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3章 夜空のダイヤモンド
52話
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背後の扉が音を立てて締まる。風圧で前髪が崩れた気がしたけれど、もうどうでもよかった。
海の見える大きな窓のカーテンを勢いよく閉めると、うるさいほど照り付けていた光が一気に失わる。せっかくの海もきれいな部屋も見えないけれど、真っ暗な部屋は、今の僕には丁度良かった。
ふっと、笑ったつもりだった。でも。気が付けば息と同時に、涙が零れていた。
別に、誰も見ていない。それは分かっている。でも。僕は慌ててそれを拭った。他の誰でもない、僕が見ているから。でも、もう遅かった。僕はこの涙で、全て理解してしまった。
僕が最善だと思っていた選択は、最善ではなかった。
そのどうしようもない後悔という感情に押しつぶされそうで。僕は靴とコートを脱ぎすて、ベッドへと飛び込み布団へ潜り込んだ。
僕は、どこで間違えたのだろう。
真っ向から勝負せずに、ひなたの代わりになるなんて言った時だろうか。それとも、ひなたに覆いかぶさる詩音くんを引きはがした時だろうか。それとも。詩音くんを、好きになったときだろうか。
真っ暗な中で巡らせる思考には希望の光なんて差さなくて、ぐるぐると頭が回る。でも、一つ言えることがあるとするならば。僕にとって不正解だったこの選択は、詩音くんにとっては正解だったということだ。
一緒に眠れるのは、今日の夜が最後なのかな。もう、一緒に遊んでもくれないのかな。
もう、好きって言って、くれないのかな。
「詩音くん……まだ、好き……」
涙と一緒に零れた言葉は、もう詩音くんには届かない。
気が付けば、僕の意識は微睡に溶けていた。
気が付いたら、夢を見ていた。それが夢だと分かったのは、その夢を一度見たことがあったから。
それは、あの日見た夢。僕が描いた、僕の『夢』。
この夢を見たのは、そう。後輩の女の子とご飯に行った日。家に帰ってきて、詩音くんに怒られないことに失望して。結局、寧ろ上機嫌に案内されたお風呂で、例の夢を見たのだ。
あの時僕は、お風呂に入っていた。その日は少し寒くって、僕はしっかりと扉を締め切り湯へと浸かった。どんどんと、室内の温度が上昇していく。それに加えて、僕の憂鬱な気分も相まって浴槽を出るのすら億劫で。気が付けば少しのぼせてしまっていた。でも、だからこそ頭も働かなくて。ちょっとくらいなら、と。そう考えて僕は眠りについた。
その眠りで、僕はこのかけがえのない夢を見た。
「楓~?」
しばらくした時、夢の中で詩音くんが呼んだ。
夢の中でも眠った僕は、すやすやと寝息を立てたまま返事をしない。そんな僕を心配したのだろう。詩音くんは、僕がしっかりと締め切ったお風呂へ入ってきて僕の顔を覗き込んだ。
そして、顔を上げた僕と目が合った。
「風呂で寝たらだめでしょ」
そう僕を叱る詩音くんだけれど、表情は優しかった。
ぽん、と詩音くんの大きな手が僕の湿気で湿った頭を撫でる。
僕は、寝ぼけたように目を細めてその手へすり寄った。
「もっと撫でて」
これは、夢の中だからこそ言えたあの日の僕の本音。
「しょうがないなぁ」
詩音くんは要望通り、僕の頭をまるで大切なものを扱うように優しく撫で続けた。
そのごつごつした大きな、そして優しい手の感覚は、今でも忘れられない。
夢の中の僕は、再び瞼を下ろす。きっとまた叱られてしまうだろうけれど、でも。今この瞬間が、あまりに幸せだから。
あの日の夢は、ここで終わりだった。でも。今日の夢の創作者はどうやら、性格が悪いらしい。そんな幸せなシーンの後には、あの日の現実が映し出された。
再び現実で目を覚ます僕。目を開けた先には当たり前に頭を撫でてくれる詩音くんなんて存在していなくって、僕の表情は一気に落胆へと変わった。
夢だから感覚までは分からないけれど、でも、冷えた空気やぬるくなったお湯。そして、完全に冷え切った体。それらに現実へと引き戻されたのを覚えている。あんなに優しい顔で僕の頭を撫でる彼氏など、現実にはいないのだ。
浴室の扉の隙間からは、用意した覚えのないタオルや部屋着が確認できる。きっと、詩音くんが用意してくれたのだろう。
「でるかぁ」
僕は悲しみのような、諦めのような、それでいて安心したような。そんな複雑な気持ちを発散するように独り言を零して、シャワーを浴びようと湯船を出た。
シャワーチェアへ腰を掛け、シャワーヘッドを膝へ置く。そして。僕は背後の扉を閉めた。
──背後の扉を、閉めた。
周りの、冷え切った空気が暖かく、そして柔らかくなる。世界が、ぐらぐらと揺れた。
こんなこと、あの日はなかったのに。たまらずその場にしゃがみこみ、頭を抱える。次の瞬間、背後からまるで頭を殴られたかのような大きな衝撃が走った。
「俺が一番じゃなかったのかよ、楓」
お風呂にポツリと、そんな言葉が響いた。
気が付いたら僕は大きなベッドの中一人、蹲っていた。そういえば、と勢いよく体を起こす。僕は詩音くんと旅行中で、そして彼に置いて行かれて泣いていたんだっけ。カーテンの外からの光はもう、漏れていなかった。
変な夢を見た。あの日見た夢の、夢? でも。あの日見た夢は詩音くんが頭を撫でてくれたところまでで。でも、その後の流れも一部を除いて大方、あの日と合致していた。
あれは、夢、だったのだろうか。でも。もしかしたら。そう、考えようとしたとき。
ピコン、とさっきベッドの傍のテーブルに放り捨てたコートに入ったスマホが音を立てた。もしかしたら、と思い慌てて拾い上げたそれには、残念ながら某サイトのニュースが表示されていた。それも、どこから情報を入手しているのか、ご丁寧に僕の現在地の北海道の気象情報だ。暖かいとは思っていたけれどそれもそのはず、今日の北海道は、ここ数か月一の晴天だったそうだ。
せっかくの日にもったいない、と思ったわけでもない。でもなんだか、このまま寝ているのもそれはそれで精神衛生上よくない気がする。そうと思うや否や僕らしくもなく、鏡を見ることもなくコートと財布を拾い上げ、部屋を出るのだった。
行き先はもう、決まっていた。だって、せっかくの晴天だ。行ったらきっと、昨日よりも綺麗な海が見えるだろう。写真を送ったら、一茶とひなたが喜ぶかもしれない。
行き方は、きっとタクシー運転手さんに言えばわかる。そう考えて僕はいつになく、無計画にホテルを後にするのだった。
ホテルを出ると不運にも目の前のタクシー乗り場に車はなく、仕方なく少し歩いて道路へ出る。やはり昨日の極寒を体験した後での今日はもう慣れたもので、未だ体を震わせることなくブラリと歩道を歩いて回る。そうしていると待っていたソレはすぐに通りかかった。
空車の文字を確認して手を上げる。タクシーはすぐに歩道に寄り止まり、扉を開いてくれた。
「えっと……ここらへんで海と星が見える綺麗な観光スポットって、ありませんか」
白髪の運転手さんは僕の方へ振り向いて、そしてクイと丸い眼鏡をあげながら目を細めた。
「もしかして」と彼は言う。「それって、昨日の場所のことですか」
僕は思わず瞬いて小首を傾げた。しかし、その白髪と特徴的な丸眼鏡は、すぐに思い当たった。ハッと口を開けるや否や、運転手さんは白い髪を揺らしてはっはっはと笑った。
「偶然ですね、関西弁のお兄さん」
彼は嬉しそうにしたまま前へ向き直り、さっそく車を走らせる。どうやら、行き先もすぐに察してくれたらしい。それは助かった、と思う反面。少し気まずくも思った。だって、昨日会ったときは隣に詩音くんがいて、随分と彼は僕を褒めちぎっていた。
その次の日に一人で、しかもいかにもな風に落ち込んでいるだなんて、喧嘩しましたと言っているも同然だ。
「とても仲良さげな様子とか、綺麗な方言で、印象に残ってたんですよ~」
案の定、運転手さんはそのことも覚えていたようでふふと微笑んだのがバックミラー越しに見えた。
人の気持ちも知らないで、と思わず眉に力が入る。しかし。もちろんこんなことで腹を立てるのはただの八つ当たりでしかない。だから僕は、「そうなんですね」だなんて当たり障りのない言葉で誤魔化した。
それからも彼は、愉快そうに話を繰り広げる。いつまでいるんですか、だとか、ここがいいところですよ、だとか、今日は天気がいい、だとか。しかし、やっぱり僕はそんなおしゃべりへ興じる気にもなれなくて、うん、だの、へぇ、だのと気のない返事を繰り返す。
そんな感じだから、所詮二度しか会っていない他人である僕たちの間が持つわけもなく、数分経った頃にはもう彼の話題も尽きたようで車内は静まり返っていた。性格の悪い僕は、それに安心して車窓へ目を向ける。
外の景色は、昨日とは一変していた。もちろん、昨日のあの天気と今日の晴天を比べたら、誰が見たって一目瞭然だろう。でも、そうじゃなくて。天気だけでは言い表せない程に、何かが決定的に変わってしまっている気がした。
今日の方が気温は高く、居心地がいい。町の人々の表情も、今日の方が明るかった。けれど、と僕は思う。
僕は、昨日の景色の方が何倍も綺麗に思えてならなかった。
「さっき」と、運転手さんが唐突に口を開いた。「彼を乗せたんです」
思わぬ言葉につい心臓が強く打つが、まるでなんでもないように車窓から視線を逸らすことなく耳を傾ける。
「彼、すごくイケメンでしょう? だからすぐにわかったんですよ」
「……僕も、そう思います」
彼が相変わらずのトーンで笑顔を浮かべるのに対して、僕は思わず、しかし静かに返した。
初めての僕のまともな返しに気をよくしたのか、彼は話を続けた。
「彼、お兄さんと同じ顔してました」
どうして、と思った。だって、彼が落ち込む理由なんてない。僕をおいて行ったのは詩音くんだし、そもそも初めに振ろうとしたのは詩音くんだ。なのに。生意気に、罪悪感とでも戦っているのだろうか。そう思うとなんだか複雑で。僕はまた眉を顰めた。
「彼、どこ行きはりました?」
別に、会いに行こうと思ったわけでもない。ただなんとなく、気になっただけ。
運転手さんはそんな僕を見て、クスリと笑った。
「それは、教えられませんね。個人情報ですから」
「……すみません」
僕が間をおいて謝罪を口にすると、彼はふふと笑って首を振った。
教えられないのなら、初めからそんな残酷なこと言わないでほしい。いきなり訪れた沈黙への気まずさを隠すように、僕は乱れた前髪を弄ってふぅ、と一つ息を零した。
でも。あの場所は確か、そう遠くなかった。もうそろそろこの気まずさともお別れできるだろう。帰りは、違うタクシーでも呼べばいい。
「そういえば」と彼は言った。「あの場所って、観光スポットじゃないんですよ。ずっと住んでる僕も昨日初めて知ったくらいで」
ならば、と思う。どうして詩音くんが知っていたのだろうか。思わず考え込んだ時に、運転手さんはその思考を読んだが如く、僕の返事を待たずして口を開く。
「きっと、余程たくさん調べたんでしょうねぇ」
なるほど、と思う。
「悪趣味やなぁ、あの人」
そんなに手の凝った振り方を計画するなんて。
「そうですか?」
運転手さんは笑って、そして車を止めた。
「着きましたよ」
「あ、ありがとうございました」
思わぬタイミングで告げられた到着に慌てて財布を取り出し、お札を差し出す。おつりとレシートを差し出してくれた運転手さんは、嬉しそうにふふと笑って呟いた。
「まだいたんですね、彼」
なんだろう、と瞬きつつも、とりあえず開いた扉から外へ降りる。運転手さんは続きの言葉を告げることなく、「ありがとうございました」とだけ言って走り去っていった。
目の前の、障害物が消えた。
そこには昨日と同じようにだだっ広い海が広がっていて、申し訳程度の柵が用意されている。そして、運転手さんの言う通り今日も人はほとんどいなくって。いるのはそう、一人だけだった。
昨日、僕たちが海を眺めた場所に一人。タクシーの音に反応して振り向いたその顔も背丈も、距離があってよくわからない。黒い髪とダウンに紺色のパンツなんて、どこにでもいそうな姿。でも。僕にははっきりと分かった。
そこにいたのは、詩音くんだった。
海の見える大きな窓のカーテンを勢いよく閉めると、うるさいほど照り付けていた光が一気に失わる。せっかくの海もきれいな部屋も見えないけれど、真っ暗な部屋は、今の僕には丁度良かった。
ふっと、笑ったつもりだった。でも。気が付けば息と同時に、涙が零れていた。
別に、誰も見ていない。それは分かっている。でも。僕は慌ててそれを拭った。他の誰でもない、僕が見ているから。でも、もう遅かった。僕はこの涙で、全て理解してしまった。
僕が最善だと思っていた選択は、最善ではなかった。
そのどうしようもない後悔という感情に押しつぶされそうで。僕は靴とコートを脱ぎすて、ベッドへと飛び込み布団へ潜り込んだ。
僕は、どこで間違えたのだろう。
真っ向から勝負せずに、ひなたの代わりになるなんて言った時だろうか。それとも、ひなたに覆いかぶさる詩音くんを引きはがした時だろうか。それとも。詩音くんを、好きになったときだろうか。
真っ暗な中で巡らせる思考には希望の光なんて差さなくて、ぐるぐると頭が回る。でも、一つ言えることがあるとするならば。僕にとって不正解だったこの選択は、詩音くんにとっては正解だったということだ。
一緒に眠れるのは、今日の夜が最後なのかな。もう、一緒に遊んでもくれないのかな。
もう、好きって言って、くれないのかな。
「詩音くん……まだ、好き……」
涙と一緒に零れた言葉は、もう詩音くんには届かない。
気が付けば、僕の意識は微睡に溶けていた。
気が付いたら、夢を見ていた。それが夢だと分かったのは、その夢を一度見たことがあったから。
それは、あの日見た夢。僕が描いた、僕の『夢』。
この夢を見たのは、そう。後輩の女の子とご飯に行った日。家に帰ってきて、詩音くんに怒られないことに失望して。結局、寧ろ上機嫌に案内されたお風呂で、例の夢を見たのだ。
あの時僕は、お風呂に入っていた。その日は少し寒くって、僕はしっかりと扉を締め切り湯へと浸かった。どんどんと、室内の温度が上昇していく。それに加えて、僕の憂鬱な気分も相まって浴槽を出るのすら億劫で。気が付けば少しのぼせてしまっていた。でも、だからこそ頭も働かなくて。ちょっとくらいなら、と。そう考えて僕は眠りについた。
その眠りで、僕はこのかけがえのない夢を見た。
「楓~?」
しばらくした時、夢の中で詩音くんが呼んだ。
夢の中でも眠った僕は、すやすやと寝息を立てたまま返事をしない。そんな僕を心配したのだろう。詩音くんは、僕がしっかりと締め切ったお風呂へ入ってきて僕の顔を覗き込んだ。
そして、顔を上げた僕と目が合った。
「風呂で寝たらだめでしょ」
そう僕を叱る詩音くんだけれど、表情は優しかった。
ぽん、と詩音くんの大きな手が僕の湿気で湿った頭を撫でる。
僕は、寝ぼけたように目を細めてその手へすり寄った。
「もっと撫でて」
これは、夢の中だからこそ言えたあの日の僕の本音。
「しょうがないなぁ」
詩音くんは要望通り、僕の頭をまるで大切なものを扱うように優しく撫で続けた。
そのごつごつした大きな、そして優しい手の感覚は、今でも忘れられない。
夢の中の僕は、再び瞼を下ろす。きっとまた叱られてしまうだろうけれど、でも。今この瞬間が、あまりに幸せだから。
あの日の夢は、ここで終わりだった。でも。今日の夢の創作者はどうやら、性格が悪いらしい。そんな幸せなシーンの後には、あの日の現実が映し出された。
再び現実で目を覚ます僕。目を開けた先には当たり前に頭を撫でてくれる詩音くんなんて存在していなくって、僕の表情は一気に落胆へと変わった。
夢だから感覚までは分からないけれど、でも、冷えた空気やぬるくなったお湯。そして、完全に冷え切った体。それらに現実へと引き戻されたのを覚えている。あんなに優しい顔で僕の頭を撫でる彼氏など、現実にはいないのだ。
浴室の扉の隙間からは、用意した覚えのないタオルや部屋着が確認できる。きっと、詩音くんが用意してくれたのだろう。
「でるかぁ」
僕は悲しみのような、諦めのような、それでいて安心したような。そんな複雑な気持ちを発散するように独り言を零して、シャワーを浴びようと湯船を出た。
シャワーチェアへ腰を掛け、シャワーヘッドを膝へ置く。そして。僕は背後の扉を閉めた。
──背後の扉を、閉めた。
周りの、冷え切った空気が暖かく、そして柔らかくなる。世界が、ぐらぐらと揺れた。
こんなこと、あの日はなかったのに。たまらずその場にしゃがみこみ、頭を抱える。次の瞬間、背後からまるで頭を殴られたかのような大きな衝撃が走った。
「俺が一番じゃなかったのかよ、楓」
お風呂にポツリと、そんな言葉が響いた。
気が付いたら僕は大きなベッドの中一人、蹲っていた。そういえば、と勢いよく体を起こす。僕は詩音くんと旅行中で、そして彼に置いて行かれて泣いていたんだっけ。カーテンの外からの光はもう、漏れていなかった。
変な夢を見た。あの日見た夢の、夢? でも。あの日見た夢は詩音くんが頭を撫でてくれたところまでで。でも、その後の流れも一部を除いて大方、あの日と合致していた。
あれは、夢、だったのだろうか。でも。もしかしたら。そう、考えようとしたとき。
ピコン、とさっきベッドの傍のテーブルに放り捨てたコートに入ったスマホが音を立てた。もしかしたら、と思い慌てて拾い上げたそれには、残念ながら某サイトのニュースが表示されていた。それも、どこから情報を入手しているのか、ご丁寧に僕の現在地の北海道の気象情報だ。暖かいとは思っていたけれどそれもそのはず、今日の北海道は、ここ数か月一の晴天だったそうだ。
せっかくの日にもったいない、と思ったわけでもない。でもなんだか、このまま寝ているのもそれはそれで精神衛生上よくない気がする。そうと思うや否や僕らしくもなく、鏡を見ることもなくコートと財布を拾い上げ、部屋を出るのだった。
行き先はもう、決まっていた。だって、せっかくの晴天だ。行ったらきっと、昨日よりも綺麗な海が見えるだろう。写真を送ったら、一茶とひなたが喜ぶかもしれない。
行き方は、きっとタクシー運転手さんに言えばわかる。そう考えて僕はいつになく、無計画にホテルを後にするのだった。
ホテルを出ると不運にも目の前のタクシー乗り場に車はなく、仕方なく少し歩いて道路へ出る。やはり昨日の極寒を体験した後での今日はもう慣れたもので、未だ体を震わせることなくブラリと歩道を歩いて回る。そうしていると待っていたソレはすぐに通りかかった。
空車の文字を確認して手を上げる。タクシーはすぐに歩道に寄り止まり、扉を開いてくれた。
「えっと……ここらへんで海と星が見える綺麗な観光スポットって、ありませんか」
白髪の運転手さんは僕の方へ振り向いて、そしてクイと丸い眼鏡をあげながら目を細めた。
「もしかして」と彼は言う。「それって、昨日の場所のことですか」
僕は思わず瞬いて小首を傾げた。しかし、その白髪と特徴的な丸眼鏡は、すぐに思い当たった。ハッと口を開けるや否や、運転手さんは白い髪を揺らしてはっはっはと笑った。
「偶然ですね、関西弁のお兄さん」
彼は嬉しそうにしたまま前へ向き直り、さっそく車を走らせる。どうやら、行き先もすぐに察してくれたらしい。それは助かった、と思う反面。少し気まずくも思った。だって、昨日会ったときは隣に詩音くんがいて、随分と彼は僕を褒めちぎっていた。
その次の日に一人で、しかもいかにもな風に落ち込んでいるだなんて、喧嘩しましたと言っているも同然だ。
「とても仲良さげな様子とか、綺麗な方言で、印象に残ってたんですよ~」
案の定、運転手さんはそのことも覚えていたようでふふと微笑んだのがバックミラー越しに見えた。
人の気持ちも知らないで、と思わず眉に力が入る。しかし。もちろんこんなことで腹を立てるのはただの八つ当たりでしかない。だから僕は、「そうなんですね」だなんて当たり障りのない言葉で誤魔化した。
それからも彼は、愉快そうに話を繰り広げる。いつまでいるんですか、だとか、ここがいいところですよ、だとか、今日は天気がいい、だとか。しかし、やっぱり僕はそんなおしゃべりへ興じる気にもなれなくて、うん、だの、へぇ、だのと気のない返事を繰り返す。
そんな感じだから、所詮二度しか会っていない他人である僕たちの間が持つわけもなく、数分経った頃にはもう彼の話題も尽きたようで車内は静まり返っていた。性格の悪い僕は、それに安心して車窓へ目を向ける。
外の景色は、昨日とは一変していた。もちろん、昨日のあの天気と今日の晴天を比べたら、誰が見たって一目瞭然だろう。でも、そうじゃなくて。天気だけでは言い表せない程に、何かが決定的に変わってしまっている気がした。
今日の方が気温は高く、居心地がいい。町の人々の表情も、今日の方が明るかった。けれど、と僕は思う。
僕は、昨日の景色の方が何倍も綺麗に思えてならなかった。
「さっき」と、運転手さんが唐突に口を開いた。「彼を乗せたんです」
思わぬ言葉につい心臓が強く打つが、まるでなんでもないように車窓から視線を逸らすことなく耳を傾ける。
「彼、すごくイケメンでしょう? だからすぐにわかったんですよ」
「……僕も、そう思います」
彼が相変わらずのトーンで笑顔を浮かべるのに対して、僕は思わず、しかし静かに返した。
初めての僕のまともな返しに気をよくしたのか、彼は話を続けた。
「彼、お兄さんと同じ顔してました」
どうして、と思った。だって、彼が落ち込む理由なんてない。僕をおいて行ったのは詩音くんだし、そもそも初めに振ろうとしたのは詩音くんだ。なのに。生意気に、罪悪感とでも戦っているのだろうか。そう思うとなんだか複雑で。僕はまた眉を顰めた。
「彼、どこ行きはりました?」
別に、会いに行こうと思ったわけでもない。ただなんとなく、気になっただけ。
運転手さんはそんな僕を見て、クスリと笑った。
「それは、教えられませんね。個人情報ですから」
「……すみません」
僕が間をおいて謝罪を口にすると、彼はふふと笑って首を振った。
教えられないのなら、初めからそんな残酷なこと言わないでほしい。いきなり訪れた沈黙への気まずさを隠すように、僕は乱れた前髪を弄ってふぅ、と一つ息を零した。
でも。あの場所は確か、そう遠くなかった。もうそろそろこの気まずさともお別れできるだろう。帰りは、違うタクシーでも呼べばいい。
「そういえば」と彼は言った。「あの場所って、観光スポットじゃないんですよ。ずっと住んでる僕も昨日初めて知ったくらいで」
ならば、と思う。どうして詩音くんが知っていたのだろうか。思わず考え込んだ時に、運転手さんはその思考を読んだが如く、僕の返事を待たずして口を開く。
「きっと、余程たくさん調べたんでしょうねぇ」
なるほど、と思う。
「悪趣味やなぁ、あの人」
そんなに手の凝った振り方を計画するなんて。
「そうですか?」
運転手さんは笑って、そして車を止めた。
「着きましたよ」
「あ、ありがとうございました」
思わぬタイミングで告げられた到着に慌てて財布を取り出し、お札を差し出す。おつりとレシートを差し出してくれた運転手さんは、嬉しそうにふふと笑って呟いた。
「まだいたんですね、彼」
なんだろう、と瞬きつつも、とりあえず開いた扉から外へ降りる。運転手さんは続きの言葉を告げることなく、「ありがとうございました」とだけ言って走り去っていった。
目の前の、障害物が消えた。
そこには昨日と同じようにだだっ広い海が広がっていて、申し訳程度の柵が用意されている。そして、運転手さんの言う通り今日も人はほとんどいなくって。いるのはそう、一人だけだった。
昨日、僕たちが海を眺めた場所に一人。タクシーの音に反応して振り向いたその顔も背丈も、距離があってよくわからない。黒い髪とダウンに紺色のパンツなんて、どこにでもいそうな姿。でも。僕にははっきりと分かった。
そこにいたのは、詩音くんだった。
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