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1章 偽りの愛の序章
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大学生活三年目、華の春休み。
多くの友人たちは明るくなるまでカラオケで騒ぎつくしたり、恋人との半同棲のような生活の様子を初々しくSNSにあげたり、はたまた一人でパチンコに通ったり。陽キャなら陽キャらしく、ぼっちでもぼっちらしく、各々その長い休みを謳歌していることがSNSを通して伺える。しかし僕、瀬尾楓はそんな輝かしいDKライフとは程遠い日々を過ごしている。
朝早く起きると、眠い目を擦りながらも身支度をしてバイトへ行って、ひたすらケーキを売ったかと思えば午後からはお酒を運んで。帰って寝て、そしてまた日が昇ればバイトに出かける。
バイトがない日は当番の家事をして。それを終えてしまえば当番でもない誰かの家事をして。そうして時間をつぶしても時間が余るようならやけになったようにお酒を飲んでみたり。
しかし、そんな青春の欠片もない日々も全ては自分で作ったものだ。少なくとも彼らと共に住む家にいておしゃべりにでも興じるよりかはずっと精神的には負担も少ない、と僕は思う。そう僕に言わしめる所以は最近徐々に変化しつつある僕ら幼馴染間での人間関係にあった。
いくらのんびり歩いても家の明かりは少しずつではあるが確実に近づいてくる。まだこの季節だと風も冷たいけれど、こんなことなら外で凍えていたほうがマシだと思う。とはいえ、なにも言わずに帰りを遅らせると彼らは心配するだろう。
僕は大きくはぁ、と息を吐くと重い気分の中家のチャイムを押し込んだ。彼は待っていました、と言わんばかりにものの数秒で勢いよく扉を開けた。
「おかえり、楓!」
こいつが全ての元凶である。
夏樹ひなた。同い年だとは思えないその無邪気な笑顔は時に癒しを、そして時に敗北感を僕に与えてくる。決して低い身長をしているわけではなく僕より少し小さいくらいではあるが、それでもあふれ出る癒しオーラは、キラキラと輝かせたその大きな瞳のおかげだろう。今にも飛びついてきそうなその勢いに、そんなことをされた試しはないのに僕は一歩後ずさる。
彼こそが今まさに俺を悩ませる人間関係の拗れの原因だった。
「急に飛び出していくなよ、びっくりした……」
彼の背後の扉からひなたを追うように現れたのは僕の一つ上の先輩、如月詩音。おそらくインターホンも確認しないで飛び出したであろう不用心なひなたを叱ると、手にしたティッシュケースを何事もなかったかのように背中に隠す。
「なしたんそれ」
僕が笑う。
「いやぁ……悪いやつだったら退治しようかなと思って」
と彼は照れくさそうに笑みを浮かべた。
その微笑みはとても穏やかなもので、ドキリと心臓が音を立てるのを感じる。
話している内容こそ非常に“残念”な彼であるが、この顔はおおよそ万人の心を奪うのは容易いだろう。これはなにも、僕が色眼鏡で見ているわけではない。彼のこの明るい笑顔と、真顔でいる時の一見怖そうに見えるその顔では目を見張るほどのギャップがあった。
口を開くタイミングを失った僕は、ティッシュの箱では退治なんてできないのでは、と思うその口まで出かかったツッコミを飲み込んで、「そっか」と笑った。
「寒いでしょ、早く入りな」
詩音くんはそんな僕の気持ちなんかつゆ知らず、優しく声をかけると小さく手招きをした。
「楓、早く! ご飯冷めちゃう!」
ひなたはそう言って疲れ果てた俺の袖を引いて玄関へ引きずり込む。
他の人にこんなことをされたらきっと僕は怒るけれど、相変わらず何が楽しいのか僕には知る由もないがその彼の屈託のない笑みは僕の怒りどころかバイトの疲れまで癒してしまう。
「待てって、すぐ行くから」
そう答える頃には無意識に口角が上がってしまっていた。
玄関のカギを閉めしっかりと戸締りを確認すると急かされるままに玄関の淵に座り込んで靴を脱ぎ、綺麗に並べて端へ寄せる。 一方でひなたは扉を開けるために履いたサンダルを、足を振ってその場に脱ぎ捨てると僕を急かすように隣にしゃがみこんだ。
「楓の靴臭くない?」
彼はいたずらっぽくニヤニヤと笑った。もちろん、そこらへんは気を遣っているのであり得ないし、第一靴からそこそこの距離がある今、ひなたの鼻へ匂いが届くはずもない。僕は彼の額へ軽くデコピンをかましてやる。
「お前よりマシやわ」
「いったーい」
ひなたは額へ両手を当ててすぐさまのけ反り僕から離れたが、面白そうにケラケラと笑った。これは多分、まだ懲りていないだろう。僕は立ち上がり再度右手でデコピンのフォームを作る。彼は楽しそうに「ひゃー」と声を上げ、勢いよくリビングの扉を開けるとそれを開けたままリビングへ逃げて行った。
僕ははぁ、とため息を一つ。彼の脱いだサンダルを端に揃えながら、苦笑を漏らした。本当に、仕方のないやつだ。
「行こか」
詩音くんは、一連の流れが面白かったのかクスクスと笑いがながらも優しく声をかけた。
その優しい声を聞くとやっぱり、ついドキッと胸が高鳴る。更にそれが今、二人きりの空間だとすると尚更だ。僕はちらりと盗み見るように詩音くんを見上げる。
彼は、僕を見ていなかった。彼はずっと、開けっ放しにされた扉を見て幸せそうに僕の好きなその優しい笑顔を浮かべていた。
「うん、行こう」
ドキドキは、良くも悪くも簡単に収まってくれた。
リビングへ足を踏み入れると、最近は暖かくなってきたとはいえ夜の外から戻ってきた俺にとっては表情が緩んでしまうような暖かな空気と美味しそうな夕飯の香りが出迎える。出来るだけ避けていたはずの空間だったが、安心させられると言わざるを得ない。つい、歩みが止まりふぅと息が漏れる。
しかし、そんなひと時の安寧を脅かすやつが声を上げた。
「楓~、早く~」
食卓の椅子に座り、忙しなく足をパタパタと揺らしながら急かすひなた。疲れている僕を急かすなんて空気の読めないやつだ、と考えるが、それに合わせてふわふわと揺れる口元まで伸びた綺麗な赤茶の髪には悔しくも愛くるしさを感じさせられる。リビングへ戻ると迷うことなく隣に座った詩音くんも同じ感想を持ったようで、揺れる髪を嬉しそうに眺めていた。
とはいえ。ひなたの下手に出るのも何だか癪なので『ちょっと待っとれや』と口に出しかけた刹那、キッチンからひょっこりと彼は上機嫌に飛び出した。
「ひなたん、ダメだろ。楓疲れてるんだから」
詩音くんと数ヶ月違いとはいえ最年長らしくそうひなたを叱った彼は、今度はひょこと栗色のアホ毛を揺らして俺の方へ顔を向ける。普段はきりっとしていて少し怖い目が、僕を捉えてふわりと和らいだ。
「おかえり、楓。急がなくてもいいからゆっくり着替えておいで」
そう低い声で、しかし明るい声色を奏でるのは新田一茶。男らしい綺麗な顔つきに似合わないわんこのプリントがされた可愛らしいエプロンはひなたチョイスだ。一茶は行ってらっしゃいとでもいうように、僕に小さく手を振った。
「ん、行ってきます」
彼の言葉に甘えて自分の部屋へ向かうことにする。
リビングへ背を向けて歩き出すと、詩音くんも含めた三人の声が聞こえてくる。
「ひなたんはすぐ楓に絡むんだから」
甘い声色で一茶が笑う。
「そんなことないって。楓が俺のこと好きすぎてめっちゃ絡んでくるんだよ」
ひなたはそうケラケラと笑った。
「自意識過剰すぎるだろ」
そう言葉では言う一茶も声色はやはりどこか優しくて、なんとなく愛を帯びているのが僕にはわかる。その会話を聞いて、詩音くんもまた楽しそうに笑い声をあげた。
一茶も詩音くんもわかりやすいやつらだ、と僕は思う。ひなたへの愛をまるで隠しきれていない。僕と話しているときとひなたと話しているときでは明らかに表情も声も変わるし、なによりみんな、僕を見てはくれなかった。僕が返ってきたときに放つ言葉も、一言目はひなたに当てたものだ。
返ってきた瞬間にただまっすぐ僕を見てくれたのはひなただけだなんて、なんという皮肉だろう。
多くの友人たちは明るくなるまでカラオケで騒ぎつくしたり、恋人との半同棲のような生活の様子を初々しくSNSにあげたり、はたまた一人でパチンコに通ったり。陽キャなら陽キャらしく、ぼっちでもぼっちらしく、各々その長い休みを謳歌していることがSNSを通して伺える。しかし僕、瀬尾楓はそんな輝かしいDKライフとは程遠い日々を過ごしている。
朝早く起きると、眠い目を擦りながらも身支度をしてバイトへ行って、ひたすらケーキを売ったかと思えば午後からはお酒を運んで。帰って寝て、そしてまた日が昇ればバイトに出かける。
バイトがない日は当番の家事をして。それを終えてしまえば当番でもない誰かの家事をして。そうして時間をつぶしても時間が余るようならやけになったようにお酒を飲んでみたり。
しかし、そんな青春の欠片もない日々も全ては自分で作ったものだ。少なくとも彼らと共に住む家にいておしゃべりにでも興じるよりかはずっと精神的には負担も少ない、と僕は思う。そう僕に言わしめる所以は最近徐々に変化しつつある僕ら幼馴染間での人間関係にあった。
いくらのんびり歩いても家の明かりは少しずつではあるが確実に近づいてくる。まだこの季節だと風も冷たいけれど、こんなことなら外で凍えていたほうがマシだと思う。とはいえ、なにも言わずに帰りを遅らせると彼らは心配するだろう。
僕は大きくはぁ、と息を吐くと重い気分の中家のチャイムを押し込んだ。彼は待っていました、と言わんばかりにものの数秒で勢いよく扉を開けた。
「おかえり、楓!」
こいつが全ての元凶である。
夏樹ひなた。同い年だとは思えないその無邪気な笑顔は時に癒しを、そして時に敗北感を僕に与えてくる。決して低い身長をしているわけではなく僕より少し小さいくらいではあるが、それでもあふれ出る癒しオーラは、キラキラと輝かせたその大きな瞳のおかげだろう。今にも飛びついてきそうなその勢いに、そんなことをされた試しはないのに僕は一歩後ずさる。
彼こそが今まさに俺を悩ませる人間関係の拗れの原因だった。
「急に飛び出していくなよ、びっくりした……」
彼の背後の扉からひなたを追うように現れたのは僕の一つ上の先輩、如月詩音。おそらくインターホンも確認しないで飛び出したであろう不用心なひなたを叱ると、手にしたティッシュケースを何事もなかったかのように背中に隠す。
「なしたんそれ」
僕が笑う。
「いやぁ……悪いやつだったら退治しようかなと思って」
と彼は照れくさそうに笑みを浮かべた。
その微笑みはとても穏やかなもので、ドキリと心臓が音を立てるのを感じる。
話している内容こそ非常に“残念”な彼であるが、この顔はおおよそ万人の心を奪うのは容易いだろう。これはなにも、僕が色眼鏡で見ているわけではない。彼のこの明るい笑顔と、真顔でいる時の一見怖そうに見えるその顔では目を見張るほどのギャップがあった。
口を開くタイミングを失った僕は、ティッシュの箱では退治なんてできないのでは、と思うその口まで出かかったツッコミを飲み込んで、「そっか」と笑った。
「寒いでしょ、早く入りな」
詩音くんはそんな僕の気持ちなんかつゆ知らず、優しく声をかけると小さく手招きをした。
「楓、早く! ご飯冷めちゃう!」
ひなたはそう言って疲れ果てた俺の袖を引いて玄関へ引きずり込む。
他の人にこんなことをされたらきっと僕は怒るけれど、相変わらず何が楽しいのか僕には知る由もないがその彼の屈託のない笑みは僕の怒りどころかバイトの疲れまで癒してしまう。
「待てって、すぐ行くから」
そう答える頃には無意識に口角が上がってしまっていた。
玄関のカギを閉めしっかりと戸締りを確認すると急かされるままに玄関の淵に座り込んで靴を脱ぎ、綺麗に並べて端へ寄せる。 一方でひなたは扉を開けるために履いたサンダルを、足を振ってその場に脱ぎ捨てると僕を急かすように隣にしゃがみこんだ。
「楓の靴臭くない?」
彼はいたずらっぽくニヤニヤと笑った。もちろん、そこらへんは気を遣っているのであり得ないし、第一靴からそこそこの距離がある今、ひなたの鼻へ匂いが届くはずもない。僕は彼の額へ軽くデコピンをかましてやる。
「お前よりマシやわ」
「いったーい」
ひなたは額へ両手を当ててすぐさまのけ反り僕から離れたが、面白そうにケラケラと笑った。これは多分、まだ懲りていないだろう。僕は立ち上がり再度右手でデコピンのフォームを作る。彼は楽しそうに「ひゃー」と声を上げ、勢いよくリビングの扉を開けるとそれを開けたままリビングへ逃げて行った。
僕ははぁ、とため息を一つ。彼の脱いだサンダルを端に揃えながら、苦笑を漏らした。本当に、仕方のないやつだ。
「行こか」
詩音くんは、一連の流れが面白かったのかクスクスと笑いがながらも優しく声をかけた。
その優しい声を聞くとやっぱり、ついドキッと胸が高鳴る。更にそれが今、二人きりの空間だとすると尚更だ。僕はちらりと盗み見るように詩音くんを見上げる。
彼は、僕を見ていなかった。彼はずっと、開けっ放しにされた扉を見て幸せそうに僕の好きなその優しい笑顔を浮かべていた。
「うん、行こう」
ドキドキは、良くも悪くも簡単に収まってくれた。
リビングへ足を踏み入れると、最近は暖かくなってきたとはいえ夜の外から戻ってきた俺にとっては表情が緩んでしまうような暖かな空気と美味しそうな夕飯の香りが出迎える。出来るだけ避けていたはずの空間だったが、安心させられると言わざるを得ない。つい、歩みが止まりふぅと息が漏れる。
しかし、そんなひと時の安寧を脅かすやつが声を上げた。
「楓~、早く~」
食卓の椅子に座り、忙しなく足をパタパタと揺らしながら急かすひなた。疲れている僕を急かすなんて空気の読めないやつだ、と考えるが、それに合わせてふわふわと揺れる口元まで伸びた綺麗な赤茶の髪には悔しくも愛くるしさを感じさせられる。リビングへ戻ると迷うことなく隣に座った詩音くんも同じ感想を持ったようで、揺れる髪を嬉しそうに眺めていた。
とはいえ。ひなたの下手に出るのも何だか癪なので『ちょっと待っとれや』と口に出しかけた刹那、キッチンからひょっこりと彼は上機嫌に飛び出した。
「ひなたん、ダメだろ。楓疲れてるんだから」
詩音くんと数ヶ月違いとはいえ最年長らしくそうひなたを叱った彼は、今度はひょこと栗色のアホ毛を揺らして俺の方へ顔を向ける。普段はきりっとしていて少し怖い目が、僕を捉えてふわりと和らいだ。
「おかえり、楓。急がなくてもいいからゆっくり着替えておいで」
そう低い声で、しかし明るい声色を奏でるのは新田一茶。男らしい綺麗な顔つきに似合わないわんこのプリントがされた可愛らしいエプロンはひなたチョイスだ。一茶は行ってらっしゃいとでもいうように、僕に小さく手を振った。
「ん、行ってきます」
彼の言葉に甘えて自分の部屋へ向かうことにする。
リビングへ背を向けて歩き出すと、詩音くんも含めた三人の声が聞こえてくる。
「ひなたんはすぐ楓に絡むんだから」
甘い声色で一茶が笑う。
「そんなことないって。楓が俺のこと好きすぎてめっちゃ絡んでくるんだよ」
ひなたはそうケラケラと笑った。
「自意識過剰すぎるだろ」
そう言葉では言う一茶も声色はやはりどこか優しくて、なんとなく愛を帯びているのが僕にはわかる。その会話を聞いて、詩音くんもまた楽しそうに笑い声をあげた。
一茶も詩音くんもわかりやすいやつらだ、と僕は思う。ひなたへの愛をまるで隠しきれていない。僕と話しているときとひなたと話しているときでは明らかに表情も声も変わるし、なによりみんな、僕を見てはくれなかった。僕が返ってきたときに放つ言葉も、一言目はひなたに当てたものだ。
返ってきた瞬間にただまっすぐ僕を見てくれたのはひなただけだなんて、なんという皮肉だろう。
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