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二空間目
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しおりを挟む三日目の朝。
昨日と同じように、俺はスピーカーから流れてくる爽快なメロディで目を覚ました。効果抜群だけど、やっぱり朝からこのアップテンポな音楽は似合わないと思う。
「…っしょと、」
むくりと上半身を起こす。
昨日激しい動きをした所為か(というか、長時間無理な体勢を取らされたからだと思う)、身体がいつも以上に重く感じる。
うーん。ツイていない。今日は確か三日に一回行われるトレーニングの日だった気がする。でもまあ、ツイてないけれど、久しぶりに外に出られるのはすごく嬉しい。小さな窓から見れるその風景も、もうすでに飽きてしまったから。
「……あ、」
窓の外の景色を見ようと右側を見れば、これまた昨日と同じように同じ場所で胡坐を掻いて新聞を広げている神田さんが居た。
だけど何故かこれだけは昨日とは違う展開になった。……神田さんとバチッと視線がぶつかったのだ。
昨日は挨拶をしても気付きもしなかったのに。
「…お、おはよう、ございます」
ぶつかった視線をあからさまに外すのも悪い気がして、俺は戸惑いながらも挨拶をした。
…一体いつからこっちを見ていたんだろう。
自分のぶっさいくな寝顔を、こんな完璧な人に一瞬でも見られていたと思うと、惨めになる反面、非常に恥ずかしい。
さて、どのタイミングで視線を逸らそうかと思案している時だった。
「…はよ」
寝起きの所為だろう。……低く擦れた声でそう返事がもらえたのは。
神田さんはそれだけ言うと、新聞に視線を戻した。
「………っ」
一方の俺はというと。
視線を逸らすタイミングを考えなくて済んだということよりも、返事が返ってきたことに若干の戸惑いと、嬉しさに浸っていた。
「おはよう」と声を掛けて、「おはよう」と返ってくるのは極々普通のことだろう。そう、普通の人は。
だけど平穏な家族関係を築けていなかった俺は、この普通のやり取りさえも数年振りなのだ。
「………」
胸の奥がジーンと熱くなった気がした。
無性に神田さんにお礼が言いたい気分だ。
「…何、見てんだ?」
「あ、いえっ。何でもないです!ありがとうございます!」
「あ?」
ずずっと鼻を啜った俺を珍妙な物を見るような目で見てくる神田さん。別に泣いてないよ。ちょっと鼻が垂れてきただけだし。
「…はー。おい、馬鹿」
「ばか!?」
「顔でも洗って来い」
「…ば、馬鹿って……」
「おら、早く行け」
「……」
分かったよ。行けばいいんでしょ、行けば。
だからそんなに睨んでこないでください。美形でその凶悪な面で睨まれると石化してしまいそうだ。
……あ。
結論だけ言っておこう。
昨日のヨーグルト事件で俺たちの間に奇妙な友情関係が芽生えた……、なんて青春漫画(むしろギャグ漫画?)のような展開は一切ない。むしろ被害者の俺すら訳の分からないまま一日が経過したとこだ。俺は謝罪の言葉一つ貰えていない。それどころかこの人は、俺が風呂に入っているというのに順番さえ守らず、一緒に入って来ようとした不届き者だ。
そしてその上、この不遜な態度のままだ。
まあ、先程の件が思った以上に嬉しかったから許してやらんこともないけれど…。と、ちょっと上から目線で思ってみる。
「ふぅ」
顔を洗い終え、部屋に戻る。
時計を見れば、それそろ朝食が部屋に運ばれてくる時間だと気付く。もうこんな時間なのか、昨日もそうだったけど、少しのんびりし過ぎなのだろうか。それとも、もう少し早く起きた方がいいのかな。
だけど、のんびりな生活をしても誰にも咎められることはない。此処では。親にも弟にも先生にも。神田さんもそこまで他人に干渉してくるタイプじゃなさそうだし。
「………」
うーん。
……何か、それはそれで少し寂しいな。
別に誰かに叱って欲しいわけじゃないけど。お咎めの言葉でも、人から掛けて貰える言葉っていいよね。最近はずっと弟とその悪友?としか喋ってなかったから。余計にそう感じる。
俺に与えてくる弟からの暴言と暴力が少しだけ恋しく感じる。断じて俺はエムではないが。
そう考えると、この数日はかなり充実しているよな。
女の人と話すのも久しぶりだったし(母さんも含めて)、それに世界的有名人である神田さんと喋るだけではなく、こうして一緒に生活しているんだから。
「(…あれ?改めて考えると、やっぱり俺ってすごい状況じゃないか?)」
敷布団と掛け布団、そして枕を押入れに直しながら俺は改めて自分の置かれている状況に驚愕した。昨日のヨーグルト事件での神田さんのやんちゃ坊主?加減に騙され掛けていたけれど、この人本当に凄い人なんだよなぁ。本当に二ヶ月間もこんな所に居て大丈夫なのかな?仕事とか大丈夫なのか?
……………ん?
あれ?
「…はっ!?」
あ、どうしよう。
俺、気付いてしまったかもしれない。
気付いてしまったことが正解なのか、気付かなかったほうが正解なのか…。いや、早々に気付けた自分に拍手喝采レベルだろう。いきなり大声を出して立ち上がった俺に、近くに居る神田さんが「うるせえ」と言ってきたがそれどころではない。
……これ以上恥を掻く前に此処から逃げないと。
そうと決まったら膳は急げだ。
俺は持ち物をボストンバックに無理やり詰め込み、玄関に向かった。
「おい」
神田さんの声が背後から聞こえてきたが、構うものか。これ以上醜態を見せれるものか。早くここから立ち去らないと。重たいバッグを肩に掛けたまま、玄関の扉を開けようと試みる。
だがどうだ。
初日と同じように、びくともしない。
「開けよ、早くっ」
どういう仕組みなのか分からないが、やはり内側からは開けられないようになっているのだろう。
「…馬鹿かお前」
そうこうしている間に、呆れた表情をした神田さんが何事かと俺の様子を見に来た。
「出られねえって知ってるだろうが」
「…それなら、早く開けてくださいよ」
「は?何言ってんだボケ」
俺が開けれるわけないだろうといけしゃあしゃあと言う神田さんを、俺は睨み付ける。
「…何だその目」
「神田さんなら開けられるでしょ」
「あ?」
「…もういいでしょ。開けてくださいよ、早くっ」
「……出て行くつもりかよ?」
「あ、当たり前ですっ。……こんな、酷い」
「………」
「ドッキリの仕事なら俺を使わないでください!」
「…………は?」
そうだ。きっとこれはドッキリの仕事なんだ。
神田さんほどの世界的有名人が二ヶ月間も仕事を休めるわけがない。それならば、もうこうとしか考えられない。おそらくこの高額バイトの実態は、一般人を吊るし上げるかのように、羞恥に落とし入れるための悪徳な罠に違いない。例えドッキリでも神田さんと二ヶ月間も生活している様子を全国放送されてしまったら、俺本当に殺されちゃうよ!
……しかし。
見事真実を突き止めた俺に待っていたのは、外に出られる御褒美なんかではなく、割と本気のゲンコツだった。
「い、っ、痛ッ!」
俺はあまりの痛さに、患部を両手で押さえながら蹲った。手加減なしかよ、酷過ぎる…っ。
漫画でよく頭の上にヒヨコやら星やらが散っているのを見たことがあるが、それはあくまで漫画ならではの比喩表現だと思っていた。だが比喩ではないことが判明した。
本当に星が散っているように見えたぞ。チカチカッて。…まあ、さすがにヒヨコは見えなかったけれど。
非常に情けないが、痛みに薄っすら涙の膜が張る。
そんな目で睨んでもちっとも効果がないと分かっているものの、いきなりの理不尽な暴力に腹が立っているのは確かだ。俺は負けずと蹲ったまま睨んでやった。(どうせ立ち上がって睨んでも、憎たらしいことに数十センチ以上の身長差があるのだからこのままでいいのだ。)
「てめえは馬鹿か」
だが思った通りというべきか。相手には俺の睨みが全然通用しなかった。
というか逆に鋭い目付きで睨まれ、情けないことに俺の方が怯んでしまった。
「ば、馬鹿じゃ…ないです」
「馬鹿じゃねえなら何だ?阿呆か?」
「……っ、」
馬鹿でも阿呆でもねぇし…。
精一杯の抵抗の言葉を聞こえないように、そうボソボソッと呟けば、「あ゛?」と低い声で凄まれ、思わずビクッて身体が震えてしまった。
…聞こえちゃった?いや、大丈夫だよな?
「チッ、おら。貸せ」
「…あっ、」
肩に掛けていたボストンバック。
結構な重量があるその鞄を神田さんは俺から強引に奪い取ると、室内の奥へと投げた。完璧に行く手を阻まれた気分だ。
「俺の了承なしに勝手に出て行くんじゃねーよ」
そして神田さんはそれだけ言うと、室内に戻っていった。
……そして一方、一人玄関先に取り残された俺。
「………」
試しにもう一度玄関のドアノブをひねってみる。
だが案の定開きはしなかった。どちらにせよ、此処からは出られないのか。
別にドッキリの全国放送で吊るし上げられるわけじゃないならば、出て行こうと思わないけれど。
それよりも。
「了承って何だよ…」
確かに世間一般的に神田さんの方が地位が高いかもしれないけれど、俺の雇い主は神田さんではない。
それなのに何故神田さんから了承を得なくてはいけないのだろうか。
「…訳が分かんない」
確かに俺は馬鹿だけど。俺を馬鹿馬鹿言うあんたも結構な馬鹿だと思うよ。
そんなことを心の中で悪態吐きながら、俺も室内に戻って行った。
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