかないと」
「おまえは頭がかたすぎるぞ」
「とはいえ、私なりに、少女のためになにかできないかと考えました」
「どうしようというのじゃ?」
「せめて陛下の存在を身近に感じてもらうために、手形を送ろうかと」
「手形?」
「いけませんか?」
「そんなわけなかろう」
スフィーダは早速、右手を桶に突っ込み、色紙にぺたんと手形をつけた。
バッグから取り出したタオルで、ヨシュアはすかさず手を拭いてくれる。
それから彼は万年筆を手渡してきた。
「サインもいただけますでしょうか?」
「勿論じゃ」
さらさらさらっとサインをした。
スフィーダ、字の上手さには自信がある。
「お手を煩わせて、申し訳ございません」
「かまわん、かまわん」
「早々に渡してまいります」
「そうするがよい」
一時間ほどで、ヨシュアは戻ってきた。
少女は「宝物にするっ」と声を弾ませ、喜んでくれたらしい。
だが、それから三日と経たずに様態が急変し、死んでしまっのだとヨシュアの口から聞かされた。
スフィーダが泣いてしまったことは言うまでもない。
◆◆◆
スフィーダは今日もテラスのプールで、はしゃいでいる。
そして、いつも通り、柱の隣にはヨシュアが立っている。
青空は高く、ぽかぽか陽気に輪をかけたような暖かさである。
スフィーダ、プールサイドに両肘を置いた。
「ヨシュアよ、おまえは本当にわしの体を拭うためだけに控えておるのか?」
「といいますと?」
「実は幼女の水着姿を愛でる趣味があるのではないかと思ってな」
「ご冗談を」
「ああ。冗談じゃ」
そんな他愛のない話であっても、お互いに笑みを深め合う。
スフィーダはプールからあがった。
例に違わず、バスタオルに包まれる。
長い黒髪を乾かしてもらっている間、空を仰いでいた。
「わしはのぅ、ヨシュア。今、とても幸せなのじゃ」
「なにか理由が?」
「我が国の民が愛おしくてたまらんからじゃ」
「陛下はご立派だと存じます」
「どうしてじゃ?」
「ご立派だから、ご立派なのでございます」
「なんじゃ、それは。じゃが、わしの手は血で汚れておる。それは紛れもない事実じゃ」
「当時はそうせざるを得なかったのでありましょう? 中学生でも知っていることでございます」
「幸せじゃとは言ったが、魔女として生まれたことを、少し残念に思っておる」
「しかし、陛下がいらっしゃらないと、この国は絶望に陥ってしまいます」
「わしは単なる象徴じゃぞ? 女王にも祭り上げられたというだけじゃ」
「それでも、陛下は民の心の支えでございます」
スフィーダは自らの両手を見た。
苦笑いが浮かぶ。
二千年も生きているというのに、情けないくらい小さな手だ。
強大な魔法を使えても、腕力はまるでない。
赤子一人を抱き上げるくらいがやっとだろう。
「陛下は自らが人々からなんと呼ばれているか、もちろん、ご存知であらせられますよね?」
「”慈愛の女王”であろう?」
「ふさわしい二つ名だと存じます」
”慈愛の女王”だなんて、過ぎた名だとスフィーダは思う。
だって、彼女は結構、身勝手でわがままだからだ。
その旨をヨシュアに伝えた。
すると彼はいとも簡単に答えた。
「そういった性格も、可愛いうちなのでございます」
「可愛いじゃと?」
「私はそう思っております」
◆◆◆
スフィーダは自らの出生の理由について、時折、思考する。
自分は争いが絶えないヒトの社会をよくするために、この世に遣わされたのだろうか。
それとも、愚かなヒトを滅ぼすために生を受けたのだろうか。
なにせ二千年以上も生きているのだ。
色々と思いをめぐらせたくもなる。
魔女といういかめしい呼び名は、甘んじて受け容れようと思う。
それこそ、二千年もの時間を過ごしているわけだ。
ヒトにとっては、人外の存在でしかない。
それでも、ヒトの気持ちを考え、ヒトに寄り添っていたいというのは、紛れもない本音なのだ。
それが自らの価値であり、また役割なのではないか。
重責だなと感じる。
だが、信念を曲げたり心意気を失ったりはしたくない。
一本、筋の通った女王であり続けたいのである。
スフィーダはこれまで、幾人もの忠臣の死を見届けてきた。
つらいと思ったことは勿論、泣いてしまう夜もあった。
自らを慕ってくれるヒトは、揃って尊敬するに値する。
そう考えているからこそ、彼女はヒトが亡くなったと聞くたびに、悲しみに暮れるのだ。
スフィーダは今日も玉座の隣に控えているヨシュアに声を掛ける。
「正直なところ、ヨシュアはわしのことをどう思っておるのじゃ?」
「唯一無二の存在だと考えております」
「そうではない。もっとこう、心からの感想を聞かせろと言っておる」
「以前にも申し上げました。私は陛下を愛しております」
「そこに恋愛感情みたいなものはあるのか?」
「私には細君がございます」
「まあ、そうじゃな。妻を想ってしかるべきじゃ」
「陛下を恋の対象としているニンゲンは他にいる。その事実だけで、じゅうぶんではございませんか」
「うむ。じゅうぶんすぎるくらいじゃ。でも、やはり奴めも、わしより先に逝ってしまうのじゃ」
「悠久のときを生きるからこそ、刹那を大切にしてくださいませ」
「そんなことを述べる側近は、これまでおらなんだぞ」
「私は思うがままを申し上げているだけでございます」
「気兼ねなく接してもらえることが、わしは嬉しい」
「これかもお仕えいたします。とこしえに」
「また泣いてしまいそうじゃ」
「お泣きになるのであれば、私室にてお願いいたします」
「ほんに、おまえはドライじゃのう」
スフィーダは笑った。
幸せすぎて、半泣きの顔になってしまったかもしれない。
見た目は七つやそこらのまま、スフィーダは二千年以上も生きている。
ゆえに、人々からは魔女と称されたり、神と崇められたりしている。
そんなスフィーダの現状の立ち位置は、プサルムという国の女王である。
偉いのである。
尊いのである。
おまけに美少女なのである。
とはいえだ。
偉いのは、単なるヒエラルキーの話だ。
尊いのだって、客観的な評価にすぎない。
美少女だという点については、生まれついての性質としか言いようがない。
立場に基づく実務に多大なる責任が伴うことは承知している。
尊敬を集めるべく毅然と振る舞わなければならないことも肝に銘じている。
だが、容姿は結構どうでもよくって、かくあるべきなどと考えたことすらない。
いつ何時も、民に寄り添う女王であろう。
そのたった一つの信念、モットー、精神、構成要素、あるいは成分で、スフィーダの小さな体はできている。
◆◆◆
現在、スフィーダのかたわらには、優秀な部下がいる。
ヨシュア・ヴィノーという男である。
十(とお)も飛び級して大学を卒業した。
十二で教鞭をとった。
十六で軍に入り、瞬く間に昇進、二十歳の若さで軍司令にまでのぼり詰めた。
それとときを同じくしてスフィーダの最側近となった。
まさに天才中の天才、稀代の逸材なのである。
ヨシュアは現在、二十三歳。
生まれつき左目の視力が弱いらしく、それもあってトレードマークは片眼鏡。
まとう白い魔法衣の胸元には紫色の薔薇を模した刺繍が施されており、花弁の真ん中では大ぶりのルビーが洗練された輝きを放っている。
艶やかな銀髪と綺麗な碧眼が特徴的な美丈夫なので、軍人、文民、庶民を問わず、女性人気がことのほか高い。
彼に妻があることを知りながら、恋文をしたためる女(おな)子(ご)も少なくないという。
◆◆◆
政(まつりごと)を担う大臣はいることだし、戦《いくさ》の指揮をとる将軍もいる。
よほど重要な議題でない限り、女王たるスフィーダの判断は必要とされない。
国の運営は、極力、ヒトの手に委ねるのが彼女の大方針でもある。
すなわち、国家元首というのは一つの記号にしかすぎないということだ。
プサルムにおいて女王とは基本的に象徴であり、また象徴でしかないのである。
よって、スフィーダという個人が仕事に忙殺されるなんてことはない。
手が空いていることが多い。
否、結構、暇だ。
もっと言うと、水晶で造られた無駄に背もたれの高い玉座を尻で磨いているだけの時間は、暇で暇でしょうがないのだ。
ゆえに白いビキニをつけて、今日もテラスのプールで泳ぐのだ。
バシャバシャバシャバシャ水を掻いて蹴ってして、はしゃぐのだ。
さて、そんなふうに水遊びに興じていると、そのうち、気づかされるわけだ。
白い柱の隣に立っている人影に、自然と目が行くわけだ。
いつも、そうなのだ。
侍女はきちんといるのだが、決まってヨシュアがバスタオルを持って待ち構えているのである。
スフィーダがプールから上がると、彼は静かな歩様で近づいてきて、彼女のことをそっとタオルで包んでくれる。
当初、「自分の体ぐらい自分で拭けるわいっ!」と拒んだスフィーダである。
しかし、言っても聞かなかった。
触れられるのが煩わしくて、逃げ回ったこともある。
しかし、すぐに捕まってしまった。
「お風邪を召されては困りますから」
とのことだった。
忠誠心が旺盛なのだ。
ちょっとおせっかいがすぎるくらい。
◆◆◆
スフィーダは、眠い目をこすりつつ、玉座の裏手にある私室から出た。
いつもの通り、ヨシュアは玉座の脇に控えており、彼のしゅっとした背中が見えた。
ヨシュアはゆっくりと身を翻し、穏やかな微笑を浮かべたのだった。
「陛下。おはようございます」
「ああ。おはようなのじゃ、よひゅあぁ~……」
名を呼ぼうとしたところで、途方もなく大きなあくびが出てしまった。
スフィーダのそばまで来たヨシュアが膝を折り、ダイヤやクリスタルで彩られた純白のドレスの乱れを正してくれる。
「陛下、よだれが」
そう言って、親指で口元を拭ってくれた。
ようやっとスフィーダは、ちょこんと玉座についた。
その隣に、ヨシュアが控える。
ヨシュアは肘を抱えて目を閉じたまま。
いっぽうで、スフィーダは脚をぷーらぷら。
「暇じゃー、暇じゃー、ヨシュアよ、わしはメチャクチャ暇なのじゃー。なにか仕事はないものかのぅ」
「現状、陛下のお手を煩わせるような事案は一つもございません」
「むぅ。ならば仕方あるまい。プールで泳ぐぞ」
「今日は少し寒うございます。お控えを」
「むむぅ」
玉座の間は、中央に赤絨毯が敷かれている以外は真っ白である。
南北は壁、東西は柱だ。
その柱の間から見渡せる空は晴天なのだが、確かに幾分、空気が冷たい。
年がら年中ぽかぽか陽気のプサルムにだって、そんな日もあるのだ。
「ならば、じゃんけんでもするか」
「仰せのままに」
「よしっ。やるとなれば、せっかくじゃ。罰ゲームを決めねばならぬな」
「なんなりと」
「そうじゃな……うむっ。わしが勝ったら、お姫様抱っこをしろ。そしてそのまま、宙を舞えっ」
なんとも子供じみた罰ゲームではあるが、パッと思いついたのだから、しょうがない。
しかし、考えようによっては、なかなかの名案なのではないか。
存分に空中遊泳を楽しんだあと、地に降り立って、民衆を驚かせてやろう。
そんな愉快な想像まで頭に浮かんでしまう。
「それでは、私からの罰ゲームを申し上げます」
「おうおう。なんでも申してみるがよいぞ」
「私が勝ちしましたら、向こう一年間は、玉座と私室を行き来するだけにしてくださいませ」
「プールもいかんのか?」
「無論でございます」
「では、城内の散歩も?」
「当然」
「む、むぅ。その条件は、あまりにもからすぎやせんか?」
「そうお思いになるのなら、じゃんけんはやめにいたしましょう」
「い、いや、やるぞ。わしにとってどれだけリスキーであろうと、一度決めたことはやるぞ」
「であれば」
「うむっ」
じゃーんけーん、ぽん。
パーとグー。
スフィーダ、見事に散った。
「の、のぅ、ヨシュアよ。やはり、あまりに無慈悲すぎる罰ゲームであるような気がするのじゃが……」
「実は冗談で申し上げてみました」
「じょ、冗談とな!?」
「はい。陛下にはストレスとは無縁であっていただきたいと考えておりますので」
「わしをからかいおったのか!」
「そう解釈されるのも止む無しかと存じます」
スフィーダはぷんぷん怒って、玉座の上に立ち上がった。
するとだ。
ヨシュアがひょいとお姫様抱っこをしてくれた。
「サービスでございます」
そう言って、ヨシュアはスフィーダを抱いたまま、くるっと一回転したのだった。
◆◆◆
スフィーダはその日も「暇じゃー、暇じゃー」と心の中で唱えつつ、玉座の上で膝から下をぷらぷらさせていた。
そこにヨシュアが現れた。
赤絨毯の上で立ち止まり、片膝をついてみせた。
「陛下。ご機嫌はいかがでございますか?」
「うむ。悪くないぞ。じゃが、やっぱり暇で暇でたまらんのじゃ」
「暇を持て余すことも、仕事の一つだとお考えくださいませ」
「それはわかっているつもりじゃ。ときにヨシュアよ。クロエは元気でやっておるか?」
「とても元気でございます」
「それはなによりじゃ」
クロエとは、ヨシュアの妻である。
二年ほど前に結婚した。
式は挙げなかった。
それが二人の意向だったらしい。
スフィーダ、クロエを見たことがない。
だからしきりに「会わせろ」と言っている。
だが「一般人の謁見をゆるしていてはキリがありません」と突っぱねられてしまう。
「それにしても、暇なのじゃー。書類にぽんぽん印を押すだけでもよい。なにかないのか?」
「ヒトの営みはヒトに任せる。それが陛下のご意向なのでございましょう?」
「まあそうなんじゃが。それでもこう、なにもやることがないというのはじゃな」
「なれば、一つ報告を。取るに足らない事項ではございますが」
「おぉ、おぉぉ。なんでもよいぞ。聞かせてみるのじゃ」
「実は昨夜の零時過ぎ、ドル・レッドが首都直上に姿を現しました」
「なっ! ドル・レッドじゃと!」
ドル・レッドとは、炎のように真っ赤な肌をしている翼竜のことだ。
筋骨隆々の体つきで、身の丈は三メートルほど。
小ぶりだが、実力は一騎当千。
二つ名は”最後の知恵ある竜”という。
しばしばであちこちの国で暴れ回ることから、人々からは魔竜とされている。
遠い以前にも、竜はこの首都に来襲したことがある。
その際には、スフィーダが一人で相手をした。
彼女は世界屈指の魔法使いとされている一人なのである。
取り逃がしたわけではない。
向こうが「退(ひ)く」と言ったので、見逃してやったのだ。
魔物であろうと、なるべく殺めたくないというのが、スフィーダの考え方である。
「なぜ、即刻、わしに知らせんかった!」
スフィーダは玉座の上に立ち、ぷんすか怒った。
「竜は、それはもう大きな咆哮をあげました」
「むむっ。そうなのか?」
「はい。ですから、陛下が真っ先に飛び出していかれるものと考えておりました」
「ぐ、ぐぬっ、それはじゃな」
「陛下の眠りは、とてつもなく深いようでございますね」
「ぐっ、ぐぬぬぬぬっ」
「いずれにせよ、陛下の安眠を妨げることにはならず、幸いでございました」
ヨシュアは口元を緩めてみせた。
彼の微笑みを見ると、なんだか肩の力が抜けてしまうのである。
スフィーダは玉座にすとんと座り直した。
「しかし、竜が現れたわけじゃ。パニックに陥った民もいたのではないのか?」
「いたかもしれませんが、すぐにご退場いただきましたので」
「事後の処理は?」
「危機は去ったという私の発言を掲載するよう、各新聞社に触れを出しました」
「そうか。おまえの言葉とあれば、民も安心することじゃろうな」
「恐れ入ります」
「ドル・レッドめは魔物のくせに移送法陣を使える。まったくもって厄介な奴じゃ」
「”最後の知恵ある竜”の名は、伊達ではないということでございましょう」
移送法陣とは、すなわち、ワープである。
それが使用できるから、竜はほうぼうに突如として姿を現すことができるのだ。
「相手は、おまえ一人でしたのじゃな?」
「さようでございます」
「まあ、おまえほどの男がなにを成したところで、今さら驚きはせんが」
「恐縮の限りでございます」
「なんでも速やかにこなしてしまうおまえが右腕である限り、わしの退屈は続きそうじゃのぅ」
「重ねてになりますが、それが陛下のあるべき姿だと考えております」
◆◆◆
前日に、会談の要請を受けた。
言わずもがな、相手は要人である。
スフィーダと同じく、悠久のときを生きる魔女だ。
アーカムという国の主統治者であり、名はネフェルティティという。
アーカムは砂漠の多いところである。
だからネフェルティティは、”熱砂の女王”などと呼ばれる。
スフィーダ、実はネフェルティティのことが好きではない。
どちらかと言えば、嫌いである。
いつも偉そうに、上から目線でしゃべるからだ。
といっても、話し合いに応じないわけにはいかない。
プサルムとアーカムは同盟関係にあるのだから。
ネフェルティティは、決まって巨大な飛空艇でやってくる。
だから、スフィーダはヨシュアとともに、客人用の船着き場で待っていた。
出迎える準備は万端である。
飛空艇はゆっくりと降下し、着陸した。
プロペラの動きが止まると、そのうち、使いらしき者が、階段を下りて船内から出てきた。
黄色い布をまとい、白い腰巻きをつけているその男は、スフィーダの前まで来ると片膝をついた。
「スフィーダ様。ネフェルティティ様より仰せつかりました。乗船されよとのことでございます」
「乗船しろじゃと? こちらは食事の用意までしておるのじゃぞ?」
「食事は結構だと申されております。毒を盛られてはかなわないと」
「そんな真似、するわけがないじゃろうが!」
「とにかく、おいでください」
黄色い布の男は立ち上がるなり、身を翻した。
ついてこいと言わんばかりの態度である。
「ぐぬぬぬぬっ。ネフェルティティめ。なんたる無礼な振る舞いか」
「そのお気持ちは理解できますが、文句を言っても始まりません」
「ヨシュアよ、おまえはネフェルティティに対して寛大すぎやせんか?」
「寛大もなにも、ネフェルティティ様は女王であらせられますので、敬意を払うのは当然かと」
「むぅ……」
「まずはお目にかかることにいたしましょう」
黄色い布の男のあとに続き乗船した。
船内の腹にあるネフェルティティの居室へと案内され、ヨシュアを後ろに従え中へと入った。
甘い匂いがする香(こう)がたかれているのは、なんともいただけない。
白い煙が部屋中に漂っていて、それも非常にうっとうしい。
ネフェルティティは、金(こん)色(じき)の椅子に座っていた。
浅黒い肌を覆うドレスも金(きん)で彩られている。
黒いおかっぱ頭の上にのっているティアラまで金製である。
金(きん)色(いろ)にこだわりがあるのはかまわないが、品がないように映ってしょうがない。
ネフェルティティの隣に立っている女に目をやった。
見たことのない、若い女だ。
紺色のローブには大胆なスリット。
体を包み込むような紅色のマント。
髪の色も紅色だ。
「そっちの女は何者じゃ?」
「わらわの右腕である。フェイス・デルフォイという」
「フェイス・デルフォイ。ヨシュア、おまえは知っておるか?」
「”魔女に最も近い者”とされている女性です。拝顔するのは、私も初めてでございますが」
「よくもまあ、そんな女を手なずけたものじゃな」
「わらわには人望があるのでな」
「自分で抜かすな」
「しょうがなかろう? 事実であるぞ」
「それで、今日はなんの用なのじゃ?」
「率直に申そう。ヨシュア・ヴィノー閣下をもらい受けにきた」
「なっ、なんじゃと!?」
「プサルムにおける大将、それにおまえの最側近という役割は、閑職であろうと思うてのぅ」
「そ、それはじゃな」
「わらわの言い分は間違っておるか?」
「ぐぬ、ぐぬぬぬぬっ」
「わらわなら、ヴィノー閣下を、最高の待遇をもって迎え入れるぞよ?」
スフィーダはちょっと弱気になってしまい、隣に立っているヨシュアを思わず見上げた。
「ヨ、ヨシュアよ、おまえはどうしたいのじゃ? どうありたいのじゃ?」
「ネフェルティティ様」
「なんであろう? ヴィノー閣下」
「少々、お時間をいただけますでしょうか。書面にて回答いたします」
「あいわかった。なれば、しばし停泊させてもらおう。スフィーダよ、もう行ってよいぞ」
「偉そうに申すなっ!」
スフィーダはヨシュアを連れ、飛空艇をあとにした。
ぷんすか怒ったまま城内に入り、最上階の玉座の間へと戻った。
玉座についていると、徐々に怒りがおさまった。
おさまったのだが、今度は強烈な不安感に襲われた。
「の、のぅ、ヨシュアよ。おまえはネフェルティティに仕えるつもりなのか?」
「さあ。どうでございましょう」
「はぐらかすのはよさんかっ」
「まさか、デルフォイ氏ともあろう女性が、アーカムにいるとは思いませんでした」
「それほどの使い手なのか?」
「はい。私など遠く及ばないことだろうと存じます」
「では、もうアーカムに戦力など必要ないじゃろう? い、いや、そんなことはどうでもよくてじゃな」
「私がおらずとも、プサルムの大勢には、まったく影響がございません」
「そそ、そんなことはないじゃろう? と、というか、ネフェルティティは危ないぞ? いたずらに戦地を広げてばかりいるのじゃぞ?」
「それは承知しております」
「奴めに魅力を感じておるのか?」
「お答えしかねます」
「じゃから、はぐらかすのはよせと言っておろうに!」
「どういった返事を差し上げたかは、事後、報告いたします」
夜、いつも熟睡するスフィーダであるが、その日はさすがに寝つけなかった。
ヨシュアは偶然、この国に生まれたから、ここに身を置いているのではないか。
となると、別にプサルムに愛着などないのではないのか。
そんなことまで考えた。
やがて、朝を迎えた。
寝間着である白いワンピースから、純白のドレスに着替え、私室をあとにした。
今日も玉座の脇にヨシュアが控えており、彼はくるっと身を翻した。
いつも通りの微笑を浮かべる。
「陛下。おはようございます」
「うむ」
「よく眠れましたか?」
「わしに眠れん夜などありはせん」
「目の下にくまがございますが?」
「き、気にせんでいい。……それで」
「はい?」
「いや、その、あのじゃな……」
スフィーダは、ドキドキしている。
ヨシュアがどんな返答を寄越してくるのか、ドキドキしている。
「ネフェルティティ様からの、お誘いの件でございますか?」
「う、うむ。まあそうじゃ。わしはそんなこと、気にも留めておらんがの」
「陛下に止められるようであれば、私はそれに従うより他ございません」
「個人の判断は尊重するぞ」
「やはりお優しい」
「ということは、その、やはりおまえは……」
「丁重に、お断りいたしました」
「へっ、そうなのか?」
「私はこの国を、プサルムを愛しておりますので。無論、陛下のことも愛しております」
「ほ、本気で言っておるのか?」
「勿論でございます」
スフィーダ、おもむろに、体を預けるようにして、のっぽなヨシュアに正面から抱きついた。
「おまえがいなくなってしまったら、どうしようかと思ったぞ……」
「熟慮はおろか、考えるまでもないことでございました」
「なれば、その場ですぐに断ればよかったじゃろうに」
「陛下に少し、意地悪をしてみた次第でございます」
「タチが悪いぞ」
「私は陛下のそばにおりますゆえ」
「本当か?」
「嘘など申し上げません」
「泣いてしまいそうじゃ」
「侍女らが見ております。お控えを」
◆◆◆
ヨシュアが玉座の間に入ってきた。
なぜだろう。
彼は右手に木製の小さな桶を持ち、左手には持ち手の付いた布製の簡素なバッグを提げている。
下に桶とバッグを置くと、普段通り、ヨシュアは赤絨毯の上で片膝をついた。
「陛下。おはようございます」
「うむ。おはようなのじゃ」
「ご機嫌はいかがでございますか?」
「よいぞ」
「それはなによりでございます」
「して、その桶とバッグはなんじゃ?」
そう尋ねたところ、ヨシュアは三段だけある階段をのぼり、近づいてきた。
改めて片膝をつき、桶とバッグをスフィーダの前に置く。
彼女は玉座からおり、しゃがみ込んで桶の中を覗いた。
朱色の絵の具が薄く張られていた。
ヨシュアがバッグから取り出した紙を手渡してきた。
三十センチ四方くらいのサイズ。
ちょっと分厚い――これは色(しき)紙(し)だ。
「ヨシュアよ。どういうことじゃ?」
「実は私邸の近くに、病を患っている少女がおりまして」
「病とな?」
「はい。先はもう長くはないそうでございます」
「……不幸なことじゃ。胸が痛くなる」
「少女は陛下に見舞いに来てほしいと申しております」
「そういうことであれば、わしは喜んでは出向くぞ」
「女王が民と個人的に会うことはゆるされません。いつも申し上げていることでございます」
「じゃが、なんというか、背に腹はかえられんじゃろう?」
「それでも、決め事は守っていただかないと」
「おまえは頭がかたすぎるぞ」
「とはいえ、私なりに、少女のためになにかできないかと考えました」
「どうしようというのじゃ?」
「せめて陛下の存在を身近に感じてもらうために、手形を送ろうかと」
「手形?」
「いけませんか?」
「そんなわけなかろう」
スフィーダは早速、右手を桶に突っ込み、色紙にぺたんと手形をつけた。
バッグから取り出したタオルで、ヨシュアはすかさず手を拭いてくれる。
それから彼は万年筆を手渡してきた。
「サインもいただけますでしょうか?」
「勿論じゃ」
さらさらさらっとサインをした。
スフィーダ、字の上手さには自信がある。
「お手を煩わせて、申し訳ございません」
「かまわん、かまわん」
「早々に渡してまいります」
「そうするがよい」
一時間ほどで、ヨシュアは戻ってきた。
少女は「宝物にするっ」と声を弾ませ、喜んでくれたらしい。
だが、それから三日と経たずに様態が急変し、死んでしまっのだとヨシュアの口から聞かされた。
スフィーダが泣いてしまったことは言うまでもない。
◆◆◆
スフィーダは今日もテラスのプールで、はしゃいでいる。
そして、いつも通り、柱の隣にはヨシュアが立っている。
青空は高く、ぽかぽか陽気に輪をかけたような暖かさである。
スフィーダ、プールサイドに両肘を置いた。
「ヨシュアよ、おまえは本当にわしの体を拭うためだけに控えておるのか?」
「といいますと?」
「実は幼女の水着姿を愛でる趣味があるのではないかと思ってな」
「ご冗談を」
「ああ。冗談じゃ」
そんな他愛のない話であっても、お互いに笑みを深め合う。
スフィーダはプールからあがった。
例に違わず、バスタオルに包まれる。
長い黒髪を乾かしてもらっている間、空を仰いでいた。
「わしはのぅ、ヨシュア。今、とても幸せなのじゃ」
「なにか理由が?」
「我が国の民が愛おしくてたまらんからじゃ」
「陛下はご立派だと存じます」
「どうしてじゃ?」
「ご立派だから、ご立派なのでございます」
「なんじゃ、それは。じゃが、わしの手は血で汚れておる。それは紛れもない事実じゃ」
「当時はそうせざるを得なかったのでありましょう? 中学生でも知っていることでございます」
「幸せじゃとは言ったが、魔女として生まれたことを、少し残念に思っておる」
「しかし、陛下がいらっしゃらないと、この国は絶望に陥ってしまいます」
「わしは単なる象徴じゃぞ? 女王にも祭り上げられたというだけじゃ」
「それでも、陛下は民の心の支えでございます」
スフィーダは自らの両手を見た。
苦笑いが浮かぶ。
二千年も生きているというのに、情けないくらい小さな手だ。
強大な魔法を使えても、腕力はまるでない。
赤子一人を抱き上げるくらいがやっとだろう。
「陛下は自らが人々からなんと呼ばれているか、もちろん、ご存知であらせられますよね?」
「”慈愛の女王”であろう?」
「ふさわしい二つ名だと存じます」
”慈愛の女王”だなんて、過ぎた名だとスフィーダは思う。
だって、彼女は結構、身勝手でわがままだからだ。
その旨をヨシュアに伝えた。
すると彼はいとも簡単に答えた。
「そういった性格も、可愛いうちなのでございます」
「可愛いじゃと?」
「私はそう思っております」
◆◆◆
スフィーダは自らの出生の理由について、時折、思考する。
自分は争いが絶えないヒトの社会をよくするために、この世に遣わされたのだろうか。
それとも、愚かなヒトを滅ぼすために生を受けたのだろうか。
なにせ二千年以上も生きているのだ。
色々と思いをめぐらせたくもなる。
魔女といういかめしい呼び名は、甘んじて受け容れようと思う。
それこそ、二千年もの時間を過ごしているわけだ。
ヒトにとっては、人外の存在でしかない。
それでも、ヒトの気持ちを考え、ヒトに寄り添っていたいというのは、紛れもない本音なのだ。
それが自らの価値であり、また役割なのではないか。
重責だなと感じる。
だが、信念を曲げたり心意気を失ったりはしたくない。
一本、筋の通った女王であり続けたいのである。
スフィーダはこれまで、幾人もの忠臣の死を見届けてきた。
つらいと思ったことは勿論、泣いてしまう夜もあった。
自らを慕ってくれるヒトは、揃って尊敬するに値する。
そう考えているからこそ、彼女はヒトが亡くなったと聞くたびに、悲しみに暮れるのだ。
スフィーダは今日も玉座の隣に控えているヨシュアに声を掛ける。
「正直なところ、ヨシュアはわしのことをどう思っておるのじゃ?」
「唯一無二の存在だと考えております」
「そうではない。もっとこう、心からの感想を聞かせろと言っておる」
「以前にも申し上げました。私は陛下を愛しております」
「そこに恋愛感情みたいなものはあるのか?」
「私には細君がございます」
「まあ、そうじゃな。妻を想ってしかるべきじゃ」
「陛下を恋の対象としているニンゲンは他にいる。その事実だけで、じゅうぶんではございませんか」
「うむ。じゅうぶんすぎるくらいじゃ。でも、やはり奴めも、わしより先に逝ってしまうのじゃ」
「悠久のときを生きるからこそ、刹那を大切にしてくださいませ」
「そんなことを述べる側近は、これまでおらなんだぞ」
「私は思うがままを申し上げているだけでございます」
「気兼ねなく接してもらえることが、わしは嬉しい」
「これかもお仕えいたします。とこしえに」
「また泣いてしまいそうじゃ」
「お泣きになるのであれば、私室にてお願いいたします」
「ほんに、おまえはドライじゃのう」
スフィーダは笑った。
幸せすぎて、半泣きの顔になってしまったかもしれない。
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