口付けたるは実らざる恋

柊 明日

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1章 覚悟のとき

32話 彼のために

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 聖也くんが、一冊の本を両腕に抱えて僕の隣へやってくる。彼が読書なんて、珍しい。どんなものを読むのだろうか、と覗き込んだそれは、彼の大学の教科書であった。

「音楽教えたいって、言ったでしょ」

 と、彼は口を尖らせる。
 確かに、言ったけれど。まさか当日からだとは思わなかった。とはいえ。

「別に、そんな顔しないでも。拒みませんよ」

 特にやることもない僕は、そう言って笑いながら彼がおもむろに開いた目次ページへと視線を移した。
 そこには思った以上にビッシリと文字が並んでいて、かつよく分からない用語も飛び交っている。
 彼と暮らしているうちに、少しは音楽のことが分かったかも、と思っていた僕にはなんだか少し、絶望感があった。

「なんか、凄いですね。難しそう」
「俺でも出来るんだからお前も出来る」

 しかし、彼はそう言って開いた本を僕の方へと寄せた。
 寄せられたところで。目次ページを見せられても、何処を読めばいいのか分からないし、何をするかも分からない。
 彼が手を離したことにより重しがなくなり表紙が閉じてしまう教科書を横目に、僕は興味をなくしたように立ち上がる聖也くんの腕を掴んだ。

「待ってください。教えてくれるんでしょ?」
「大丈夫。お前なら聞くより読んだ方がはやい」

 しかし、彼はそう言うとそそくさとその場を去り、ファイルの並んだ本棚の元へと向かった。

 なんなんだ、一体。聖也くんが教えたいと言ったのに、実際にやっていることはただの僕の自己学習だ。これでは全然、彼のやりたいことが叶えられているとは思えない。
 僕はそんな状況に混乱しつつも、閉じてしまった教科書の適当なページを開いた。
 そこには、曲のアレンジについての記述が並んでいた。

 そもそも、曲を作れないのにアレンジだなんて、と思う。後ろの方のページを開いてしまったのが良くなかった。
 僕はパラパラとページを捲り、序盤の内容を確認した。そこには、衝撃的な内容が書いてあった。

『3日作曲。作りながら覚える!』

 それが、その本の作者のモットーらしかった。おかしい、と思う。だって、聖也くんは経験者なのに、もっともっと尋常じゃないほどの時間をかけている。
 もちろんそれは素人の僕へ向けた丁寧な説明を挟みながら行うのが原因でもあるが。それなら、と思う、いいや、改めて思い直す。
 やっぱり、聖也くんは1人で作った方が何倍も早くて、いいものが作れるのでは無いのだろうか。
 そう思うとなんだか胸の奥がモヤモヤして、僕は慌ててその本の記述を読み込み、息を吐いた。

「聖也くん」
 と、相変わらず本棚の前でたくさんのファイルを開いたり閉じたりしている彼を呼ぶ。

 彼はくるりと振り向くと直ぐに寄ってきて、隣へ座り込んで教科書を覗き込んだ。

「何が分からない?」

 なにが、なんて。

「全部ですよ。この本の内容も、聖也くんがわざわざ僕に、音楽を教える理由も」

 僕が言うと、彼はふっと笑ってページを捲った。そこには、音楽の土台。リズムを作る方法について載っていた。

「大丈夫。順番にやっていけば、内容は直ぐに理解出来る」

 正直、前者よりも後者の方が重要な質問だったのに。しかし、彼があまりに楽しそうな顔をして文を指さすものだから。僕もつい、彼の指先を追って、その彼の低い声に耳を傾けるのだった。

 




 そうして解放されたのは、数時間経った頃。いいや、正確には解放したのは、が近いかもしれない。
 聖也くんにとってはやっぱり、1人で曲を作った方が良いと気づいてしまった僕は焦燥感を抱き、ひたすらに聖也くんに質問をして、納得をして、という作業を繰り返した。
 そうしていくうちに聖也くんも没頭してしまい、あっという間に時間が過ぎていった。

 そんな僕たちを止めたのは、ご飯を催促しに来た小春だった。

「あ、小春がお腹すいたって」
 と、聖也くんは小春を撫でた。

「待って、あと少し」
 僕はそう言ったが、彼は小春を抱き上げそのお腹へ顔を埋めた。

「もう結構やったよ。俺疲れた」

 教えたい、と言い出した人が、教えられる側より先に折れてどうする、と思う。しかし。
 確かに、もうしばらく経ったかもしれない。僕は渋々に教科書に自分のスマホを挟み、ページを閉じた。

「ほんと、聖也くんは小春に甘いですね」
「可愛いからね」
「僕にもそれくらい甘くていいんですよ」
「優しくしてるけどなあ」

 彼はそう言って立ち上がり、小春のゲージへ向かう。もうすっかり、餌やり作業も慣れた様子だ。
 僕は、そんな餌やり作業中の聖也くんを見ながら、再びぼーっとスマホを挟んだ教科書を開き、文章へ目をやった。

「あ、そういえば」と聖也くんが声を上げる。「俺が居なくなったら、教科書全部貰っていいから」

 どき、と胸が嫌な音を立てた。本当に、嫌な人だ。
 僕ははあ、と見せつけるように大きく息を吐き、パタンと教科書を閉じた。

「聖也くんがいなくなったら、僕は何のために音楽を学ぶんですか」

「……そっか」

 彼は納得したようにそう呟くが、餌入れへ餌を入れる様子は少しだけ、なんだか寂しそうだった。
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