夜空のダイヤモンド

柊 明日

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1章 偽りの愛の序章

4話

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「楓くんこれでいいよね」

 詩音くんはキッチンから戻ってくると、何事もなかったような顔をしてお酒をテーブルに置く。レモン味で少し強めのアルコールが入ったそれは、僕が彼と二人で飲むときによく飲んでいるお気に入りだ。こんな細かいことだけれど、それでも覚えていてくれたんだと思うと微かに喜びを感じる。

「ありがと」

 僕は素直にお礼を言って彼に微笑みかけた。しかし、彼はさっきのこともあってかあまり目を合わせてくれず「あぁ、うん」と曖昧に返しながら僕の隣を避けるようにわざわざソファの下に腰を下ろした。気まずくなるくらいなのなら、さっさと彼の異様な僕への距離感を改めてほしいものだと、と考えながら僕は置かれたお酒を手に取った。

 カシュ、といい音をたててそれを開けると僅かに炭酸の飛沫が飛散する。香るレモンは今日も一日を終えたという安心感をもたらしてくれる。僕はそれを呷りたい気持ちを抑えて落ち着いて一口を口にした。
 寒い。いつもは冷えたお酒なんて一日の最大の娯楽だったのに、今日抱いた感想はそれだった。どれだけ詩音くんのことを引きずっているんだ、と我ながらドン引きせざるを得ない。

 そんなことはあれど比較的穏やかな時が流れる中。そんな静かな空間に終止符を打つヤツが現れる。

「間に合ったぁぁ!」

 未だほとんど乾いていない足でカーペットに足跡を残しながらリビングへ飛び込んできたのはひなた。髪から滴った水滴で服の肩はべしょべしょになっている。しかし、なにより気になるのは、その大きく露出された足だ。大分オーバーサイズのそのTシャツのおかげでかろうじて下着は見えていないが、膝どころか太ももの大半が見えるこの状況は非常にまずいと言える。詩音くんは彼の声を聞き振り替えるや否や、顔を真っ赤にしてテレビへ向き直った。

「ひなた、ズボン履けや」

 僕は詩音くんを哀れんで彼を叱る。彼のことが好きな詩音くんにとってはこの状況は目に毒だろう。しかし、ひなたは彼の気も知らずにわざわざ詩音くんの隣に腰を下ろす。

「いいじゃん別に~。ほら楓、お酒ばっか飲んでないで。映画はじまるよ」

 軽く流すひなただけれど、隣の詩音くんはチラチラと彼の足へ向けている。一方、一茶はひなたの足よりもそれを見ている詩音くんが気になるようで険しい顔をしている。この凍てついた空気感につい不満を吐き出したくなるが、僕はそれを冷静に抑えてふぅと息を吐く。

「だらしないねん」

 彼に文句を言うと、一茶が肩へかけてくれたブランケットを後ろからひなたの足へかけてやった。ひなたは顔を上げて僕を見上げると「別にいいのに」と目を丸くした。本当に鈍感なやつだ、と呆れてしまい僕は再びこっそり息を吐いた。

 詩音くんは、意外にも少しだけ残念そうな顔をした気がする。彼の見えなくなった足から目を逸らし、分かりやすくお酒を呷る詩音くん。どうせ触れることもできないのだからそれなら初めから見えない方が楽なのにとも思うが、それも男の性なのかもしれない。僕にその気持ちはよくわからないけれど。

「楓! 始まったよ! なにぼーっとしてんの」

 そうして寂しそうな詩音くんの後姿を眺めていると、ひなたが大きく声を上げた。ふと顔を上げるとテレビの画面に映る可愛らしい女の子の綺麗なイラストともに、これから始まる壮大な物語を彷彿とさせるような盛大な音楽が流れていた。あぁ、数年前流行っていたなぁ、と思い起こす。

「あ、これ楓くんと見に行った」

 詩音くんはさっきまでしょげていたくせに、音楽を聴き勢いよく顔を上げるとテレビを指さしてそうはしゃぎながら僕ではなく一茶とひなたを見た。

「あぁ……そうなの?」

 ひなたは大して興味がなさそうにしつつも、はしゃぐ彼を見て面白そうにんふふと声を零した。一方で、一茶はテレビにすら視線を送ることなく「へぇ」と空返事するとリビングを出て行ってしまう。一瞬、部屋にでも戻ってしまうのだろうかと思い彼を視線で追うが彼はすぐにタオルを持ってリビングへ戻ってきた。そしてそのまま、彼の挙動を気にも留めずに詩音くんと話し込むひなたの頭へ遠慮なくタオルをかけると力強くわしゃわしゃとそれを拭きあげた。

「ちょ、一茶……もっと優しく~……」
 とひなたが一茶を見上げる。

「嫌なら初めから自分でちゃんと拭けっていっつも言ってるだろ」
 一茶はそんな彼へ一切の譲歩を見せることなく彼の頭にチョップをくらわせた。しかし、その力はかなり加減されたものであるのも見て取れた。

「いいじゃんね~」
 と詩音くんがひなたを庇う。

「詩音くんもいい加減ちゃんと拭かないと禿げるよ。ただでさえよくお酒飲んでるんだから」
 と一茶はケラケラと面白そうに笑った。

 つい、僕は自分の前髪へ触れる。自分もよく詩音くんとお酒を飲むけれど……まだ大丈夫そうだ。

「酒と髪の毛なら俺酒とるわ」
 詩音くんはそう言ってお酒への愛を知らしめるようにそれを一気に飲み干しぷはぁ、と気持ちよさそうに息を吐いた。

「ばかだな。モテなくなるぞ」
 一茶は哀れむようにたははと笑い呟く。

 詩音くんは彼の言葉を聞きくと、急にくるりと振り向いてまだまだ意識のハッキリした瞳で僕を見上げた。

「楓くんは、俺が禿げても俺のこと好きでいてくれるよね?」

 ドキッと胸が高鳴った。好きなんて彼に言った覚えはないし、バレるような言動だって慎んできたはずだ。なのに彼は、冗談を言っている風でもなく至ってまっすぐな瞳で僕を見つめる。僕は慌てて目を逸らして何でもない顔をした。

「まぁ、うん。幼馴染、やし……?」

 まるでこの好意はあくまでも友愛ですよ、とばかりにできるだけそっけなく返す。そんな返答でも案の定彼は満足してしまったようで満面の笑みを浮かべて「ほら、大丈夫だった」と一茶にマウントをとるようにふふと上機嫌に笑みを漏らして席を立った。

 少しだけ寂しかった。僕は別に、彼にこの気持ちを伝える気もなければ伝わればいいとすら思っていない。それどころか、詩音くんがひなたのことが好きなままだって構わない。しかし。
 こんなにも脈がこれっぽっちもないのをまざまざと見せつけられると、それなりに悲しくなるというのが恋心だ。いくら諦めているとはいえ、もしかしたら、を日々繰り返すというのが恋なのだから。それが、彼みたいに変に可能性を見せてくるようなずるい男が相手だとしたら尚更だ。僕は手にしていたお酒をまた一口飲んで人知れず眉を顰めた。

「楓、飲みすぎ。顔真っ赤」

 ふと、いつの間にやらこっちを振り向いていた一茶が眉を下げて僕を叱る。お酒なんて数口しか飲んでいないのに、と思うが疲れていると酔いが回りやすいというのは耳にしたことがあった。試しに自分の頬へ触れると確かに触れてわかる程度には熱を持っている。僕は慌てて笑顔を張り付けふふと笑う。

「ほんまや。あんま飲んでへんのに」
「も~。お酒没収。これは詩音くんに飲んでもらうよ」
「はぁい」

 彼は手にしていたタオルをひなたの肩にかけると、僕の手からお酒を取り上げ僕の手が届かないギリギリの位置にそれを置いた。お酒を飲みながらの方が絶対楽しいのに、とまるで娯楽を奪われたような気持ちになるが酔いすぎて明日のバイトに響くよりはいいだろう。僕は素直に彼に従い、結露で濡れた手を服で拭う。
 ひなたは、真剣になって映画を見ていたくせに目の前にお酒が置かれるとそれを手に取り興味深げにくるくると缶をまわして眺めた。まるで新しいおもちゃを与えられた幼い子供のようだ、とつい微笑ましく思うのもつかの間、彼はそれをくいと一口飲み込んだ。

「ひなたんどう?」
 一茶が彼の顔を覗き込む。

「にがぁい。楓味覚バグってんじゃないの~」
 微笑ましいだなんて思った僕が馬鹿だった、と思わざるを得ないような悪い顔でひなたはゲラゲラと声を上げる。
 
「お前が子供舌なだけやわ」

 咄嗟に反論するが彼は言い返してくる様子もなくただ楽しそうに笑って、やっと少しは乾いた髪をふわふわと揺らした。きっとこうして僕にツッコまれたいだけなのだろうと思うと憎めないやつだとは思う。しかし、本人に言ってやるのも癪なので僕はふいと顔をテレビへ向けた。

 そんな、心休まる時間だった。
 詩音くんが僕を悲しませようと、ひなたが変に絡んで来ようと、それはずっと昔からのもので今や慣れたものでもある。少なくとも、バイト中や学校でお客さんや気を遣う先輩なんかと話しているときよりかは何倍も楽だった。

 お酒を持って戻ってきた詩音くんも合流して、みんなでゆっくり映画を見て。僕はそれを後ろからなんとなく眺めて。それでもたまにひなたが話しかけてくれたり、コマーシャル中に暇になった一茶にちょっかいをかけられたり。そうして比較的平和に映画観賞会が終わる。
 と、そう思っていた。そんな平和な時間が脅かされたのは物語が中盤を少し過ぎた頃。
 詩音くんは珍しく大分酔った様子でうとうととひなたに寄りかかった。とはいえ一茶もひなたもそれに過剰反応したりすることなくただ、彼を見て笑う。そんなとき、詩音くんの手がひなたの足へ伸び、ブランケットへ潜りこんだ。

「んえ……」

 ひなたの間の抜けた声はテレビの音にかき消された。彼の手を掴んで阻止することもなくただぽかんとするひなたをいいことに、詩音くんは彼の耳元へ口を寄せる。

「ねぇ、ひなた」

 聞きたくなかった。僕は慌てて立ち上がりソファを離れる。お酒のせいか、それとも詩音くんのせいか、フラフラと足元がおぼつかない。見かねた一茶は慰めるようにすれ違いざまに僕の背をぽんと叩いてから、ひなたの元へ向かった。

「詩音くん、ダル絡みやめろ」
「俺は本気で……」

 一茶が詩音くんを珍しく鋭くで睨み、庇うようにひなたの肩を引き寄せる。ひなたは慌てたように一茶の後ろへ隠れてしまった。詩音くんはというと別に悪意があったわけでもないのだろう。一茶へ言い返しはするものの語尾は弱く、気まずそうに目を逸らすことからも気圧されているのが伝わってくる。

 一茶は追い打ちをかけるようにその詩音くんに比べるといくらか小柄に見える体で、しかしなんとも言えない強い圧を放って彼へ詰め寄る。詩音くんは後ずさったが一茶はまたその距離を詰めて言った。

「ならシラフの時も同じことしろよ」
「それ、は……」
「シラフで出来ないことならすんな」
「……ごめん」

 久しぶりに見た、と思う。一茶が本気で怒ったのなんて最後に見たのはもう随分と昔のことだと記憶している。自分が怒られているわけでもないのに、額にジワリと汗が滲むのを感じる。
一茶は自分と身長を比べると見てわかる程も変わらないし、詩音くんと比べると圧倒的に詩音くんの方が高いはずだ。にも関わらずこういうときの圧は彼が群を抜いていると思う。

 僕は、大学生にもなって恥ずかしい話ではあるがそんな怒った一茶が怖くて必死に視界に入れないように体を縮めてテレビへ集中した。幸い、もう話は済んだようで怒声が聞こえてくるようなことはない。とはいえ、不機嫌なオーラは振り返らずともヒシヒシと伝わってくるのがなんとも言えない空気感を醸し出している。僕はテレビを見るのも諦めて自分の膝に顔を埋めた。
 そんなとき、ふいに隣でシャンプーが香る。顔を上げるとそこにはおもむろに「よいしょ」とその場にあぐらをかくひなたがいた。彼は僕に意識を向けるでもなく、僕のかけてやったブランケットを抱きながらただテレビの画面を見上げる。

「なしたんひなた。あっちで見ぃや」

 僕はそんな彼をまるで試すように言った。本当は嬉しかったし、なんとなく安心した。いつもだったら何怖がっているんだ、なんて弄ってきそうな彼が今はただ黙って寄り添ってくれるのも心地よかった。
 けれど、ひなた相手だとどうにも素直になりにくい自分がいた。

「んー……こっちのほうが近くて見やすいよ」

 彼は僕の気持ちを知ってか知らずか、そう言ってクスリと笑うと本当に何も気にしていない風に口を閉ざして物語へ集中する。どう考えても、ソファの方から見たほうが見やすいだろうに。
 きっと、ひなたから見ると隅でひとり噛り付くようにテレビに見入っている僕は、さぞ寂しそうに見えたのだろう。それはあながち間違いでもない、と僕は思う。
 ひなたにまで縋ってしまう自分は、なんて情けないやつなんだろう。僕は彼の抱くブランケットの端を強く握った。

「寒い?」

 ひなたはそう首を傾げるとそれを僕の肩にかけなおしてくれた。彼がずっと抱いていたそれは、とても暖かかった。



 しばらくすると、隣からはすーすーと寝息が響き始めついには僕に寄りかかってくる。慌てて彼を支えようと反対側に手をついた。
 テレビでは、クライマックスとばかりにヒロインが大粒の涙を流していた。一番いいところだろうに、と僕はつい笑みを漏らす。しかし、少しばかり心配事があった。僕は恐る恐る後ろを振り返る。
 後ろでは、意外にも一茶も詩音くんも仲良さげに隣に座って二人して真剣にテレビを眺めていた。僕は胸をなでおろしてテレビへ向き直ろうとする。その時、僕からの視線に気が付いたように一茶がこっちへ瞳を向けた。ひゅんと心臓が大きく跳ねるような感覚に捕らわれる。

 彼は僕の心配とは裏腹に、首を傾げてぱちくりと瞬いた。
 それにつられる様に詩音くんも僕へ視線を向ける。彼に至っては、気にする様子を見せることもなくすぐにテレビに向き直って物語の成り行きへと意識を向けた。
 僕は慌てて一茶の視線になんでもない、とばかりに首を横に振ってテレビへ向き直った。てっきり、ひなたと濃厚な接触を持つと怒られるものだと思っていた。

 僕はぽん、とひなたの肩を叩く。

「んんぅ……」

 とひなたは声を漏らし、幸せそうに口角を上げた。

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