口付けたるは実らざる恋

柊 明日

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0章 オーヴァチュア

6話 退院

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 診察室で泣きじゃくって、人前で聖也くんに甘えて。それでも結局落ち着けなかった僕は、それっぽい言葉で診察室を追い出された。
 本人と話さなくてはいけないから、だなんて。別に僕が聞いていても問題はないだろうに。
 そうして時間をもてあました僕は、真っ暗な聖也くんの病室から、ぼやけた光の塊が灯る夜の景色を見下ろしていた。

 甘えてしまったことを、後悔していた。きっと、1番辛いのは聖也くんなのに。
 まだ希望があるとそう彼は言ったのに、僕はそれを否定してしまった。本当はそうだよね、大丈夫だねと、そう元気づける立場なのに。

 大きく息を吐き、潤む瞳を手で擦る。
 彼が戻ってきたら、ちゃんと謝ろう。謝って済む様な話じゃないかもしれないけれど、それでもしっかり謝ろう。そして。
 頑張れって、そう、送り出してあげよう。きっと、そうするべきだ。

 そう覚悟を決めて鮮明になった夜景を眺めること数分。窓の外を眺める僕の首に、冷たい物が押し付けられた。

「なに黄昏てんの」

 思わず身体を跳ねさせ振り返る。そこには、バニラアイスを手にした聖也くんがいた。
 落ち込んだ様子でも、安心した様子でもなく、本当にただいつも通りで。胸がザワザワした。

「やるよ」

 僕の手に、アイスが押し付けられた。呆気に取られる僕を尻目に、彼はスマホを手にし眉をひそめる。

「あーあー、ゲームボーナス漏れてる。ちょっと橙花これやっといて」

 そうしてアイスの次に、スマホを押し付けられる。ゲーム画面を開かれたそれは、確かに彼のやっているのを見ていたから見覚えはあるけれどやり方なんて分からない。それに。

「聖也くん」と、彼を呼ぶ。「怒ってないんですか」

「あぁ」と彼は床頭台にあった財布をポケットへしまって僕の方へと振り向き、ふっと笑った。

「お前、俺の事好きすぎ」

 何の話だ、と思う。確かに好きだし、愛してる。でも、それとこれとに関係はない。
 思わず言葉に迷うと、そんな様子を見て彼はやっぱり意地悪にふふと笑みを零しながらスリッパを脱ぎ、靴へ履き替えながら訳を話し始めた。

「橙花、いつも優しいのに、なんか珍しくイライラしてるんだもん。それに、まだ記憶なくなるとか決まったわけじゃないのにあんなに泣いて。せっかく美形なのに、勿体ない」

 最後の言葉はともかくとして。大体の言葉には思い当たる節がある。最初はあの淡々としたお医者さんにイライラしたし、なにもまだ決まっていないのに迷惑なほど泣きじゃくった。確かにそれは好きだからというのは大前提にある。でも。

「だからといって、あれは……聖也くんはもっと怒るべきです……」

 また、涙がこぼれ落ちる。聖也くんが怒ってくれたら、もう少し気が楽だったのになんて、最低なことを考えてしまう。なのに、おもむろに立ち上がった彼は僕の手にあるスマホを取り上げ、涙で濡れた両頬を両手で包みこんでくれた。

「俺だって、橙花に病気が見つかったら同じ反応すると思うよ」

 そんなの、と思う。聖也くんならありえない。彼ならもっと冷静に治療法を聞いて、これが一番期待値が高い、って。そう、ゲームに例えて教えてくれるのだと思う。

「違います。聖也くんはもっと……」

 僕は彼の言葉を否定しようと首を横に振る。しかし、彼はすぐに頬から手を離して病室の扉へと向かった。

「橙花、帰るよ」

 彼は、思わぬ言葉を口にした。

「え、帰れるんですか!?」

 声に、歓喜がこもる。
 彼は僕の言葉に返すことなく、急かすようにただ1度振り向いてから再び歩みを進めた。僕もまた、それを急いで追いかけるのだった。




 そうして彼は僕がアイスを食べている間にしっかり自分の足で支払いも済ませて、タクシーを呼んで。それはもう本当に、病気があるだなんて思えないほどだった。

「本当に、退院して大丈夫なんですか……?」

 恐る恐る尋ねるが、彼は躊躇なくやってきたタクシーに乗り込んだ。

「手術する以外できることないなら、入院してても仕方ないでしょ」

「でも……」

 と、僕は言葉を返す。もう一度倒れる可能性だってあるし、病院なら何かあってもすぐに対応して貰えるのに。と、そう思ったから。しかし。続きは口には出せなかった。だって。
 そうしたら、聖也くんが帰ってこられなくなってしまうかもしれないと、そう考えてしまったから。

「おじいちゃんに電話するね」

 彼は僕の言葉の続きを待つことなくそう言ってスマホを操作した。

「おじいちゃん?」

 と僕が首を傾げる。

「保護者に連絡しておいてって言われたから」

 そうして彼はわざわざスピーカーモードにして、僕の膝へスマホを置いた。
 彼の祖父は、すぐに電話に応じた。

「……何かあったか」

 その声は不思議と、まるで要件がわかっているかのように緊張感の溢れるものだった。
 聖也くんが、口をとざす。この沈黙がなんだかとっても苦しくって、僕は自分の手首に爪を立てた。

「何も、無いけどさ。ただ」
 しばらくして聖也くんは呟き、そしてまた言葉を途切れさせた。

 彼の祖父は言葉を急かすことなく、ただ静かに続きを待った。隣から、深く息をつく音が聞こえた。
 どうすれば彼の緊張を解いてあげられるだろう、と思考を巡らせる。しかし。僕には、震えた手で彼の手を握ってあげることしか出来なかった。
 きっと、甘えてきたとでも思ったのだろう。彼はそんな酷い顔をしているであろう僕を見て、ふっと笑って息を吸った。

「ちょっと、病気が見つかって……アムネシア症候群、っていうらしいんだけど……でも、ちゃんと手術すれば治るから大丈夫って」
「……そうか。費用は振り込んでおくから。だから、絶対ちゃんと手術は受けなさい」
「分かってるよ」

 聖也くんは、そう笑ってお礼を告げてから「じゃ」と話を切りあげる。祖父もまた、そんな彼を引き止めることなく別れの挨拶を口にした。

「何かあったら、また言いなさい」
「ん」

 そうしてあっさりと、ツーツーと通話の終了音が車の中へ響き渡った。

「記憶が無くなるかもって、言わなくてよかったんですか」
「いつか言うよ」

 彼はそう適当に流して、スマホを横に持ちゲームを始めるのだった。



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