文を書く聖女の遺書【完結】

藤沢はなび

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遠雷

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 救われることを望んでいたと思っていた。
 でもそうではなかった。
 きっと私は救われないことを望んでいたのだろう。

 光が差さない部屋が
 当たり前だとそう信じたままいられるのだからーー。





 自分の人生を自分で終えられる自由があることだけが、私にとっての唯一の救いだった。
 闇の中、小さな部屋には灰が積もり、色彩は無く、心は砕け散っていたにも関わらず、私は罵られても罵り返さず、苦しめられても脅し返さず、じっと微笑む人だった。

 ひとつ息を吸う毎に、汚い空気が自らの肺を汚していくような気になっても、私は膝を抱え、ずっと何かを待っていた。
 何も望まない振りをしながら、誰かが助けに来てくれると信じていた。
 沢山の怪物に囲まれることが「幸せ」だとそう思い込むことで、自分を傷つけていた。

 しかし、待てど待てど助けは来ず、むしろ私に助けを求めてくる者ばかりだった。
 一体この幼子に何が分かると言うのだろう。
 大きな身体が小さな身体に縋る姿は実に醜かった。


 そして時を経て、それは幻だったことを知る。
 あんなにも私を苦しめた存在は、私以外の者によって裁かれ、弱者となり落ちぶれていった。
 籠を囲っていた鎖が切れ、羽ばたいた瞬間、それは私に鈍い光を見せた。

 もうここでは無いどこかへ行けるのならばどこでも良かった。
 結局は誰も私を助けなかった。
 私を救えるのは私だけ。
 羽ばたいたのも、微笑んだのも、耐えたのも、自らを励ましたのも私だけだった。
 そうやって、苦しくても微笑んだ事の対価は大きかった。
 私は神に愛されていると思うような日々を過ごしたが、それは次第に自分を苦しめていった。

 誰も私の苦しみを知らなくなってしまったのだ。
 私以外の誰もが私を聖女のようだと羨んだ。
 羨まれる度に、誰か私と人生を代わってくれないだろうかと願った。
 綺麗な言葉を吐き出し、誰も恨んでいないような振りをしながら、どこかで罰が当たる事を想像した。

 しかし私は、もう心が壊れていることを誰にも悟られたくはなかった。
 悟られてしまえば最後、私が持つ唯一の自由が無くなってしまうからだ。
 だから微笑んだ。

 微笑みながら、私の胸の内にはいつも様々な道具と手段が並んでいた。
 それは、私以外誰も知らないこと。
 私は黙ったまま、延々と傷ついていくのに、その場所から動くことが出来なかった。
 神は私を愛していたが、私は神を嫌っていた。
 もう唯一の自由を行使する事で、理解が得られるのなら、もうその手段しか私には残されていないのではないかーー。

 そんな裏切りに走ろうとした時に、見つけるのだ。




 ーーそれは懐かしさにも似た、大雨の中で轟く遠雷のような輝きだった。

 そこにあると分かっているのに、決して近づくことは出来ず、手を伸ばし触れようとすれば、熱で焼け焦がされてしまう。

 それでも一瞬にして私の世界を彩り、どんな苦しみにも耐えていけるような気にさせた。
 つま先を地面に付けた先から灰は風に消え、青々とした芝生が現れ、そこから広がるように色が溢れ出し、空からは暖かい光が降り注いだ。
 私の苦しみは何ひとつとして解決していないのに、それでいいのだとさえ感じた。

 手を組み祈る日々。
 私は自分ではなく、その遠雷のために祈った。
 それは初めて、生きる理由を見つけた日だった。
 助けたい。慈しみたい。救いたい。
 私にはもう何も残されていないのに、その遠雷に捧げられるものをずっと探した。

 自らの皮膚を削ぎ落としていくような、その痛みさえ、これでいいんだと愛せるような、狂おしい感情だった。
 恋かと聞かれたらそうではない。
 愛かと聞かれても、そんなに清らかでいられるものでもない。
 情を抱くほど私はその遠雷を知らない。
 ただ、ただ懐かしかった。
 涙があふれるほど、懐かしかった。
 心の中で初めて幸せを知った。

 私を知らぬ者に囲まれる中、その遠雷は、私の知っている物語を連れてきた。
 それがどれだけの奇跡だったか……。
 ただそれだけで全てが報われたと思った。


 生まれて初めて、私は人を愛せると思った。
 愛される事を知らず、愛し方も知らないのに、まるでどこかで覚えていたかのように、慈しむ言葉が溢れ出した。

 抱きしめ方も泣き方も祈り方も笑い方も教わった事はないのに、私は初めから知っていたかのようにそうした。

 そうやって私は救われたかのように思えた。

 しかし、人生はそんなに甘くない。

 私は生まれた時から地獄を這っていた。
 そしてその地獄から解放されたあとも、その事実は私にまとわりついた。
 それを美しいと思う人もいれば、それが醜いと言う人もいた。
 私にとってはどっちでも良かった。
 評価される立場が酷く不快だった。
 気丈に前を向こうとも、地獄に引きずり込まれ、徐々に私の道から陽の光が消え始める。

 対して懐かしき遠雷は栄光の中を歩いていた。
 その中でどんな想いを抱いていたのかは私には分からなかったが、少なくとも分かろうとした。
 遠くから見れば輝いていた光も、傍にいけば泣いていることだってある。
 私は遠雷を抱きしめることで、自分を癒そうとした。
 そして、私からは光が消えていくのに、遠雷は更に輝き始める。
 それでも私は微笑んだ。
 遠雷が苦しげに轟くそばで、私もまた誰かに跪きながら泣いていたが、それは遠雷含め誰も知らない。
 
 その輝きを抱き締めれば抱き締めるほど、痛くて仕方がない。
 消えたくて仕方がない。

 それでもどうして、遠雷の、遠雷だけの幸せを願えたのかーー。
 私のいない、私が消えた世界の幸せを願えたのかーー。

 あの日あの地獄から遠雷が私を救い出してくれたと、そう信じていたからだった。
 きっと、きっとこの大きな不幸に耐えた先に、遠雷は虹へと変わり、私を大きな幸福へと誘ってくれると、そう心のどこかで信じていたからだった。








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