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3章 夜空のダイヤモンド
53話
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広大な海と夜空。あまりに綺麗で息を呑む光景。静かに海が波打つ音の中、ぼんやりと月明りに照らされたそこに、詩音くんはいた。
振り向いた詩音くんの髪を、強い風がなびかせる。腕で風を阻む僕とは違って、彼は目にかかったその髪を避けることもせずに、ただ真っすぐに僕を見据えていた。
顔が見える距離ではなかった。でも。確かに詩音くんは僕を僕だとわかったうえで見つめて、なのにまたすぐに海へと向き直った。
それは、彼なりの拒否の示し方なのかもしれない、と思う。でも。それでも僕はゆっくりと雪を踏みしめ、彼の方へと歩み寄っていった。
後悔していた。僕はもっと、彼といたかった。周りに反対されようとも。どれだけ傷つこうとも。例え、僕はひなたの次の存在で、二番目だったとしても。
詩音くんの隣にいられたのなら、何でもよかった。
彼は僕の足音に気づいていないのか、それともただ無視をしているのか。振り返ることもなければ、海や星を楽しむように首を動かすことすらしない。ただ、そこにいるだけだった。
ようやく、彼の隣に並んだ。昨日とは違って随分と距離はあるけれど、でも確かに、僕は詩音くんの隣にいた。
彼の少し早い息遣い。柵を握りしめた時の鉄の音。肩に力がこもって立った、ダウンの擦れる音。全部全部、わかる距離にいた。もしかしたら、僕の心臓の音も聞こえているかもしれないと不安になる程に。しかし。詩音くんの様子は、僕が隣に立っても同じだった。
こんなに近くにいるのに彼は話しかけてくれることは愚か、僕の方を見ようともしない。これが、彼の応えだと思った。だから。僕も黙って、昨日よりも澄んだ海を見下ろした。
そういえば、と思う。今日は一茶とひなたに、この光景を見せてやりたくてここに来たんだっけ。スマホを取り出すべくコートのポケットへ手を入れる。しかし、僕はすぐにまたその手を出した。
昨日は、この光景を写真に収めようという気も起きないくらい感動していたのに。そう考えると、せっかくのこの綺麗な光景もどこか味気なく思えたから。
ふと、隣で鼻水をすする音がした。大方、随分と前からこんなところでこうしていたのだろう。いくら暖かい日といえど、風邪を引くのも無理はない。はぁ、とため息を一つ。僕は彼の方を見て、柵に頬杖をついた。
「風邪ひいたん」
しかし、彼はその問いには答えなかった。真っ赤に染まった指先で強く目を擦り、海を見据えたままに彼は言った。
「楓」
そう僕の名を呼んだ声は、涙で震えていた。
「お腹空かない?」
突然の問いだった。絶え間なく吹き付ける強い風のせいで、僕が聞き間違えたのかもしれない。でも。かと言って内容を聞き返せるような雰囲気でもなくて、どうしようもなく口を閉ざす。
そんな僕にどんな感情を抱いたのか、詩音くんはまるで何かを諦めたようにふっと息を吐いて、そしてようやく僕を見た。
詩音くんの瞳は、その冷えて染まった頬よりも更に真っ赤に染まっていた。濡れた頬が、煌びやかに月明りを反射している。その雫を拭ってあげなくてはいけないはずなのに、気づけば僕はその様に見惚れていた。だって、目の前の海よりもよほど綺麗だった。
彼はとめどなく零れる雫を拭うこともなく手を伸ばし代わりに僕の頬を擦って、そしてまるでただの幼馴染であったあの時のように、楽しそうにハハと笑い声を響かせた。
「聞いて、楓。俺まだ今日の夜ご飯の予約、キャンセルできてない」
僕は、言葉を返せなかった。
だって彼は大粒の涙を顎から滴らせているのに、それはもう本当に可笑しそうに笑うのだ。何が彼をそうさせているのか、僕にはわからなかった。
彼は続けた。
「今日ね、ゲーセンで気分転換でもしようと思ったんだけど。楓がいてくれたら楽しかっただろうなとか、楓なにしてるかなだとか、そんなことしか考えられなくて。もう別れたのに、ダサいよね、ほんと」
まるで、本気で愛されているようだ、だなんてもう思えなかった。
「それでさ」と詩音くんが可笑しそうに柵を軽く叩いた。「そんな話を、元カノに笑い話として話しちゃう感じが、一番ださいよね。未練タラタラで」
まるで、じゃない。本気にしか、思えなかった。
どう見ても強がりなその笑みは見ていて痛々しくて。その涙を拭いたいと思った。でも。体が、動かなかった。
「ねぇ、楓」と再び彼は僕を呼んだ。
「なん、ですか」
つい堅くなった返事を、彼は笑った。
「ごめんね、楓。俺まだ、楓のこと愛してる」
そして彼は初めて、自身の涙を手の甲で強く拭った。
それを皮切りに、涙は余計に堰を切ったかのように次から次へとあふれ出した。
「俺、大切にしてきたつもりだった。楓のことちゃんと好きだって自覚してからは手出さなかったし、女の子とご飯行かれても我慢した。楓がひなたと距離近いのも、一茶ばっかに頼るのも、全部すっごい嫌だった。でも、きっと我慢する方が楓のためになるって、そう、思ってたのに……ッ」
しゃくりあげて息を詰まらせながら、必死に紡がれた言葉。その言葉はあまりに生々しい彼の心の叫びで、胸が苦しい。柵を握りしめた彼の手は、力が入りすぎて白くなっていた。
よく、わからなかった。だって、この前まで詩音くんはひなたが好きだった。初めての時あんなに乱暴に行為に至ったくせに、その後は一転。僕の身体に興味を持ってすらくれなかった。女の子と遊んでも怒ってくれなかった。そう、僕は思ってた。でも。
「大切に、してくれてはったん……?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。こんな声じゃ、きっと彼に届かない。そう思った。でも。彼は風の雑音の中に、僕の声を見つけてくれた。
「あたりまえだろ!」と、彼は僕の両肩を優しく掴み、そして強く強く抱きしめた。「途中から気付いてたんだ。俺ずっと昔から、楓が好きだった。ここ数年とかの話じゃない。もっとずっと前から」
目が、じわっと熱くなった。ずっとずっと、この言葉が欲しかった。愛されたかった。僕がいいって、言って欲しかった。
でも、と僕は彼の背中に回しかけた腕にブレーキをかける。彼の言っていることを信用するには、どうしても足りなかった。
「なんで」と、僕は強く自身のコートを握る。「ひなたのこと好きだったやん」
「ひなたは、なんというか。甘え上手で、素直で、子供っぽいところが、放っておけなくて……今でも大切な気持ちはあるんだけど……よくわかんない。でも、一つ言えるのは。ひなたへの感情と今楓に抱いてる感情は全く別物で。楓には、もっとこう……大切ってだけじゃ足りなくて。ドキドキしてモヤモヤして……全然いつもの俺じゃいられない。なんか」
彼は、そこで言葉を詰まらせた。あまりに真剣な顔をする詩音くんに、思わず息を吞む。彼は言葉を探すように何度か息を吸っては吐いてを繰り返した後、ポツリと零すように呟いた。
「すき、なんだよね」
聞いた瞬間、涙は我慢したのに喉の奥になにかがつっかえたようにしゃくりあげた。
慌てて顔を伏せて、握った拳に力を籠める。
「僕のこと、全然見てくれなかったやん」
「案外鈍感だよね」と、彼は笑って僕の頭を優しく撫でた。
「見てたよ。ずっと見てた。完璧主義で、格好つけたがり屋で、でもそんな自分が案外嫌いじゃないとことか。寂しくてバイトに逃げてたこととか。ストレス溜まると綺麗好きに拍車がかかることも。楓のことなら、全部知ってる。俺と付き合っても、少しも幸せじゃなかったのも。知ってた」
詩音くんはそう言って鼻水を啜り、僕の頭に置いた手を再び背中へ回した。その力が案外強くて。彼は僕のことを彼女だというけれど、女の子だったら潰れていたと思う。
「でも、付き合ってすぐの時はあんなに毎日押し倒してきたのに、最近は触ってすらくれなかった。僕の誕生日の夜も、僕めっちゃ頑張って誘ったのに、断ったやん」
「だって。楓が俺とシたい理由は、ただの愛の確認でしょ? それなら、他のやり方もあるよ。楓、毎回痛そうだったから。だから誕生日くらい、もっと特別な方法で愛してやりたかった。でも……ごめんね。楓に誘われて興奮して、俺そのあと全然構ってあげられなかった」
不安だったことをぶつけると、彼はそのどれもを愛で否定した。どれも歯が浮くよう照れくさい話ばかりで、でも嬉しくて。気づいたらもう、我慢したはずの涙は瞳から零れだしてしまっていた。もう十分だった。
しかし、僕を抱きしめる詩音くんはわざわざ僕の顔を覗き込んで優しく微笑みを浮かべた。
「他には?」
他なんて、と思う。
言っても全部、詩音くんなら否定してくれるのがもう、わかったから。
「もう……」
もうない、と。そう言いかけて、僕は制止する。そう言えば、と思う。一つだけあった。それは、僕が一番苦しかったこと。別れを決心するきっかけになったこと。
僕は涙がバレるのも構わずに顔を上げて、彼の瞳をしっかりと見据えて口を開いた。
「誕生日に詩音くんがくれた指輪。どうして取り返したん」
詩音くんは、ハッとして僕の背中に回した腕を解きその両手を自身の口元へもっていく。そして、ニヤリ口角を上げてその左手を僕の目の前に掲げた。その薬指には昨日から気になっていた、指輪がはまっていた。
「それのことやって。元カノから取り上げた指輪してるとか、悪趣味極まりないやろ」
そう、目の前の手を掴む。しかし、彼は慌ててその手を振り払い指輪を隠すように左手を背後に回して後ずさった。
「これは俺の!」
なんなんだ、と思う。返す気がないのなら見せなくてもいいだろうに。
少しは彼の愛を信用できたとはいえ、あの手の届かない指輪を見るとなんだか複雑な気持ちになる。思わず目を伏せると、詩音くんは慌てて僕の頭に手を置いた。
「ごめんって、泣かないで?」
そして、彼はダウンのポケットへ手を突っ込み、小さな箱を取り出した。
「本当はさ。昨日こうする予定だったんだよ。でも、楓が先走るんだもん。ほんと、困った子なんだから」
詩音くんがかじかんだ手で手こずりながら、その小箱を開ける。そこには、あの日見たものと同じ、そして今詩音くんの指にあるものと同じ、綺麗な指輪が入っていた。
言葉が、出なかった。
詩音くんは雑に箱をポケットへしまい込むや否や、右手に指輪を持ちそして左手を僕に差し出した。
「楓、愛してます。俺と、付き合ってください」
とてもシンプルな言葉だった。でも、詩音くんのその紫がかった瞳が僕を見つめるその視線は、真剣そのものだった。
風が、吹きつけた。一瞬、前髪を守ろうと右手が動く。しかし。
僕はその手を下げそして、左手を彼の差し出した左手へと重ねた。
唇が震える。でも。伝えたかった。
「僕も、好き」
不器用な左手が強く握るから、少し痛かった。彼の緊張した荒い息で、頬がくすぐったかった。でも。心地よかった。
詩音くんの震えた右手が、僕の薬指に指輪を通した。そしてすぐに、その両手が僕の手を包んだ。
「ありがとう」
その声は震えていた。でも。その涙でぐしゃぐしゃな詩音くんも、やっぱりかっこよかった。
「なぁ」と僕は彼を見上げる。「ぎゅーしてええか?」
「もちろん」と、詩音くんは一足先に僕を強く抱きしめた。
僕を包む偽りのないぬくもりが、暖かかった。だから僕もまた、遠慮なく彼の背中へと手をまわした。
そこに、言葉はなかった。言葉では到底言い表せない程の愛が、そこにはあった。
彼の肩へ顔を埋めると、彼は僕の後頭部を優しく擦った。昨日は僕が宥める側だったのに。でも。受け入れてくれる人がいるというのがなんだか嬉しくて。僕は今まで一人で泣いた分も合わせて、ただ泣いていた。
ありがとう、と。その言葉は、今後しっかりと愛という形にして返していこうと思う。
そうして星の位置すらも随分と西へと移動してしまった頃。まだまだ感情は収まらないのに、気づけば風が涙を乾かしてしまった。それでもヒクヒクとしゃくり上げるのが恥ずかしくて顔を伏せ続ける。詩音くんはそんな僕の頭を自身の胸に埋めさせて、後頭部を摩り続けていた。
「落ち着いた?」
まだまだ落ち着かない、とは思う。けれど。それではキリがないので、僕はゆっくりと頷いて返した。僕が頷くや否や、彼は僕の両頬を手で包み顔を上げさせ、額へ口づけを落とした。
「昨日とは立場が逆になっちゃったね」と彼は笑う。
「昨日は詩音くんが号泣してたもんなぁ」
僕も、気づけばふふと笑みが漏れていた。
「だって。俺、まさか楓に振られると思ってなかったからびっくりしちゃったもん。あのまま告白やり直してOKもらうつもりでいた」
詩音くんもまた楽しそうにケラケラと笑って、僕の頭を撫でた。きっと、元気づけようとしてくれているのだろう。彼の親指が、僕の目尻を拭う。僕も、そろそろ元気を出さなくては。だから、僕は彼の指が触れた方の目を瞑り、すり寄りながら再びふはと笑いを上げた。
「そりゃあ振るやろ。ひなたの代わりだと思ってたもん」
僕が笑うと、彼はまだ罪悪感が残るのだろう。気まずそうに目を逸らして、でもすぐに僕へ視線を戻して眉を顰めた。
「言うか迷ってたけどさ」と彼は言う。「楓のこと、ひなたの代わりにだなんて思ったことないよ」
「嘘はええねん」と僕は笑った。
だって、初めはあんなにひなたが好きだったのに。初めての夜は、ずっとひなたの名を呼ばれたし、その後もずっとひなたとばかり仲良くして、僕のことは放置したくせに。
今更怒るつもりなんてないけれど、それは揺るぎない事実だと思う。なのに。
「だって」と彼は笑う。
「しっかりしてて、まじめで、綺麗好きで。素直じゃなくて、あまりに繊細で、少し面倒くさいところが可愛くて。本当にひなたの正反対なんだよね、楓って」
そんなの、僕でも分かってた。でも、と僕は口を尖らせた。
「それ、褒めてるん? 貶してるん?」
「褒めてるよ、これ以上ないくらい」
彼は一切の思考の余地なく、幸せそうに表情を緩めて言った。
よくわからないけれど。褒められているのなら許してやろう。僕は上機嫌に彼の元を離れて、冷たい柵を握る。コツンと指輪が当たった感覚が嬉しくて、僕はそれを外して星空を背景に、目の前に掲げた。そして、ふと気が付く。
その指輪の内側には、前にもらった時にはなかった詩音くんの瞳の色と同じ紫色のライン、そしてその上に『shion』の文字が刻まれていた。
背後でふふふ、と詩音くんが笑った。
「俺の、って。マーキングしておこうかと思って」
そう笑う彼が愛おしくて。僕はその指輪を握りしめ、再度背後の詩音くんへ勢いよく飛びつく。彼はそんな僕を抱き止めつつもニヤリと口角を上げた。
「あ、マーキング意味ないかぁ。楓、浮気するとき指輪外すもんね」
覚えていやがったか、と思う。後輩の女の子と食事に行ったとき。僕は忘れたふりをして、確かにわざと指輪を置いて行った。あの時は詩音くんをどうにか忘れようと必死だったけれど。確かにいけないことをしたと思う。
「すまん。もうしません」
「よろしい!」
でも。僕が謝ると、彼はやけに上機嫌にそう許して、また僕の手に握った指輪をはめてくれるのだった。
「そういえば」と彼は言う。「星、どう?」
彼は思い出したように、僕の手を引き再び満天の星と向かい合う。
昨日、そういえば星座がなんだとか、詩音くんが言っていた気がする。全く内容は覚えていないけれど、でも。
「綺麗やね」
僕は本心でそう答えた。でも、詩音くんはその返答がお気に召さなかったらしい。キョトンと首を傾げて指で顎を擦った。
「それだけじゃなくて、もっとこう……」
「え、えっと……」
よくわからないが、彼の望む返しを探そうと星を眺める。しかし。星なんてよくわからない僕には、綺麗、という感想以外思い浮かばなかった。
「あれ」と詩音くんは呟いた。「楓、星座とかそういうの好きなんじゃないの?」
何の話だ、と思う。僕にそんな高貴な趣味もなければ、話題に出した覚えもない。趣味なんて精々お酒くらいだ。僕が頭を悩ませていると、詩音くんは不思議そうに僕を見た。
「だって、デートでプラネタリウム行った時。楓、珍しく俺の前で泣いてくれたから。てっきりなんか思い入れがあったのかなって思って。ほら、いつもは隠れて泣いてるじゃん」
思わぬ言葉に面をくらう。彼は僕の顔を見て、愉快そうに笑い声をあげた。
「なに、気づいてないと思ってたの? 毎日夜中、隣でこっそり泣かれる俺の気持ちにもなってよ」
なんだ、と思う。ほんとにちゃんと、見てくれてたじゃん。何もかも僕の考えすぎで、被害妄想。そう思うとなんだか笑えてきて、僕はまたふっと息を零した。
「あれはただ、なんか自分たちに重なってもうて」
詩音くんは首を傾げた。僕は続ける。
「冬の大三角形、ってあったやろ。一等星を三つ繋いだ、とかの。あれが詩音くんと、一茶とひなたに思えて。俺、初めから三人の幼馴染だったわけちゃうから。三人の輪の中に入れてもらってるだけで、本当は三人でおった方が楽なんやろなぁ、とか思ってまって」
馬鹿なことを言っていると思う。こんなにも三人には大切にしてもらっているのに。当時の僕は、それをこれっぽっちも理解していなかった。
案の定詩音くんも、馬鹿な話だと思ったのだろう。ケラケラと声を上げてお腹を抱えた。
「ほんとに、楓ってどうでもいいこと考え込むよね。そもそも楓が引っ越してくる前なんて小学校一年生とかでしょ? 記憶にないってもう。俺の感覚では、楓もずっと一緒にいた幼馴染だよ」
僕も、今はそう思う。でも。彼があまりにどうでもいいことのように言ってくれたことが嬉しくて。また、目頭が熱くなった。
そんななか、ふと隣の笑い声が止む。どうしたのかと視線を向けると、彼はさっきまでの笑顔とは一変、まじめな顔で星を見上げていた。
「楓、冬の象徴は大三角形だけじゃないよ」
今度は、僕が首を傾げる番だった。何をいきなり、と思う。
彼は、そんな僕を置き去りに、柵から身を乗り出し夜空へ向かって指を指した。
「あれがオリオン座のリゲル。その下の一番光ってるのがおおいぬ座のシリウス。その左上のがこいぬ座のプロキオンで、その上がふたご座のポルックス。右のがぎょしゃ座のカペラ。そして、そのしたにおうし座のアルデバラン」
よくわからない星座に、一等星の名前。この前聞いたときは、なんで知っているんだ、と気になる程度だった。でも。今はわかる。
きっと詩音くんは、僕が星座が好きだと思って、わざわざ調べてきたのだろう。そう思うとなんだか愛おしくて。僕はふんふんと相槌をうつ。
彼はその六つの一等星を紹介した後で、急に僕の方へ向き直って微笑んだ。
「これらをつなぎ合わせるとね、こう呼ぶんだって」
『冬の、ダイヤモンド』
彼は、やけにドヤ顔でそう述べた。よくわからないけれど。きっと、よく知っているねと、そう褒められたいのだろうと思った。だから、褒めてやろうと思った。でも。
詩音くんは次の瞬間、いきなり大人な優しい顔をして僕の頬へ触れた。
「俺たち三人は楓のことも家族同然に思ってるし、恋人とか、そういうの抜きにしても大切だよ。でも。それは俺たちだけじゃない。楓のこと好きだった後輩もいるし、楓のお母さんお父さん、お姉さんも。みんな楓のこと想ってる。だから。楓は一人じゃないって、そう言いたかったんだけど……」
そこまで言って、彼ははにかんで僕の頬から手を離した。
「三角形の三人分だけじゃないよって言うつもりだったんだけど、ダイヤモンドの六角形でも全然足りなかったね」
詩音くんが、ケラケラと笑う。その、なんだか締まらない感じが詩音くんらしくて、僕もついぷっと声が漏れる。
「なしたん、ポエマーなん」
「え、楓が言い始めたのに!?」
大きな声が、海に響いた。
さっきまで大人な顔をしていたのに、今やすっかり無邪気な顔をして。かっこいいのに、可愛くて、愛おしい。でも。僕が好きなのはそこだけじゃないと今、思い出すことが出来た。
僕にだけじゃない。ひなたに対しても一茶に対しても、とっても素直で、優しいところ。僕のためなんかに、星の名前まで覚えてしまうところ。きっとすぐ忘れているだろうけれど、その抜けたところも。全部全部。
「楓、俺楓に殴られるようなこと言っていい?」と詩音くんが言った。
「ええよ、殴ったるから」
僕が笑うと、詩音くんもふふと笑って、でも真剣な面持ちで口を開いた。
「俺、きっと楓のことたくさん傷つけたし、辛い思いさせたと思う。もしあの日からやり直せるなら、俺は楓を選ぶ。でもね、ごめん」
そこまで話したうえで、彼は僕を見て少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「俺、この始まり方でよかったって、ちょっと思ってるんだよね。だって、こうじゃなきゃ。楓のこと、こんなに大切だって。好きだけじゃ言い表せないこの気持ちに、気づけなかった」
そんなの酷い、とは思えなかった。だって、きっと僕もそうだ。傷ついたからこそ、気づけた愛がここにあった。それは、詩音くんからだけじゃない。一茶からの愛も、そして。ひなたからの気持ちも。
もちろん、辛かった。決して、だからよかったで終わらせられる程でない悲しみがあった。でも。だから。
「ほんなら」と僕は彼の懐に飛び込んだ。「僕が二番目でよかったって思えるくらい、愛してや」
「もちろん。愛してるよ、楓。誰よりも」
僕は思う。この二番目だからこそ見つけられた恋。これこそあの、明日の朝には消えてなくなってしまう綺麗で儚い、空に輝くダイヤモンドのようだと。
──僕、詩音くんが好きだ。
振り向いた詩音くんの髪を、強い風がなびかせる。腕で風を阻む僕とは違って、彼は目にかかったその髪を避けることもせずに、ただ真っすぐに僕を見据えていた。
顔が見える距離ではなかった。でも。確かに詩音くんは僕を僕だとわかったうえで見つめて、なのにまたすぐに海へと向き直った。
それは、彼なりの拒否の示し方なのかもしれない、と思う。でも。それでも僕はゆっくりと雪を踏みしめ、彼の方へと歩み寄っていった。
後悔していた。僕はもっと、彼といたかった。周りに反対されようとも。どれだけ傷つこうとも。例え、僕はひなたの次の存在で、二番目だったとしても。
詩音くんの隣にいられたのなら、何でもよかった。
彼は僕の足音に気づいていないのか、それともただ無視をしているのか。振り返ることもなければ、海や星を楽しむように首を動かすことすらしない。ただ、そこにいるだけだった。
ようやく、彼の隣に並んだ。昨日とは違って随分と距離はあるけれど、でも確かに、僕は詩音くんの隣にいた。
彼の少し早い息遣い。柵を握りしめた時の鉄の音。肩に力がこもって立った、ダウンの擦れる音。全部全部、わかる距離にいた。もしかしたら、僕の心臓の音も聞こえているかもしれないと不安になる程に。しかし。詩音くんの様子は、僕が隣に立っても同じだった。
こんなに近くにいるのに彼は話しかけてくれることは愚か、僕の方を見ようともしない。これが、彼の応えだと思った。だから。僕も黙って、昨日よりも澄んだ海を見下ろした。
そういえば、と思う。今日は一茶とひなたに、この光景を見せてやりたくてここに来たんだっけ。スマホを取り出すべくコートのポケットへ手を入れる。しかし、僕はすぐにまたその手を出した。
昨日は、この光景を写真に収めようという気も起きないくらい感動していたのに。そう考えると、せっかくのこの綺麗な光景もどこか味気なく思えたから。
ふと、隣で鼻水をすする音がした。大方、随分と前からこんなところでこうしていたのだろう。いくら暖かい日といえど、風邪を引くのも無理はない。はぁ、とため息を一つ。僕は彼の方を見て、柵に頬杖をついた。
「風邪ひいたん」
しかし、彼はその問いには答えなかった。真っ赤に染まった指先で強く目を擦り、海を見据えたままに彼は言った。
「楓」
そう僕の名を呼んだ声は、涙で震えていた。
「お腹空かない?」
突然の問いだった。絶え間なく吹き付ける強い風のせいで、僕が聞き間違えたのかもしれない。でも。かと言って内容を聞き返せるような雰囲気でもなくて、どうしようもなく口を閉ざす。
そんな僕にどんな感情を抱いたのか、詩音くんはまるで何かを諦めたようにふっと息を吐いて、そしてようやく僕を見た。
詩音くんの瞳は、その冷えて染まった頬よりも更に真っ赤に染まっていた。濡れた頬が、煌びやかに月明りを反射している。その雫を拭ってあげなくてはいけないはずなのに、気づけば僕はその様に見惚れていた。だって、目の前の海よりもよほど綺麗だった。
彼はとめどなく零れる雫を拭うこともなく手を伸ばし代わりに僕の頬を擦って、そしてまるでただの幼馴染であったあの時のように、楽しそうにハハと笑い声を響かせた。
「聞いて、楓。俺まだ今日の夜ご飯の予約、キャンセルできてない」
僕は、言葉を返せなかった。
だって彼は大粒の涙を顎から滴らせているのに、それはもう本当に可笑しそうに笑うのだ。何が彼をそうさせているのか、僕にはわからなかった。
彼は続けた。
「今日ね、ゲーセンで気分転換でもしようと思ったんだけど。楓がいてくれたら楽しかっただろうなとか、楓なにしてるかなだとか、そんなことしか考えられなくて。もう別れたのに、ダサいよね、ほんと」
まるで、本気で愛されているようだ、だなんてもう思えなかった。
「それでさ」と詩音くんが可笑しそうに柵を軽く叩いた。「そんな話を、元カノに笑い話として話しちゃう感じが、一番ださいよね。未練タラタラで」
まるで、じゃない。本気にしか、思えなかった。
どう見ても強がりなその笑みは見ていて痛々しくて。その涙を拭いたいと思った。でも。体が、動かなかった。
「ねぇ、楓」と再び彼は僕を呼んだ。
「なん、ですか」
つい堅くなった返事を、彼は笑った。
「ごめんね、楓。俺まだ、楓のこと愛してる」
そして彼は初めて、自身の涙を手の甲で強く拭った。
それを皮切りに、涙は余計に堰を切ったかのように次から次へとあふれ出した。
「俺、大切にしてきたつもりだった。楓のことちゃんと好きだって自覚してからは手出さなかったし、女の子とご飯行かれても我慢した。楓がひなたと距離近いのも、一茶ばっかに頼るのも、全部すっごい嫌だった。でも、きっと我慢する方が楓のためになるって、そう、思ってたのに……ッ」
しゃくりあげて息を詰まらせながら、必死に紡がれた言葉。その言葉はあまりに生々しい彼の心の叫びで、胸が苦しい。柵を握りしめた彼の手は、力が入りすぎて白くなっていた。
よく、わからなかった。だって、この前まで詩音くんはひなたが好きだった。初めての時あんなに乱暴に行為に至ったくせに、その後は一転。僕の身体に興味を持ってすらくれなかった。女の子と遊んでも怒ってくれなかった。そう、僕は思ってた。でも。
「大切に、してくれてはったん……?」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。こんな声じゃ、きっと彼に届かない。そう思った。でも。彼は風の雑音の中に、僕の声を見つけてくれた。
「あたりまえだろ!」と、彼は僕の両肩を優しく掴み、そして強く強く抱きしめた。「途中から気付いてたんだ。俺ずっと昔から、楓が好きだった。ここ数年とかの話じゃない。もっとずっと前から」
目が、じわっと熱くなった。ずっとずっと、この言葉が欲しかった。愛されたかった。僕がいいって、言って欲しかった。
でも、と僕は彼の背中に回しかけた腕にブレーキをかける。彼の言っていることを信用するには、どうしても足りなかった。
「なんで」と、僕は強く自身のコートを握る。「ひなたのこと好きだったやん」
「ひなたは、なんというか。甘え上手で、素直で、子供っぽいところが、放っておけなくて……今でも大切な気持ちはあるんだけど……よくわかんない。でも、一つ言えるのは。ひなたへの感情と今楓に抱いてる感情は全く別物で。楓には、もっとこう……大切ってだけじゃ足りなくて。ドキドキしてモヤモヤして……全然いつもの俺じゃいられない。なんか」
彼は、そこで言葉を詰まらせた。あまりに真剣な顔をする詩音くんに、思わず息を吞む。彼は言葉を探すように何度か息を吸っては吐いてを繰り返した後、ポツリと零すように呟いた。
「すき、なんだよね」
聞いた瞬間、涙は我慢したのに喉の奥になにかがつっかえたようにしゃくりあげた。
慌てて顔を伏せて、握った拳に力を籠める。
「僕のこと、全然見てくれなかったやん」
「案外鈍感だよね」と、彼は笑って僕の頭を優しく撫でた。
「見てたよ。ずっと見てた。完璧主義で、格好つけたがり屋で、でもそんな自分が案外嫌いじゃないとことか。寂しくてバイトに逃げてたこととか。ストレス溜まると綺麗好きに拍車がかかることも。楓のことなら、全部知ってる。俺と付き合っても、少しも幸せじゃなかったのも。知ってた」
詩音くんはそう言って鼻水を啜り、僕の頭に置いた手を再び背中へ回した。その力が案外強くて。彼は僕のことを彼女だというけれど、女の子だったら潰れていたと思う。
「でも、付き合ってすぐの時はあんなに毎日押し倒してきたのに、最近は触ってすらくれなかった。僕の誕生日の夜も、僕めっちゃ頑張って誘ったのに、断ったやん」
「だって。楓が俺とシたい理由は、ただの愛の確認でしょ? それなら、他のやり方もあるよ。楓、毎回痛そうだったから。だから誕生日くらい、もっと特別な方法で愛してやりたかった。でも……ごめんね。楓に誘われて興奮して、俺そのあと全然構ってあげられなかった」
不安だったことをぶつけると、彼はそのどれもを愛で否定した。どれも歯が浮くよう照れくさい話ばかりで、でも嬉しくて。気づいたらもう、我慢したはずの涙は瞳から零れだしてしまっていた。もう十分だった。
しかし、僕を抱きしめる詩音くんはわざわざ僕の顔を覗き込んで優しく微笑みを浮かべた。
「他には?」
他なんて、と思う。
言っても全部、詩音くんなら否定してくれるのがもう、わかったから。
「もう……」
もうない、と。そう言いかけて、僕は制止する。そう言えば、と思う。一つだけあった。それは、僕が一番苦しかったこと。別れを決心するきっかけになったこと。
僕は涙がバレるのも構わずに顔を上げて、彼の瞳をしっかりと見据えて口を開いた。
「誕生日に詩音くんがくれた指輪。どうして取り返したん」
詩音くんは、ハッとして僕の背中に回した腕を解きその両手を自身の口元へもっていく。そして、ニヤリ口角を上げてその左手を僕の目の前に掲げた。その薬指には昨日から気になっていた、指輪がはまっていた。
「それのことやって。元カノから取り上げた指輪してるとか、悪趣味極まりないやろ」
そう、目の前の手を掴む。しかし、彼は慌ててその手を振り払い指輪を隠すように左手を背後に回して後ずさった。
「これは俺の!」
なんなんだ、と思う。返す気がないのなら見せなくてもいいだろうに。
少しは彼の愛を信用できたとはいえ、あの手の届かない指輪を見るとなんだか複雑な気持ちになる。思わず目を伏せると、詩音くんは慌てて僕の頭に手を置いた。
「ごめんって、泣かないで?」
そして、彼はダウンのポケットへ手を突っ込み、小さな箱を取り出した。
「本当はさ。昨日こうする予定だったんだよ。でも、楓が先走るんだもん。ほんと、困った子なんだから」
詩音くんがかじかんだ手で手こずりながら、その小箱を開ける。そこには、あの日見たものと同じ、そして今詩音くんの指にあるものと同じ、綺麗な指輪が入っていた。
言葉が、出なかった。
詩音くんは雑に箱をポケットへしまい込むや否や、右手に指輪を持ちそして左手を僕に差し出した。
「楓、愛してます。俺と、付き合ってください」
とてもシンプルな言葉だった。でも、詩音くんのその紫がかった瞳が僕を見つめるその視線は、真剣そのものだった。
風が、吹きつけた。一瞬、前髪を守ろうと右手が動く。しかし。
僕はその手を下げそして、左手を彼の差し出した左手へと重ねた。
唇が震える。でも。伝えたかった。
「僕も、好き」
不器用な左手が強く握るから、少し痛かった。彼の緊張した荒い息で、頬がくすぐったかった。でも。心地よかった。
詩音くんの震えた右手が、僕の薬指に指輪を通した。そしてすぐに、その両手が僕の手を包んだ。
「ありがとう」
その声は震えていた。でも。その涙でぐしゃぐしゃな詩音くんも、やっぱりかっこよかった。
「なぁ」と僕は彼を見上げる。「ぎゅーしてええか?」
「もちろん」と、詩音くんは一足先に僕を強く抱きしめた。
僕を包む偽りのないぬくもりが、暖かかった。だから僕もまた、遠慮なく彼の背中へと手をまわした。
そこに、言葉はなかった。言葉では到底言い表せない程の愛が、そこにはあった。
彼の肩へ顔を埋めると、彼は僕の後頭部を優しく擦った。昨日は僕が宥める側だったのに。でも。受け入れてくれる人がいるというのがなんだか嬉しくて。僕は今まで一人で泣いた分も合わせて、ただ泣いていた。
ありがとう、と。その言葉は、今後しっかりと愛という形にして返していこうと思う。
そうして星の位置すらも随分と西へと移動してしまった頃。まだまだ感情は収まらないのに、気づけば風が涙を乾かしてしまった。それでもヒクヒクとしゃくり上げるのが恥ずかしくて顔を伏せ続ける。詩音くんはそんな僕の頭を自身の胸に埋めさせて、後頭部を摩り続けていた。
「落ち着いた?」
まだまだ落ち着かない、とは思う。けれど。それではキリがないので、僕はゆっくりと頷いて返した。僕が頷くや否や、彼は僕の両頬を手で包み顔を上げさせ、額へ口づけを落とした。
「昨日とは立場が逆になっちゃったね」と彼は笑う。
「昨日は詩音くんが号泣してたもんなぁ」
僕も、気づけばふふと笑みが漏れていた。
「だって。俺、まさか楓に振られると思ってなかったからびっくりしちゃったもん。あのまま告白やり直してOKもらうつもりでいた」
詩音くんもまた楽しそうにケラケラと笑って、僕の頭を撫でた。きっと、元気づけようとしてくれているのだろう。彼の親指が、僕の目尻を拭う。僕も、そろそろ元気を出さなくては。だから、僕は彼の指が触れた方の目を瞑り、すり寄りながら再びふはと笑いを上げた。
「そりゃあ振るやろ。ひなたの代わりだと思ってたもん」
僕が笑うと、彼はまだ罪悪感が残るのだろう。気まずそうに目を逸らして、でもすぐに僕へ視線を戻して眉を顰めた。
「言うか迷ってたけどさ」と彼は言う。「楓のこと、ひなたの代わりにだなんて思ったことないよ」
「嘘はええねん」と僕は笑った。
だって、初めはあんなにひなたが好きだったのに。初めての夜は、ずっとひなたの名を呼ばれたし、その後もずっとひなたとばかり仲良くして、僕のことは放置したくせに。
今更怒るつもりなんてないけれど、それは揺るぎない事実だと思う。なのに。
「だって」と彼は笑う。
「しっかりしてて、まじめで、綺麗好きで。素直じゃなくて、あまりに繊細で、少し面倒くさいところが可愛くて。本当にひなたの正反対なんだよね、楓って」
そんなの、僕でも分かってた。でも、と僕は口を尖らせた。
「それ、褒めてるん? 貶してるん?」
「褒めてるよ、これ以上ないくらい」
彼は一切の思考の余地なく、幸せそうに表情を緩めて言った。
よくわからないけれど。褒められているのなら許してやろう。僕は上機嫌に彼の元を離れて、冷たい柵を握る。コツンと指輪が当たった感覚が嬉しくて、僕はそれを外して星空を背景に、目の前に掲げた。そして、ふと気が付く。
その指輪の内側には、前にもらった時にはなかった詩音くんの瞳の色と同じ紫色のライン、そしてその上に『shion』の文字が刻まれていた。
背後でふふふ、と詩音くんが笑った。
「俺の、って。マーキングしておこうかと思って」
そう笑う彼が愛おしくて。僕はその指輪を握りしめ、再度背後の詩音くんへ勢いよく飛びつく。彼はそんな僕を抱き止めつつもニヤリと口角を上げた。
「あ、マーキング意味ないかぁ。楓、浮気するとき指輪外すもんね」
覚えていやがったか、と思う。後輩の女の子と食事に行ったとき。僕は忘れたふりをして、確かにわざと指輪を置いて行った。あの時は詩音くんをどうにか忘れようと必死だったけれど。確かにいけないことをしたと思う。
「すまん。もうしません」
「よろしい!」
でも。僕が謝ると、彼はやけに上機嫌にそう許して、また僕の手に握った指輪をはめてくれるのだった。
「そういえば」と彼は言う。「星、どう?」
彼は思い出したように、僕の手を引き再び満天の星と向かい合う。
昨日、そういえば星座がなんだとか、詩音くんが言っていた気がする。全く内容は覚えていないけれど、でも。
「綺麗やね」
僕は本心でそう答えた。でも、詩音くんはその返答がお気に召さなかったらしい。キョトンと首を傾げて指で顎を擦った。
「それだけじゃなくて、もっとこう……」
「え、えっと……」
よくわからないが、彼の望む返しを探そうと星を眺める。しかし。星なんてよくわからない僕には、綺麗、という感想以外思い浮かばなかった。
「あれ」と詩音くんは呟いた。「楓、星座とかそういうの好きなんじゃないの?」
何の話だ、と思う。僕にそんな高貴な趣味もなければ、話題に出した覚えもない。趣味なんて精々お酒くらいだ。僕が頭を悩ませていると、詩音くんは不思議そうに僕を見た。
「だって、デートでプラネタリウム行った時。楓、珍しく俺の前で泣いてくれたから。てっきりなんか思い入れがあったのかなって思って。ほら、いつもは隠れて泣いてるじゃん」
思わぬ言葉に面をくらう。彼は僕の顔を見て、愉快そうに笑い声をあげた。
「なに、気づいてないと思ってたの? 毎日夜中、隣でこっそり泣かれる俺の気持ちにもなってよ」
なんだ、と思う。ほんとにちゃんと、見てくれてたじゃん。何もかも僕の考えすぎで、被害妄想。そう思うとなんだか笑えてきて、僕はまたふっと息を零した。
「あれはただ、なんか自分たちに重なってもうて」
詩音くんは首を傾げた。僕は続ける。
「冬の大三角形、ってあったやろ。一等星を三つ繋いだ、とかの。あれが詩音くんと、一茶とひなたに思えて。俺、初めから三人の幼馴染だったわけちゃうから。三人の輪の中に入れてもらってるだけで、本当は三人でおった方が楽なんやろなぁ、とか思ってまって」
馬鹿なことを言っていると思う。こんなにも三人には大切にしてもらっているのに。当時の僕は、それをこれっぽっちも理解していなかった。
案の定詩音くんも、馬鹿な話だと思ったのだろう。ケラケラと声を上げてお腹を抱えた。
「ほんとに、楓ってどうでもいいこと考え込むよね。そもそも楓が引っ越してくる前なんて小学校一年生とかでしょ? 記憶にないってもう。俺の感覚では、楓もずっと一緒にいた幼馴染だよ」
僕も、今はそう思う。でも。彼があまりにどうでもいいことのように言ってくれたことが嬉しくて。また、目頭が熱くなった。
そんななか、ふと隣の笑い声が止む。どうしたのかと視線を向けると、彼はさっきまでの笑顔とは一変、まじめな顔で星を見上げていた。
「楓、冬の象徴は大三角形だけじゃないよ」
今度は、僕が首を傾げる番だった。何をいきなり、と思う。
彼は、そんな僕を置き去りに、柵から身を乗り出し夜空へ向かって指を指した。
「あれがオリオン座のリゲル。その下の一番光ってるのがおおいぬ座のシリウス。その左上のがこいぬ座のプロキオンで、その上がふたご座のポルックス。右のがぎょしゃ座のカペラ。そして、そのしたにおうし座のアルデバラン」
よくわからない星座に、一等星の名前。この前聞いたときは、なんで知っているんだ、と気になる程度だった。でも。今はわかる。
きっと詩音くんは、僕が星座が好きだと思って、わざわざ調べてきたのだろう。そう思うとなんだか愛おしくて。僕はふんふんと相槌をうつ。
彼はその六つの一等星を紹介した後で、急に僕の方へ向き直って微笑んだ。
「これらをつなぎ合わせるとね、こう呼ぶんだって」
『冬の、ダイヤモンド』
彼は、やけにドヤ顔でそう述べた。よくわからないけれど。きっと、よく知っているねと、そう褒められたいのだろうと思った。だから、褒めてやろうと思った。でも。
詩音くんは次の瞬間、いきなり大人な優しい顔をして僕の頬へ触れた。
「俺たち三人は楓のことも家族同然に思ってるし、恋人とか、そういうの抜きにしても大切だよ。でも。それは俺たちだけじゃない。楓のこと好きだった後輩もいるし、楓のお母さんお父さん、お姉さんも。みんな楓のこと想ってる。だから。楓は一人じゃないって、そう言いたかったんだけど……」
そこまで言って、彼ははにかんで僕の頬から手を離した。
「三角形の三人分だけじゃないよって言うつもりだったんだけど、ダイヤモンドの六角形でも全然足りなかったね」
詩音くんが、ケラケラと笑う。その、なんだか締まらない感じが詩音くんらしくて、僕もついぷっと声が漏れる。
「なしたん、ポエマーなん」
「え、楓が言い始めたのに!?」
大きな声が、海に響いた。
さっきまで大人な顔をしていたのに、今やすっかり無邪気な顔をして。かっこいいのに、可愛くて、愛おしい。でも。僕が好きなのはそこだけじゃないと今、思い出すことが出来た。
僕にだけじゃない。ひなたに対しても一茶に対しても、とっても素直で、優しいところ。僕のためなんかに、星の名前まで覚えてしまうところ。きっとすぐ忘れているだろうけれど、その抜けたところも。全部全部。
「楓、俺楓に殴られるようなこと言っていい?」と詩音くんが言った。
「ええよ、殴ったるから」
僕が笑うと、詩音くんもふふと笑って、でも真剣な面持ちで口を開いた。
「俺、きっと楓のことたくさん傷つけたし、辛い思いさせたと思う。もしあの日からやり直せるなら、俺は楓を選ぶ。でもね、ごめん」
そこまで話したうえで、彼は僕を見て少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「俺、この始まり方でよかったって、ちょっと思ってるんだよね。だって、こうじゃなきゃ。楓のこと、こんなに大切だって。好きだけじゃ言い表せないこの気持ちに、気づけなかった」
そんなの酷い、とは思えなかった。だって、きっと僕もそうだ。傷ついたからこそ、気づけた愛がここにあった。それは、詩音くんからだけじゃない。一茶からの愛も、そして。ひなたからの気持ちも。
もちろん、辛かった。決して、だからよかったで終わらせられる程でない悲しみがあった。でも。だから。
「ほんなら」と僕は彼の懐に飛び込んだ。「僕が二番目でよかったって思えるくらい、愛してや」
「もちろん。愛してるよ、楓。誰よりも」
僕は思う。この二番目だからこそ見つけられた恋。これこそあの、明日の朝には消えてなくなってしまう綺麗で儚い、空に輝くダイヤモンドのようだと。
──僕、詩音くんが好きだ。
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